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旦那様、もう「転生者」のフリはやめませんか?

作者: アムリ

 アリア・フォン・ベルクハルトは、夫であるレオンを見上げるたびに、胸の奥がきゅう、と甘く締め付けられるのを感じる。


 半年前に結婚したばかりの夫は、このベルクハルト領を治める若き領主であり、そして、私の幼馴染だ。物心ついた時から、四歳年上の彼は私にとって頼れる優しいお兄様だった。


 落ち着いた雰囲気を纏う彼は、色素の薄い柔らかな茶色の髪をしている。きっちり整えられているというよりは、少し癖があるのをそのままにしているようで、昔から少しだけ無頓着なところは変わらない。けれど、その奥にある真面目さを映すように、ヘーゼル色の瞳はいつも実直な光を宿していて、私はその瞳に見つめられるのが好きだった。


 彼を慕い、追いかけることが私の日常だった。だから、彼から求婚された時は、夢を見ているのではないかと思ったほどだ。


 辺境に近いこのベルクハルト領は、豊かとは言えないけれど、穏やかな土地だ。領主とは名ばかりで、実際のところは少し大きな地主のようなものかもしれない。

 それでも、レオン様が領主になってから、領地は少しずつ活気を取り戻している。

 先代であるお父様を早くに亡くし、若くして領主となった彼は、真面目で、少し不器用だけれど、領民のことを誰よりも考えている、立派な当主様だ。


 そんな彼と夫婦になれた私は、世界で一番幸せだと、本気で思っていた。

 朝、隣で彼の寝顔を見て目覚め、共に食事をし、彼が執務に励む姿をそばで見守る。夜は、暖炉の前で他愛のない話をする。そんな穏やかで満たされた日々が、ずっと続くのだと信じていた。


 あの日、夫が領主として初めて中央の王都へ赴くまでは。


 作物税の報告や貴族院への挨拶など、領主としての務めを果たすための、数週間にわたる旅。寂しくないと言えば嘘になるけれど、立派に役目を果たして帰ってくる彼の姿を想像すれば、耐えられた。


「すぐに戻るよ、アリア。いい子で待っていてくれ」


 出発の朝、少し照れたように私の頭を撫でてくれた手の温かさを、今でもはっきりと覚えている。


 そして、数週間後。旅を終えたレオン様は、無事に領地へと帰還した。

 私は嬉しさのあまり、館の門まで駆け寄って彼を出迎えた。


「お帰りなさいませ、レオン様!」


「ああ、ただいま、アリア」


 彼は馬上から私に微笑みかけてくれたけれど、その笑顔はどこか、以前とは違うものに見えた。どこか遠くを見ているような、心ここにあらずといったような。


 その予感は、残念ながら当たっていた。

 王都から戻ってきて以来、レオン様は変わってしまったのだ。


 執務中も、ふとした瞬間に考え込んでいることが増えた。食事中も上の空で、私が話しかけても、どこかぼんやりとした返事しか返ってこない。そして何より、時折、奇妙な言葉を口にするようになった。


「まさか、俺が異世界に転生するなんてな……」


「ステータスとかは……見えない、か……」


 最初は、聞き間違いかと思った。あるいは、王都で何か珍しい戯曲でもご覧になったのかしら、と。けれど、彼の口から発せられる不可解な単語は、日に日に増えていった。


「あの、レオン様? 先ほどからおっしゃっている『いせかい』とか『てんせい』というのは、一体……?」


 ある夜、思い切って尋ねてみると、彼は私の目を真っ直ぐに見つめ、驚くべきことを告げたのだ。


「アリア、聞いてくれ。実は俺……前世の記憶が戻ったんだ」


「……ぜんせ? きおく……?」


「ああ。どうやら俺は、君たちの言う『勇者』と同じ……『転生者』だったらしい」


 私は、言葉を失った。


 夫の言っていることが、全く理解できない。転生者? 勇者様と、同じ?

