第11話 忍び寄る影
カーテン越しに射す朝の光が、薄く揺れるように畳の上を照らしていた。
淡い金色の斜光は、部屋の隅にぽつりと置かれた座布団を静かに包み込む。そこに――小さく白い猫が丸まっていた。
仁美は台所で湯を沸かしながら、幾度も振り返る。そのたび、猫がそこにいることを確かめるように。
「……本当に、無事でよかった」
小さな呟きは、茶碗を湯呑みに重ねる音にかき消される。
昨夜、深夜になって。突然、玄関前でカラスが騒ぎ出した。あまりの騒がしさに恐る恐る扉を開けると――泥にまみれた白猫が、息も絶え絶えに横たわっていたのだ。
「なにがあったの?あのカラスにでもいじめられたの?」
仁美は苦い顔をしながらすこし温めた猫用のミルクを器に注いだ。
シロウは隅でじっと丸くなっていた。昨日の爆発で負った傷がまだ痛む。
結局黒い結を使う組織についてなにもわからなかった。
何故シロウやハヤトに小動物の姿に変えたのか……何のために街に不幸を振り撒いているのか……組織の根城にいた奴らは全員爆発に巻き込まれて死んでいた。
死んだものから情報を得ることはできない……元に戻るきっかけを得れる最大のチャンスを逃してしまったのかもしれない。
「心配したんだよ。急にいなくなっちゃったから、外何周も探しちゃったよ…・でも本当帰ってきてくれてよかった……」
仁美の声は小さく震えていた。
その手は、そっとシロウの頭を撫でる。震えているのは、指先だけではなかった。
シロウは返事の代わりに、小さく喉を鳴らす。
――こんなにも、自分の無事を喜んでくれる人間が、かつていただろうか。
(くだらない……と思ってた。心配されることも、優しさも……)
だが、胸の奥で確かに“何か”が、じわりと広がっていた。
痛みではなく、温もりのようなもの。
仁美はもう一度、シロウに目をやった。
その目は、どこまでもまっすぐで、飾り気のないものだった。
「……昨日の夜からずっと怖くて……」
仁美は少し笑って、照れたように視線を逸らす。
その瞬間だった。
窓の外、郵便受けに音が鳴った――カサリ。
仁美が顔を上げる。
「……あれ、何か投函されたかな」
仁美が玄関へ向かうと、シロウも立ち上がる。
その足取りはまだ重く、身体にはかすかに痛みが残っていた。
郵便受けには、手紙一通。差出人不明。封筒に記された文字はたったひとつ。
『観劇のお礼に、次の舞台をご招待いたします』
「なんだろ、これ……」
仁美が封筒の中から取り出したのは、一枚の黒い招待状。
『観劇のお礼に、次の舞台をご招待いたします』
――再び演じなさい。
裏には、差出人の記名も住所もない。けれど、便箋の隅には小さな“仮面”のシンボルが型押しされていた。演劇を象徴するような、笑いと泣きの二つの顔を重ねた奇妙な意匠――。
「……なんか、気味悪いね。演劇関係の何かかな……?」
仁美が戸惑いながら呟いたそのとき。
「……」
無意識に招待状が手から離れた。
仁美の脳裏に“講義室で無理やり演技させられたあの恐怖”が蘇る。記憶の底に押し込めたはずの、“あの異常な空間”の匂い。あのとき聞こえた、拍手の音。
――「さぁ、次は“あなた”の出番です」
微かな声が、耳元で囁かれた気がした。
仁美の手から落ちた黒い招待状を、シロウはじっと見つめていた。
(どういうことだ……A級精霊エチュードは、あの時――俺が完全に、消滅させたはずだ)
神城シロウは黒い招待状を睨みつける。
型押しされた“仮面”の紋様。歪に笑い、歪に泣く、気味の悪い仮面。
(エチュードが消滅しているのならこれはエチュードを装った偽物……)
ちらりと、仁美を見やる。
彼女の手はわずかに震えている。目の焦点がぼやけ、呼吸が浅い。
その脳裏には、既に“講義室の舞台”がフラッシュバックしていた。
(……仁美)
シロウは、にゃあとひとつ鳴いて、仁美の手にそっと額をすり寄せた。
それだけで、仁美の肩がわずかにほぐれる。
「……ごめん。なんか、急に思い出しちゃって……でも大丈夫、大丈夫だから」
仁美は微笑んでみせるが、その声はわずかに震えていた。
(どこの誰だ!!こんな気色悪いことをするのは!仁美を巻き込むことはゆるさねー)
かつての“エチュード戦”とは違う。
奴の亡霊を騙って舞台を演出する者がいるのなら、その幕を閉じるのは俺の役目だ。
小さく唸るように喉を鳴らし、シロウは心の中で言った。
(演劇を続けるってんなら――観せてやるよ、“最強”の幕引きってやつを)
「じゃあ、いってくるね」
そう言って玄関の戸を開けながら、仁美は後ろを振り返る。
廊下の先――座布団の上で丸くなっていた白い猫が、ちらりとこちらを見ていた。
その瞳は、仁美の不安でいっぱいの心を見透かしているようで……仁美は思わず目を逸らす。
「……今日も、なるべく早く帰るから」
小さく呟き、サンダルを履いて玄関を出た。
外は初夏の風が吹いていて、通学路の木々は青々としていた。
(大丈夫。あれは、ただの悪戯……招待状だって、何かの宣伝……そう、たぶん……)
自分に言い聞かせるように歩きながらも、仁美の指先はまだ少し震えていた。
あの招待状を見た瞬間に蘇った、講義室での“舞台”。
心を押し潰すような拍手。台詞を強制された空気。逃げ場のない、あの檻のような空間。
(違う、もう終わったの。あの人が助けてくれたんだもん……)
けれど、あの黒い封筒。あの仮面の印――
――“再び演じなさい”
あの一文が、頭の中で何度もリフレインする。
仁美は深く息を吐き出して、歩調を早めた。
今日は大学の図書館で調べものをする予定だった。できるだけ、人の多い場所に身を置いていたい気分だった。
歩きながら、カバンの中のスマホがふと震えた。メッセージ。
『図書館の予約、システムトラブルで使えないって。午後から復旧予定だってさー by 美香』
(え……)
予定が崩れた瞬間、仁美の心にぽっかりと空白ができた。
「すみません、道を教えて貰えませんか?」
突然の声に、仁美はビクリと肩を震わせた。
振り返ると、そこには真っ黒なコートに黒いマスクをした全身黒ずくめの男が立っていた。