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ハロルド 上

ハロルドのサイドストーリーを投稿します。

上、中、下の三話で完結ですが、一話一話が長めなのでよろしければお付き合いください。

ご興味があれば、ハロルドのルーツを覗いてみてください。

「なあ、ザカライア……東方に支店を出してみないか?」


ザカライアの執務室にあるソファにだらりと身を預け、天井を仰いでいたハロルドがぽつりと呟いた。


「東方に?」


「うん、まずは、東の大国のオウル帝国あたりに……」


「……支店を出すとなると、相当な労力がかかる。今の俺たちに、そんな余裕があるか?」


「そうなんだよな〜……やっぱり、時間足りないよな〜」


ソファで気だるげな姿勢のまま、ハロルドは書類を取り出し、ぱらぱらと目を通している。


「……やはり、東方に行きたいのか?」


「ん〜……行きたいと言うか……行った方がいいかなって……」


「あの手紙を、信じているのか?」


「……信じてると言うか、気にはなるから確認しに行くって感じかな」


「こんなことは言いたくないが……お前が『ザカルド商会の副会頭として成功している』と新聞に載った直後に届いた手紙なんて……」


「まあ、確かにね。いきなり祖父を名乗る人物からの手紙だもんな〜……」


ザカライアは、なんとも言えない複雑な表情をしていた。

ハロルドには、それが困惑と心配を意味していることがわかっていた。


「ザカライア、心配してくれてありがとう。でも、その理由で近づいてきたのなら……それならそれで、徹底的に潰すから安心して」


ハロルドが成功を収めた今、公私を問わず、様々な人間が彼に接近してくる。

それ自体は、決して悪いことだとは思っていない。

ただ、もし、その誰かが自分の大切な人に危害を及ぼすようなことがあれば、そのときは容赦しない。

ハロルドは、そう決めていた。




彼は、自我が芽生える前から孤児だった。

いわゆる『捨て子』である。

赤ん坊のころに教会に引き取られ、シスターたちの手で育てられたが、自立できる年齢になると、有無を言わさず外へと出された。

教会には常に多くの子どもたちがいて、限られた資源の中で全員を守り続けることはできない。

だからある程度育った子どもたちは、次の子のために場所を譲らなければならなかったのだ。


こうしてハロルドの路上生活が始まった。



まだ小さなハロルドにとって、毎日を生き抜くだけで精一杯だった。

頼れるのは、時折訪れる慈善事業と称した、貴族たちの自己満足の施しだけ。

それでも彼は、少しずつ自分の立場を理解していった。


顔立ちの整った子どもは貴族に引き取られ、この薄汚れた街から抜け出していく。

それ以外の子どもたちは、掃きだめのようなこの街で、ただ生き延びることに必死だった。


そんな中で、ハロルドは他の子どもたちに比べて記憶力が抜群によく、あらゆることを素早く覚えた。

さらに、大人たちにどんな表情を見せ、どんな言葉を使えば印象が良くなるか、そんな『処世術』も自然と身につけていた。

文字の読み書きや計算もすぐに習得し、それらはやがてハロルドの最大の武器となった。


周囲の子どもたちが物乞いと盗みに頼るなか、ハロルドはまだ少年でありながら、わずかでも金の稼げる仕事を探し、手際よくこなしていた。


年齢が幼すぎるゆえに、大人に騙されかけたことも何度もある。

だが、ハロルドは持ち前の頭脳で逆に相手を出し抜いた。


もちろん、この街には悪い大人ばかりではない。

少ないながらも、善意を持つ人々もいた。

やがて街に馴染むにつれ、ハロルドに手を差し伸べる大人も現れはじめた。

中でも何よりも助かったのは『情報』だった。


「ハロルド、今度アービング公爵様が、平民のための無料で学べる学校を建てるらしいぞ。お前は頭の良い子だから、行ってみるといい」


ある日、手伝いをしていた八百屋の店主が、そんなことを教えてくれた。

学ぶことが好きなハロルドは、純粋に「もっといろんなことが覚えられるのかな?」と興味を抱いた。


「ありがとう、おじさん!今度、行ってみるよ!」


気が逸り、言われた場所へ向かってみると、周囲の景色には不釣り合いなほど立派な建物が建っていた。

門の陰からそっと覗くと、身なりの整った大人たちが庭先で忙しそうに動き回っている。


そのうちの一人がハロルドに気づき、手招きした。

おずおずと近づくと、小さな包みに入ったキャンディーを手渡された。


「坊主。学校に興味があるのかい?」