 冗談、なのだろうか。けれど、彼の表情は真剣そのものだった。


 彼は、王都の博物館で見たという勇者様の記録について、興奮した様子で語り始めた。


 百年ほど前、突如としてこの世界に現れたとされる勇者様。そこから数十年かけ、魔物の王を打ち倒し、革新的な魔法や技術、制度をもたらし、世界に平和と繁栄を築いた伝説の存在。天からの御遣いとして、今なお人々から深く敬われている。


「勇者の記録を見ていたら、突然、頭の中に流れ込んできたんだ。俺が、全く違う世界で生きていた記憶が……!」


 レオン様は、熱っぽく語る。


「アリア、俺は思い出したんだ! 俺も、勇者と同じように、この世界をより良くするために遣わされたのかもしれない!」


 私は、ただただ困惑していた。


 目の前にいるのは、紛れもなく私の愛する夫、レオン様だ。口調も、仕草も、何も変わらない。

 彼の言う通り、人格が消えたわけではなく、以前の記憶を保ったまま、「前世の記憶」なるものが追加された、ということらしい。


 けれど、彼の言葉は、まるで物語の登場人物のセリフのようで、現実味がない。


「まあ、レオン様ったら……。王都でお疲れになったのですね。少し、お休みになられた方が……」


 そう言って誤魔化そうとした私に、彼はむっとした顔をした。


「疲れてなどいない! これは真実だ!」


「で、ですが……」


「信じられないのも無理はないだろう。だが、これから俺が証明してみせるさ。俺が転生者であり、この世界に貢献できる存在なのだと!」



 その日から、私の穏やかだった日常は、静かに、けれど確実に揺らぎ始めた。

 レオン様は、領主の執務の合間を縫っては、「転生者」としての力を探求し始めたのだ。


 まず彼が期待したのは、「戦闘系ちーと」なるものだったらしい。


「勇者も、最初は剣一本で魔物を薙ぎ払ったというからな!」


 そう言って、彼は意気揚々と、錆びつきかけていた先代の剣を()いて、近くの森へと入っていった。私は心配でたまらなかったが、彼の決意は固いようだった。


 しかし、半日も経たないうちに、彼は悄然とした様子で帰ってきた。

 剣は泥に汚れ、腕には擦り傷。聞けば、魔物や危険な獣に出会ったわけではなく、木の根に足を取られて派手に転び、剣を飛ばしてしまっただけだという。


「…………どうやら、俺に戦闘能力はないらしい…………」


 落ち込んだ様子で肩を落とす夫に、私は安堵と、そして言いようのない脱力感を覚えた。


 幼い頃から頼りがいのある彼だったけれど、体つきは華奢ではなく、かといって過度に鍛えているわけでもない。日々の執務や領地の視察で自然と身についた、領主様らしいしっかりとした体格をしているのだが。


(当たり前ですわ……レオン様は、剣術の稽古など、ほとんどなさったことがないのですから……)


