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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

16歳 花の跡

作者: えりざら氏

この物語は、私の人生そのものです。


ぜひ、14歳 花の跡 をご覧になってから読んで頂くとわかりやすいです。


正直、書きながら何度も心が折れそうになりました。

自分の過去と、真正面から向き合うことがこんなに苦しいなんて思ってなかった。

ページを進めるたびに、涙が止まらなくなる日もありました。

「もう無理かもしれない」

そう何度も思いました。


でも――私は書きました。

最後まで書けたのは、夫がそっと背中を押してくれたからです。

「書いていいんだよ。全部、君の人生なんだから」

そう言ってくれたあの言葉が、私を支えてくれました。


これは、私の魂そのもの。

飾らず、逃げず、真っすぐに綴った、ノンフィクションの物語です。

どうか、ページをめくるあなたに、何かが届きますように。


そして、このお話は別のサイトでも過去に書いたことがあります。

私の心をもっとリアルにバージョンアップして

新たに花が咲きます。

16歳 花の跡

施設を退所して、最初はまっとうに働こうと思った。

まっすぐ、生き直そうって思った。

うどん屋で皿洗い、コンビニの日勤もやってみた。

でも…全然うまくいかなかった。


誰も私の過去なんて知らないのに、

どうしても自分が「普通じゃない」ような気がして、

些細な言葉や目線に勝手に傷ついて、

勝手に心が折れていった。


気づけばまた思い出してしまう。

あの夜の渋谷。

お金が簡単に手に入った日々。

選ばれて、求められて、

無価値なはずの自分が、

“価値”を持てたように思えてた世界。


身体を売っていたあの頃のほうが、

早くて、確実で、楽だと感じてしまっていた。


でも――

心のどこかで、わかってたんだ。

戻ったら終わりだってことも。

あそこに帰ったら、

「私」なんて、また失くしてしまうことも。




そんな時だった。

心がくたびれて、何もかも嫌になって、

「もうだめかもしれない」って思った夜。


私は、施設でこっそり連絡先を交換していた亜衣に電話をかけた。


あの頃の仲間。

同じ痛みを知ってる人。


亜衣は、鹿児島に帰っていた。

地元でも馴染めないまま、

仕事を転々として、生きづらさを感じてたという。


「わかるよ、その気持ち。私もずっと、浮いてる感じしてたもん」

受話器の向こうの声が、懐かしくてあたたかくて、

私は泣きそうになった。


「行こうかな、千葉。そっち行ってもいい?」

そう亜衣が言った。


「……来てよ」

私は即答してた。


こうして、亜衣は荷物をまとめて千葉にやってきた。




新幹線でやってきた亜衣と、千葉駅の改札で合流した。


向こうから歩いてくるその姿は、…うん、間違いなく亜衣だった。

茶髪に派手なコート、ジーパン。キャリーケースなんて持ってない。

手にしていたのは小さなバック。

中には、メイクポーチと少しのお金と、たぶん不安。


「亜衣ちゃん。やっぱ顔に“訳ありです”って書いてあるね」

って私が言うと、


「そっちこそ、“夜の街から来ました感”すごいけど?」

って亜衣が返してきた。


二人で顔を見合わせて、ちょっと笑った。

あの頃と、何も変わってない気がした。


「…また会えたね」

「ね」


本当は、思いきり抱きしめたかったけど、照れくさくてできなかった。

だけど心の中ではちゃんと叫んでた。

“来てくれてありがとう”って。


問題は、ここからだった。


私は一度、父の元に戻っていたけど、

その父にこれ以上の心配をかけたくなかった。


だから私は言った。


「今、住み込みで働ける場所があるから、そっち行くね」


…嘘だった。

仕事なんて決まってない。住む場所もない。

でも、亜衣と一緒なら、なんとかなる気がした。


こうして――

私と亜衣の「家出生活」が、始まった。




私はね、施設を出て、変わったと思ってたの。

いや、変われたと思ってた。

前よりずっと前向きで、

もう二度とあの頃みたいな生き方はしない、

もう二度と、あの過ちは繰り返さないって…本気で、そう思ってた。


でも――


人って、

過ちを、繰り返すんだよね。


頭では分かってるのに、

ちゃんとしようって思ってるのに、

目の前の現実に押し潰されそうになると、

“楽なほう”に逃げてしまう。


あのときみたいに。


お金がない。

住む場所がない。

未来が見えない。


そんな中で、“一番手っ取り早い方法”が、私の目の前には、まだあって。

それを知ってしまっている自分が、

一度踏み込んでしまった自分が、

苦しかった。


「こんなはずじゃなかった」

って何度も思いながら、

だけどその“はず”の中にいるはずの私は、いなかった。


繰り返す自分が、

本当に嫌だった。


でも、もっと嫌だったのは――

そんな自分に、慣れていくことだった。




そして、亜衣と私が向かったのは――

新宿、歌舞伎町。


ネオンがまぶしくて、夜なのに昼より明るくて、

あの頃の私たちにはまるで“夢”の国のように見えた。


欲しいものは全部ここにあるように見えたんだ。


お金、

欲望、

美しさ、

そして、強さ。


私たちは、その世界に魅せられた。

まるでガラス玉みたいに、

キラキラしてるくせに、ちょっと触ったら割れてしまいそうな危うさに、

心を奪われた。


亜衣は、早速「こっちの方が稼げるかも」って目を輝かせて言ってた。

私も、胸の奥ではわかってた。

こんなの長く続けられるもんじゃない。

でも――


生きるって、お金がかかる。

夢を見るのにも、お金がいる。

強くなりたくても、まずは、生きなきゃいけない。


そんな気持ちが、私たちをまた“夜の街”に向かわせた。


もう、戻れない。

そう思えば思うほど、深く、深く、夜の奥へと足を踏み入れていった。



私たちは、

身体を、お金に変えて生きていった。


まるで、そうするしか選択肢がないかのように。

まるで、それが当たり前のように。


汚い大人たちは、何も変わらなかった。

買う側の罪悪感なんて、これっぽっちもなかった。

むしろ、満足げに笑って、

「また呼んでいい?」なんて軽々しく言う。


“また呼ぶ”って、なに?

私たちは、人間じゃないの?


そんな怒りも、虚しさも、

すべて喉の奥に飲み込んで、

ただ、お金を握りしめて歩いた。


亜衣と私は、

大人のホテルを転々としながら、

漫画喫茶で小さく眠りながら、

その日をどうにか生き抜いていった。


ホテルの冷たいシーツの上、

シャワーの湿った匂い、

空調の音、隣の部屋の笑い声、

ぜんぶがどこか現実味がなくて、

夢の中にいるみたいだった。


でも、夢じゃない。

これが現実。

これが16歳の私たちの、現実だった。




そしてある日、

私たちはついに“スカウト”された。


歌舞伎町のとある路地、

ネオンに照らされた看板の下、

タバコの匂いが混じる湿った空気の中で、

男は声をかけてきた。


「働くとこ、探してるの?」


亜衣と私は顔を見合わせて、

何も言わずにうなずいた。

それ以上、説明なんていらなかった。


紹介されたのは、ちゃんと“店”を持つ風俗店だった。

裏の裏、みたいな場所ではなくて、

表には出せないけれど、ちゃんと“仕事”がある場所。

決まった待機部屋、決まった接客、決まった料金。


私たちは“アンダー”だった。

16歳、年齢がバレたら働けない、存在ごとアウトな年齢。


だから、身分証は出さず、

「18歳」ってことにして、

年齢のことは一切ふれない約束で。

「自己責任」で。

「わかってるならいいよね?」って言われて。


私たちは、その条件を

“優しさ”だと勘違いしたのかもしれない。


本当は、利用されているだけだったのに。


でも、

毎日ラブホを転々とするより、

道端で知らない男に値段をつけられるより、

ちゃんと“働く場所”があるということに、

少しだけ安心してしまったのも事実だった。


こうして、私たちは、

“夜の世界”に足を踏み入れた。





そして私たちは風俗嬢になった。

お金を得ることは、生きるための最低条件。

1日数万円、週に数十万円。

稼げる。

稼げるけど、何かが毎日すり減っていく。

笑顔も、肌も、感情も、全部どこかに置き忘れていくみたいだった。


そんなある夜、歌舞伎町のネオンの中。

私は店の帰り、夜風に当たりながら歩いていた。


「ねぇ、お姉さん!可愛いね!飲み行かない?」


それはよくあるホストのキャッチ。

正直、うんざりするほど聞き慣れた声のかけ方。

でもその時の彼の声は、なぜか耳に残った。


「……あんた、ホストでしょ?」


「うん、そう。でも、なんか君、寂しそうな顔してるなって思って」


チャラい。でも、目だけは笑ってなかった。

その男が、快斗かいとだった。


茶髪、スーツ、片耳に小さなピアス。

よくあるホストの出で立ちなのに、

なんか、他の男たちとは違う雰囲気があった。


「名前は?」


「……えりこ」


「えりこか。いい名前だね。俺は快斗。よろしく」


それが、私と快斗の最初の会話だった。


軽いノリに見えて、

でも、なんだろう……その夜から、

私の胸のどこかで、快斗の名前が小さく灯り続けていた。




快斗と連絡先を交換した。

メールのやりとりは軽くて、でもどこかあたたかくて、私はすぐに心を許してしまった。

そして、なぜか…私は快斗に年齢のことを正直に話した。


「私、16歳なんだ」

「うん、知ってた」


快斗は驚きもせずに、ただ一言そう返した。

その返しがなんだか不思議で。

もっと引かれると思ってたし、怒られるかと思ってた。

でも、快斗はそれ以上何も言わなかった。


それからというもの、快斗は私をお店に呼ぶことは一度もなかった。

ホストなんだから、同伴とか、売り上げのために呼ぶのが普通。

なのに──彼は違った。


快斗は仕事終わり、いつも私に連絡をくれた。

「終わったよ、会える?」

「ちょっとだけだけど、ご飯行こうか」


朝方のファミレス、コンビニ前のベンチ、公園のベンチ。

どこだってよかった。

彼は私と一緒に過ごす時間を、まるで大切なもののように扱ってくれた。


なにこれ。

私は客でもない、売上にもならない。

それなのに、こんなに優しくされていいの?

って、戸惑いながらも嬉しくて、

毎回快斗に会うたびに、私は少しずつ笑えるようになっていった。


でも、心のどこかで、ずっと思ってた。

どうして?

他にもお客さん、いるでしょ?

もっと稼がせてくれる女の子、いるでしょ?

それでも、どうして──私?




ある日、私は快斗に聞いたことがある。


「なんで、私のことお店に呼ばないの?」


素直な疑問だった。

ホストって、女の子呼んでなんぼの世界でしょ?

私は、快斗の役に立ちたいって思ってた。

好きだから、少しでも力になりたかった。


けど──快斗は、あの、ちょっと抜けたような、子犬みたいな笑顔で、

「だって、えりこはお客さんじゃないでしょう?」

って、ぽろっと言った。


心臓がドクンって鳴った。

嘘みたいに。


お客さんじゃない──

じゃあ、なんなの?

ただの知り合い?それとも…?


