第12話 再会とパンケーキ
昼を過ぎた頃、仁美が大学へ出かけると、シロウは静かにいつも通り窓から抜け出した。
昨日のダメージがまだ尾を引いている。体は重く、尻尾も思うように動かない。
だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。じっとしていられなかった。
(だれが、なんのために仁美を狙うんだ……黒い結のやつら?あいつらの残党が俺の正体に気づいて飼い主である仁美を狙った?それか本当にエチュードが生きていた?)
思考を巡らせながら、シロウはいつもの路地を抜け、仁美の通う大学に向かって全力で駆けた。
情報も、動機も、正体も不明。けれど“仁美を狙う理由”と“エチュードを思わせる演劇モチーフ”。それはつまり、内部に精霊に関する高度な知識を持つ者。
足を止め、シロウは高い塀の上から街を見下ろした。すれ違う人々、建物、通り。そこには“敵意”などまるで感じられない。
(……仁美……?)
通りを見下ろす位置から、シロウの瞳が一点を捉えた。
――人混みのなか、明らかに異質な“黒”。
初夏の陽射しの下で目立つ、黒ずくめのロングコート。顔の下半分を覆う黒いマスク。季節感を無視したその姿に、不気味な違和感が漂っている。
そして――その人物の隣を歩いているのは、間違いなく仁美だった。
(……!?)
シロウの喉が、ごくりと音を立てる。猫の姿のままでは叫ぶこともできない。ただ、目を見開いて、全身を強張らせた。
仁美の表情は見えない。けれど、その歩みは少しぎこちなく、どこか“導かれるように”見えた。
(あの黒い格好……黒い結の奴らか!!)
シロウは飛び降りた。舗道に衝撃が走る。まだ痛む足を無理に動かしながら、仁美たちの後を追って路地へと走る。
その間にも、黒ずくめの人物は仁美に何かを囁き続けていた。
(やめろ……!仁美に、ふれんじゃねー……!)
シロウは仁美の目前に肉薄した瞬間、強く――願った。
猫の小さな体が、閃光とともに変化する。
一瞬にして人間の姿を取り戻し、神城シロウはそのまま黒ずくめの人物の腕を掴んだ。
「……離れろッ!」
鋭く叫びながら、仁美の肩を引き寄せるようにして守る姿勢を取る。
黒いロングコートの男がわずかに目を見開いた。
「探しましたよ……神城さん……」
静かで、よく通る低音だった。そして、よく知った声だった。
シロウの動きが一瞬、止まる。
「……その声……まさか、お前……」
マスクを外した黒ずくめの人物は、ゆっくりとフードを下ろす。
「田所……?」
田所……マネージャーとしてあらゆる現場を管理し、神城シロウのスケジュールも、私生活も、影のように支えてきた男。
言葉の響きは、かつての事務的な田所のものと変わらない。その目に懐かしさはあれど安堵もなかった。
「……えーっと、なにかありましたか……?」
抱き寄せられたままの体勢で、仁美が戸惑いがちにシロウを見上げた。突然現れたイケメン青年――つまり人間姿のシロウ――と、自分がいま腕を掴まれていることに、頭がついていっていない様子だ。
「あっ、えーっと……ごめん」
シロウは軽く彼女から手を放すと、ひとつ咳払いをして姿勢を正した。
仁美の背中に庇うように手を回したまま、正面の田所を睨み据える。
「お前、なんで仁美……この人のところに……」
「はい。ですが、誤解しないでください。彼女に危害を加えるつもりはありませんでした」
「あのー、私この人に道を教えてあげてただけです。でも私も大学とバイト先以外にこの辺詳しくないので、道に迷ってしまって……たしかにこの人怪しい格好だったけれど、一緒に道を探していただけですよ……」
殺気立つシロウに、仁美は恐る恐る続けた。
「それに……あの、なんて言うか……この人、言葉遣いとか、丁寧で……あんまり、悪い人には見えない……ですよ……だからそんなに怒らないであげて欲しいというか……その……」
その言葉に、シロウはぐっと言葉を飲み込んだ。