 戦闘がダメだと分かると、彼は次に「知識ちーと」なるものに期待を寄せ始めた。


「そうだ! 勇者は数々の発明も残している! 俺の前世の知識を使えば、きっと何かすごいものが作れるはずだ!」


 そう宣言し、彼は書斎に籠もる時間が増えた。古い羊皮紙に、何やら奇妙な図形や文字(彼曰く「にほん語」という前世の言語らしい)を書きつけては、唸り声を上げている。


 けれど、彼の「知識ちーと」探求も、あまり順調ではないようだった。

 時折、書斎から彼の大きなため息や、ぼやく声が聞こえてくるのだ。


「だめだ……全然思い出せない……!」


「二十年以上も前のことだぞ? そんな細かいこと覚えてるわけないだろうが!」


「自動車? スマホ? 作り方なんて知るか! 原理すらさっぱりわからない!」


「せめて……マヨネーズくらいなら……? いや、卵黄と油と酢……? どうやって混ぜるんだ? それにたしか、食中毒の危険もあった気が……」


 その様子は、傍から見ていると少し滑稽でもあったけれど、私にとってはただただ心配の種だった。

 憧れの勇者様に影響されたのは分かる。けれど、自分まで「転生者」だなんて言い出すのは、いくらなんでも……。領主としての激務で、少し精神的にお疲れなのかもしれない。


 そう思う一方で、言いようのない不安も感じ始めていた。


 夫が変わってしまった。

 私の知っている、あの優しくて不器用なレオン様は、どこかへ行ってしまったのだろうか。

 今の彼は、「転生者」という役割を演じているだけなのだろうか。



 そして、その不安をさらに大きくする出来事が起こった。

 心配になった私が、夫の言う「勇者」について詳しく調べるために、領地の小さな書庫で文献を漁っていた時のことだ。


 勇者の武勇伝、彼がもたらした革新的な技術や制度の数々。そこまでは、レオン様から聞いた通りだった。しかし、読み進めるうちに、私はある記述に目を奪われた。


『勇者様は、各種族の姫君を(めと)り、その血を広めることで、各種族間の融和と世界の安定を図られた』


 ――各種族の姫君を、娶り……?


 それはつまり、一夫多妻ということではないか。

 その事実に、私の心臓は冷水を浴びせられたように凍りついた。


 まさか。

 レオン様が「転生者」のフリをしているのは……勇者様のように、たくさんの妻を持ちたいから……?

 私だけでは、満足できないということ……?


 血の気が引いていくのが分かった。

 優しいと思っていた夫の言葉の裏に、そんな下心があったなんて。

 信じたくない。けれど、一度芽生えた疑念は、毒のように私の心を蝕んでいった。


 その日から、私はレオン様の言動を、以前とは違う目で見るようになってしまった。

 彼の「転生者」としての振る舞い一つ一つが、私を欺き、他の女性を迎え入れるための布石のように思えてしまうのだ。


(旦那様……あなた様は、本当に変わってしまわれたのですか……?)


 私は、答えの出ない問いを胸に抱えながら、不安な日々を過ごすことになった。



 書斎での苦悩が続いたある日、レオン様は諦めたように大きなため息をつくと、今度は畑へと足を運ぶようになった。


「……すごい発明は無理でも、基本的な農業技術なら、何か思い出せるかもしれん」


 そう呟く彼は、以前の熱狂ぶりとは少し違い、どこか切実な響きを帯びていた。


 彼は領地の農夫たちを集め、何やら説明を始めた。


「土にこれを混ぜるといい。『肥料』というものだ」


「冬の間も、別の作物を育てられるかもしれない。『二毛作』というやり方だ」


 彼は朧げな記憶を頼りに、前世の知識だという農業技術を伝えようとしている。


 農夫たちは、最初こそ戸惑っていた。「若様、それは一体……?」「そんなやり方、聞いたこともねえですだ」と怪訝な顔をしていたが、レオン様が真剣な表情で「頼む。試してみてくれないか」と頭を下げると、長年ベルクハルト家に仕えてきた彼らは、「若様がそこまでおっしゃるなら……」と、半信半疑ながらも従うことにしたようだった。


 私は、そんな夫の姿を複雑な思いで見守っていた。

 相変わらず「転生者」としての言動は続いているけれど、領地のために何かをしようと必死になっている姿は、以前の真面目な彼と重なって見える。


(もしかしたら、本当に領地のことを考えて……?)


 ほんの少し、彼への信頼が持ち直しかける。


 けれど、すぐに勇者の一夫多妻の記録が頭をよぎり、黒い疑念が胸を覆う。


(これも……領民の信頼を得て、いずれ他の妻を迎えるための下準備なのかしら……?)


 そんな風に考えてしまう自分が嫌だった。信じたいのに、信じられない。夫の行動の真意が分からず、私の心は揺れ動き続けていた。



 *



 季節が巡り、秋になった。


 レオン様の指導(?)のもと、新しい試みを取り入れた畑は、驚くほどの豊作となった。黄金色に輝く小麦の穂は例年よりずっと重く垂れ、倉庫は収穫された作物で溢れかえった。冬を越すための蓄えも十分すぎるほどだ。