それを知りたくて、怖くて、でも言わずにはいられなかった。


「私、快斗のこと好きだよ。すきすきすき。…我慢できないくらい」


快斗は、驚いた顔をした後、

すっと、私の肩を引き寄せて、

優しく、でもしっかりと抱きしめてくれた。


「俺も、好きだよ」


その声はあたたかくて、まっすぐで、

私の全てを包み込むみたいだった。


この瞬間、私は確かに──恋に落ちた。

じゃなくて、もうずっと前から恋してたんだって、わかったの。


でも、それが始まりだった。

恋の甘さと、夜の世界の苦さと、

そのすべてが待っていた──



そして──


快斗との出会いと同じ頃、

私と亜衣の関係に少しずつ亀裂が入り始めていた。


なんていうか…お互い、子どもだったのかもしれない。

プライドが高くて、意地っ張りで、どっちも引けなくて。


ほんの些細なことだった。

たとえば、誰が稼いでるかとか、生活費の分担とか、

どっちが界隈で人気かとか──

どうでもいいようなことで、ちくちく言い合って、

ついに爆発した。


「もういい、知らない!勝手にすれば?」

「そっちこそ!私だってもう我慢してたし!」


言葉にすると、取り返しがつかなくなるってわかってたのに。

でも言っちゃった。


家出して、どっちも逃げ場がなくて、

唯一の「味方」だったはずのふたりなのに、

その関係すら壊してしまいそうだった。


私は快斗のもとに向かい、

亜衣は知らないどこかへ消えていった──


同じ傷を持ったふたりが、

すれ違いの中で、ひとつの節目を迎えた夜だった。



私は錦糸町の風俗店で働き始めた。

理由は、“住ませてもらえる”から。


お店の待機部屋は、何人かの女の子たちと雑魚寝できるような場所だった。

布団を並べて、カーテンで簡単に仕切っただけの空間。

プライバシーなんてものはほとんどなかったけど、屋根があって、鍵がかかって、雨風がしのげる。

それだけで、あの頃の私には十分だった。



快斗のことが、好きだった。

誰よりも、大切で、特別で。

だけど、だんだんと――ほんの少しずつ、心の距離が離れていくのを感じた。


ここは歌舞伎町。

夜の街には、綺麗な人や可愛い人が山ほどいる。

お金をかけて整えている子、何もかもが完璧な子。

そんな中で、私はどこか不安だった。


もっと可愛くなりたい。

快斗が私だけを好きになってくれるように。

ずっと、私を見ていてくれるように。


顔立ちは昔からはっきりしていて、「顔だけは可愛いね」ってよく言われてきた。

その言葉が嫌いだった。

「だけ」って何? 顔“だけ”って、結局、全部じゃないんだ。


施設を出てから、食べる自由を得た私は、少しずつ、またぽっちゃりし始めていた。

鏡に映る自分の体が、日に日に憂鬱を運んできた。

快斗の隣に立つ自分が、ふさわしくない気がして――

私の中で、また「変わりたい」が芽を出した。




私は……一番してはいけないことに手を出した。

薬物。

白い粉。白い悪魔。


それは、すぐそこにあった。

錦糸町のお店で一緒に働いていた女の子──瑠美るみ

とても細くて、まるで折れそうなくらいの体の女の子だった。

あまりにも細くて、肌も白くて、いつも目がどこか虚ろで。


ある日、私がぽろっと言ったの。

「痩せたいなあ……」って。

鏡に映る自分の姿が、快斗の隣にふさわしくないように思えて。

そのとき、瑠美がふわっと笑って言ったの。


「えりこちゃん、痩せたいの?いいものがあるよ」

って。


軽い調子だった。

まるでダイエットサプリをすすめるみたいな感じで。


私は、気づけば首を縦に振っていた。

断る理由よりも、すがりたい気持ちの方が大きかった。




瑠美は待機室の奥の方──

普段は誰も来ない、古びたソファと雑誌が置かれたその隅に私を呼んだ。


「こっち、こっち」って手招きして。


私の胸はどこかざわついていた。

でも、もう後戻りできないところまで来ている気がして。

彼女の前に座った。


瑠美が取り出したのは、小さなコンタクトレンズのケース。

でも中に入っていたのは、コンタクトレンズなんかじゃなかった。

白い粉。


テレビやドラマで見たことのある、あれだった。


瑠美は手慣れた様子で、小さな小瓶にその粉を移す。

瓶の口にはストローが針金で固定されていた。改造された吸引器具。


そして──

瑠美はライターの火を青く灯して、瓶の底を炙り出した。


じわりと、白い粉がふわりと溶け出して、白い煙が瓶の中に立ち上がっていく。


瑠美が、私の目をまっすぐ見て、言った。


「吸って」


その声は、優しくて、どこか誘惑するようで。

私の中の何かが、抵抗する間もなく、手を伸ばしていた。




私は、震える手で瓶を持った。

ストローを口に咥える。

瑠美がライターで瓶の底を炙る。

そして──

白い煙がふわりと立ちのぼるのを、私は吸い込んだ。


深く、深く。


そして──白い煙を吐いた瞬間、

世界が変わった。


パッと、目の前が明るくなった。

まるで、何かに包まれるような光。

頭が軽くなって、視界が冴える。

身体中をビリビリと駆け抜けるような、イナズマのような衝撃。


目の瞳孔が開いていくのが、分かった。

呼吸が浅く、でもどこまでも吸えるような気がした。

身体が──羽根のように軽くなった。


怖いほど、気持ちよかった。


それは、地獄の入口の扉が、優しく開いた瞬間だった。



たった一回、吸っただけ。

それだけなのに、世界が変わった。


あんなに辛かった仕事が──辛くなかった。

ロングのお客さんとの時間も、まるで一瞬のように感じた。

身体が軽い。

頭もクリアで、動きも鈍らない。

笑顔も作れたし、声も出せた。

「また指名するね」

そう言って笑うお客さん。


すごい──これが薬の力。

すごい。本当にすごいって、思ってしまった。


こんなに楽になるなら。

こんなに評価されるなら。

こんなに稼げるなら。


一度だけじゃ、もう足りなくなっていた。

すでに私は、あの白い煙の向こうに救いを見てしまっていた。




仕事が終わって、待機室に戻ると、

瑠美が小さく背中を丸めてかがんでいた。


何してるんだろう?

