第1話 祭りの預かり台
祭りの夜は、音で明るい。
近隣でもとくに賑わう国『クラン連邦』の主都、クラン。
その目抜き通りでは、笙の長い息が屋台の湯気を震わせ、太鼓の皮が、人々の背中に小さな拍を置いていく。
果物と炙り肉の香り、薬草の煙、紙灯籠の弱い熱——それらぜんぶが、音の中で輪郭を得ていた。
ツムギは記録館の表戸をくぐり、臨時の預かり台に腰をおろした。
祭りのたびに開く“声の一夜宿”。ここで彼が請け負うのは、人の揺れやすい気持ちや、大事な言葉を『紐綴じ』として編み、結び目に封じ、夜明けまで預かる仕事だ。
「次の方、どうぞ。紐の端をこちらへ。——胸の高いところで息をひとつ。いま頭にある言葉の“形”を、そのまま指先に流してください」
藍の着物の若い女が、おそるおそる紐の端に触れる。指は温かい。温度があるうちは大丈夫——そう師匠に叩き込まれてきたとおり、ツムギは安心させるように彼女の目線に合わせて微笑んだ。
「ほんとうに、忘れないのよね?」
「忘れないものしか結べません。忘れる言葉は、結び目の方が嫌がってほどけます」
結び目が締まると、紐の内側にかすかな光が宿る。女は胸を撫でて礼を言い、足取りを軽くして去った。
ツムギは札に「午前三刻まで——ミナ」と記し、棚の一段目に滑らせる。祭りのあと、火によって名前の音響とともに、空に返すものだ。
「ツムギ、手の甲」
奥から師匠ナドのしわがれ声。硝子越しに茶碗が小さく鳴った。
「煤がついてる。さっきの子、2番目の思いもからめたんだろう。別の心は混ぜるな。混ぜれば、どちらも嘘になる」
皮膚に黒い擦り跡。水盆で手をすすぎながら、ツムギは結び直しの段取りを頭でなぞる。入り混じった思いは焦げやすい——師のナドは、まだ経験の浅い少年を机に呼び、言葉の向きを一つずつ、二人で確かめて結びをほどき直した。
『一夜宿』の思いは、夜が深まるほど澄み、恋の宣言、明日の交渉、親への手紙、言ってはいけない怒り……千差万別の“声”が彼の手元に寄り添っては、整った結びへ変わって棚に眠った。
…その合間、ときおり童が尋ねてくる。
「夢も預かれる?」
「夢は、見た直後が一番きれいで、目が覚めて時間が経つと、取りこぼしが多いんだ。だから目覚めたらすぐ、紙に書くのがいい」
「怖い夢は?」
「誰かに話して温度を変える。温度が変われば、形も角度も変わって安定し、結び目はとても綴じやすくなる」
受け答えの背後で、ツムギの癖が働く。彼は結び目に触れた一瞬、思いの情景を耳の奥で聴く——炭の匂い、川辺の冷たさ、呼び慣れた名の肌触り。見えすぎない程度に方向だけを教えてくれるそれを、彼はただの流れのように扱った。見習いの身には重い利器だと知っているから、必要以上に頼らない。
「…今夜は出来がいいね」
帳面に目を落としたまま、ナドが言う。
「煤が少ない。祭りは、嘘をやめさせる」
「師匠、思いを勇気づけるって言ってくださいよ。嘘とか、やめさせるは、寂しい」
「勇気が周囲から満ちてくる日は、嘘が用済みになる。…同じことだよ」
ツムギは肩をすくめ、紐束を撫でてから棚を一段ずつ鍵で閉めた。外はまだ賑やかだ。
子の笑いが駆け抜け、屋台の鍋が湯気を上げる。笙は長い息を伸ばし、太鼓は雑踏の底を叩いて、人々の足を揃える。音は大きすぎも小さすぎもせず、ただ当たり前にそこに——
その当たり前が、ふいに撚りをほどかれるみたいに薄くなった。
最初に変だと思ったのは、戸口の布の揺れ方だった。
拍子木の合図は、囃子の歩みが角を曲がるたびに聞こえたはずなのに、いまは虚ろに、間延びして、布をわずかに押している。耳の内側は、どこか不気味に沈黙している。
笙は吹かれている。人の息と胸の動きが、そこに感じられる。
…しかし管の長さが呼応する気配が消え、ただ空気が布を撫でる乾いた掠れだけが、見えるように漂っていた。
「…師匠」
ツムギの呼びかけだけが、妙にくっきりと室内に立った。床板をわずかに響かせ、壁紙に薄いさざ波を作る。彼の声だけが輪郭を持ち、周囲の音という音が、知らぬ間に抜かれていく。
ナドは茶碗を置き、窓外へ目を細めた。
遠く、鐘塔の黒い背が夜空を割っている。いつもは地の底で眠るように低くうねる気配が、いまは静かな乱流となって、立ち上がっている。
塔の胸、小さく見える採光窓——普段は外から触れないはずのそれが、どこか違う佇みを見せていた。
ツムギは無意識に棚へ振り返り、まだ鍵をかけていない、預かった紐束を胸に抱えた。結び目が、微かに泣く。言葉の足場、つまり音が薄れるほど、約束は心細くなる。
ナドは短く息を吸い、掌を広げて合図した。
「ここに輪を作る。混乱しない程度に、適度に皆に呼びかけてくれ。…子どもと老人を先に。一人につき一言、いちばん大切な言葉を——落ち着いてな。息はまだ、我々のものだ」
── 街には、鐘塔が刻む見えないテンポがある。
皆はそれを拍と呼ぶが、いまは解けかけていた。もし音が失われるのなら、一人一言で、拍を整える助力をつくっておかねばならない。
母親が子の笑いの形をまね、老爺が亡き妻の名を口の中でゆっくり形作る。
誰もが、不穏な気配に気づいていた。…記録館に入った人びとの、それぞれの思いが紐に吸いこまれ、結び目は増えていく。
世界は、音になる直前のかたまりで満ち、灯籠の火は、人に見えない指で触れられたみたいに、揺れては頼りなく戻る。
「!」
──その瞬間、ツムギの胸骨の内側で低いうねりが方向を変えた。鐘塔の影が夜を切り直すように長さを変え、空気が——一拍、沈む。
少年は顔を上げる。祭りの夜はまだ明るい。けれど、その明るさの底に、きれいすぎるほどきれいな抜け目が口を開けていた。
…ここから先、世界は別の拍で進む——そう理解するのに、言葉はいらなかった。
彼の内側で、知らない鐘がゆっくりと鳴り始めていた。




