第15話 田所と猫
黒塗りの高級車がエンジン音も立てずに待機していた。運転席の窓が開き、落ち着いた声が響く。
「帰りもお乗せしますよ、神城さん――」
相変わらず飄々とした口調。以前はシロウのマネージャー、今は勇者庁長官である鷹森ユズハの直属の部下。
(よく考えたら俺がいなくなってコイツ出世してんじゃん)
それを言葉にするほどシロウも子どもではなかった。ましてや今の姿は“猫”だ。あざけるように尻尾をひと振りして、助手席に皮肉のように敷かれた毛布の上へ飛び乗る。
田所はルームミラー越しにちらりと視線を送ると、小さく笑った。
「お気に召しましたか? 高級毛布仕様です。猫用ですが、予算は長官が出してくれました」
(……余計な気遣いだな。まあ、悪くはねぇが)
シロウは丸くなりながら、車の揺れに合わせて尻尾をゆらりと揺らした。毛布の感触は妙に心地よく、なんとなく悔しい。
「では、出発します」
車は滑るように発進した。車内には静かなジャズが流れており、音量はごく控えめ。田所の運転は相変わらず完璧で、急ハンドルも無駄な加速も一切ない。
「仁美さんを巻き込んだしまったこときちんと申し訳なく思っています。神城さんと外で安全に接触する上で、必要だったとはいえ、”逆勇舎”側の情報網が張られている可能性がある中ではリスキーでした……」
田所の声には、いつもの軽妙さがわずかに影を潜めているように思えた。
シロウは一度だけ、彼に視線を向けた。
(違うな……コイツもあの女狐も、それが分かっていて仁美を介しやがった。仁美の危険をちらつかせて、俺のやる気を引き出すために……)
(まるで俺が“元の姿に戻りたくない”とでも思ってるみたいに……いや、案外、本気でそう思ってるのかもな。猫として充実してるって――は、笑わせる)
シロウはふいに小さく鼻を鳴らした。笑いにも、怒りにも聞こえない微妙な音だった。
♦️
――神城シロウが姿を消した一週間後
(神城さん、どこに行ったんだ……)
ポケットのスマホが鳴り始める。
(はー……またあのディレクターだ……)
「はい、昨日もご連絡した通り、神城シロウには復帰の目処は立っていません。突然のキャンセルになってしまい申し訳ありませんでした。代役でうちのキャストを御提案いたしますので、他のものからおってご連絡します……」
電話を切って、田所は、運転席に座りながらほんのわずかに目を伏せた。今の自分にできることが、これしかないことが、情けなく思えた。
神城シロウ。勇者ランキング1位にして、国民的英雄。だが、その裏で彼の仕事の管理、露出戦略、スキャンダル回避、すべてをこなしてきたのはこの自分――田所だ。
神城さんが姿を消した日から一週間……後始末に追われていている。仕事のキャンセルをし、各所を謝り回る日々で毎日が憂鬱であった。
神城さんとは長い付き合いだ。自由奔放な人ではあるけれど、勇者としての仕事を飛ばすようなことはなかった。何かの事故に巻き込まれたのだと思いたいが、一般人が消えたのとは訳が違う。神城さんは”最強”で、なにかが目の前で起こったとしても、簡単に乗り越えてしまう強さがある。
信じることもできず、恨むこともできず、悶々としていた。
そんな時、上司経由で勇者庁本部に呼び出された。
「なんだ……神城さんのことで何か聞かれるのか、叱られるのか……」
勇者庁本部に入るのは入社以来で、しかも呼び出したのは――現長官、鷹森ユズハだった。
田所は勇者として人気を獲得する鷹森ユズハとは現場で面識があるものの、長官に就任した以後は会うような機会はなかった。
やや緊張した面持ちで鷹森長官が待つ長官室に入った。
(あれ?いない……)
田所は首をかしげながら、誰もいない長官室を見渡した。高級な書棚、整えられた書類、重厚な応接ソファ……どれも無人の空間を静かに埋めていた。
「ワン!!ワン!!」
唐突な犬の鳴き声に、田荘はビクリと肩を跳ねさせた。思わず一歩下がる。
(……犬!? なぜ長官室に!?)