なんとなくそんな風に思って、私は何気なくその肩越しを覗き込んだ。


──白い煙。あの独特なにおい。

覚醒剤。


あっ、と気づいたときにはもう遅くて、

瑠美はびっくりして振り返った。


「うわっ、えりこ!驚かさないでよ〜!」

と、少し照れたように、でもなんでもないことのように笑った。


その笑顔があまりにも自然すぎて、

まるでそれが“普通”かのように、

まるでそれが“私たちの日常”かのように、

受け入れられてしまいそうになる自分が怖かった。


でも、私も…

今日一日があまりにも楽すぎて、

その“普通”を、もう否定できなかった。


私は何も言わず、ただ瑠美の隣に座った。


瑠美は言った。

「……ね、もう1回吸う?」


私は、ゆっくりと、黙ってうなずいた。



私は完全に、魅せられてしまったの。


白い煙が私の中の何かを塗り替えた。

その日一日、空腹を感じなかった。

その日一日、眠気も、だるさも、痛みすらもなかった。

ただ、身体が軽くて、心が浮いてて、

全部がどうでもよくなるような、全部が平気になるような、

そんな“無敵”な自分になれた気がした。


私は考えた。

もっとやりたい。

もっと、もっと、もっと、もっと──。


その欲求は止まらなかった。


そして私は、ひとつのことを思いつく。

そうだ。

瑠美と一緒に住めばいい。

待機室なんかじゃなくて、ふたりでちゃんとした家を借りれば──


そうすれば、

いつでも薬ができる。

好きなときに吸えて、誰にも邪魔されなくて、

そして、もっと自由に、もっとたくさん──



私は瑠美に言ったの。

「一緒に暮らそう? 家賃は折半。

生活費も折半。どうかな?」って。


それはまるで、同棲の提案みたいな口ぶりだったけど、

私にとっては、もっと現実的な、

“白い煙をいつでも手に入れられる”という打算だった。


瑠美は、少し驚いたように私を見たあと、

「いいよ」って、あっさりと、でもどこか嬉しそうに言った。


瑠美自身、家庭と折り合いが悪くて、

今は店の待機室に寝泊まりしてるような状態だったから。


「ちょうどよかったかも」なんて笑ってた。


そうして、私と瑠美の奇妙なルームシェアが始まった。


それは、ふたりだけの自由な世界だった。

自由で、無敵で、でも――とても危うい世界。



瑠美にお金を渡して、薬をもらう。

そして自分で吸う。

深く、深く吸って、

身体の中に白い煙が広がるたび、

頭がふわっと軽くなる。


それで仕事をこなして。

食べない。寝ない。3日間。

ただ、白い煙と、お金と、夜の世界だけで、生きてる感じ。


でも、それで稼げる。

1日何本も取って、ロングコースも余裕だった。

二人で集めたお金は、たった数日で40万円。


「これなら、いい部屋、借りれるよね?」


そう言って瑠美がケータイを見ながら、

目をキラキラさせて言った。


瑠美は意外とこだわりが強くて、

「絶対にシステムキッチンがいいの」

「新築じゃないと嫌だ」

「オートロックついてるのが絶対条件」って。

なんだか、女の子っぽくて可愛くて、私も笑っちゃった。


そうして内見に行って、決めたのは

錦糸町の駅からすぐのマンション。

高架沿いの道を曲がってすぐの場所にある、

真っ白な壁と、まだ新しいフローリングの部屋。


玄関はオートロック、

浴室乾燥もついてて、システムキッチンも完璧。

ふたりで「ここにしよう!」って決めた。


まるで、ちゃんとした女の子の暮らしみたいだった。

なのに、冷蔵庫の横には…あの小瓶。

ストローが固定された吸引器具。

白い煙の道具たちが、しっかり揃っていた。


見た目は普通のマンション。

でもその部屋は、私たちの現実だった。



そして少し時は遡る。



それは、錦糸町で働くようになる少し前のことだった。


快斗にだんだん会えなくなってきていた。

前は仕事終わりに「今終わったよ」って連絡が来て、

私たちは自然と、朝方の街で手をつないで歩いていたのに。

それが、ぱったりなくなった。


私は…寂しくなった。

心にぽっかり穴が開いたみたいで、

ケータイを見ては通知がないか確かめてしまう毎日。

勇気を出して電話をしてみた。


「最近、忙しいんだよ」

快斗はそう言った。

それは嘘じゃないのかもしれない。

だけど私は、その言葉を信じきれなかった。


だから私は、ついに……

快斗のお店に、行くことにしたの。



店の名前は「ホワイトローズ」。


白を基調とした、静かで洗練された店内だった。

煌びやかというより、どこか落ち着いた、まるでホテルのラウンジのような空間。

歌舞伎町のワイワイした、派手でギラついた雰囲気とは全然違った。


お店の入り口に立ったとき、

私は、なんだか場違いな場所に来てしまったような気がした。

でも、快斗の顔が見たかった。声が聞きたかった。

それだけだった。


快斗が店のスタッフに耳打ちして、

私は年齢確認をすり抜けることができた。

「大丈夫、大丈夫」って、軽くウィンクしてくる快斗に、

私はどこかホッとしながらも、不思議な距離を感じた。


それから私は、ひとりで白いソファに座って、

快斗が来るのを待った。


数分して、彼がやってきた。

いつもの快斗。

だけど、ちょっと違った。


「えりこ、来たんだ」

笑ってるけど、どこか気まずそうで、

私が知ってる“私だけの快斗”とは、やっぱり違う顔だった。


私は、笑って「会いたかったから」って言った。

でも、胸の奥では何かが冷たく沈んでいた。



「なかなか会えなくて、ごめんね」

そう言って、快斗は少しだけ申し訳なさそうに笑った。

「そろそろナンバー入れそうなんだよね」


その言葉を聞いた瞬間、私は口角を上げて微笑んだ。

――ああ、そうなんだ。すごいね。って言わなきゃいけない気がした。

でも、心のどこかで「私のことなんか、もう気にしてないのかも」って

ほんのり冷たい何かが、胸の中に滲んでいた。


そのとき――

店内に、パーンッと弾けるような音楽が流れ出した。

「ごめん、シャンパン入ったから行ってくるね」


そう言うと、快斗はスタスタと、別の席へと歩いて行ってしまった。

その先には、煌びやかなドレスを着た女性が笑顔で待っていた。


私は、その光景をただ、ぽつんと座って見ていた。

白いソファの上で、取り残されたまま。


店内のライトがキラキラしているのに、

私の中には、何の光もなかった。


「会いたかったのに」


喉の奥でその言葉が詰まった。

口に出せなかった。

…出せなかったんだ。



私は黒服を呼んだ。


「あの卓のシャンパン、いくら?」


黒服が少し驚いたようにして答える。


「80万ですね」


私は快斗のほうを見た。

笑ってる。楽しそうに。別の女と。


ぐっと唇を噛んだあと、私は静かに言った。


「……リシャール、お願い。100万でしょ?」


黒服の目が一瞬、泳いだ。


「は、はい……リシャールは100万致しますが…」


「そう。それでいい。リシャール。今すぐ持ってきて」


黒服が目を見開いたまま、慌ただしく動き出す。

ホールがざわつき始める。スタッフが騒ぎ出す。


「リシャール入りますー!!」

クラブ中に響くコール。


パッとスポットライトが私の席を照らした。

店内に派手な音楽がかかり、

高級ボトルを持ったスタッフたちが列を成して近づいてくる。


快斗が振り返った。

その顔に驚きが走る。

私はその視線をしっかりと受け止めた。


「……見て、快斗。100万の女だよ、私」


グラスを手に取り、一口だけ。

口の中に広がるのは、勝利か、虚しさか、よくわからなかった。


でも、これで忘れられることはない。

そう信じたかった――。



快斗は私の方へ戻ってきた。

驚きと戸惑いと……でも、どこか嬉しそうな表情。


その笑顔は、少しだけ照れたような、

でも内心「してやったり」と思ってるのがにじみ出てる感じだった。


「えりこぉ……」

快斗は苦笑いしながら私の隣に腰を下ろした。


「彼女なんだからさ、そんな無理しなくていいよ? 心配になるじゃん」


私はグラスの中の泡をじっと見つめながら言った。


「無理なんかしてないよ? だって快斗、ナンバー入りそうなんでしょ? 応援しなきゃって思っただけ」


「……ほんと、えりこはすごいよ」


快斗がぽつりとつぶやいた。

でもその目は、ちゃんと私を見ていなかった。


お店の中の喧騒、シャンパンのきらめき、

快斗のぬくもり――

全部が夢みたいで、全部が虚ろだった。


私は快斗の隣で笑った。

でもその笑顔の奥で、何かが少しずつ、崩れていく音がしていた。



奥の席――さっき快斗が行っていたあの女。

またなにかオーダーしようとしてるのが、視界の端に入った。


……もう我慢できなかった。

私は静かに、けれど確かな口調で界人に言った。


「快斗……。トラディション、入れて?」


快斗の表情が一瞬で凍った。

目がぱちんと見開かれて、私をじっと見つめてくる。


「えりこ……あれ、130万だよ?」


「うん。さっきのリシャールと合わせて、合計230万だね」


快斗は一瞬、何かを言いかけたけど、

結局「……マジか」とだけつぶやいた。


黒服が気を利かせてすぐに動き出し、

店内に再び、高級シャンパンの入場音が流れる。

ざわつく店内。視線が集まる。

奥の女が、目を細めてこっちを見てた。


私は堂々と笑った。


――快斗の隣にいるのは私。

快斗のNo.1になるのは私。

快斗にとって「特別」であるのは、私なんだ。


その夜、シャンパンの泡の向こうで、

快斗は何度も「ありがとう」を繰り返した。


だけど、私の心には泡のように消えていく不安がひとつ、またひとつと浮かんでいた。




そして、この日からだった。

快斗に会えない日が増えていくたび、

私は自然と、いや――どこか必死に、店「ホワイトローズ」へ足を運ぶようになった。


快斗に会いたい。ただ、それだけだった。

「忙しい」って言葉にすがりながら、

それでも心のどこかで、もう前みたいには会えない気がして。

不安をごまかすように、店のドアを開けた。


会える日は、嬉しかった。

でも、それだけじゃ足りなかった。


「リシャール」「トラディション」

名前だけでざわつくような高級シャンパン、

煌びやかな飾りボトル、ドルフィン、カミュブック、ラーセン、ルイ13世。

黒服が「マジでいいんですか?」と戸惑うほどのオーダーを、私はためらわなかった。


他の女たちに負けたくなかった。

私が快斗にとって特別であるために――

“お金を出せる女”であることが、愛される条件なんだって、信じ込んでしまっていた。


ホストクラブの煌めきの中で、

私は確かに「一番」を感じられた。

でも、同時に、自分のなにかが少しずつ削れていってるのもわかってた。


そのことに、まだ目を逸らしてたの。




だって、わかってた。

私も同じような職業。

この世界の仕組みなんて、いやってほど見てきた。

お金を使わせたぶんだけ、

相手は“自分を手に入れた”気になる。

依存してくる。離れられなくなる。


でも、逆も然りだった。


私もまた、

お金を使えば使うほど、

“快斗は私のもの”って錯覚にしがみついてた。

わかってるのに。

わかってるのに……

もう、ブレーキなんてとっくに壊れてた。


カラン――

高級シャンパンの栓が抜ける音が、

まるで自分の価値を確認する音みたいだった。


「今日もありがとね、えりこが来てくれると本当、頑張れるわ」

快斗が優しい声で言う。

その言葉に、少しでも本音があるなら――

その一点だけに縋ってた。


愛されたい。

ただ、ただ、それだけだった。


だけどこの愛し方が正しいかなんて、

もう誰にもわからなかった。




そして、時は戻る。

瑠美との生活が始まった頃の話。


瑠美は23歳。細くてスレンダーな体型で、どこか影を背負ったような雰囲気のある女性だった。

茶色く染められた髪は腰までまっすぐ伸びていて、手入れの行き届いたロングストレート。

メイクはほんの少し濃いめで、でもそれが不思議と似合っていた。

誰に媚びるでもなく、気だるそうで、それでいて芯の強さを感じさせる。


そんな瑠美と私は、錦糸町の駅近くの新築マンションで、奇妙な共同生活を始めたんだ。



瑠美とダラダラと過ごす時間。


私は、少し躊躇ってから、瑠美にぽつりと言った。


「私さ……彼氏がいるの。ホストなんだ」


瑠美はソファに寝転びながら、私の方にゆっくり顔を向けた。

茶髪のロングがふわっと揺れて、その目は思っていたよりも真剣だった。


「……ホスト?」


私は小さくうなずく。

瑠美は少し黙ってから、煙草を取り出して火をつけた。

細い指先が震えているように見えたのは、気のせいじゃなかったと思う。


「ホストはね、信用しちゃだめ。

……私も昔、本気で信じてた人がいたの。

“お前だけだよ”って毎日のように言ってくれて……

でも気づいた時には、全部吸い取られてた。金も心も体も」


私は何も言えなかった。

ただ、胸の奥で何かがずきんと痛んだ。


「えりこがそうなるとは言わないよ。

でも、覚えておいて。

ホストの“愛してる”は、営業トークでもあるんだから」


私は唇を噛んだ。

瑠美の声は冷たいわけじゃない。

むしろ、温度がある。優しさと経験と、悲しみが混ざったような声だった。


「それでも、好きなんだよね?」


私はうなずいた。

その瞬間、瑠美はふっと微笑んだ。

「……そっか。なら、あとは自分で決めな」


その笑顔が少し寂しそうに見えたのは、

たぶん私だけじゃなく、彼女自身も昔そこにいたからかもしれない。



快斗は……そんな、営業じゃないよ。

私はそう信じたかった。

だって、あの時の笑顔も、手を繋ぐ温度も、

「えりこはお客さんじゃないでしょう?」って言葉も、

全部、嘘には思えなかったから。


本当に、本当に……きっと、私のこと、好きでいてくれてる。

そう思ってた。


だって私はまだ16歳だった。

大人の世界に飛び込んでしまったけれど、

心はまだ、恋に全力で夢中になれる年齢だった。


恋は盲目っていうけど、

その言葉の意味なんて知らなかったし、知りたくもなかった。


わからないことだらけ。

それでも、快斗の言葉ひとつ、仕草ひとつが、

私のすべてを救ってくれるような気がしてた。


それが幻想だったとしても、

あの時の私は、夢の中にいるようなその恋を、

信じたかったし、信じていたかった。





瑠美との生活は、どこか奇妙で、でも心地よかった。

朝方、仕事が終わって帰ってきても、

私たちはほとんど食べなかった。

覚醒剤を使ってるから、空腹なんて感じなかった。


冷蔵庫に入ってる食材も、

賞味期限が過ぎていく一方だった。


でも、そんな生活の中でも、

ソファで隣に座って何気なくドラマを見たり、

音楽を聴いたり、タバコの煙をくゆらせながら

「今日の客、マジ変だった〜」

「それより昨日のあの客、やばくない?」

って、笑い合ったりしていた。


瑠美は優しかった。

私が黙ってても、気づいてくれた。


「えりこはさ、ほんと妹みたいなんだよね」

そう言って、頭をポンって撫でてくれたとき、

私はどうしようもなく泣きそうになった。


血のつながりなんてなくても、

ちゃんと私のことを見てくれる人がここにいた。


壊れてるのかもしれないけど、

でも、壊れた私たち同士だから、

一緒にいられたのかもしれない――そう思った。




でもね。

私は、ひとつだけ――

ずっと瑠美に秘密にしていたことがあったの。


年齢。

私は本当は16歳だけど、

「19歳」ってことにしていた。


だって、風俗で働くには18歳以上じゃないとダメだし、

年下ってだけで、心配されたり怒られたりするかもしれないって

思ってたから。


瑠美には、ただただ迷惑かけたくなかった。

優しい人だったから、きっと止めてくれただろうし、

もしかしたら、一緒に住むこともやめてたかもしれない。


だから黙ってた。

ずっとずっと、心の奥に隠してた。


でも――バレたの。


ある日の夜、「カラオケ行こう」ってなって、

駅前のチェーンのカラオケボックスに入ったの。


受付で、身分証明書の提示を求められて。

瑠美は普通に保険証を出した。

私にも「えりこは?」って言われて。


……凍りついた。

出せなかった。持ってない。偽るものすらなかった。


「え?どうしたの?」

「えりこ……」


私、黙って下を向いた。

ごまかせるような雰囲気じゃなかった。


「えりこ……ほんとの年齢、何歳なの?」


――その瞬間。

空気がピリッと変わったのがわかった。


私は、震える声で答えたの。

「……16歳」って。


瑠美は、しばらく無言だった。

その顔は、驚きとも、怒りとも、悲しみともつかない複雑な表情で。


「……まじかぁ……」って、ぽつりとつぶやいた。


その言葉が、どうしようもなく胸に刺さった。




カラオケボックスを出て、

瑠美は私の手を引いた。

言葉はなかったけど、その手はしっかりしてた。

拒まないでくれた、それだけで少し救われた。


瑠美は早足で歩いて、公園へ向かった。

夜の公園は静かで、人もいなくて――

その奥にあるトイレの個室に、私たちはふたりで入った。


中はちょっと薄暗くて、冷たい空気が流れてた。

でも、なんか安心した。ふたりきりの狭い世界。


「とりあえず、吸おう。ね?落ち着いて」

瑠美が言った。

そして、笑ったの。


いつもの、ちょっと茶目っ気ある笑い方。

本当に……お姉ちゃんみたいだった。


私は小さくうなずいて、バッグから例のケースを取り出した。

あの白い粉の入った、コンタクトレンズケース。

火をつける。煙がふわっと立ちのぼる。


その白い煙を、瑠美と順番に吸い込んで、

深く、深く、肺の奥に流し込む。


肺の中が一気に熱くなって、

身体が軽くなる。


さっきまでの焦りも、怖さも、

全部ふわっとどこかへ飛んでった。


「ね、大丈夫でしょ?」

「瑠美がいるから大丈夫だったよ」

私はぽつりとそう言った。


瑠美は何も言わずに、もう一回、笑ってくれた。


でも私は心の奥で思ってた。

――私は、嘘をついてたんだよ。

――ごめんね、瑠美。


そう思いながら、また白い煙を吸い込んだ。




瑠美は、許してくれた。

私が16歳だったこと、全部バレたのに――

怒鳴られることも、責められることも、なかった。


「バカだなぁ…でも、もういいよ」

瑠美は、そう言って私の頭をぽんぽんって撫でた。

「妹がちょっと嘘ついてただけでしょ?妹には変わりないじゃん」


その一言で、私の胸がぐっと詰まった。

なんでこんなに優しいの。

なんでこんなにあったかいの。


「ごめんね、ごめんね…」って、

私は涙が止まらなかった。


「泣かないの」

瑠美は言いながら、

ポケットからティッシュを出して、私に差し出した。


「大丈夫だよ。えりこはえりこでしょ?