「……うん」


キャンディーを受け取り、小さな声で返事をすると、その大人は優しくハロルドの頭を撫でた。


「公爵様の学校は、来週から……そうだな、五回寝たら始まるんだ。君も興味があるなら、来るといいよ」


「……ここに?」


「そう。朝の九時にここに来れば、先生がいろいろ教えてくれるよ。来られそうかい?」


「うん。朝なら……大丈夫」


ハロルドは、貴族が好きではなかった。

けれど、自分のためになることなら、施しだろうと素直に受けようと思っていた。

だから、ためらいなくうなずいた。


「友達も誘ってきていいよ」


そう言われたが、貧民街に友達などいない。

周囲の子どもたちは、皆が皆、物を取り合う『敵』なのだ。


「……うん……」


そんな事情を説明しても仕方がないと、ハロルドはただ頷くだけにした。


「じゃあな。五回寝た次の日、待ってるよ」


ハロルドはこくりと頷くと、来た道を駆け戻った。


(学校……)


学べることが楽しみで、口元が自然と笑顔になる。



平民学校に通い始めたハロルドは、すぐに夢中になった。

タダでおやつがもらえ、さまざまな勉強を教えてもらえる毎日は、とても楽しかった。


学びに対するハロルドの情熱は、誰よりも貪欲だった。

「教わったことを忘れるのはもったいない」と、片っ端から覚えていった。

その熱意に、先生も舌を巻いたという。


やがてその噂は、この学校を創設したアービング公爵の耳にも届いたらしい。


ハロルドは授業が始まる二時間前には学校に着いた。

七時から九時までは、先生が用意した本を自由に読める。

眠ることよりも、何かを知ることのほうが楽しい。

その時間は、ハロルドにとってかけがえのない幸福だった。


ある朝、まだ誰もいない学校に足を運び、玄関先の本棚から一冊を取り出して、庭の木の下で読み始めめたが、すぐに本に夢中になってしまった。

目の前に人の影が落ち、誰かが目の前に立ったことを感じた。


(まずい!授業の時間になってしまったか!?)


慌てて顔を上げると、そこにはフードをかぶった貴族の男が立っていた。


フードから見える顔は、よく見ると、見たこともないほど美しい顔立ちの男で、ハロルドは思わず息を呑んだ。


孤児にとって、貴族を見つめることは危険だ。

「何を見ている!」と怒鳴られ、殴られることもある。

だから、孤児たちは貴族の目を見ない。

それが暗黙の了解だった。


自分が凝視していたことに気づき、ハロルドは慌てて目をそらし、立ち上がる。


「お前が、ハロルドか……?」


うつむいたまま、小さく頷く。


「緊張をしないでくれ。悪い意味で来たわけではないんだ‥‥。私は、ザカライア・アービング。この学校の……そうだな……責任者だ」


その言葉に、ハロルドは驚いて顔を上げた。


(アービング‥‥この学校を建てた人の名前だ……)


「君が優秀だと、ゲイリー……先生から聞いている。実際、君がどれほど優秀なのか気になってね。少し、話せるかな?」


見目麗しい男が、少しためらいながらそう言った。

ハロルドが警戒の目を向けると、男は何も言わず、彼の隣に腰を下ろした。


「君も座って」


そう言われ、緊張しながらもゆっくりと地べたに座る。


「どんな勉強が好きだ?」


唐突な問いに、少し戸惑いながら答える。


「な、何でも好きです……」


ザカライアは、ハロルドが読んでいた本に目を落とす。


「その本……法律の本だね。君の年齢には……だいぶ難しくないか?」


「いえ……これは考えるものではなく、文字を覚えるだけなので……そんなに難しくありません」


「……君はこの本を、暗記しているのか?」


「暗記?……まあ、そうです」


「……その本に書かれている、第十六条はなんと書いてあったか覚えているか?」


「国の制度、国の独立、領土の保全が重大かつ切迫した脅威にさらされた場合には、国王は、状況により必要とされる措置をとる。これは、国王の判断で決まるものとする」


「……二十一条は?」


「王族提出又は貴族院提出の改正案は、両者により同一の文言で可決されなければならない。改正は、ファルマン帝国の国王陛下に承認された後に、確定的となる」


「……これは驚いた。君、本当に暗記しているんだな。他の教科はどうだ?」


「計算なら得意です」


ザカライアは近くの枝を拾い上げ、地面に何かを書きはじめた。


「この問題が、解けるか?」


ハロルドは、地面に書かれた数字をじっと見つめる。


(先生に教えてもらったことはないけど……たぶん……)