 領民たちは口々に「若様のおかげだ!」「こんなに穫れたのは初めてだ!」と喜び、夫を称賛した。


 その評判は、辺境のこの地から中央の王都にまで届いたらしい。

 しばらくして、王宮から使者が訪れ、レオン様に対して表彰の知らせがもたらされた。


「正しく勇者の知識を広め、領地の発展に大きく貢献した」として、勲章が授与されることになったのだ。


 領主夫人として、これほど誇らしいことはないはずだった。領民も館の使用人たちも、皆が喜びに沸いている。

 けれど、当のレオン様は、なぜか少しも嬉しそうな顔を見せなかった。むしろ、その表情は苦々しく歪んでいるようにさえ見えた。


 表彰式当日。


 久しぶりに訪れた王宮は、相変わらずきらびやかだった。私はレオン様の隣に控え、少し緊張しながら式の始まりを待っていた。

 国王陛下の前に進み出たレオン様は、厳かに勲章を授与された。周囲からは拍手が起こる。


 しかし、壇上に立つ夫の様子は、やはりおかしかった。

 彼は深く頭を垂れたまま、顔を上げようとしない。その肩が、微かに震えているように見えた。


 式が終わり、控えの間に戻った時、私は心配になって声をかけた。


「レオン様、おめでとうございます。本当に、素晴らしいことですわ」


 すると、彼は弾かれたように顔を上げ、私を睨みつけた。その瞳には、喜びではなく、怒りのような色が浮かんでいる。


「何がだ!」


 珍しく荒げられた声に、私は思わず息を呑んだ。


「何がめでたいというんだ、アリア!」


 彼は、握りしめた拳を震わせながら、苦悩を吐き出すように言った。


「こんなもの……こんなもの、チートでも何でもないじゃないか!」


「え……?」


「肥料? 二毛作? そんなもの、俺が考え出したわけじゃない! ただ、俺が生まれるずっと前に、誰か他の人間が考え出したことを……俺がたまたま知っていて、それを伝えただけだ!」


 彼の声は、自分自身への怒りに満ちていた。


「しかもだ! 聞けば俺がやったことは、とっくの昔に勇者様(・・・)が教えてくださった方法だった! 領地では、ただ田舎だから知られていなかっただけだ! なにが『正しく勇者の知識を広め』だ! 俺が必死に絞り出し思い出したことを……!」


 言って、彼はうなだれてしまった。


「俺自身の力じゃない。俺自身の知識じゃないんだ。それは勇者だって同じかもしれない。だが勇者と違って俺には、戦闘力も、多岐に渡る知識も、経験もない……」


「レオン様……」


「なにも特別なことはない……。こんなのは誰だって思いつく……ただの工夫だ。普通の人間が、普通に努力して得た結果と、何も変わらないじゃないか……っ!」


 彼は「勇者」のように、世界を驚かせるような、圧倒的な力や知識による変革を夢見ていたのだろう。それが彼の言う「特別」という言葉に現れていた。

 だから、地道な農業改善による成果では、全く満たされないのだ。それどころか、自分の無力さを突きつけられたようで、屈辱を感じているのかもしれない。


 夫の苦しみを目の当たりにして、私の胸は痛んだ。けれど、彼の言葉は、どうしても受け入れられなかった。


「それの……何がいけないのですか?」


 思わず、強い口調で反論していた。


「収穫が増えて、領地の民がこれほど喜んでいるのですよ? あなた様が一所懸命に取り組まれたから、皆が助かっているのです! それが、領主としての一番大切なお役目ではありませんか!?」


「…………っ」


「普通の人間が、普通に頑張って成果を出す……それが、そんなにいけないことなのですか? そんなに、価値のないことなのですか!?」


 私は、必死に訴えかけた。


「私たちは、王侯貴族ではありませんけれど、それでも十二分に恵まれていますわ。穏やかな領地で、皆と支え合いながら暮らしていける。そんな普通の幸せが、すぐそばにあるというのに……あなた様にとっては、それは不満なのですか……?」


 私の問いかけに、レオン様はぐっと言葉を詰まらせた。そして、苦しげに顔を歪めると、「…………君には、分からないさ」とだけ呟き、私に背を向けて部屋を出て行ってしまった。