歳なんて関係ないよ。…一緒にいようね」

その言葉に、私は何度もうなずいた。


――また、この人となら、生きていける気がした。

瑠美は、私の闇を知ってもなお、

光で抱きしめてくれる人だった。



そして、2ヶ月が経った頃だった。

体重は30キロも減っていた。

あれだけ丸みのあった身体は、骨ばった姿になっていた。


体重計に乗ってみると、

――43キロ。

夢みたいだった。

あんなに痩せたかったのに、今の私は食べず、寝ずに、稼いで、吸って。

欲しいものはほとんど手に入った。


お金もあった。

通帳に並ぶ数字。

でも、心はどこか空っぽだった。


そんな時だった。

新宿を歩いていると、ひとりのスカウトに声をかけられた。

スーツを着た、若くて細身の男の人。


「ねぇ、お姉さん。店は?決まってるの?」


「もう働いてる」


「そう?じゃあ、薬、興味ない?」

声のトーンが一段下がって、耳元で囁かれた。


一瞬、心臓が止まるかと思った。

私が薬をやっていること、どうしてわかったんだろう。

いや、わかるよね。こんな見た目じゃ。


「…ある」

私は、正直に言った。


スカウトの男はスマホを取り出して、ある番号にかけた。

「今、ひとり紹介するから」

そして私は、売人と呼ばれる男に出会った。


それが、どんどん深くなる沼の入り口だった。



紹介された売人は、見るからに異国の雰囲気をまとった男だった。

肌は浅黒く、背は高い。

イラン人……なのかな、たぶん中東系。

名前なんて覚えてない。もともと名乗ってもいなかった気がする。


「オネエサン、マイニチツカッテル?」


片言の日本語。

でも要点は押さえてる。

私は黙って頷いた。


「1グラム、2マンゴセン。トクベツ、トモダチダカラ」


思わず目を見開いた。

破格だった。

今まで瑠美から分けてもらってたのは、0.3gで1万円。

それでも十分だったのに、この男は、その倍以上を半額以下で渡してくれる。


「買う」


私の口から自然にその言葉が出た。

売人は「イマ?アリマス」と言って、ズボンのポケットから小さなビニール袋を取り出した。

本当に小さな、でも中には、あの見慣れた白い粉。

キラキラとした結晶のように見える、白い悪魔。


私は財布から2万5000円を取り出して渡した。


「マタ、ツカッタラ、コールシテ。イツデモオケ」


そう言って彼はスマホの番号が書かれた紙切れを渡してきた。

私はそれをそっとポケットにしまった。

簡単に、深く、抜け出せない場所へと、また一歩進んだ瞬間だった。



買ってから、まっすぐ家に帰った。

瑠美はソファに寝転がってスマホをいじっていた。


「ねぇ、見て…」

私はポケットから、さっきのビニール袋を取り出して見せた。


「え?それ……」

瑠美が起き上がる。「どこで手に入れたの?」


「スカウトのツテ。やばくない?1グラムで2万5千円だよ。分けよう?」


「マジで…?安すぎるっしょ。ほんとに大丈夫なやつ?」


「試してみる?」


私は例の小瓶とストローのセットを取り出して準備した。

ライターの青い炎でゆっくり炙る。

結晶が溶けて、ふわりと白い煙になる。

私は先に吸い込んだ。


――ビリッとくる、脳が走る。

「やばい…上ネタすぎる……」


瑠美にも渡すと、慎重に煙を吸って、すぐに目を見開いた。

「うわ、なにこれ……マジもんじゃん……やば、やばすぎるって……!」


2人で笑って、叫んで、踊るようにソファの上を転げ回った。

まるで世界の中心にでもいるみたいに、気持ちよくて。

軽くて、全部忘れられて。


「これが……2万5千円?」「やばい…これ、5日分は持つね……」


笑いが止まらなかった。

瑠美は私の肩を抱いて、こう言った。


「ねぇ……あたしたち、最強のコンビじゃない?」


「うん……絶対、負けない」


だけどそのとき、私たちはまだ知らなかった。

それが、もっともっと深くて抜けられない底なしの沼への入口だったってこと。




私は痩せて、頬のラインはシャープになり、目元はくっきりと際立ち、

もともと綺麗だとよく言われていた顔立ちは、

その痩せた身体と相まって、まるでモデルのようだと噂されるようになった。


風俗店では一気に人気が出た。

私は、ナンバーワンになった。

予約は途切れず、常連もつき、ランキングにも毎回載る。


「えりこさん、予約いっぱいです!いつ休みますか?」

スタッフの声に私は笑って答えた。

「ううん、休まない。いけるから。大丈夫だから」


だって、覚醒剤がある。


眠気は来ない。

食欲もない。

何も感じない。

ただ、淡々と仕事をこなしていく。

その中で、毎日のようにお金が積み上がっていく。


部屋には札束が雑にまとめられて置かれていた。

もはや数えることもしていなかった。


でも……使う量が、増えていった。

1日に10回だった吸引は、20、30回と増え、

もはや、朝も昼も夜も関係なかった。


身体はいつもビリビリしてる。

瞳孔が開ききって、鏡を見ても自分じゃないみたいだった。


けど、それでも私は、止まらなかった。

止まる理由がなかった。

止まれる場所なんて、もうどこにもなかったから。




それでもたまに、実家にいる父が心配で、ふらっと会いに行くんだ。

駅から少し歩いた先の、少し古びたけれどあたたかみのある一軒家。

玄関のドアを開けると、木の床が軋む音と一緒に、懐かしい空気が迎えてくれる。


「おお、えりこ!久しぶりだな」

父は相変わらず、私の顔を見て笑ってくれる。

でもその笑顔の奥、目だけが少し曇っているのがわかった。


「痩せたな!ちゃんと食べてるのか?」

そう言って、私の大好きだったカレーライスを作ってくれた。

じゃがいもはホクホクで、にんじんの甘み、少し辛めのルー。

ずっと変わらない、父の味。


だけど、今の私にはその匂いが重すぎた。

覚醒剤で空腹の感覚は消えて、むしろカレーの匂いに思わず嘔吐きそうになる。


それでも私は言った。

「うん、美味しい……やっぱこれだよね」

無理に笑って、スプーンを口に運んだ。

一口ごとに、胸の奥がぎゅっと痛くなったけど、

父の前では、絶対に吐き出したくなかった。


「よしよし、元気そうでよかった」

父はそう言って、私の頭を優しく撫でてくれた。


「また来るね」と言って家を出たけれど、

玄関のドアを閉めた瞬間、涙がぽろぽろこぼれた。


なのに──

私はまた街に戻る。

薬と嘘と静かな地獄がある、あのマンションに。

自分でも、もう止まれないとわかっていた。




そしてそんな生活を続けて、1年と少しが経った頃──

私は18歳の誕生日を迎えた。


覚醒剤の反動で、私は3日間も眠り続けていた。

身体はだるくて、まぶたも重い。

でも、あたたかい匂いと、夜の淡い月の光が、私を揺り起こした。


「えりこー!起きて!ハッピーバースデー!!」


目を開けると、瑠美が笑顔でロウソクのついた小さなケーキを差し出していた。

ゆらゆらと揺れる火が、部屋の中をほんの少しだけあたたかく照らしていた。


その隣のテーブルには、箱を開けたばかりのピザ。

私の大好きな、プルコギピザ。

デリバリーしてくれてたらしい。

匂いだけでちょっと胃がムカついたけど、

それよりも、胸がぎゅっとなった。


「もー、あんたずっと寝てたじゃん。誕生日なのにー!ケーキ溶けるとこだったし、

ピザも冷めちゃうし!」


そう言いながらも、楽しそうに笑う瑠美。

髪はボサボサで、スウェットのまま。

でもその笑顔は、ほんとうに優しかった。


「ロウソク、吹き消してよ」

「え、私もう18だよ?…てか、吹き消すって(笑)」


「いーから早く!今くらいちゃんと祝わせてよ、バカ妹!」


私は苦笑いしながら、ちょっとだけ息を吸って、

小さく「ふっ」とロウソクを吹き消した。


その一瞬、

なぜか胸がいっぱいになって、

涙が出そうになった。


「ありがとう、瑠美…」

心からそう言ったんだ。



18歳。という節目に、私は少しだけ立ち止まって考えた。


白い煙の中で麻痺していた心が、ほんの少しだけ正気を取り戻したのかもしれない。

ふと、快斗のことが頭に浮かんだ。


──ディズニーランドに行った日。

私はミニーのカチューシャをつけて、はしゃいでいた。

スマホの写真フォルダを見返すと、写ってるのは私の満面の笑顔。

快斗はどれも、どこか冷めたような表情をしていた。

私だけが、楽しそうだった。


──快斗の実家に行った日。

「実家に遊びに行こうよ」と言われて、胸が高鳴った。

恋人として紹介してくれるのかな、なんて思ってた。


でも、着いたのは静かな郊外の家。

通されたのは快斗の部屋だけ。

外の音はするのに、家の中の誰とも会わせてもらえなかった。

お母さんも、お父さんも、何も言ってこない。

それどころか、在宅してたのかどうかもわからない。

結局、ずっと快斗の部屋で過ごして、帰った。


──あれは、何だったんだろう。

私は「彼女」じゃなかったのかな。

なんで紹介してくれなかったんだろう。

都合のいい存在だったのかな。

私がホストクラブで金を使う女だったから?


疑問が、波のように押し寄せてきた。

今までは「好き」の気持ちで蓋をしてたけど、

その蓋が、少しずつ浮いてしまいそうになっていた。




瑠美がデリバリーしてくれた、私の大好きなプルコギピザ。

チーズがとろけて、あまじょっぱいタレがしみてて、本当に美味しかった。

思わず「おいしい……」って声が漏れた。


「でしょ?熱いうちに食べなよ」って、瑠美が優しく笑った。


そんな優しさにほっとして、私はぽつりとこぼした。


「最近、快斗からの連絡がさ……3日に一回の、3分くらいの電話だけなんだよね」


瑠美は手を止めて、「うん」って短く頷いた。

私はピザをもう一口食べながら、続けた。


「前はさ、仕事終わりに会ってくれてたのに……

LINEもいっぱいしてくれてたし……。

でも今は『ごめん、寝るね』とか『忙しかった〜』とか、そればっかでさ……」


ピザはちゃんと美味しかったのに、

心の中にじわじわ冷たいものが広がってた。


「なんかもう、信じられなくなりそう……」って

その言葉が口から出た瞬間、

瑠美は黙ったまま、私をじっと見つめてた。


「えりこ、それ、ちょっと危ないよ」


静かな声でそう言った瑠美の目は、真剣だった。


私は無理やり笑ってみせたけど、

心のどこかでは、気づいてた。


もう、あの頃の快斗じゃないかもしれないって。

「俺も好きだよ」って言ってくれた、あの夜の快斗を

信じきれなくなりそうな自分がいた。




「瑠美………わかってる…。私、最近、お店行ってない。だから…連絡が少ないことも…」

私はピザの箱を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。

どこか納得しようとしてる、自分の声だった。


瑠美はなにも言わなかった。

でもその沈黙が、逆に優しくて苦しかった。


私は深く、ため息をついた。


そして、そっと左手を見た。

中指に光る、細いシルバーのリング。

前にホワイトローズに行ったとき、快斗が「指に合うかな」って言ってくれた指輪だった。


「お金ないくせに〜」なんて冗談まじりに言った私に、

「えりこが喜ぶなら安い買い物だよ」って、笑ってくれた快斗。


あの時の快斗の笑顔が、ふっと頭に浮かんだ。


でも…

今の快斗は、もうそんなふうに笑ってくれない。

3分の通話、そっけないメール。

それでも、私はこの指輪を捨てられなかった。


希望みたいに、すがりつくように、

「好き」って気持ちだけが、私を立たせていた。


「バカだよね、私」

指輪を見つめたままつぶやいた。


「ううん、バカじゃないよ」

瑠美がそう言ってくれた声だけが、今の私を支えてくれてた。


私は唇をギュッと噛みしめて、心の中で何度も自分に言い聞かせた。

もう限界だった。

このまま待ってるだけじゃ、何も変わらない。


「……私、快斗に電話かけるよ」

私は自分にそう言いながら、ホワイトローズの番号をタップした。

だって快斗に電話したって出ないわかってるから…


プルルル…

心臓の鼓動が、コール音にかぶさる。

出るな、出るな、でも出て…

矛盾した願いが渦を巻く。


「お電話ありがとうございます。ホワイトローズです」

低くて落ち着いた、聞き覚えのある黒服の声。


私は小さく息を吸って、

「快斗……いますか?」と、少し震えた声で聞いた。


一瞬の沈黙。

そのわずかな間に、何百もの不安が頭の中をよぎった。


「……少々お待ちください」

電話の向こうで空気が動いた。ざわつきの中に、微かに音楽が流れていた。

ホワイトローズの、あの白くて静かな空間の喧騒が、電話越しにも伝わってくる。


私は手のひらに汗をかいて、ケータイを強く握った。

今、快斗が、あの女の子の横にいたらどうしよう。

……出ないで。そのくせ、出て。

その狭間で私は揺れていた。




「もしもし、快斗です」

その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅうっと締めつけられた。

変わらない、優しくて、ちょっと眠たそうな声。


「快斗……私だよ」

震えるように、でも確かに名前を呼んだ。


「えりこ??」

驚いたようなトーン。でも、どこか少しだけ、懐かしさを含んだような響き。


「なんで…声だけでわかるの……」

言葉にしたとたん、涙がにじんできそうだった。

嬉しいような、不思議な気持ちが胸の中に広がっていく。


「そりゃわかるよ。どうした…?」

快斗の声が、優しく私の鼓膜に触れる。

それだけで、少し、心があたたかくなった。


だけど——

言わなきゃ。

このままじゃ、私はまた置いていかれる。


「快斗……最近、ずっと会ってないよね」

私は、できるだけ強く、でも責めないように言った。

「3日に1回、3分の電話だけじゃ……足りないよ」


少し間が空いた。

その沈黙が、怖かった。



沈黙の中、私はまた言った。

「ねぇ?私のこと本当にすき?」


めんどくさい質問だって、わかってた。

答えがどうであれ、重たくなるって知ってた。

でも、それでも…聞かずにはいられなかった。


快斗は少し黙っていた。

その沈黙が、答えみたいで怖かった。


私は言った。

「……本当は別れたいんじゃない…?」


言った瞬間、心臓がギュッと縮こまった。

自分の口から出たその言葉に、自分自身が傷ついた。


電話の向こう、少しの沈黙のあと──

快斗は、小さく、けれどはっきりと息を吐いた。


「……うん」


その一言は、あまりにも静かで、

だけど確実に私の世界を割った。



胸が裂けるくらいに痛かった。

でも、泣きそうになる声を抑えて、私は無理やり明るい声を出した。


「だよね。そんな気がしてたの。わかった。

別れよう」


明るく言ったつもりだったけど、声が少しだけ震えてた。

快斗は沈黙のあと、小さく「ごめん」とだけ言った。


沈黙がまた流れる。

でも私は逃げたくなかった。終わらせるなら、ちゃんと終わらせたかった。


「快斗…最後に聞かせて?

