第20話 不気味な笑顔
勇者ランキング1位、神城シロウの生活は、平穏そのもので、静まり返っていた。
久我ハヤトが夜の街を駆け抜け、鋭い雷の閃光を放ちながら精霊と交戦し、どこかで誰かを救っていたその時でさえ、彼――神城シロウはこの小さな部屋で猫として穏やかに呼吸をしていた。
「……にゃー」
ふわふわの座布団の上で、白猫はゆっくりと体を起こし、大きく口を開けてあくびを一つ。前足を前に伸ばし、爪をちょっとだけ座布団に引っかけて身体をぐっと反らせると、満足げに尻尾をくるりと巻いた。
ここは仁美の部屋。日曜の午前中、柔らかい光が窓辺のカーテンを透かして差し込み、レース地の白い布が時折風に揺れて優しい影を作っていた。部屋の中には昼前特有の、ぬるく穏やかな空気が漂い、どこか気だるい幸福感で満ちている。
机の上には開いたノートが幾冊も広がっていた。仁美は勉強していたのだろう。色とりどりの付箋が貼られた参考書が散らばり、開きっぱなしの問題集のページには赤ペンで丸やバツが走っている。だが、その持ち主はペンを握ったまま、机に突っ伏して眠っていた。リズムの整った寝息が微かに聞こえ、安らかな寝顔が窓からの光に照らされている。
白猫は仁美の足元に丸くなり、目を細めてその寝顔をじっと見つめた。彼女の頬がピクっと動き、夢を見ているのか小さく口元が笑みに変わる。シロウは安心したように小さく瞬きをして、ぺたりと耳を寝かせた。
(……本当に、のどかだな)
思えば、以前の自分は一日に何度も結を放ち、戦闘で血の臭いと煙にまみれていた。勇者としての威光を保ち続けることに執着し、常に周囲の期待と自分のプライドに縛られながら生きていた。戦いで勝つことだけが存在意義だった。
けれど今は、仁美の部屋で白猫として過ごす日常がある。テーブルの上のノートも、試験範囲の紙も、彼の最強の称号には一切無関心だった。この小さな部屋に、勇者ランキング1位という肩書きは何の意味も持たなかった。
鷹森ユズハや久我ハヤトが何も情報を持ってこない限り、シロウはこの部屋を離れることはない。むしろ、それはユズハに協力する上で自ら課した条件の一つでもあった。仁美を中心に据えた、この平穏を守ることこそが今の自分のすべてだと、シロウは感じていた。
自分を救い、大切にしてくれる仁美の安全を守る。それを第一に優先すること。それが勇者ランキング1位であった頃よりも、今の自分を支えている確かな目的になっていた。
そんな静けさを破るように、昼過ぎにチャイムの音が部屋に響いた。
机に突っ伏していた仁美は「ピンポーン」という電子音に肩を跳ねさせ、ぱっと顔を上げた。寝癖が少しついた前髪を慌てて手で押さえながら、どこか寝ぼけた声をあげる。
「は、はーい……あ、そうだ。今日、真帆がくるんだった……」
シロウはその言葉にぴくりと耳を動かした。仁美の部屋にはまだ日曜の昼のゆるやかな空気が漂っていたが、空気が微かに慌ただしさを帯び始めた。
(真帆?誰だ……)
仁美は部屋を出て、玄関の方へ行ったらしい。小さく話し声がして、靴を脱ぐ気配とともに、部屋のドアが再び開いた。そこに現れたのは、見知らぬ顔だった。
栗色の髪を肩で結んだ、背の高い女。仁美より少し年上にも見える。だが、その歩みはどこかおぼつかず、膝がかすかに震えているようだった。顔色も優れず、目の奥には恐怖のようなものが濃くにじんでいた。
白猫は座布団の上で丸まったまま、ちらと尾を揺らした。仁美は彼女を迎え入れると、優しく声をかけた。
「どうしたの?真帆……なんか元気ないようにみえるけど」
仁美の声はやわらかかったが、その奥には明確な心配の色が浮かんでいた。
“真帆”と呼ばれたその女は、小さく首をすくめるようにし、俯いたままぽつぽつと話し始めた。
「……最近、誰かに……つけられてる気がしてさ」
