第17話 犬と鴉
――勇者庁・本部長官室
重厚な木扉の向こうから、控えめなノックの音が三度響いた。室内の空気は張りつめたように静まり返っており、黄金の毛並みを持つ一頭の犬――勇者庁長官、鷹森ユズハは、その音に耳をぴくりと動かした。
「ワン!ワン!」
ユズハの一声が届いた数秒後、ようやくドアが静かに開かれた。そこから顔をのぞかせたのは、スーツ姿の田所だった。
年若く見えるが勇者庁の社員としてはそこそこキャリアを積んでおり、以前は神城シロウのマネージャーであった。真面目な性格でユズハからも一定の信頼を得ている……はずだったが、今はその表情にどこか落ち着きがない。
「久我ハヤトさんを……お連れしました……じ、自信は、ありま……す」
田所の声が震える。彼の肩には、一羽の真っ黒なカラスがとまっていた。つややかな漆黒の羽毛、鋭く整ったくちばし。目元に宿る光は、ただの鳥とは思えぬ知性を漂わせている。
だが、ユズハの視線は鋭かった。なにしろ昨日――
「長官!ハヤトさんを連れてきました!」と意気揚々と報告した田所が、全くの野良カラスを連れ込み、室内で大暴れさせた“事件”があったのだ。
あのとき、机の上の書類は吹き飛び、部屋中を飛び跳ねて、しまいにはユズハの尻尾まで踏まれたのだ。あの悪夢を思い出しながら、ユズハはふう、と深くため息をついた。
田所は肩のカラスをおそるおそる見つめ、言い訳のように呟いた。
「入り口での……私への必死のアピールがありまして……今度こそ……本物です」
するとそのとき、カラスが小さく羽を広げ、ピッとくちばしを鳴らした。
「鷹森長官、お久しゅう」
関西訛りの響き。それは“結”を媒介にした、言語波長だった。ユズハの耳に、確かに“久我ハヤト”の声が届いた。
「……今度こそ、間違いないみたいね」
彼女はやれやれとばかりに尾を一度振ると、背筋を伸ばして目を細める。
久我ハヤトがここに訪れたのは3回目。
1回目は空腹に耐えかねて偶然にユズハに鉢合わせた時。2回目は逆勇舎の根城を潰した際の状況報告。
「貴方からここに来るなんて、また“逆勇舎”のアジトでも見つけたのかしら?」
だがカラス――久我ハヤトは、ふいにくちばしを鳴らして笑い、田所の肩からひと跳びして、長官机の前に舞い降りた。重みのない着地の音。羽を軽く整えながら、ハヤトは言った。
「報告はないねん……お願いや」
ユズハの耳がぴくりと動く
「そう、なにかしら?食糧ならいつもの場所に届けるわよ」
「メシは貰えている分で間に合っとる。そうでなくてな……次、逆結使いが現れたら、神城でなくて俺に任せてほしいと思ってな、どうや?」
その一言は、命令でもなく、野心でもなかった。
ただ――強く、真っ直ぐな“願い”だった。
ユズハはしばらく何も言わず、視線をハヤトの黒く小さな身体に注ぐ。静かに目を閉じ、深く短いため息を吐いてから、低く問うた。
「理由は?」
「単純に、戦力アップや、神城とアンタだけじゃ手が回らなくなるやろ?俺様だって力になるところを見せつけたいと思ってな」
「でもあなた、シロウ君や私とちがって元の姿に戻れないんじゃなくて?」
ユズハは穏やかに見える声音の奥に、明確な“確認”の色を含ませていた。
あくまで冷静に、しかしその瞳には、彼女なりの憂いも宿っている。
ハヤトはその問いに、ふっと羽をすぼめたまま一瞬沈黙した。
机の上でくちばしを鳴らし、そして肩をすくめるように片羽を持ち上げてみせる。
「……わかっとるよ。戻られへんのは自分が一番よう知っとる。でもな、それでもできることはあるやろ?ちいさな体でも、気配を隠して偵察もできるし、結もまだ多少は使える。“できること”に集中したら、案外戦えるもんやで?」
その言葉に、ユズハは微笑を浮かべた。
「なるほど……あなたの判断なら、尊重しましょう。確かに“逆勇舎”の動きは活発化してるし、シロウ君と私だけでは限界もある。貴方なら……逃げ足も速そうだし、機動力もある。使いどころはあるわね」
そして彼女は、田所に小さく吠えた。
「ワン!ワン!」
「……」
「はいっ、すぐに」
田所は緊張した面持ちで退出し、数分後に戻ってきたときには、小さな機械を手にしていた。
「……失礼いたします」
しゃがみ込み、田所はハヤトの足にそっと装着する。カチリ、という軽い金属音。小型化されたその装置は、腕時計にも見えるが、用途はまったく異なる。
「それ、なんや。足輪みたいやな」
ハヤトが片足を持ち上げて眺めながら、くちばしの奥で不満そうに鳴く。
「それはね、秘密裏に開発した、”逆結”の探知機よ。勇者庁本部に常設されている、精霊出現用の結探知機を改良し小型化したもの。半径1キロ範囲で、結を除く特別な力の発生に反応してくれるわ」
ユズハの説明に、ハヤトはしばらく足輪をじっと見つめていた。
「ええな!これで俺様は、誰よりも早く逆結使いを見つけることが可能になったっちゅうことか……」
「気に入ってもらえて何より。これで、貴方を戦力として数えることができるのかテストさせて頂戴」
ハヤトはくちばしの奥でふっと笑い、片羽で胸を叩くような仕草をした。
「任せとき。テストでもなんでも、俺様が一番に見つけて一番に動いてみせたる。小回り利くのが鳥の特権やからな」
「ええ、期待してるわ……」
ハヤトはくちばしの奥でふっと笑い、片羽で胸を叩くような仕草をした。
「任せとき。テストでもなんでも、俺様が一番に見つけて一番に動いてみせたる。小回り利くのが鳥の特権やからな」
「……ただし」
その声には、明確な“命令”の気配があった。
「無理はしないこと。敵の規模や構成によっては、即時撤退。これは絶対よ」
その金色の瞳が、強くハヤトを見据える。
「貴方は勇者庁の一員。私たちは必ず元に戻る。そのとき、貴方がいないなんてことになったら……私はきっと、後悔するでしょうね」
しばしの沈黙のあと、ハヤトはくちばしの奥で小さく笑った。
「……そうか。心配、してくれてるんやな、長官」
「当然でしょう?あなたはSランク勇者・久我ハヤト。私たちが失うには、惜しい存在よ」
その言葉に、ハヤトはほんの一瞬だけ視線を伏せ、そして小さく囁くように言った。
「はは、さっぱりしすぎてわろけるわ……まぁビジネライクでそっちのがええか」
ハヤトはほんの一瞬だけ、視線を伏せ――
次の瞬間には、羽を広げてひと跳び、室内の空気を震わせるように軽やかに飛び立った。
「じゃ、早速飛ぶで。俺様のセンサーが、どこで鳴るか楽しみやな……!」
その声は、いつものように誇らしく、どこまでも軽やかで――そして、どこか胸を打つほど真剣だった。
黒い翼が一度弧を描く。田所が慌てて開けた窓をすり抜けて、黒い影は音もなく、真昼の空へと吸い込まれていった。
ユズハはその姿を黙って見送る。尾を一度だけ静かに振り、そして――ただ、目を閉じた。
空は晴れていた。けれど、どこか遠くで雷鳴が微かに鳴ったような気がした。