第2話 紅い呼び手
塔の底で鳴った音は、街を震わせていた。
離れた家々では食器がかすかに揺れ、鳥たちが屋根から一斉に飛び立つ。
けれど、誰も異変の理由を知らない。
──把握しているのは、塔の“内側”にいるわずかな者だけだった。
ツムギは、導糸がにじみ出した石壁の前に、立ち尽くしていた。
深紅の糸は、ゆっくりと、まるで呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。
そのたびに、壁の奥から鈍い脈のような響きが返ってきた。
「……封印が、自分で開いてる」
少年の声は震えていた。
ナドは険しい表情で壁に手を当てた。
指先に微細な振動が伝わる。
「違う。これは“内側からの応答”だ。
本来、封印とは外から破られるものだが……これは逆だ」
「中にいる“何か”が、こっちに触れようとしている……?」
コハクが息をのみ、深紅の糸をにらむ。
少女の表情は強張っていたが、その目には恐怖と同じくらい、好奇心が宿っていた。
壁の裂け目が、静かに広がった。
だれも触れていないのに、導糸が勝手にその領域を広げていく。
ツムギは後ずさった。
導糸が自ら“広がる”のではない。
押し出されるように、過去からの奔流があふれているのだ。
「師匠、このままじゃ……下から上へ“道”が繋がっちゃいます」
「わかっている」
ナドは短く言い放つ。
「だが封印層の仕組みは、我々の世代では分からん。触れれば、これまで積み上げてきたものが、隠された過去のものと逆転する可能性がある」
そのときだった。
裂け目の奥から、ひと筋の風が吹き抜けた。
冷たい。
だが冬の冷えではない。
──生き物の体温が、長い間失われていた虚無の冷たさ。
ツムギの鼻先を、その無機的な空気が流れ、かすかな匂いが触れた。
土でも石でもない。
燃え尽きた“何か”の匂い。
〈ここにいる。ずっと〉
声がした。
耳元でも、頭の中でもない。
“地面”から伝わってきた。
ツムギは思わず、亀裂の入った壁へ歩み寄った。
その腕を、コハクが掴む。
「ダメ! 呼ばれたら戻れなくなる!」
「でも……聞こえるんだ」
「それが危ないのよツムギ! それは拍じゃない、“言葉の形をした律”!」
その言葉を遮るように、裂け目が小さく爆ぜた。
深紅の導糸が一斉に外へ弾け、塔の内部へと走る。
壁の奥が、ぽっかりと暗く開いていた。
コハクが息を呑む。
「…封印層が出てきた…」
ナドは動かなかった。
ただ目を細め、深い声で呟いた。
「わからん…が、ここまで道が開くのは、中から“鍵”──もしくは、鍵に相当する何かが、触れたのかもしれん」
ツムギは顔を上げた。
胸が痛いほど脈を打っている。
昨日のあの声が、また聴こえた気がした。
〈来い〉
〈おまえなら開けられる〉
ツムギの背筋に冷たいものが走る。
自分の鼓動と、地の底の律が一瞬だけ重なった。
ナドが低く問う。
「…ツムギ。おまえは“何か”を聞いたな」
「…はい。でも…わからない。僕じゃないようで、僕に向けて…」
「違う。“おまえを通して、今の塔に触れようとしている”んだ。あくまで世界の一部でしかないが、おまえがいま最も、この場所にいる人間の中で都合がいい、と判断された。恐ろしいことかもしれん」
その瞬間、塔全体が低く唸った。
封印層の暗闇が、ゆっくりと侵食を始めていた。