 残された部屋で、私は立ち尽くすしかなかった。


 夫の求める「特別」と、私の願う「普通」。

 私たちの心は、こんなにもすれ違ってしまっているのだろうか。


 そして、彼が本当に求めているのは、勇者様の力なのか、それとも――勇者様のように、多くの妻を持つことなのか。


 不安が再び、冷たい霧のように私の心を覆い始めていた。





 どれくらいの時間、そうして立ち尽くしていたのだろうか。


 控えの間の扉が静かに開き、気不味そうな顔でレオン様が戻ってきた。

 彼は私を一瞥したが、すぐに視線を逸らし、「……帰るぞ」とだけ短く告げた。


 声には感情が欠けていて、昼間の怒りや苦悩の熱はもう感じられなかったが、代わりに王宮の城壁よりも高い壁が、私たちの間にそびえ立っているのを感じた。



 王宮からの帰路は、行きとは比べ物にならないほど重苦しいものだった。


 揺れる馬車の中で、私たちは一言も言葉を交わさなかった。レオン様はずっと窓の外を眺めていて、その横顔からは何を考えているのか読み取れない。


 私はといえば、隣に座る夫の存在を感じながらも、彼に触れることも、話しかけることもできずにいた。


 募る不安と、彼への不信感、そしてほんの少しの期待が胸の中で渦巻いていた。

 どうか、いつもの優しいあなたに戻ってほしい、と。しかし、その願いは口に出せないまま、馬車の振動と共に揺れていた。



 領地の館が見えてきても、私たちの間の空気は変わらなかった。

 出迎えてくれた使用人たちの前では、私たちは努めて平静を装った。領主夫妻として、彼らに心配をかけるわけにはいかない。


 けれど、二人きりになった瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、互いに距離を取ってしまう。


 夕食の席も、ほとんど会話はなかった。食卓に並べられた料理は、味を感じられないほどだった。ただ、機械的に口に運び、飲み込むだけ。レオン様も同じようで、早々に席を立ってしまった。


 夜が更け、寝室へ向かう時間が来た。今日の出来事を、そして私の胸に渦巻くこの不安を、このままにしておくことはできない。けれど、何を話せばいいのだろう。彼を問い詰めたところで、また「君には分からない」と突き放されてしまうのではないか。


 あるいは、もっと恐ろしい真実――彼が本当に他の女性を望んでいるという事実を、突きつけられてしまうのではないか。


 重い足取りで寝室の扉の前に立つ。深呼吸を一つして、意を決して扉を開けた。


 部屋の中には、すでにレオン様がいた。窓辺に立ち、月明かりに照らされた庭を眺めている。私の入ってきた気配に気づいたはずだが、彼は振り返ろうとはしなかった。


 寝室の空気は針が落ちる音さえ聞こえそうなほど、重く張り詰めていた。

 昼間の王宮での出来事が、透明な山脈のように二人の間に横たわっている。


 先に口を開いたのは、私の方だった。ベッドサイドのランプの頼りない灯りの中で、意を決して、ずっと胸の内に押し込めていた言葉を紡いだ。


「……あなた様は、私だけでは、足りないのでしょう?」


 静かな問いかけに、隣にいたレオン様が息を呑むのが分かった。


「え……? アリア、何を……?」


 戸惑う夫の声に、私の心のダムが決壊した。()き止めていた不安と悲しみが、涙となって溢れ出す。


「だって……! 勇者様のように……なりたいのでしょう!? あの……記録で読みましたわ。勇者様は、たくさんの妻を娶ったと……!」


「なっ……!」


 レオン様が目を見開いたのが分かった。それでも私は止まらなかった。


「だから『転生者』だなんて言い出して……! 私という妻がいながら、他の女性を……あの……『はーれむ』? とかいうものを作りたいのですね!? 私だけでは、あなた様を満たして差し上げられないから……っ!」


 嗚咽混じりに責め立てる私の言葉に、レオン様は完全に虚を突かれたような顔をしていた。


「アリア!? 違う、何を言っているんだ! ハーレムだと? 俺が、そんなことを考えていると本気で思っているのか!? 君以外の女性なんて、ただの一度だって考えたことなどない!」