ハロルドは数字を見つめ、枝を拾い、さらさらと答えを書いていく。

ザカライアは黙って見守っていた。


「……これでどうでしょうか?」


しばらく沈黙の後、ザカライアがゆっくり頷いた。


「すごいな。大人でも解くのが難しい問題だ。まさか、この計算……習ってはいないよな?」


「はい、習ってはいません。でも、もしかしたらこのやり方でいけるかなって……」


「……ゲイリー先生が言っていたよ。君には来年、もう教えることがなくなるかもしれないと。君は、卒業したらどうするつもりなんだ?」


「卒業……やはり、学校で習うことがなくなったら、ここを出ていくしかないですか?まだ、たくさん勉強がしたいです……」


楽しい時間がなくなってしまう……


その現実を想像した瞬間、ハロルドは自分の足元が、暗闇の底へ吸い込まれていくような感覚に襲われた。

勉強が取り上げられ、ただ街で働くだけの人生になる……そう思うと、とても耐えられなかった。


そんなハロルドの沈んだ表情を見て、ザカライアは慌てて口調を改めた。


「いや、言い方が悪かったな。すまない。……実は、私はこれから事業を始めようと考えている。君はまだ若いが、学ぶ姿勢は見事だし、頭も抜群にいい。もしよければ、一緒にやってみないか?」


初め、ハロルドは彼の言葉の意味がよく分からなかった。

「働かないか」ではなく、「一緒にやってみないか」。


「立ち上げるのは商会だ。ただ、最初から一緒にやりたいと思える相手がなかなか見つからなくて……ちょうど探していたんだ。熱意があり、努力を惜しまない、何より貪欲に学ぼうとする人間を。私は国の仕事も抱えているから、商会を任せられるパートナーが必要なんだ」


「あ、ありがとうございます……そう言っていただけるのは光栄ですが、僕はまだ子どもです。あなたのもとで働かせていただけるだけでも嬉しいのに、パートナーだなんて……」


「年齢や地位なんて関係ない。ゲイリー……先生によれば、君には発想力があり、学ぶ力がある。そして記憶力も素晴らしい。君なら、貴族相手の商売でも十分にやっていけるだろう」


ザカライアは、その整った顔に穏やかな笑みを浮かべた。

ハロルドは、やはりその笑みに目を奪われた。


「うまくできるかは分かりませんが……僕をあなたのもとに連れて行ってください。一生懸命、働きます!」


ザカライアは、ハロルドの頭をポンポンと二度、優しく叩いた。



卒業後、ハロルドはザカライアの屋敷の一室を与えられた。


そこは、今まで暮らしてきた部屋がまるでゴミ箱のように思えるほど、天と地の差がある部屋だった。清潔で広く、隅々まで手入れの行き届いた空間。食事はもちろん、お菓子まで美味しく、毎日が夢のようだった。


仕事を教わると、ハロルドは驚くほどの速さで吸収していった。


礼儀作法や身だしなみ、所作の勉強は「貴族の中に飛び込んで覚えろ」と、ザカライアに勧められて城へ通うことに。

そこでは秘書官たちに混ざって働きながら、貴族社会の素養を少しずつ身につけていった。


やがて、信じられないような話が舞い込んできた。


国王陛下のもとで働け。


突然の命に、ハロルドは驚きながらも全力で応えた。

陛下の補佐として多忙な日々を送りながら、ザカライアに迷惑をかけまいと必死だった。


だからこそ、国王の資料室にある本や秘書官たちが使う辞書、そして書庫に並ぶあらゆる書物を、三日三晩、眠らずに読み漁った。


さすがに体は限界を迎え、立ったまま眠ってしまうこともあった。

それを知ったアーロン陛下は、優秀すぎる少年をしばらくの間、直属の秘書に任命してくれた。


若き国王アーロンは柔軟な考えを持っており、ハロルドのような平民でも秘書官に登用してくれた。

もちろん、皇妃がザカライアの姉であるという背景もあったが、ハロルドには多くの学びの機会が与えられた。


城での仕事に慣れてきたころ、ザカライアに呼ばれて執務室を訪れた。


「なんですか、ザカライア?」


執務室では、ザカライアがテーブルに大量の書類を並べていた。


「ああ、そこに座ってくれ。ハロルド、いよいよ商会を立ち上げられる時期が来た。ここにあるのは、そのために必要な書類だ。全部、目を通してくれないか?」


「わかりました。少し時間はかかりますが、確認させてもらいます」


「ああ、頼んだ。それと……そっちの書類には、ハロルドのサインが欲しい。君には共同経営者として、副会頭になってもらう」


「……副会頭……」


「これから、忙しくなるぞ。アーロン陛下には、君をこちらに戻してもらうようお願いしてある。すまないが、これからは様々な手続きにも関わってもらう。やれそうか?」


「大丈夫だと思います。王城で、たくさん学ばせていただきましたから」


「陛下から、『ハロルドを手放したくない』と言われたが……きっぱり断ってしまって良かったのか?」


「もちろんです。僕はザカライアに拾ってもらった。今までの勉強も、すべてはこの商会を立ち上げるための準備だったんです。これからは、実践の中でさらに学んでいくつもりです」