どこからどこまでが嘘で、どこからどこまでが本当だった?」


本当は聞きたくなんてなかった。

でも、聞かずには前に進めなかった。



快斗は、少しの沈黙とため息のあとに言った。




「最初から最後まで、全部嘘だよ」





胸の奥が凍りつくような感覚だった。

でも私は、なぜかその瞬間、涙も出なかった。

代わりに、どこか遠くの誰かみたいな声で答えてた。


「そうかぁ……。わかった。ありがとう」

声が震えないように気をつけて、無理にでも笑って言った。

「楽しかったよ。本当に、本当に好きだった」


電話の向こうで、快斗は何も言わなかった。

その沈黙すら、私にはもう答えだった。



でもね、電話を切ろうとした時、

快斗が小さな声で言ったの。


「……幸せになってね」


その言葉が――

ズルくて、あまりにも優しくて、

今さらそんなふうに言わないでよって、

言葉にならない何かが込み上げてきた。


泣きたくない、泣きたくない、って思った。

だから私は、

泣き出す前に、

「ありがとう」も言えないまま、電話を切った。


ぷつんと音がして、

それで、本当に終わった。



そうして、終わったの。

私の――トータル5000万の恋。

お金も、時間も、心も、体も、全部全部捧げて、

それでも最後に残ったのは、「幸せになってね」っていう、優しさみたいな皮をかぶった、残酷なひとことだけ。


しばらく私は動けなかった。

ただ静かに、電話を見つめてた。

声も出なかった。涙も止まってた。

心が、どこか遠くに行っちゃったみたいで。


でも――

ふと顔を上げたときに、そこには瑠美がいた。

黙って、私を見てた。

そして、なにも言わずに、ただ両手を広げてくれた。


私は、その腕の中に飛び込んだ。

もう限界だった。

強がるのも、我慢するのも、全部ムリだった。


「るみ……っ……ぐすっ……わたし……バカだよね……」

子供みたいに泣きじゃくった。

しゃくりあげながら、涙でぐちゃぐちゃになりながら、

瑠美の胸に顔をうずめて、ずっと泣いた。


瑠美は、背中をぽんぽんしながら、

「大丈夫。泣いていいよ」って言ってくれた。

それだけでよかった。

それだけで、少しだけ――息ができた。



それから、私は変わった。

いや、変わるしかなかった。

もう、誰かに心を明け渡して傷つくなんて、まっぴらだった。


奪われるくらいなら、奪ってやる。

そう決めたの。

恋なんて、信じない。

愛なんて、都合のいい言葉だって。


私は、自分の見た目と器用さを武器にして、

何人もの男と付き合った。

同時進行なんて当たり前。

ひとりが途切れたら、またひとり。

それくらいじゃ、心なんて動かない。


「ねぇ、君のこと本気で好きだよ」

そんな言葉を聞いても、笑って流すだけだった。

だって知ってるもん。

そう言うときの男の目は、本気じゃない。

欲望と、執着と、所有欲が混じっただけの目。


むしろ、私はそうやって言わせるのが快感になってた。

言わせて、試して、飽きたら捨てる。

どこか壊れた恋愛ごっこ。

でも、その方が安全だった。

本当の恋なんて、もういらないって思ってた。


瑠美にも、「最近、また顔つき変わったね」って言われた。

でも私、笑ってごまかした。

「ねぇ、誰が一番ハマると思う?次」なんて冗談混じりに聞いてみせて。


そうやって私は、誰にも心を触れさせずに生きる術を、覚えていった。



痩せてさ……

鏡を見ると、自分じゃない誰かがそこに立ってるみたいだった。

シャープになった頬、鋭くなった目元。

周囲の男たちが、私を見る目も変わった。


「キレイになったね」

「マジでタイプ」

「えりこみたいな子と付き合えるなんて夢みたい」


そんな言葉、山ほどもらったよ。

でもね、全部、虚しかった。

だってその“キレイになった私”って、

覚醒剤で食わず、寝ず、ボロボロになってやっと作り上げた偽物だった。


どこかでずっと思ってた。

これ、本当の私じゃないよ。

けど、薬をやめたらまた太るかもしれない。

魅力を失った私なんて、誰も振り向かないかもしれない。

そんな恐怖が、私を縛りつけてた。


そしてみんなが愛してくれるのは、

“痩せてて、綺麗で、笑顔で応じる私”。

でも、その笑顔の裏には、眠れない夜と、乾いた心が隠れてるの。


薬を吸ってるときだけ、世界が少しだけ優しかった。

でもそれは全部、幻。

幻の世界で、私は幻の愛を演じてたんだよね。





そして、私はスカウトのツテで、

もっと稼げるという風俗店、イメクラに移ることになったの。


そこは制服系のコスプレだったり、ちょっと特殊なプレイをするお店。

メニューも細かくて、料金も高くて、稼げる額が全然違った。

一回のプレイで、前のお店の倍近くが手元に残る。

「これでまた稼げる」

そう思った私は、どんどん出勤を増やしていった。


でも……その分、身体の消耗も激しくなった。

薬がないと出勤できない、笑えない、動けない。

それでも、「笑顔でお願いしますね〜」って言われれば、

鏡の前で口角を無理やりあげて、アイラインを引いた。


「かわいい」「若い」「やば、めっちゃタイプ」

そんな言葉の裏に、

**“お金払ってるから好きにしていい”**っていう目が見える時もあった。


痛みを飲み込んで、記憶を飛ばすように薬を吸って、

私は「えりこ」じゃない「誰か」として、また今日も稼いだ。



お客さんがシャワーに入ってる間、私は指定された制服に着替える。

吊革のついたハンガーラック。ラジカセから流れる「ガタンゴトン」。

最初は滑稽だったこのセットも、今では何も感じない。


制服の襟を整える手も、鏡に映る自分を見る目も、

どこか他人事みたい。

「はいはい、今日もこれね」って、心が言ってる。

慣れてしまったんだよ。

この空気も、この役割も、この仕事も。


シャワーの音が止まっても、鼓動は静かなまま。

最初のころの震えは、もうない。

あるのは、ただ流れる時間と、無感覚な自分。


目隠しをされたその瞬間、

私はもう“私”じゃなくなる。

ただの道具。ただの商品。ただの誰かの妄想を叶える存在。


だけど、それが今の私の“日常”だった。



でも、その代償としてもらえるお金は――

1日で、数十万円。


笑っちゃうくらい楽だった。

身体に染みついたルーティン、割り切った心、

演じることに慣れた私は、ただ“仕事”としてこなしていた。


そして、私はその店でもナンバーワンになった。

太客はどんどんついて、指名も取れて、

気づけば雑誌の撮影や取材まで来るようになっていた。


信じられなかった。

昔の私が、こんなふうに脚光を浴びるなんて。

あのボロボロだった私が、雑誌の1ページを丸ごと飾る日が来るなんて――

思ってもなかった。


カメラマンに「もう少し笑って」と言われ、

つくった笑顔でシャッターが切られるたび、

「はいはい、これでまた売れるね」って、

どこか冷めた自分が心の奥で囁いていた。


誇らしさと、むなしさが入り混じる。

スポットライトを浴びてるはずなのに、

私の影はどんどん濃くなっていく気がした。



さらに、AVのお誘いまであったの。

「えりこちゃんなら絶対売れる」って、甘い言葉で何度も何度も勧誘された。


さすがに、それは……怖かった。

カメラの前で、知らない人に裸を晒すこと。

それが一生、ネットに残るかもしれないってこと。

頭ではわかってる。

でも――


「一回だけなら……」って、心のどこかで思ってしまった。


なにより、もう私は壊れかけてた。

“愛されるふり”と“お金をもらうこと”の境界線なんて、

とうに自分の中で曖昧になっていた。


撮影当日。

照明が眩しくて、

スタッフの笑い声が遠くに響いて、

私はただ、脚本通りに演じた。


本当に「演じた」だけだった。

心なんてそこにはなかった。

ただ、終わったあとに、ぽつんと残ったのは――

誰もいない控室の鏡に映る、自分の顔だった。


「……何やってんだろ、私。」


そう思った。

でも、涙は出なかった。

もう泣く場所も、泣く理由も、自分でもわからなくなっていたんだ。





そして、いつものように個室の待機室で、私は覚醒剤を吸った。

あの改造された小瓶に、ライターの青い火を灯して。

白い煙が立ちのぼる。

私はそれを、慣れた動作で深く吸い込んだ。


カチリ、と何かが切り替わる音がして――

ふわりと、軽くなる。


けれど、その日は違った。

吸って数分もしないうちに、

急に、足が……ガタガタガタ、と震えだしたの。


最初はただの寒気だと思った。

でも違う。

膝を抱えていた身体が、勝手に動く。

痙攣するように、細かく、止まらなくて。


「……え……?」


声が震える。

足先から太ももまで、硬直するように強張って、

心臓がバクバクと暴れだす。

寒くないのに、冷や汗が背中をつたった。


“やばい”

その言葉が脳内をぐるぐると回った。


慣れたはずの、あの白い煙。

それに私は、完全に、呑まれていく。



わかってた。これは中毒症状。

足の震えも、心臓の動悸も、吐き気も、全部。

それでも私は吸ってた。

やめられなかった。やめたくなかった。


最近は……幻覚まで見るようになっていた。

目を閉じたはずなのに、映像が浮かぶ。


横になっていたとき、私は見た。

自分の周りを……ピエロが歩いてるの。

真っ白な顔に、真っ赤な口。

ひび割れた仮面みたいに笑って、ぐるぐる、ぐるぐる、私のまわりを歩いてる。


怖かった。でも、もっと怖いのは――

それに慣れてきてしまってる自分だった。


「また……来たな」

なんて心の中でつぶやいた。

ピエロは返事をしない。ただ笑ってるだけ。

私はそれを見ながら、ただ横になってた。


こんな日々を、何日過ごしたのか、もう思い出せない。

でも――確実に何かが壊れていってた。



そしてね、ある日、瑠美が意気揚々と言い出したの。


「私、出稼ぎ行ってくるよ!話によると、1日20万とか余裕らしくて。京都のほう。」


そう言って、キラキラした目で語ってた。

スカウトされたらしくて、向こうにいい店があるんだって。

「すごいよね、なんか…夢あるよね」って、笑ってた。


私は内心、「そんなうまい話…?」って思った。

でも、何も言わなかった。

だって、瑠美も生きてる。自分の意思で選んで、動いてる。

それを止める権利なんて私にはない。


だから私は、小さく頷いて、見送ることにした。


「気をつけてね」

「うん、大丈夫だよ。すぐ戻ってくるし」


そう言って、瑠美はリュックひとつで家を出て行った。


その背中、なんだかいつもより小さく見えたんだよね――

なのに、私は何も言えなかった。

胸の中が、ざわざわしたまま、ドアが閉まる音だけが残った。




そして、瑠美が出稼ぎに行っても、

私の日常は何ひとつ変わらなかった。


また朝が来て、夜が来て、

私はお客さんの相手をする。

肌を寄せ合い、心を売る。


色恋なんて、もう当たり前だった。

嘘なんて、呼吸みたいなもの。


お客さんが欲しい言葉なら、いくらでもあげる。

「愛してる」

「あなたしかいない」

「頼りになる男性ね」


どれもこれも、よくあるセリフ。

けど、それを言えば財布の紐が緩むのもわかってる。


あぁ、滑稽だなって思う時もあったけど、

そんな私自身が一番滑稽だって、ちゃんとわかってた。


でも…生きるって、そういうことだった。


誰かの欲しいものを与えて

その代償に、お金をもらって

またそれで、自分を繋ぎとめてる。


まるで、ガラスの人形みたいに。

ちょっとでも揺れたら、粉々に砕けそうな私を――。




そして、瑠美が出稼ぎに行って2日目の夜。

部屋の片隅で、私は膝を抱えながら煙草を吸っていた。

静かな待機室。テレビの音もつけてない。

ただぼんやりしてた時、ちゃらりちゃらり、と鳴った着信音。


画面に映るのは「瑠美」の名前。

すぐに電話に出た。


「瑠美?どうしたの?」


電話越しの向こうからは、

くぐもった嗚咽と、しぼり出すような声が聞こえた。


「ここ……ひどいよ……」


「え?どういうこと?」


「本番……強要されるの、当たり前で……

 それに、イソジンもローションも、グリンスも、何にもないの……」

泣きながらそう言う瑠美の声が、震えてた。


私は思わず立ち上がって、

「は?意味わかんない……何それ?お店なの?ちゃんとしてないじゃん!」


「ううん、アパートの一室……。客が、順番に来るの……」

「私、怖いよ……」

その声は、あの明るくて強い瑠美の声じゃなかった。


私は唇を噛んでいた。

心臓がズキズキ痛くて、何もしてやれない自分が悔しかった。




「そんな不衛生で……病気になっちゃうよ」

私は声を震わせながら言った。

目の前がぐらぐら揺れるような感覚。

それでも、電話の向こうの瑠美を思って、必死に声を出した。


「怪我とかは……してないの?」

絞り出すように、そう聞いた。


少し間があって、瑠美のか細い声が返ってきた。


「……少し……」


その言葉で、頭の奥でブチッと音がした気がした。

目の前が一瞬にして真っ赤になった。


「は!?ふざけんなよ……何それ……!

 早く帰ってきて!!!!!」

私は叫んでいた。

声が震えて、息が上ずって、手も震えていた。


「そんなとこにいる必要ないよ!