視線の先、長官室のデスク脇のカーペットの上に、一匹の大型犬が悠然と座っていた。凛とした立ち姿、つややかな茶褐色の毛並み――どこか高貴さすら感じさせる、ゴールデンレトリバーだった。
「ワン! ワン!!」
田所がなおも首を傾げて犬を見つめていると、そのゴールデンレトリバーの体が、突如として強い光を放ち始めた。
「えっ……?」
強い光に思わず目を細める。次の瞬間、犬の姿は揺らめくように崩れ、その場に立っていたのは――
上品なスーツをみにまとう凛とした女の姿だった。
背筋を伸ばして立つその女性――鷹森ユズハは、静かに目を開いた。
「驚かせてしまってごめんなさい。……これが、今の私の“本当の姿”よ」
彼女の声音は穏やかだったが、その奥に確かな緊張と覚悟があった。
田所はまだ声を出せずにいた。驚きが、言葉を封じていた。
そんな長官から告げられたのは、驚きを上積みする内容だった。
「神城シロウは生きている。ただし、私とおなじように人間の姿ではない」
――人間じゃない?
田所の頭はまだホワイトアウトしたままだった。
「信じがたいことだとはわかっている。街中の監視カメラに映った目ぼしい動物の情報を授けるわ。どれもA級精霊エチュードの事件で神城シロウが現れた後、現場の近くにいた動物たち。その中から神城シロウを見つけてほしいの。今の彼は、人間としての力を失い、他の姿で生きているはず……神城シロウは簡単には死なない。彼は”最強”だもの。貴方も知っているでしょ……」
「……人間以外の動物、ですか」
ようやく絞り出した言葉に、ユズハはゆっくりと頷いた。
「……神城シロウが、今どんな姿でどんな生活をしているか、見てきて頂戴。シロウ君の力なしでは奴らには勝てない。私も元の姿には戻れない」
田所は無言のまま、ただ頷いた。
信じられない話だ。だが、目の前の光景と、彼女の言葉が嘘でないことは分かる。
「……わかりました。私にできる範囲で、全力を尽くします。神城さんを……探します」
その答えに、ユズハは小さく、しかしはっきりと微笑んだ。
田所は黙って一礼し、長官室を後にした。
――その後、
「この猫だ……」
目に見える猫と、エチュードの事件現場に現れた猫が一致した。
「はぁ、なんでこんなことを……」
大きなホテルのベランダから双眼鏡を除いている男が田所だ。
目的は大通りを挟んで向かいにある変哲も無いアパートの一室。
目をつけた猫を追跡した結果辿り着いたアパート。
女子大生の契約する一室。
(女子大生の部屋を遠くから観察するなんて、なんだか変態のようではないか……)
田所は自嘲気味に息をつく。ベランダに吹き込む夜風がスーツの襟を揺らす。
郊外の古びたアパートの二階、窓際に白いカーテンが揺れ、網戸越しに見える小さな影が、部屋を悠々と歩き回っている。
畳の上に座る女子大生――彼女の名前は仁美。神城シロウらしき猫を拾って飼っているという、地味な女の子。どこにでもいそうな、普通の若者。
だがその子が、あの“最強の勇者”神城シロウを撫でている。
(……本当に、これが神城さん……?)
田所は双眼鏡を外し、額を押さえる。思わず目を疑った自分がいた。何度映像を見返しても、何度その動きを解析しても、やはり飼い主に従順なただの猫にしか見えない。
小さな身体。丸まった背中。器用にベランダの手すりを歩く姿。
猫は、一度こちらに顔を向けた。
その瞬間、田所は言いようのない“視線”を感じた。
(気のせいか……)
スタジオで、戦場で、打ち合わせ中の喧騒の中で――無言で“田所、次は何をすべきか”と問いかけてきた、あの神城シロウの鋭い目つきと重なった。
――信じられない……
(……やっぱり、あれは……神城シロウだ)
10数年、何度も見た、何度も指示を受けた、あの目。
あの英雄が、今はただの猫として、平穏な日常の中にいる――。
(神城さん……私は、貴方を見つけました)