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第21話 ふたりきり

 シロウは、仁美の部屋の隅にあるお気に入りのカーテンの影に、気配を完全に潜めて身を縮めていた。


 夜の闇がゆっくりと薄れ、窓の外がわずかに白み始める頃にも、その体は微動だにしなかった。仁美の柔らかな寝息と、時折布団を動かす小さな音が、静かな部屋に心地よく響いている。しかし、その穏やかな音に混ざって、シロウの心臓の鼓動だけは微かに速く打ち続けていた。


 金色の瞳は鋭く光を宿し、眠る仁美と、仁美の隣に身を横たえる真帆の姿をじっと見張っている。


 真帆は明け方になると再び眠りについたらしく、仁美の肩に頭を寄せながら布団にくるまっている。だがシロウは決してまぶたを閉じなかった。


 夜が完全に明けるまで、彼はずっと真帆の気配を警戒し続けた。あの夜、深夜に見せた彼女の異様な執着と狂気を思い出すたびに、背筋を走る冷たいものを感じた。あの女はただの怯えた友人ではない――断じて。


 東の空が白み、部屋を優しく包む柔らかな光が差し込む頃、仁美がふわりとまぶたを開けた。


 昨日よりも遅い起床だったらしく、時計の針は昼近くを指している。少し驚いたように眉を動かした仁美は、隣で眠る真帆に目をやると、どこか疲れ切った顔のまま安らかに寝息を立てている彼女の姿を見て、小さく安堵の息を漏らした。


 仁美は伸びをすると、部屋の隅でじっとこちらを見ている白猫に気づいた。眠たげな目を細め、くったりとした笑みを浮かべながら手を差し伸べる。


「おはよう、シロ。今日もいい子にしてたね、ごはん食べよっか?」


 シロウはカーテンの影からゆっくりと姿を現した。朝日に照らされ、真っ白な毛並みが淡くきらりと輝く。仁美の前まで歩み寄ると、安心したように喉を鳴らして甘える素振りを見せた。


 金色の瞳は優しげに細められ、耳を少し寝かせながら顔をすり寄せる。だがその裏で、真帆が寝息を立て続けているかを鋭く見極めていた。


 仁美はそんなシロを撫でながら、真帆を起こさないように気を使って、小さな声でシロに囁く。


「疲れていそうだから、起こさないであげてねー……」


 仁美の声には温かさがこもっていた。けれど、シロウは内心で小さく舌打ちする。仁美の言う「心細さ」など、あの女に限っては演技でしかない――シロウにはそうとしか思えなかった。


 真帆が仁美に心配されるような無害な存在とは到底思えない。あの夜に見た狂気の入り混じった瞳と声を、シロウは決して忘れない。


(……油断できねぇ。あの女、完全に俺の正体を知っていやがる。あいつは、俺が神城シロウであることを知っている――)


 思考が苛立ちに近い速さで渦を巻く。あの真帆が自分の正体に気づいていることは、シロウにとって最大級の脅威だった。

 自分が猫の姿になった事実は、勇者庁の長官ユズハと補佐の田所、そして勇者ハヤトだけが知っている機密だ。それなのに、仁美の友人を名乗る女が知っている。偶然などで済ませられるはずがない。


 仁美がミルク皿をそっと差し出すと、シロウはわずかに躊躇してから舌を伸ばした。温かなミルクが舌を滑り、喉を通っていく。


 仁美が自分を撫でてくれる手に、胸の奥が一瞬だけ安らぐ。彼女がほっとしたように笑う姿を見て、シロウの心は苦く軋んだ。


「シロが元気だと、私も元気になるよ」


 仁美のその一言に、シロウは胸がちくりと痛むのを感じた。どれほど力を失っても、自分はこの部屋で仁美と共にいるだけで満たされてしまう。だが同時に、彼女を守るためなら、すべてを投げ出す覚悟がある。


 あの狂気を孕んだ女が仁美に触れた瞬間、自分は即座に殺意を抱くだろう。


(守る。この平穏を……仁美を、俺が必ず――)