 帰ってきてよ、お願い……」


瑠美はすすり泣きながら、

「……うん……帰る……」と答えてくれた。


私は電話を切ったあと、

手に持ってたケータイを胸に抱きしめて、

そのまま床にへたり込んだ。


悔しくて、怖くて、

でも一番強かったのは――

心から、瑠美に無事でいてほしいって気持ちだった。




電話を切ったあと、私はすぐに売人に電話をかけた。

頭が痛くなるくらい、ぐちゃぐちゃな気持ちだったけど、それを一瞬でも和らげる方法は――もう薬しかなかった。


「もしもし、10gお願い」

できるだけ平然を装った声で言う。

手は震えてた。


電話の向こうで、あの独特なカタコトの声が返ってくる。


「ニジュウゴマンエーンヨ! タイキン、アル?」


私は喉を鳴らして、少しだけ間を置いた。

財布にはまだこの前の稼ぎがあった。

手持ちだけでもなんとかなる。


「あるよ。今から行く」

そう言って通話を切る。


それが、瑠美のためになるのか、自分のためなのか、もう分からなかった。

ただ、あのときの私には“それ”しか頼れるものがなかった。

薬があれば、泣かないで済む。

薬があれば、瑠美を守れるような気がした。


――本当は、全部、間違ってた。


けどその時は、それしか、信じられなかったんだ。




売人から薬を買って、私は急いで帰宅した。

マンションの部屋に戻ると、がらんとした空間がやけに広く感じた。

カーテン越しに差し込む夕陽が、部屋の白い壁に赤く影を落としていた。

その光景が妙に不安を煽った。


薬はすぐには使わなかった。

今はそれよりも、瑠美の帰りを待つことが最優先だった。

ソファに座って、膝を抱えて、ただひたすら時間が過ぎるのを見ていた。

時計の針が進むたびに、胸の奥がざわざわと音を立てた。


そして数時間後――


「カチャ」

玄関のドアの鍵が回る音がした。


私はハッと立ち上がって、玄関の方へ走った。

「瑠美!?」


そこにいたのは、ボロボロの瑠美だった。

髪は乱れて、メイクも落ちて、目の下には大きなクマ。

何より、心が折れそうなほど、顔に力がなかった。


「……えりこ」

そう言っただけで、瑠美は力なくその場にしゃがみ込んだ。


私は何も言わず、瑠美のそばにしゃがみこんで、抱きしめた。


「よく……帰ってきたね……」


瑠美の体は細くて、痩せこけていて、熱も少しあった。

その身体から伝わってくる震えは、寒さじゃなかった。

恐怖と、絶望と、限界が、全部混ざっていた。


私は涙が出そうなのをこらえて、ゆっくりと背中を撫でた。


「もう、大丈夫だよ。ここにいればいい。全部、もう終わったから」


そう言いながら、自分にも言い聞かせてた。

“もう、終わったから”って。


でも、本当は――

終わりなんて、まだ遠かった。



瑠美を抱きしめたまま、私は小さな声で言った。


「……たくさん買ったよ」


玄関の横にあるテーブルには、売人から買ったばかりの白い悪魔が入った袋が置かれている。

私がその袋に目をやると、瑠美も視線を追って見つめた。


彼女は少し涙を浮かべながら、ふっと微笑んだ。


「すごいね……ありがとう。吸おう」


私はうなずいて、引き出しから吸引器を取り出した。

それは小さなガラスの瓶のようなかたちをしていて、

上部に細いストローが針金で固定されている。

まるで手作りのおもちゃみたいな、でも確かに狂気の道具。


瑠美が慣れた手つきで、瓶の中に白い粉をほんの少し落とし入れた。

そして、青いライターの炎を瓶の底にかざす。


しゅわっと音を立てて、粉が熱で溶けていく。

瓶の中には白く淡い煙が立ちのぼり始めた。


瑠美はそのストローに口を近づけて、

煙を深く、深く吸い込んだ。


「……はぁ……」


大きく吐き出したあと、彼女はソファに沈み込むように倒れ込んで、

ぽつりとつぶやいた。


「……やっと、帰ってきたって感じ……」


私は黙ってうなずいて、吸引器を手に取った。

瓶の中にはまだ煙が残っていた。


私もストローに口を当てて、ゆっくりと吸い込む。

白い煙が喉を通って肺に入る。

瞬間、世界が開けたように思えた。


瞳孔が開いていくのがわかる。

鼓動が一気に高鳴る。

思考が冴えわたって、でも現実は霞んで、

身体の輪郭がぼやける。


また、ここに来てしまった。

また、逃げてしまった。


ソファに横たわる瑠美と私。

何も話さず、ただ、同じ方向を見ていた。


「えりこ……」


瑠美がぽつりと言った。


「……逃げ場って、ここにしかないね」


私は返事をしなかった。

できなかった。


ただ静かに、彼女の手を握り返した。

この歪な絆だけが、今の私のすべてだった。





瑠美は、ゆっくりと話し始めた。


「……あの客、本番を強要してきたの」


私は黙ってうなずいた。

それがどれほど怖かったか、想像するだけで胸が締めつけられる。


「断ったんだよ?だって、ヘルスなんだもん。なのに……」


そう言って、瑠美は肩に残る青アザをそっとめくって見せた。

痛々しいその痕に、言葉を失った。


「殴られたの。蹴られて……。

店の人に言ってもさ、"暗黙のルールだから"って……」


「そんなのおかしいよ……」


私は震える声で言った。

それでも、彼女はかすかに笑った。


「ね、えりこ。

やっぱり私たち、間違ったところに来ちゃったのかもね」


私は何も返せなかった。

薬の煙と、金の匂いと、痛みと、悔しさが混じったこの世界。


でも、今はただ――

瑠美のそばにいること、それだけを選んだ。


彼女の手を取って、ぎゅっと握った。


「大丈夫、もうひとりじゃないから」


そう言った声は、自分でも震えていた。




でも、ある日――

それは、私の運命を大きく変えた。


私はいつものようにイメクラに出勤して、

いつものように指名のお客さんの相手をしていた。

「また来るね」なんて笑顔を作って、送り出して、

化粧直しをして、待機室を出た。


――薬を買いに行くつもりだった。


瑠美も「今日、買おうね」って言っていた。

いつもの売人。いつもの量。

いつもの、壊れた日常。


だけどその日、何かが違った。


仕事が終わってすぐ、売人に電話した。

でも、出ない。

“電波の届かない所にいるため…”という機械的なアナウンスが返ってくる。


――おかしい。


すぐに瑠美に電話をかけた。

「ねぇ、出て。出てってば……」


でも、同じだった。


“電波の届かない所にいるため…”


焦りが走った。

身体が、手が、唇が、震えた。


まさか、二人とも――

警察に……?


疑いが、どんどん膨れ上がる。

売人が捕まって、そこから芋づる式に……

私も……?