声には恐怖が混ざっていた。仁美は目を見開いて息を呑む。机の上のカップを持ち上げかけた手が、小さく震えている。
「警察には相談した?」
仁美が静かに尋ねると、真帆は目を伏せたまま、小さく頷いた。
「相談したけど、今は何もできないって……警察って、何かが起こってからじゃないと動けないらしくて……」
「……なにかが起こってから、じゃ遅いのにね」
仁美の声には苛立ちと不安が入り混じっていた。真帆は仁美の言葉に押し黙り、手元のカップを見つめながら小さく息を吐いた。
「駅でも、大学でも……ずっと誰かに見られてる気がするの。背中に視線を感じるんだけど、振り返っても誰もいなくて。最初は気のせいかと思った。でも、他にも同じことを言ってる子がいるの……」
シロウは耳をわずかに動かしながら、二人の会話に意識を集中させた。真帆の声はかすかに震え、目の奥に浮かぶ怯えは作り物ではない――長年「結」を介して人の嘘や本音を見抜いてきたシロウには、それがすぐにわかった。
(もしかしたら、逆勇舎が何か仕掛けている可能性もあるが……いや、だが……)
だがすぐに思考を断ち切った。ストーカーや日常のトラブルは、自分の領域ではない。シロウの目の前で仁美が傷つくか、狙われない限り、介入するつもりもなかった。
白猫は小さくあくびをして顔を舐めると、興味を失ったように再び座布団に体を沈めた。真帆がどんな不安を吐露しようと、仁美自身が無事でさえあれば、それで良かった。
「真帆、今夜は泊まっていった方がいいよ。もし帰り道で何かあったら、怖いし……」
仁美が心配げに声をかける。シロウはその声だけを頼りに、仁美の表情を観察する。彼女が笑えば、それで安心する。泣きそうになれば、すぐにでも側に駆け寄る。シロウの関心は仁美だけに向けられていた。
白猫は座布団の上で体勢を変え、仁美の膝元へ顔を擦り寄せる。仁美が安堵したように微笑むと、シロウも小さく喉を鳴らした。その音は心地よい振動となり、部屋の静けさを和ませていった――。
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誰かに頭を撫でられて目が覚めた。
(仁美か……?)
白猫のシロウはゆっくりと目を開けた。だが目に映ったのは、仁美ではない。
仁美の家に泊まっている真帆の顔が、至近距離にあった。カーテンの隙間から射し込む街灯の淡い光が、彼女の横顔をぼんやりと照らしている。時計の針は深夜を指していた。
部屋はしんと静まり返り、仁美はベッドで眠っている。だが、そのすぐ横で、真帆だけが起きていた。
彼女は安堵の笑みを浮かべながら、白猫の頭をゆっくりと撫で続けている。
(なんだよ。こいつ、気安く触んなよ……撫で方が雑だし……)
シロウは小さく耳を伏せ、軽く頭を引こうとするが、真帆の指先は逃がすまいとするように優しくも確かにシロウの額を撫で続けた。
「大丈夫……大丈夫だよ」
真帆の囁きは、猫に向けたものにしてはあまりにも生々しい響きを持っていた。
「私が守ってあげる……シロウさま……」
白猫のシロウは一瞬で耳がピクリと立ち上がる。
(……今、なんて言った?)
部屋はしんと静まり返り、仁美の寝息だけが静かに響いていた。だが、その傍らで真帆だけが布団の縁に座り、月明かりを浴びながら白猫を見て微笑んでいる。
「シロウさま……」
その声は、間違いなく「シロ」ではなく「シロウ」と言った。囁きにしてははっきりと響く声だった。
白猫のシロは、全身の毛を逆立て、耳をピンと立てた。瞬間、座布団を蹴って仁美のベッドの足元まで飛び退き、低く喉を鳴らして威嚇の声を漏らした。
真帆はそんなシロに向かって、不気味なほどゆっくりと微笑む。月明かりに照らされたその笑みには、底知れない狂気と執着が滲んでいた。