 必死の形相で否定するレオン様。彼の焦った様子は、私には演技には見えなかった。けれど、私の涙は止まらない。


「でも、だって……あなた様は変わってしまわれた……! ずっと、私ではない、遠いどこかを見て……!」


 私の涙を見て、レオン様はハッとしたように目を見開いたように見えた。

 そして、まるで初めて気づいたかのように、深く後悔の色を浮かべている。


「……そうか……俺は……君を、そんなにも不安にさせていたのか……」


 彼は力なく呟くと、震える手で私の肩をそっと抱き寄せた。


「すまない、アリア……! 本当に、すまない……!」


 彼の声も、震えているのが分かった。


「俺は……ただ……ずっと……特別な存在になりたかっただけなんだ。平凡な田舎領主である自分に、自信が持てなくて……。王都で見た勇者の伝説に、馬鹿みたいに憧れてしまったんだ……。でも、まさかそれが、君をこんなにも傷つけることになるなんて……考えてもみなかった……」


 それは、彼の偽らざる本音のように聞こえた。


「君を不安にさせるためなんかじゃない。ましてや、他の女性を求めるためだなんて、とんでもない! 俺にとっては、君だけが……アリアだけが、俺のたった一人の、かけがえのない妻なんだ……!」


 必死に弁明し、謝罪するレオン様の言葉が、少しずつ私の心に染み込んできた。疑心暗鬼に曇っていた視界が、涙とともに晴れていくようだった。


 私は、濡れた瞳でレオン様を見上げた。


「私は……」


 震える声で、今度は私が自分の本当の気持ちを伝える番だった。


「私は……『勇者』様ではない、今のあなた様が好きです。不器用で、たまに変なことを言い出して皆を困らせるけど、誰よりも優しくて、領地のために一生懸命で……そんな、ベルクハルト領の領主様であるあなたが……私の、たった一人の旦那様を愛しているのです……!」


 私の言葉に、今度はレオン様が息を呑んだのが分かった。彼は、まるで大切な宝物を見つけたかのように、私を強く抱きしめた。


「アリア…………ありがとう、アリア。俺は、とんでもない勘違いをしていたようだ」


 そう言って、彼は私の涙を優しく指で拭った。


「俺が求めていたのは、大それた力や知識ではなかったのかもしれない。目の前にいる愛しい妻と共に築いていく、穏やかな暮らしこそ……」


「レオン、様……」


 拭ってもらったばかりだというのに、私の視界がまたじわりと滲む。


「もう、勇者の真似はしない。愛する妻の隣で、君の夫として。この領地の領主として、地に足をつけて生きていくよ」


 その言葉に、私はようやく心の底から安堵した。


(ああ、よかった……。やっと、旦那様が戻ってきてくれた……)


 私たちはどちらからともなく唇を重ね、互いの温もりと存在を確かめ合った。

 気まずかった寝室の空気は、いつしか甘く溶けていたようだった。


 久しぶりに感じる、満たされた幸福感に私は身を委ねた。



 *



 後日。

 すっかり以前の穏やかな日常を取り戻したある日の午後。私は庭でお茶を飲みながら、ふと思い出してレオン様に尋ねた。


「そういえば、旦那様。以前、書斎で悩んでいらした『まよねーず』? とやらは、一体どのようなものなのですか? 卵と油とお酢を使うとか……?」


 その単語を聞いて、レオン様は一瞬、懐かしむような遠い目をなしたように見えた。


「ああ、マヨネーズか。それはだな、俺の……いや、その、なんだ……すごく美味しい調味料で……でも清潔な卵が必要で……」


 彼は説明しようと言葉を探していたが、私はくすくすと笑ってそれを遮った。


「まあ、旦那様ったら。また新しい設定をお考えですか? 懲りないお方ですね」


 悪戯っぽく微笑む私に、レオン様は「いや、だからこれは……」と言いかけて、結局、苦笑いを浮かべるだけにとどめた。


「もう、ほどほどになさってくださいね?」


 そう言って微笑む私は、夫が本当に勇者様の影を追うことをやめたのだと信じている。


 夫が何を考えているのか、本当のところは私には分からないけれど。


 ベルクハルト領には、今日も穏やかで、普通の、そして私にとっては何よりも代えがたい幸せな時間が流れている。それが、今の私にとって何よりの喜びで、「特別」だった。



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