呼吸が乱れてくる。


「どうしよう……」


待機室のソファにうずくまって、

両手で頭を抱えた。


世界が音を失っていくみたいだった。




どうしよう、どうしよう……

売人も、瑠美も、捕まったんだ……

そう思い込まずにはいられなかった。


だって、こんなこと今まで一度もなかった。

売人はすぐに電話に出るし、瑠美も必ず折り返してくれた。

それなのに、今日は――


何度かけても、

「この電話は、電波の届かない場所にあるため――」

あの機械的な女の声が、何度も繰り返される。


瑠美のケータイも、同じだった。

繋がらない。ずっと、圏外。


怖かった。


胸がぎゅっと締め付けられて、息が浅くなる。

どうしよう。どうすればいいの。

本当に、捕まったのかもしれない。


もしかしたら、私のことも、すでに警察が知ってて、

もうこのドアの向こうに……来てるんじゃないかって。


パニックが、喉の奥をぎゅうっと締めつける。


誰も出ない。誰にも繋がらない。

私ひとり、取り残されて――

誰か、助けて。誰か、お願い……。


私、何を信じたらいいのか、わからなかった。




怖くて怖くて、

私は泣きながら、駅へと走った。

どこへ行こう、どこに逃げよう……

頭の中はぐちゃぐちゃで、涙で前もよく見えなかった。


でも、足は自然と向かってた。

実家――。


もうしばらく、まともに帰ってなかったのに、

あの場所しか浮かばなかった。


電車の中でずっと泣いてた。

周りの視線なんて気にならなかった。

ケータイを握りしめて、誰からの着信もないまま、

私はふるえる指先で家のインターホンを押した。


「……えりこ?」


お父さんがドアを開けて、私の顔を見るなり、

驚いたように、でも優しく腕を広げてくれた。


「どうした! どうしたんだ、えりこ……!」

そう言って、ぎゅっと抱きしめてくれた。


私は子供みたいに泣きじゃくりながら、

ただただその胸にしがみついた。



私は何も説明できぬまま、ただただ泣いた。

お父さんは何も聞かずに、

「今日はいいから、ゆっくり休め」

そう言ってくれた。


その言葉に、私はまた涙が止まらなくなった。


自分の部屋――。

久しぶりに戻ったその空間は、

昔のままで、何も変わってなかったのに、

私はもう、昔の私じゃなかった。


ベッドに突っ伏して、

シーツを握りしめながら、泣いた。


怖い。

怖い怖い怖い怖い――


もう、終わりだ。

捕まる。きっともう警察が動いてる。

今この瞬間、ドアが壊されて、

手錠がかけられるんだ。

――そう思っていた。


ほら、外で足音がする。

警察だ。来た。もう終わり。

ほら、窓に人影が。

――警察だ。こっちを見てる。

私のことを、見張ってる。


だけどそれは、

全部、幻覚で。幻聴だった。


わかってるのに、止められない。

頭がおかしくなりそうだった。

いや、もうなってるのかもしれない。


「助けて」

って、誰かに言いたかった。

でも、誰にも言えなかった。


私は、震えながら

朝が来るのを、ただ祈るように待っていた。



そしてね。

馬鹿だと思うかもしれないけど、

この「勘ぐり」が――

私を動かしたんだ。


売人も瑠美も捕まったかもしれない。

次はきっと私。

警察がすぐそこまで来てる。

そんな恐怖に、心が支配されてた。


「捕まりたくない」

その一心だった。


私は、天井をじっと見上げたあと、

震える手で、バッグから吸引器を出した。

ライターも、細く削った針金も。

小さな瓶も――

そして、まだ残っていた白い粉も。


全部、ゴミ袋に入れた。


「もう終わりにしなきゃ」


声に出したかは覚えていない。

ただ、手が勝手に動いていた。


涙が止まらなかった。

まだ吸いたいと思ってる自分もいた。

だけど――もう終わりにしたかった。


その夜、私はそれらすべてを袋に詰め込んで、

玄関の外にあるゴミ箱に押し込んだ。


明日はゴミの日。

明日には――全部なくなる。

私の罪の道具たちも、白い悪魔も、

全部――燃えるゴミとして消える。


これで……終わるかな。

いや、終わらせなきゃ。


私は震える脚で部屋に戻り、

ひとつ、大きく息を吐いた。


きっと今が、人生の分かれ道だって、

どこかで感じていた。




そして朝が来た。

ほとんど眠れなかったけど、朝はちゃんと来た。


リビングに行くと、お父さんが台所に立っていた。

ジュウゥ…とベーコンを焼く音。

目玉焼きがぷっくり丸くなってて、

お味噌汁の湯気がゆらゆら揺れてた。

ご飯もちゃんと炊きたてだった。


お父さんが、私の方をチラッと見て、

「食べれるか?」って静かに聞いてきた。


私は、無言で頷いた。


食欲なんてないのに、

身体が勝手に座って、箸を持った。


一口。

ご飯の甘さ。

お味噌汁のあたたかさ。

ベーコンの塩気。


全部が、やさしかった。

全部が、泣きそうになるくらい優しかった。


「…うまい」って、かすれる声で言ったら、

お父さんはただ、「そっか」って、

小さく笑っただけだった。


あの時のご飯、きっと一生忘れない。

あの優しさが、私の中にずっと残ってる。




そして、気がつけば涙がポロポロと溢れていた。

熱いお味噌汁といっしょに、心の中の何かが溶けて、こぼれていった。


私は箸を置いて、俯いたまま、

意を決して言った。


「……お父さんに、話さないといけないことがある」


お父さんは少し驚いたように手を止めて、

「なんだ?」とだけ言って、

真剣な目で、私を見つめた。


その目が、まっすぐすぎて、優しすぎて、

私は余計に言葉に詰まってしまった。


だけど、逃げちゃいけないと思った。


「…私、覚醒剤、やってた。売人とも関わってた」

震える声で、やっと絞り出した。


お父さんの目が、一瞬だけ見開かれたけど、すぐにふっと細くなった。


「……そうか」


それだけ言って、沈黙が落ちた。


心臓の音がドクドク響いて、

空気が重くなっていく気がして、私は自分を責めた。


でも、お父さんはしばらくして、

ゆっくりと言ったんだ。


「それでも……今、ここに戻ってきたんだな」って。


私は、涙が止まらなくなった。



お父さんは、深く一度、ため息をついたあと、

湯気の立つお味噌汁を見つめながら、静かに口を開いた。


「……覚醒剤は、自分だけを傷つけるもんだと思ってたんじゃないか?」


私は小さく頷いた。


お父さんは言った。


「それは違う。お前を思ってくれる人、全部を、壊してしまう。

……俺もな、昔はヤンチャだったよ。ケンカもしたし、警察にも世話になった。だけど――薬だけは、絶対に手を出さなかった」


そこで少し目を伏せて、懐かしむような、でも苦しげな顔で続けた。


「それはな。周りの仲間がみんな、廃人になっていったからだよ。

最初は楽しそうだったやつも、だんだん目の焦点が合わなくなって、噛み合わないことばかり言うようになって……気づいたら、いなくなってた」


「……お前が、その道に足を踏み入れたって聞いて、俺は本当に、心が張り裂けそうだった。

でも、戻ってきてくれて、正直に話してくれて、それだけで……父親として、十分すぎるよ」


お父さんの声が、少しだけ震えてた。

私の方が泣く立場なのに、なんでお父さんが泣きそうな顔してるの。

私はもう何も言えなかった。ただ、泣いてた。ごめんなさい、ごめんなさいって、心の中で何度も。



でもちゃんと……

絞り出すように、震える声で言ったの。


「……ごめんなさい」

「もう、やめる。ちゃんとやめる。

もう……ほんと、馬鹿で、ごめんなさい……」


その言葉を言いながら、涙がポロポロとこぼれて、止まらなかった。

身体が震えて、喉の奥からなにかが溢れそうで、でもちゃんと伝えなきゃって、そう思った。


お父さんは黙って、しばらく私の顔を見てた。

そして、そっと私の頭をぐしゃっと撫でてくれた。


「……よし。わかった」


たったそれだけ。だけど、その一言に、どれだけの意味が込められていたか。

私には痛いほど伝わった。


あったかかった。

久しぶりに、人間のあたたかさに触れた気がした。

私はまた、声をあげて泣いた。子どものように、お父さんの前で、声を上げて、しゃくり上げて泣いた。



お父さんは、本当にすごい人。


私がいじめられたとき、

あの男子の親に電話して、本気で怒ってくれた。

「うちの娘になんてことしてんだ!」って、

怒鳴る声が電話越しに響いてた。


誰よりも私の味方でいてくれた。


私が馬鹿なことしても、

何度も裏切るようなことをしても、

お父さんはずっと、私を見捨てなかった。


「なんでそこまでしてくれるの?」

昔、そう聞いたことがあるんだ。

そしたら、お父さんは笑ってこう言った。


「お前は俺の娘だから。それ以上の理由なんて、いらないだろ?」


どれだけ間違えても、

どれだけ道を外しても、

その手を離さずにいてくれる存在。


こんな愛で、優しさで、強さであふれてる人、

私の人生で、お父さんしかいない。



そして…私は、2日間、家で過ごしたの。

薬が身体から抜けていくのがわかった。

倦怠感と眠気で、まるで体に重しが乗っているみたいだった。

ひたすら眠くて、ほとんどベッドから動けなかった。


そんなとき。


スマホの着信音が鳴った。

画面に表示された名前は「瑠美」。


私は息を飲んだ。

手が震えた。

まさか…本当に…?


急いで応答ボタンを押す。


「……もしもし」


しばらくの沈黙のあと、瑠美の声がふわっと耳に届いた。


「えりこ……ごめん、ずっと寝てた……。起きたらケータイ、電池切れてて……」


私はホッとする気持ちよりも、別の感情に押しつぶされそうだった。

良かった。生きてた。

でもそれよりも、私には、言わなきゃいけないことがあった。


胸の奥が苦しくて、声が震えそうになる。

でも、言わなきゃ。


「……私、もうやめようと思ってる」

小さく、でもはっきりと、そう伝えた。


電話の向こうで、瑠美が何かを言いかけて、そして黙った。

しばらく沈黙が流れる。


私はその沈黙の中で、自分の決意を強く握りしめていた。


瑠美は謝ってきた。


「ほんとごめんて…寝ちゃってさ。そんなムキにならないでよ」

気まずさを誤魔化すような、少しふざけた口調だった。


でも──

私の決心は、もう揺るがなかった。


「……もう、やらないから」

ぽつりと、それだけを伝えた。


電話の向こうが、少しだけ静かになった。


そして次の瞬間、瑠美は少し怒ったように言った。


「……じゃ、私の前で二度と吸うなよ」


一瞬、胸がギュッとなった。

その言葉の裏にある寂しさ、怒り、戸惑い。

きっと、私の“変化”に置いていかれるような気がしたのかもしれない。


だけど、私はこう返した。


「うん。もう、吸わない。誰の前でも、自分の前でも」


言葉にしたことで、少しだけ、心が軽くなった気がした



「いいよね、あんたは。優しいお父さんがいてさ。私には……私には…なにもないのに」


瑠美の声は、ふるえていた。


怒ってるんじゃない。

羨ましくて、悲しくて、どうしようもなくて──

そんな想いが全部混ざってる声だった。


私は、言葉が出なかった。

どうしたらいいのか、何を言えばいいのか、わからなかった。


ただ、静かに言った。


「ごめん……でも、瑠美には、私がいるよ」


電話の向こうで、瑠美はなにも言わなかった。

でも、長い沈黙のあと、かすかに聞こえた。

鼻をすする音。

それだけで、もう充分だった。



そして私は続けた。

「瑠美も一緒にやめよう。二人でならできる。ね?」


その言葉に、電話の向こうはまた沈黙した。

だけど私は、さらに言った。

「私ね、知ってるよ。…瑠美のお母さん、何回も電話してきてるの。ずっと無視してるの、知ってる」


瑠美は、小さく舌打ちしたような音を立ててから、

「……なんで知ってんの」

って、つぶやいた。


「前に、待機室でケータイ見えたとき。着信履歴、見えちゃって」


瑠美は、はぁってため息をついた。

そしてしばらくして、ぽつりとこぼした。


「……怖いんだよ。今さら、なんて言って出ればいいかわかんない。…あたし、もう戻れないと思ってたもん」


私は、その言葉を受け止めながら、ゆっくり、丁寧に言った。


「戻れるよ。…一人だったら無理でも、二人だったら、できるよ。

私も怖いよ。でも…もうこんな生き方やめたい。

一緒に、変わろう?…ね、瑠美」


その言葉がどこまで届いたかは、わからなかった。

でも、電話の向こうで、瑠美が何度も何度も、鼻をすする音が聞こえてた。



瑠美は、小さく「無理だよ…」って言って、

それきり電話は切れてしまった。


だけど、私は信じた。

信じたかった。

だって、私たちはあの底の底で、

一緒に笑って、泣いて、生きてきたんだ。

「最強」なんだよ、私たちは。


それから3日後。

瑠美からメッセージが来た。


「荷物を片付けるから、一緒に来てくれない?」


電車に乗って、錦糸町駅で降りて、

雑居ビルの奥、薄暗い廊下を抜けた先に、

私たちが暮らした、あの部屋があった。


ドアを開けると、そこには少しだけ寂しげに笑った瑠美がいて、

「……来てくれてありがと」って言った。


私はただ、「うん」とだけ返した。


部屋の中には、まだ覚醒剤の痕跡が残っていて、

机の上には、あの吸引器と空っぽの小瓶がぽつんと置かれていた。


瑠美はそれを見つめながら、

「これ、捨てなきゃね」って、そっとゴミ袋に入れた。


私は、静かに、でも心の中では叫ぶように思った。

――よかった、生きててくれて。

――また、ここから始めよう。


そう、私たちは……

本当に最強だから。




嬉しかった。

本当に嬉しかった。

瑠美と一緒にやめられる――そう思ったら、

心の奥の深い場所で、何かがふっと軽くなるような感覚がした。


そして、瑠美はぽつりぽつりと話し始めた。


「……昨日、母親と電話で話したの」


その声はどこか照れていて、でも少しだけ震えていた。


「……“生きててくれてありがとう”って、泣いてた」


瑠美の目にも、少し涙がにじんでいた。


「なんかさ……私、ほんとに死んだと思われてたっぽい」

「でも、生きてたってわかっただけで、“何も聞かない”って」

「“戻っておいで”って、ただそれだけ言ってくれてさ……」


私は黙って聞いていた。

聞きながら、心の中で何度も頷いてた。


家族って、血が繋がってるから面倒くさいこともたくさんあるけど、

でもやっぱり、どうしようもなく繋がってるんだなって思った。


「えりこ……私、帰ってみようかな」


その言葉に私は、ぎゅっと瑠美の手を握って言った。


「うん。帰ろう。

 そしてさ、一緒にやめて、一緒に生きよう」


瑠美はうなずいた。

その横顔は、なんだか少しだけ昔の瑠美に戻ったようだった。



そして瑠美はふいにベランダへと出ていった。

私もつられるように後を追う。


「知ってた??ここからすっごく綺麗な夕焼け見えるの」

と瑠美が言った。


その声には、どこか懐かしい透明さがあった。

私たちは並んでベランダに立って、オレンジ色に染まる街を眺めた。


「うちら、ずっとカーテンしめっきりでさ」

「こんな景色……知らなかったよね」


そう、いつも部屋の中は薄暗くて、時間の感覚も曖昧で、

朝も夜も、外の世界の色なんて気にしたことがなかった。


でもそのとき、初めて見た夕焼けは、まるで世界が変わったみたいに美しくて、

まるで、ずっと閉じていた心のカーテンが少しだけ開いた気がした。


私はぽつりと呟いた。

「ねぇ……また、こんなふうに夕焼けを見れる日がくるなんて思わなかったよ」


瑠美は優しく笑って、

「これから、いっぱい見るよ」って言ってくれた。


風が、私たちの髪をふわっと揺らした。

その瞬間、ほんの少しだけ、希望の匂いがした。




それから私たちは、それぞれの家に帰った。

風俗もやめた。薬もやめた。

今は無職だけど――それでも、自分が誇らしかった。


お金はある。

必死に稼いだ。身体を削って稼いだ。

でも、今の私は、そのお金にすがらない。

過去に戻らないって決めたから。


そして、季節は夏になった。

セミの声がうるさいほどに響く暑い日の午後、私はふと思ったんだ。

「何か、目標が欲しいな」って。


だから、父に言った。


「私、免許とるよ」


父はびっくりした顔をしたあと、すぐに笑ってくれた。

「ええじゃねぇか!やってみろ!」


運転免許。

それは、これまでの私には考えもしなかったこと。

でも今ならできる気がした。

ちゃんと道を選んで、進んでいける気がした。


それは、私にとって――新しい人生の、小さくて大きな第一歩だった。



私は慣れない勉強を、必死に続けた。

交通ルール、標識、標識、また標識――

眠気と戦いながら、ペンを握る。

だけど不思議と、あの頃みたいに薬に頼ろうなんて思わなかった。

「今の自分」が、ちゃんと誇らしいから。


瑠美は瑠美で、普通の就職活動を頑張っていた。

履歴書の書き方を調べたり、スーツを買ったり。

「面接めっちゃ緊張したー」なんて言いながらも、

口元にはしっかり笑顔が戻っていた。


二人とも、道は違えど、

それぞれのやり方で、前を向いていた。


あの頃、光なんて一ミリもなかったのに、

今は、どこかでちゃんと空が青く見える。

――そんな気がした。




私は正直、頭の出来が良くなくて、

仮免試験には本当に苦戦していた。

1回目、2回目……数えていったら、なんと7回落ちてた。


でも、それでもあきらめなかった。

お父さんに励まされながら、地道に勉強を続けて――

8回目で、ついに仮免合格。


そして、いよいよ本試験。

お父さんが車で幕張の免許センターに連れて行ってくれて、

「落ち着いてな」って肩をポンって叩いてくれた。


試験が終わって、待合室でひたすら電光掲示板を見つめる。

番号が、ひとつひとつ、ゆっくりと表示されていく。


……あった。

自分の受験番号が、そこにちゃんと光っていた。


「うそ……受かった…?」

信じられなくて、電光掲示板を何度も何度も見返した。

涙があふれてきた。


お父さんに電話で伝えると、

「やったなー!!お前、本当にがんばったなぁ!」って

まるで自分のことみたいに喜んでくれて――

その声に、また涙が止まらなくなったんだ。




瑠美にも「受かった!」ってメールしたんだ。

そしたらすぐに返信がきて、

「すごいじゃん!私も負けない!」って、瑠美らしい短くて熱いメッセージ。

嬉しかったなぁ。

あの頃の私たちじゃ考えられないような会話。

ほんの少し前まで、薬にまみれて、どこに向かうかもわからなかった私たちが――

今、まっすぐ前を見てる。それがすごく嬉しかった。


でもね、それからは少しだけ空虚な時間が続いたの。

とにかく家でダラダラと過ごしてしまった。

免許はとった。でも、その先が見えない。


なにをすればいいんだろう。

なんの仕事ができるんだろう。

誰かに胸を張って言えるような、

「普通」って呼ばれるような仕事って、私にできるの?


なんだか、自分が社会から置いていかれてるような気がして――

目標を達成したのに、また不安に呑まれそうになってた。



そんなことを思っている矢先だった。


私は自室で、なんとなくぼーっとテレビを眺めていた。

笑ってる芸人の声だけが響いていたのに、

突然――


ドタン!!!!!


