第14話 ドッグアンドキャット
窓から差し込む光が、まるで遠くから届いているような鈍い色合いに見える。白猫――神城シロウは、ラグの上に低く身を沈めながら、目の前の“犬”を鋭く睨みつけた。
「アンタももしかして俺と同じように“黒い結”を受けて……犬になっちまったのか?」
問いかけるように、声にならない鳴き声を押し殺しながら視線を突き刺す。琥珀色の毛並みをたたえたゴールデンレトリバー――元・勇者庁長官ユズハは、静かに首を縦に振った。その動作は堂々としており、もはや犬というより“女王”の風格すら感じさせた。
「ええ、シロウ君が姿を消して数日後に……私も“逆結”を受けたの。あなたと同じようにね」
言いながら、ユズハはソファの脇に腰を落とすようにして、前脚をたたみ座り込む。重厚な絨毯がその足を沈ませる。
「ただ、あなたと違って私はニュースに出る必要がなかった。毎日現場に立っていたわけじゃないから。勇者の仕事を兼ねる時間なんてなかった……皮肉だけど、それが助かったのよ」
静かな語り口の奥に、深い疲れが滲んでいる。
「……まて。“逆結”ってなんだよ?」
その問いに、ユズハは小さく頷き、ゆっくりと身を低くした。大きな犬の身体にも関わらず、その仕草には研ぎ澄まされた静けさと品格がある。
「あなたが言う“黒い結”のことよ。私たちの結界理論に当てはまらない異常な力。私たちはそれを“逆結”と呼んでいるわ」
言葉を区切り、ユズハは一点を見つめた。
「私たち勇者が使う“結”は、願いを叶えるためのもの。心に描いた未来や力を、現実に引き寄せるためのもの。でも“逆結”は違う……望むのは、自分の幸福じゃない。相手の不幸、それだけ」
部屋の空気が僅かに揺らいだ気がした。まるで、言葉そのものが場を重くしたかのように。
「結に必要なのが“願い”なら、逆結に必要なのは“嫉妬”“羨望”“憎悪”。どす黒い感情だけで構成されている。だからこそ、何かを得ようとするより強い。何も得ない代わりに、相手を壊すだけの力があるの」
シロウの脳裏に、あの忌まわしい光景が浮かぶ。己を呪った男の狂気に満ちた目と、最期に吐き捨てた声。
――お前は今後、最強の勇者なんかじゃない……弱くなれ……そして醜く泣き叫べ!!
爪がじり、とラグに食い込む。
「だから逆結を使う者は増えやすい。“何かが欲しい”より、“誰かを許せない”のほうが、ずっと簡単だから。そして、そうやって集まった者たちは、組織になった。“逆勇舎”と名乗ってね」
「その“逆勇舎”ってのが、俺が潰した組織か……?」
問いかけるシロウに、ユズハはゆっくりと顎を引いた。犬の顔でありながら、その瞳にはかつての長官としての誇りと知性が確かに宿っている。
「ええ。まだ正式名称は掴めていないけれど、内部ではそう自称しているようだわ。結の制度に絶望した者たち、勇者庁に切り捨てられた者たち、そして、ただただ“持つ者”を妬む者たち――そんな連中が集まっている」
「……なるほどな。そりゃあ数は増えるわけだ。じゃぁ最近街で増えている小さな不幸はやっぱり、その“持つ者”を妬む者たちが”逆結”を使う練習をしていたってことだな……で、その根城を俺なら潰したと……」
「でも、あなたが昨日潰した根城は、その中の一つに過ぎない。まだ何も終わっていないわこれからも街では不幸が続くであろうし、勇者も私たちのように弱体化させられていくでしょう」
その言葉はまだ事が終わっていないことを意味していた。
ユズハは一呼吸置いてから、視線をしっかりとシロウに向けた。
「だけど、あなたはその中でも“筆頭幹部”を一人、倒したのよ。烏丸レイジ。――”逆勇舎”でも最も危険視されていた人物。昔勇者庁に所属していた記録があるわ」
「……アイツがか」
シロウの視線が一瞬だけ遠くを見るように揺らいだ。あの仮面の男。自分の技をそっくり真似てきた気色悪い戦い。
「あれでも筆頭格だったってわけか……確かに、強かった……」
結を使える人間がなぜ野良にいるのか謎だったが元勇者であれば合点がいく。
「で、俺は何をすればいいんだ?俺の力が欲しかったから強引なやり方でここに連れてきたんだろ?」
神城シロウは尾を揺らすことなく、じっとユズハを睨んだ。睨み返すように見えるその琥珀色の瞳――しかしそこに宿るのは、対等な敵意ではなかった。むしろ、ある種の決意と、焦燥。
「ええ、そう。、逆結は私達の結よりもずっと使い勝手がよぬて、そして強い願いを叶えられる。それは私達が身をもって知っている。だからこそシロウ君のいない勇者庁では力不足」
ユズハは視線を少し逸らし、重い息をひとつ吐いた。その空気に含まれる緊張は、言葉より先に“ただごとではない”ことを物語っていた。
「わかった。協力はする。俺も元の姿に戻りたいから……でも一つ条件がある」
「何かしら……」
ユズハの声音は変わらない。だが耳がぴくりと動いたのは、ただの反射ではない。シロウという男が提示する“条件”の意味を、本能的に警戒している。
「……俺に監視をつけるのは構わないが、仁美の元にいさせて欲しい」
それは、これまでの神城シロウなら決して口にしなかったであろう“譲れない条件”だった。
ユズハは一瞬だけ目を細めた。小さく首を傾げるようにして、静かに尋ね返す。
「あなたを拾った……あの大学生ね?エチュードの事が心配なら、あれは貴方を釣り出すための演技よ」
「それでもだ……」
シロウの声は淡々としていた。だが、その背に宿る微かな緊張は、耳を澄ませば聞こえるほどには明瞭だった。
「あの子の何が貴方をそこまで変えたのかしらね……」
ユズハの問いは呟きにも近い。それは責めるようでもなく、探るようでもなく、ただ純粋な興味と、わずかな驚きが滲んでいた。
「……さあな」
シロウはそっぽを向いて言った。けれど、その尻尾はぴくりとも動かず、静かに床を押しつけたまま。
「……わかったわ。監視はつける。でも、仁美さんのもとにいていい……」
ユズハは静かに告げた。決して妥協ではない。その声には、シロウの“変化”を認めたうえでの、勇者庁長官としての判断があった。
シロウの瞳は鋭く細められていた。今はただの白猫――だが、その身の内に宿るものは、もはや“かつての最強”とは別の色を帯びていた。
「……全部、最強の俺が終わらせやるよ。必ずな」
ユズハはそれに返す言葉を探すように、少しだけ沈黙した。そして、彼女が最後に口を開いたとき――その声は、どこか切実だった。
「シロウ君。あなたは猫になってよかったのかもね。昔の貴方ならこんなに一つの事件にムキにならなかった。私達にとっては利益重視の貴方より今の貴方の方が心強いのかもね」