(……そうだ。田所は、そういう奴だ。どこまでも事務的で、冷静で……裏表のないやつ。だが――)
「……田所、偶然なんて言わせない。お前は今、誰の指示で動いてる?」
田所はシロウの問いにふふっと笑う。
「お嬢さん、道案内ありがとうございました。探していた人に会えましたので、私はこれで失礼いたします」
そう言って田所は、礼儀正しく一礼する。
「神城さん、行きますよ!」
そう言うと田所は踵を返し、何の迷いもない足取りで路地の奥へと歩き出した。
「……待て。どこに行くつもりだ」
シロウは一歩、彼の背に詰め寄る。田所は足を止めたが、振り返らず、穏やかな声だけを残す。
「私に命令権のある“あの方”がお待ちです。その方もあなたを探しているので……」
「それがだれなんだよ」
シロウは田所の後を追う。
「あの!!」
シロウは振り返って、困惑した表情のまま立ち尽くす彼女に視線を送る。
「覚えていますか?わたし大学の講義室で、あなたに助けられました!!あの時は本当にありがとうございました!!」
仁美の言葉は、透き通るような声で路地に響いた。
――大学の講義室。エチュードの結によって異界化した“舞台牢獄”。
――拍手の音に押しつぶされながら、泣き出しそうな顔で立っていた少女。
仁美は胸の前で両手を握りしめ、真っすぐにシロウを見ていた。
ほんの一瞬、シロウの表情が緩んだ。そして小さく頷いた。
「――ああ。あの時の“姫”だったな」
♦️
「すみません。少しお尋ねしたいのですが」
黒いコートに黒いマスク、フードまでかぶって季節感ゼロの怪しすぎる人。その格好に思わず警戒心が走った。でも、声は妙に丁寧だった。
(この人……見た目は怪しいけど、なんだろう……)
「この辺で話題のカフェに行きたいんですけど……道を教えていただいてもいいですか?」
「あー、そのカフェなら、何度も店前を通ったことがあるので分かると思います。案内しますか?」
「ぜひ、お願い致します……SNSでここの巨大なパンケーキをみてしまっていても経っても居られず……あっ失礼……」
話し方は落ち着いていて、礼儀正しい。見た目は辺だけど、ただのカフェ好きなんだろう。
図書館に行く予定がなくなり暇になったタイミングでもあり、思わず道案内に応じてしまった私は、気づけば一緒に歩いていた。
「あれ?こっちだと、思うんだけどな……」
恥ずかしいことに、道に迷ってしまった……。カフェはなんども見かけたらはずなのに、辿り着いたのは細い裏道。
「あのー、ごめんなさい。私、お役に立てないかもしれません……」
恐る恐る、私は足を止めてそう口にした。
人通りもなくなり、両側を高い建物に挟まれたこの裏道は、昼間だというのにひどく薄暗い場所だった。
「いえ、構いませんよ。ご親切に感謝しています。ここまでで大丈夫です。こちらこそ急に頼んでしまって申し訳ありませんでした」
(役に立たなかったのに、怒ってなさそうでよかった。この人には本当に申し訳ないことをした)
――その時
「……離れろッ!」
鋭い声が響いた瞬間、視界が激しく揺れた。
気づけば私は、イケメンに抱き寄せられていた。
(え……えっ!? なに!?)
驚きで心臓が跳ねる。状況が飲み込めず、体が固まる。でもその青年は、黒ずくめの人から私を引き離すようにして、真剣な目で睨みつけていた。
(この人……?)
混乱のなか、ふと見上げたその顔は、見覚えがあった。忘れるはずがなかった。
拍手が鳴り響いて、舞台に立たされて、涙が出そうになった時。
急に現れて、救ってくれた――
「覚えていますか?」
気づけば私は、震える声で言葉を発していた。
涙ぐみそうになりながら、胸の前で手を握りしめた。ずっと会いたかった。感謝を伝えたかった。
青年が、わずかに目を細めて微笑んだ。
「――ああ。あの時の“姫”だったな」
その言葉に、思わず頬が熱くなる。
“姫”――あの、異常な舞台でつけられた役名。決していい思い出はない。それでもこの人に呼ばれる呼び名であればアリなのかもしれない。