という、明らかに異常な音がキッチンから響いた。


「……え?」


一瞬、時間が止まったみたいだった。

でもすぐに心臓がバクバクし出して、私は慌てて立ち上がって走った。


キッチンの床に――

お父さんが倒れていた。


「お父さん!!!」

しゃがみ込んで、何度も呼びかけた。

「ねぇ!お父さん!どうしたの!?」


でも返事がない。

目は開いてるのに、焦点が合っていなかった。


私はパニックになりながらも、必死でケータイをつかんで119番をかけた。

震える手で住所を伝えて、救急車を呼んだ。

泣きながら、お父さんの手を握って、「大丈夫、大丈夫だからね」って言い続けた。


あんなに強くて、優しかったお父さんが、

何も言わずに横たわっているなんて――

怖かった。世界が崩れるかと思った。



そして、病院へ搬送された父。

私は救急車の中でも、ずっと手を握ってた。

なにも起きないで……お願い……って、

ずっと願っていた。


しばらくして、検査を終えた医師が出てきた。

私は心臓が破裂しそうで、顔を強張らせて聞いた。


「お父さん……どうなんですか……?」


医師は、ポリポリと頭を掻いて、

少しだけ笑いながら言った。


「ああ、うん。ただの老化現象ですね。めまいです」


……一瞬、耳を疑った。


「え……?」


「血圧もちょっと高めでしたし、疲れとかストレスとか、色々重なったんでしょう。念のため入院ですけど、心配ないですよ」


私はその場にへなへなと座り込みそうになって

ぽろっと涙がこぼれた。

安堵と、力の抜けた脱力感で。


「……もぉ……やめてよ……ほんとに怖かったんだから……」


でも、父はベッドに寝転びながら、

ちょっとだけ恥ずかしそうに笑ってた。


「入院かぁ……せっかくお前と一緒にご飯でも食べに行こうと思ってたのになぁ」


そう言って少しだけ残念そうな顔。


私は鼻をすすってから、笑いながら言った。


「退院したら一緒に、なんでも好きなもの食べに行こうね」




父が入院している間、

私は「私が頑張らないと」と、使命感のような気持ちに駆られていた。


コンビニで、棚に置いてあった無料の求人誌を

片っ端から何冊もかき集めて帰ってきた。

カバンはパンパン。中身は全部「これからの人生」を探すためのヒント。


部屋に戻って、テーブルいっぱいに広げて、

赤ペンで気になった求人に丸をつけていく。


「飲食……週5日勤務……時給900円……」


私は声に出して読みながら、思わず手が止まった。


「時給……900円……?」


なんだか、遠い昔のことを思い出すような気持ちになった。

一日何十万と稼いでいたあの頃の感覚。

財布に札束が入ってるのが当たり前だった日々。


それに比べて、900円。

8時間働いても、7,200円。


ため息が漏れた。


「……それでも、ちゃんと生きるって、こういうことだよね」


自分に言い聞かせるように、ぽつりとつぶやいた。




そんなとき、テーブルに置いたケータイが震えた。

画面には「瑠美」の文字。


私はすぐに電話をとって耳にあてた。


「もしもし?」


すると、瑠美の声が少しだけ震えていた。


「ごめん……えりこ」


私は一瞬、何かあったのかと胸がざわついた。

でも、次の瞬間――


「先に就職先決まりました!!!」

と、弾けるような声。


「ちょっとぉ!焦ったじゃん!!」

私は思わず声を上げた。心臓がドクンと跳ねた。


「ごめんごめん、でもさ、報告したくてさ!」


私は笑いながら言った。

「ほんとによかったね。どんな仕事?」


「パチンコ関係の小さい会社。事務っていっても雑用も多いけど、ちゃんと働けそう!」


「……瑠美、すごいじゃん。がんばったね」


そう言いながら、私はふっとため息をついた。

気づかないうちに、少し肩の力が抜けてた。


「……実はさ、うちのお父さん、倒れたんだ」


そう告げると、電話の向こうで瑠美が一瞬黙って――


「……わかった。

とりあえず、一回会おう。仕事の話もしよう。

お互い、ちゃんとこれから考えよう」


瑠美のその言葉に、私は小さくうなずいた。


「……うん、ありがとう。会いたい」


少しずつ。

本当に少しずつだけど、私たちはちゃんと変わってきてる気がした。




私は父の軽自動車を運転して、瑠美の家の前まで迎えに行った。

助手席に乗り込んできた瑠美は、髪をひとつにまとめてて、前より少しだけ社会人っぽい雰囲気をしていた。


「えりこ、運転上手くなったね!」

「えへへ、もうペーパードライバーじゃないよ」


そんな他愛もない会話をしながら、私たちは近所のサイゼリアに入った。


窓際の席に並んで座って、私はミラノ風ドリア。瑠美は小エビのサラダとペペロンチーノを頼んだ。


食べながら、私はぼそっと言ったの。

「……仕事、どうしようかなって。何か、何ができるかわかんない」


フォークをくるくる回してた瑠美は、少し間をおいてから言った。


「えりこさ、うちの会社、来てみる?」


「え?」


「ほんとに小さいとこだけど、事務員さんが一人辞めるらしくてさ。人手足りてなくて困ってるって社長が言ってた。えりこ、ちゃんとしてるし、たぶん向いてると思うんだよね」


「え、でも……履歴書とか、職歴とか……」


「大丈夫だって。私、正直に話したし、それでも雇ってくれた。ちゃんと生きようとしてる人は、ちゃんと見てくれる社長だよ」


私は、ミラノ風ドリアのチーズをスプーンでなぞりながら、瑠美の横顔を見た。


「……私にできるかな」


「できるよ。私がついてるじゃん。えりこ、あの地獄乗り越えたんだから、大丈夫だって」


その言葉が、すごくあたたかくて。

私は、スプーンを置いて、小さくうなずいた。


「うん……行ってみようかな、瑠美の会社」


「よし、決まり。じゃあ月曜、社長に言っとくね!」


未来って、ぼやけてて怖いけど。

あの頃の私たちじゃ考えられなかった「普通の道」を、今は少しだけ、歩いてみたいって思ったんだ。




OLになれる??私が??

信じられなかった。

スカートにブラウス。リクルートスーツ。

なんだか“なりきりごっこ”みたいで照れくさかったけど、鏡の中の自分は、ちゃんと未来に向かってる顔をしていた。


履歴書の「志望動機」欄。


たくさん悩んで、何度も書いては消して、

結局、私はこう書いたの。


> 「人生をやり直したかったから」




今思えば、そんなこと書く人、なかなかいないかもしれない。

でも、嘘を書きたくなかった。

私は、本当にそう思ってた。


そして、面接当日。

手汗がひどくて、履歴書の角まで湿っていた。

小さなオフィスの会議室。

社長と、もう一人の事務の先輩女性がいた。


「緊張してますか?」

「……はい、すごく」

正直に答えると、社長はふっと笑った。


「志望動機、読みましたよ。“人生をやり直したかったから”って、なかなかグッときました」


私は顔が真っ赤になった。

でも、そのあと社長は、優しい声で言ってくれた。


「そういう気持ち、すごく大事です。ちゃんと前を向いてる人は、会社にとって財産ですから」


なんだかその言葉に、心がじんわりした。

私、ほんとうに……やり直していいのかな。

そんな気持ちが、静かに芽生えていったんだ。




面接が終わって、少しホッとした気持ちで廊下を出ると、

瑠美がぴょこっと顔を出した。


淡いグレーの制服、まるで銀行員みたい。

髪はすっきりまとめられていて、

あの夜の街にいた瑠美とはまるで別人みたいだった。


でも笑顔は変わらない。


「緊張してるー!って顔してるよ」

って、ふふっと笑った。


私は少しだけ涙がにじんだ。

この人がいたから、ここに立てた。

私は思わずうつむいて、でもすぐに顔を上げて、

「うん、がんばったよ」って笑った。


瑠美は小さくガッツポーズして、

「明日からじゃん!待ってるよ!!一緒に頑張ろうね!」

って、制服のスカートをひるがえして、ぱたぱたと去っていった。


その背中が、ものすごく、まぶしかった。

追いかけたい。隣に並びたい。

私も、ちゃんと、まっすぐ歩いていきたい。


「明日から…か」

ポツリとつぶやいたその言葉に、未来の風が少し吹いた気がした。



そして私はその帰り道、

車に乗って父の入院する病院へと向かった。


病室のドアを開けると、ベッドの上で週刊誌を読んでいた父が顔を上げた。


「おぉ、どうした?」

といつものように穏やかな声。


私は、ちょっと照れながらも胸を張って言った。


「お父さん……私、就職決まったよ」


父は一瞬ぽかんとして、そしてすぐに、


「えっ!?コンビニか!?ファミレスか!?」

と目をまん丸にして聞いてきた。


思わず笑ってしまって、私は肩をすくめながら答えた。


「OL。笑」


すると父は、

「おぉぉぉぉ!?お、お、OL!?本当か!?」

って声を上ずらせて、布団の上に起き上がった。


「スーツ着んのか!?会社の受付におるようなやつか!?」

って、もう嬉しいやら驚いてるやらで大騒ぎ。


私はうんうんと頷きながら笑って、


「ちゃんと志望動機も書いたんだよ? “人生をやり直したかったから” って」


父は一瞬きょとんとして、それからふっと目を細めた。


「……やり直せるよ。お前なら、絶対に」


その言葉が、病室の薄いカーテン越しに差し込む午後の光みたいに、

じんわりと私の心に染みた。





出勤初日、私は緊張していた。

手汗は止まらないし、制服のスカートの丈が気になって、鏡を何度も見直して。


でも、会社のドアを開けた瞬間、

そこにいたのは瑠美だった。


「おはよ!来たね!」

そう言って、満面の笑顔。


その一言に、どれだけ救われたか。


私の席を案内してくれて、まずは電話の取り方を教えてくれた。

「まずは、“お電話ありがとうございます”って言って、それから会社名、名前。メモ取って、保留!」


え?ちょっと待って?え?

って頭が追いつかなくて焦ってる私に、

瑠美は優しく笑って、「大丈夫。私も最初できなかったし」って。


それから、資料の作り方やファイリングの仕方、

ファックスの使い方、なんてことまで、一つずつ丁寧に教えてくれた。


そして、朝礼。

びっくりするくらい皆が整列して、「営業訓」とかいうのを声を揃えて読み始めた。


え?なにこれ?って、思った。

でも、それがこの場所の“普通”なんだって知って。

私は、ちゃんとした場所に足を踏み入れたんだって実感した。


どこかこそばゆくて、でも…

少しだけ、誇らしかった。



それからっていうもの、

仕事もだんだん覚えてきて、コピーも、請求書の作成も、電話応対も、自然とできるようになった。


「えりこ、仕事覚えるの早いね」

瑠美にそう言われた帰り道。

私は電車に揺られながら、窓の外に流れる夜景をぼんやり眺めていた。


街の灯りがキラキラしていて、

帰路につく人たちの姿が駅のホームに映って、

ふっと、心のどこかで思ったの。


——ああ、これが“普通”なんだ。


この感じ、この空気、このささやかな疲労感。

私、こういう暮らしがしたかったんだって。


どこかの誰かに憧れてた“普通の女の子”に、

少しだけ近づけたような気がした。


そして、やっと。

ほんの少しだけ、自分のことを好きになれた気がした。


「えりこ、今日もよく頑張ったね」って

自分で自分に、そう言ってあげたくなるような帰り道だった。




それから父も無事に退院して、

私とお父さん、二人での生活が始まった。


なんでもない日々だった。

だけど、それがとても、しあわせだった。


一緒にごはんを食べて、

一緒にテレビを見て、

「ただいま」って言えば、「おかえり」って返してくれる人がいて。


お父さんの優しさが、

まるでブランケットみたいに、心にふんわりかぶさってくるようで。


ああ、なんてあたたかいんだろうって、

何気ない時間のなかで、何度も思った。


忙しさや、孤独や、渇いた毎日とは違う、

静かで、穏やかで、やわらかい日々。


私は、今、幸せだ。

そう思える自分が、ようやくここにいた。



そして私は、今日も生きている。


どんな過去があっても、

それでも、明日が来る限り、私は歩いていく。


忘れたくても忘れられないこと。

胸の奥に今も残る痛み。

それでも、私は前を向いていたいと思う。


私を信じてくれた人がいた。

どんな私でも、受け止めてくれた人がいた。


あのとき選びなおした道は、

まだ少しデコボコで、時々こわくなるけど、

それでもこの道の先には、きっと、まだ見たことのない景色があると信じてる。


過去は消えない。

だけど未来は、変えられる。


これが、私の物語。

そしてこれからも続いていく、私の人生。


そして私は、今日も生きている。


いろんなことがあった。

数えきれないくらい傷ついて、間違えて、たくさん逃げた。

でも、それでも生きてる。


人間だから、逃げちゃうこともある。

怖くなって、立ち止まって、うずくまってしまうこともある。

でもね、逃げてもいいんだよ。

逃げ続けなければいいの。

もう一度立ち上がれたら、それだけで偉いんだから。


大切なものは、ちゃんとある。

気づいてないだけで、案外すぐそばにあるの。

結構、足元とかにね。

だから、見失わないでほしい。




これは私の物語。

でも、読んでくれたあなたにも、あなたの物語がある。

誰かの脇役なんかじゃない。

あなたはちゃんと、あなたの人生の主人公だよ。



読んでくれて、ありがとう。


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