第16話 飛び立つ鴉
昼下がりの陽光が、穏やかに住宅街を包んでいた。
古びたアパートの屋根の上、その中心で――白猫のシロウが、じっと座っている。
毛並みは陽を反射してやわらかく光り、風に揺れるヒゲがわずかに振動する。
足元に広がるのは、仁美の部屋。
あの優しすぎる女子大生――名前も知らぬ猫を迷わず受け入れ、ミルクを与え、ふかふかのタオルを用意し、眠るときには小さく声をかけてくれる少女。その部屋を、シロウは屋根の上から見下ろしていた。
窓の内側で揺れる白いレースのカーテンが窓越しにふわりと揺れている。人の気配のない室内が、かえって彼女の不在を際立たせていた。
シロウは屋根の上から、街を見渡す。見慣れた道、通学路、赤ん坊を抱く母親、スマホを見ながら歩く大学生。
この世界に、彼の“強さ”を知る者はいない。いや、知るはずもない。
だが、シロウは知っている。
この街のどこかに、“黒い結”を使用する組織”逆勇舎” が潜んでいることを。
何気ない事故、ささいなトラブル、その裏に潜む“黒い結”の痕跡――
あれは偶然ではなかった。”逆勇舎”を完全に潰さない限り仁美も巻き込まれることになるのかもしれない……
(その前に、俺が終わらせなきゃならねぇ)
そう思った時、空気がわずかに震える。
「よぉ、白猫さん」
上空から聞こえた声に、シロウはぴくりと耳を立てた。
屋根の端、いつの間にか、黒い羽根を持つ一羽のカラスがとまっていた。
黄色い目を細め、軽く首を傾ける。
「……ハヤト」
「今日は散歩やなくて、黄昏れる気分なんか?」
カラスの姿で笑うハヤト。
その姿もまた、変化の果て。
雷光の異名を持ち、勇者ランキング5位のSランク勇者。だが今は、真っ黒なカラス。
シロウはその顔を見上げながら、皮肉げに言う。
「ちょうど良かった、お前に会いたかったんだ……」
そう告げるシロウの声には、どこか張り詰めた響きがあった。
黒いカラスの姿をした久我ハヤトは、くちばしを下に向け言葉を落とす。
「あー、なんとなく察してたわ」
ハヤトは、空気を読むように羽をふるわせ、すぐには冗談に逃げなかった。
風が静かに流れる中、二人の間に言葉のない間が落ちる。
「やっぱり……お前が監視役だろ?」
シロウの問いに、ハヤトはわずかに目を細めた。その黄色い眼差しに、“雷光のハヤト”の鋭さが宿る。
「さっすが神城やな。ほんま、鋭いわ」
カラスの姿をしたまま、ハヤトは屋根の縁に足をかけるように止まり、喉をひとつ鳴らした。
「で、いつからユズハと接触していたんだ? ……俺の予想だと、初めて猫の俺と会った直後。お前は、逆勇舎のこともユズハのこともずっと黙ってた。不思議だったんだよ。飼われることがないカラスのお前が、どうやって食い繋いでたのか」
「なるほど。観察眼は健在やな、神城……だいたい合っとるわ」
ハヤトは羽を揺らし、器用に肩をすくめるような仕草を見せた。
「猫のお前と会ったあとや、ゴミ漁りにも飽きてな。ほいで勇者庁本部に飛び込んだんや。そしたら偶然――ゴールデンレトリバーに出会ってしもたんや」
「……ゴールデンレトリバーに、ね」
シロウが片眉を上げるような気配を見せる。もちろん表情には出ない。だが空気ににじむ。
「まさかと思たけど、あれが長官やってん。鷹森ユズハが“犬”になってるなんてな。今でこそ笑い話やけど……あのときは正直、嬉しさよりもホラーやったわ」
「そっから俺は逆勇舎のこと知らされてな。元に戻る手がかりも、そこにあるって聞かされた。ユズハから与えられた任務は、お前――神城シロウの監視と、逆勇舎への誘導やったんや」
「俺に黙ってたのも、ユズハの命令か。そしてその理由も分かる。俺の弱点を見つけるため……それが仁美だと分かった瞬間、あの女は仁美を盾にして、俺を巻き込む気でいた。本当、最初から手のひらの上だったわけだ」
「……そういうことや」
ハヤトは短く応じ、羽をたたんで視線を落とす。
白と黒。
屋根の上に、かつて人間だったふたりの影。
静かな沈黙が流れる。
「……怒ってるか?」
カラスのくちばしの奥に、わずかな後悔が滲んだ。
「いや、別に」
シロウは短く返す。その声音に怒りはなかった。
あるのは、皮肉。そして、ほんの少しの安堵。
「俺が人間のままだったら、半殺しにしてたかもな。でも……猫になってから、怒る気力も薄れてきた。仁美のことに関係しなきゃ、怒りすら湧かない。……多分、どんどん猫になってんだろうな、俺」
風がふたりのあいだを通り抜けた。
♦️
(神城に……悪いことしたわ)
風が吹く。羽根の下から、さざ波のような罪悪感が広がる。
屋根の上に残された白猫の姿が、やけに小さく見えた。けれど、その背に宿る気配は、昔と変わらない。“最強の勇者”――神城シロウ。
ユズハ長官に命じられて、シロウの監視役を担った。
“逆勇舎”と本気でやり合うためには、あいつの力が必要――そう言われたら、否とは言えない。
……だが。
(全部が全部、長官の言いなりってわけじゃなかったんや)
少なくとも、仁美という名の少女の存在を俺は報告しなかった。
あの猫――いや、神城シロウが今いちばん大切にしている存在だと、見ればわかったからだ。たぶん、他にもシロウを見張ってる奴がいる……ユズハと一緒に見かけた田所って奴か?あいつは神城のマネージャーだしあり得るな……
(神城はどう思ったんやろか……)
治らない罪悪感が、羽根の奥から胸の奥へと染みこんでいく。
けれど、それは「後悔」ではない――ハヤトは自分にそう言い聞かせていた。
(けど、今のアイツ……)
あんなふうに笑って、あんなふうに言葉を返してくるなんて。
昔の印象を考えればあり得なかった。
(猫になって、変わったんか……)
(いや、違うな……)
(猫になる前からあいつは俺のやることなすこと興味がなかったんや……)
現代最強の勇者、人気、実力共にNO1の勇者。背中を追い続けた勇者。そんな神城シロウと、同じ境遇になってやっと対等に話せるようになった。
(ダセーな俺、神城は俺のことなんてなんとも思ってないのに、勝手に想像して、考えて、)
(……)
(嫌いにならんでほしいなー)
そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
この感情は嫉妬でも、劣等感でもない。ただ、ささやかな“願い”だった。
かつては、ただ強くなることしか考えていなかった。
ランキングを上げて、注目される――それだけを目標にしていた。
沈む夕日に街並みが染められていた。
どこかで子どもが笑い、どこかで風鈴が鳴っている。
――神城は伝説になり、俺は忘れられていく……
――それでいいんか”雷光のハヤト”!
――このままでいいんか!?
――見返すためやなく、勝つためやなく、俺はあいつに認められたいんや
羽を一度、力強く振るった。
(神城と胸はって競い合えるくらいに強なってから元に戻ってやる)