第9話 突入前夜
シロウは最近お気に入りの場所、カーテンの隙間で大きなあくびをしてくつろいでいた
玄関のすりガラスが、かすかに揺れる。
すぐに、鍵が回る音。ドアが開き、仁美が帰ってくる。
「ただいま、シロちゃん」
その声を聞いた瞬間、シロウはキッチンの奥から音もなく姿を現した。玄関マットの上でくるりと一回転し、愛らしく「にゃあ」と鳴く。
仁美はコートを脱ぎながら、小さく笑った。
「……お出迎えありがと。今日もいい子で待ってたの?」
(もちろん!!)
ハヤトと最後に話した日から3日がすぎていた。
その間は一度も外に出ていない。天気が悪かったのもあり、仁美のバイトから帰る時間が読めないからだ。
黒い結の調査については野良で生きるハヤトに任せている。今ごろもきっと空をとんで黒い結が起こる現場を探していることだろう。元に戻る手掛かりだからハヤトも必死になっているだろう。
仁美はいつものように、カバンを置き、靴下を脱ぎ、温かい部屋着に着替える。その一連の流れのどこかに、静かな安堵感が滲んでいる。
ホットミルクを淹れるマグカップを両手で包むように持って、こたつに座ると、シロウも当然のように隣にちょこんと座った。
仁美は何気なくテレビをつけた。画面には、勇者庁の特番が映っている。ランキング更新や、A級精霊の討伐映像が流れ、スタジオのゲストたちが興奮気味にコメントしていた。
「へぇ~、また街で暴れたんだ……すごいなぁ、勇者って」
仁美は感心するように言いながらも、すぐにリモコンを取ってチャンネルを変えた。特に興味があるわけでもなく、ただ流れてきた情報に一言感想を漏らしただけ。
テーブルの下、香箱座りの姿勢でくつろいでいたシロウは内心ため息をついた。画面に映っていたのは、ほんの数週間前まで“神城シロウ”として当然のように立っていた世界。自分がいた場所だった。
だが、仁美の中で“勇者”や“結”は、ドラマの一場面と同じくらいの距離感しかない。
彼女は結が見えない。使えない。興味もない。
仁美は笑って椀を並べる。和風のご飯に、豆腐と菜っ葉の味噌汁、焼き魚。そして、シロウには特製の猫用ごはん。
シロウは小さく鳴いて、椀に口を近づける。所詮動物のエサ。そう思っていた時期がありました。が市販の猫用のエサはしっかり猫の味覚を研究して作っているんだろうと感心する。
シロウが無心に食べ続ける様子を仁美はニコニコとしながら見守っている。
(そんな見られていちゃ食べづらいったらありゃしない……)
(……)
(この穏やかな時間が、いつか崩れるかもしれない。だけど、今はまだ――)
仁美はのんびりと、ニュースの音をBGMにして食事を進めていた。隣にいる白猫に、何の期待もせず、当たり前の日常を過ごしている。それが、逆にシロウの胸を締め付ける。
夕食のあと、仁美は洗い物を片づけ、こたつの電源を入れてごろんと寝転んだ。テーブルの端に頬を預け、スマホをいじるその姿は、どこにでもいる普通の女子大学生そのものだった。
その脇で、シロウは丸くなって眠ったふりをしていた。尻尾だけがゆっくりと動いている。実際には、頭の中でずっと、今日ハヤトと交わした会話の断片が反芻されていた。
(黒い結の使い手が複数……そして組織の存在……)
外の世界では、危機が確実に進行している。
でも、この部屋の中には、静けさしかない。
「カァカァ!!」
突然、窓の外から激しい鳴き声が響いた。夜の住宅街にしてはやけに鋭く、すぐ近くで鳴いたことがわかる音量だった。
仁美が少しだけ顔を上げたが、「カラスだね」と一言つぶやいただけで、またスマホに目を戻す。
シロウの耳がぴくりと動いた。瞼は閉じたままだったが、すぐに気配を読み取る。
(ハヤトのやつ、仁美がいる時は外に出れないって伝えてんのに……)
♦️
街灯が途切れた裏通り――そこに、一羽のカラスが佇んでいた。
久我ハヤトは、アスファルトに爪をかけながら、視線を地面に落とす。たったいま――この場所で“黒い結”が発動した現場に遭遇した。
彼が見つめる先には、ひしゃげた自転車が転がっている。数分前、通りすがりの青年が猛スピードで走行中、何の前触れもなくバランスを崩し、街路樹に激突したのだ。
おそらく怪我は軽い。打撲と擦過傷だけで済んだだろう。だがその“崩れ方”があまりに不自然だった。
――結の痕跡は微弱。だが、確かに“揺れていた”。
重く、濁った“黒い結”が、ほんの一瞬、地面に染み込むように発動していた。ハヤトの目には、確かにそれが見えた。
(……制御されてた。狙いは“致命傷”じゃない。“事故に見える範囲”で、転倒させる)
カラスの姿のまま、ハヤトは羽根を揺らす。
ふと、風に乗ってかすかに残った“結”の流れを感じ取る。
すぐ近くのビル屋上。そこに、人影があった。
顔はフードで覆われ、服装も黒ずくめ。ハヤトは記憶に刻みつけた。
男はやがて影の中へと姿を消した。
「……見てやがったな。実験結果を」
ハヤトはその背を追い、闇に紛れるように飛び立つ。
羽ばたくたびに、街の光と影が交互に過ぎていく。行き交う人々の誰も、彼が“勇者”であることを知らない。ただのカラスとして、空を滑っていく。
ビルの屋上から消えた黒衣の人物は、そのまま別の建物の非常階段を使って地上へ降りた。ハヤトは一定の距離を保ちつつ、屋根から屋根へと移動しながら後を追う。
(逃すわけにはいかねー!!正体を暴いてやる。1秒でも早く元の姿に戻りてーんだ俺は!!)
可愛らしい猫になったシロウとは違い、ハヤトは漆黒のカラスである。誰かに食事を与えられることもない。飼われることもない。恥を捨ててゴミ捨て場を漁る毎日。もううんざりだ。この汚らしい体を早く捨てたい。
そして──
黒フードの男はある一角で足を止めた。
古びたビルと倉庫が並ぶ再開発予定地の裏手、車も人も通らない裏通り。昼でも薄暗いその一帯に、小さなドアが開いた。そこから、もう一人の人影が出てきた。
「……二人目?三人目?」
ハヤトは低くつぶやく。
同じく黒ずくめ。顔を覆う仮面のような布、左肩にだけついた装飾。声は聞こえないが、なにやら合図を交わし、ふたりは建物の中へと入っていった。
ドアが閉まる音と同時に、ハヤトは近くの電線に舞い降りた。
その“拠点”の窓はすべて塞がれ、外観からは何の用途かすら判別できない。だが、そこに“人間”が入っていく光景は、紛れもない事実だ。
(……ここが、奴らの根城か)
それから、三日間。
ハヤトはその場に留まり、張り込みを続けた。
深夜に出入りする黒服たち。短く交わされる会話。中には明らかに未熟な足取りの者も混ざっている。年齢、性別、姿かたち、バラバラ。
(何人いるんや、思っていたよりずっと多いぞ)
黒い結を使う組織。
偶然でも単独犯でもない。共通の思想を持った“集団”が、黒い結を使用して何かをしようとしている。