 仁美は軽く朝食を済ませると、スマホを確認して小さくため息をついた。


「そろそろバイト行かなきゃ」


 小声で呟くと、眠る真帆に気を配りながら、シロウを膝に抱き寄せた。白猫を撫でながら、耳元にそっと囁く。


「留守番お願いね、シロ。真帆のこと……仲良くしてあげてね?」


 無邪気に向けられたその笑顔に、シロウは不機嫌そうにひげを揺らしながらも、小さく「にゃっ」と鳴いて応じた。


 仁美は嬉しそうに微笑み、支度を整えると、真帆を一度だけ見て、静かに部屋を後にした。ドアが閉まる音が響き、部屋には再び静寂が戻る。


 時計の針は昼を少し回っていた。部屋には、神城シロウと、布団の中で身動きもせず横たわる真帆だけが残された。


 仁美が去った今、この空間は二人だけのものになった。何の音もなく時間だけが過ぎていく中で、シロウはカーテンの影からゆっくりと部屋の中央へ歩み出た。冷たい金色の瞳がわずかに細まり、真帆の寝顔を鋭く射抜く。


 静寂を破ったのは、小さな布の擦れる音だった。真帆が布団の中でゆっくりと身じろぎをし、薄く目を開ける。互いの視線が絡み合い、確かな温度が流れた。


 微睡みの中にあるはずのその目は、まるで澄んだ氷のように冷たく光り、理性を欠いた熱を宿していた。


「おはよう……シロウさま」


 掠れた声で真帆は囁いた。その声は甘く、しかしどこか底知れない深みを持っていた。


 シロウは全身の毛を一気に逆立て、鋭い瞳で真帆を睨み返す。間違いない――この女は完全に、自分を「猫」ではなく「神城シロウ」として認識している。


「安心して。私は何もしない。だって……私はあなたの味方だから」


 静かな声が、氷の刃のようにシロウの鼓膜を刺した。シロウは喉の奥で唸り声をあげ、尻尾を膨らませながら後退した。だがこの部屋の中に、彼が身を隠せる場所はもうない。


 真帆はベッドの上でゆっくりと体を起こし、笑顔を崩さずに視線を合わせてくる。やわらかく微笑んでいるのに、その奥には明確な執着と狂気が見え隠れしていた。


「仁美はいい子だよね……あんなに優しくて、誰にでも分け隔てなく接して。だからこそ心配なの。あなたは仁美から離れたほうがいいわ」


 その言葉に、シロウの毛がぶわりと逆立った。威嚇するように低い唸り声を漏らす。真帆は楽しむように瞳を細め、ゆっくりと続きを口にした。


「もし仁美があなたの正体を知ったら――彼女はどうなるんだろうね?」

「あなたがこの姿にされていること。あなたが誰よりも強くて、最強の勇者神城シロウであること。……もしそれを知ったら、ただの大学生の仁美があなたを受け止められると思う?」


 シロウの毛が逆立ち、瞳が細まる。真帆の言葉はまるで彼の胸の奥を抉るようだった。自分が仁美に寄りかかっているのではないかという、微かな自覚を突きつけられた気がした。


「あなたは神城シロウ。勇者として誰よりも強くあらねばならない人。それなのに……仁美といるあなたは、まるで弱い猫みたい」


 真帆の手が布団の上でゆっくりと動き、指先が床に触れる。次の瞬間、真帆はわずかに身を乗り出した。顔の距離が一気に縮まる。


「大丈夫。だから私が守ってあげる……あなたを、誰よりも理解している私が」


 その瞳には狂気と執着が混じり合い、底なしの闇がちらついていた。シロウは瞬時に仁美のベッドを一瞥し、彼女がいないことを確認すると、さらに唸りを深くする。尻尾を太く逆立て、鋭い爪を半分ほど露わにした。


(……やっぱりこいつ、普通じゃねぇ! 仁美に触れる気か? この女を放っておくわけにはいかない!)


 白猫の姿が白い光に包まれ、瞬く間に消える。光が収まった時、そこにいたのは鋭い眼差しを持った青年――勇者ランキング1位、神城シロウその人だった。


「……えっ」


 布団の上でこちらを見つめていた真帆の目が大きく見開かれ、しばし硬直する。けれどその瞳は怯えではなく、熱に濡れた狂気を含んでいた。


「シロウさま……!」


 シロウは躊躇なく真帆に詰め寄った。ベッドの端に手をつき、鋭い視線で彼女を捕らえる。目と目がぶつかり合い、息が触れ合うほどの距離になる。


「お前、何者だ? 俺の正体を知っている理由を話せ。……誰に命令されて、仁美に近づいた?」


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