「ああ。これからは、ほとんど君に任せることになるが……頼んだぞ」


ハロルドは、毎日が楽しくて仕方がなかった。

商会の立ち上げに向けて、全力で奔走する日々。より多くを学ぶため、伝手を頼って他の商会に赴き、現場で商いの知識を吸収していった。


ザカライアは国の仕事と公爵家の務めに追われ、商会まで手が回らない。

そのため、会頭として最終判断だけを担い、日常業務のほとんどはハロルドに任されていた。


最初は若すぎると侮られ、騙そうとする者もいた。

だが、ザカライアの後ろ盾とハロルドの明晰な頭脳が、そのすべてをはね除けた。


やがて、ハロルドは夢中で仕事をこなすうちに、ザカルド商会を、ファルマン帝国で一、二を争う商会へと育て上げていた。




「本当は、私も東方の国には一緒に行きたいところなんだが……ハロルドが行きたいのなら、オウル帝国に行くのは構わない。ただ、商会から腕の立つ者と、事務処理ができる者を多めに連れて行くといい」


「ありがとう、ザカライア。もちろんザカライアたちが大切な時期だってわかってるさ。目的はオウル帝国に出店ができるかどうかの現地調査。東方に出店できれば、ザカルド商会をもっと楽しい商会にすることができるしね!……謎の親戚は本当についでだから、心配しないで!」


「ああ、商会の仕事に関しては何の心配もしていないよ。でも、そっちの親戚に関してはなあ……」


ザカライアはテーブルの上に置かれた手紙を見つめていた。


「何度も手紙が来たからね。このまま無視していつまでも続くのも嫌だし、いっそはっきりさせてくるよ」


「……わかった。いつからどのくらい行く予定か、決まったら教えてくれ」


「うん、わかった」



それからしばらくして、ザカライアに可愛い待望の女の子が生まれ、皆の生活も落ち着いた頃、ハロルドは東方のオウル帝国へ、一年をかけて向かうことを決めた。


船着き場では、ザカライアとオクタヴィア、そして小さな女の子が見送りに来ていた。


「ハロルド気を付けて」


ザカライアは、ハロルドを心配そうに見ている。


「ハロルドさん、お体に気をつけて……あの、この笛を吹けば、鳥が来ると思います。いつでも手紙をくださいね。鳥たちには、すぐに届けるようお願いしてありますから」


「ありがとうお姫様。助かるよ」


ハロルドはにっこり笑い、オクタヴィアが差し出した小さな銀の笛を丁寧に受け取る。

すると彼は、オクタヴィアのスカートの陰に隠れている小さな影に目を向け、しゃがみ込んで声をかけた。


「ビビアン、そこにいるのはわかってるぞ?出てこないと……お土産買ってこないぞ!」


「いーやー!」


その言葉に反応し、シフォンの隙間から小さなお姫様が飛び出してくる。


「はろーど、ビビにもおみゃーげ、かってきて!」


「ははは、やっと顔を出したな!」


ハロルドはその小さな姫君を軽々と抱き上げ、空に向かって高く持ち上げる。

「キャッキャッ」と嬉しそうに手を振るその姿は、ザカライアとオクタヴィアの宝物のビビアン。


まだ言葉を覚えたての年頃で、とても活発。

いつもハロルドの後を追い、可愛らしいイタズラをしては皆を笑わせていた。

ハロルドもビビアンが大好きで、よく一緒に遊んでいた。


「よし、ちゃんと顔を見せてくれたから、ビビにもお土産を買ってきてあげよう。何がいいんだっけ?」


「あめ!ビビ、あめがほしーの!」


「よし、飴だな。任せろ、たくさん買ってくるよ。約束だ!」


「はろーど、すぐにかえってくる?」


「うーん・・・ビビが次のお誕生日を迎えるころには帰ってくるよ。次に会う時はいまよりお姉さんだな」


「うん!ビビ、おねーさんになるの!」


「ビビアン、そろそろハロルドが出発する時間だ。お父さんのところへおいで」


ザカライアが少しすねたような声で、娘に手を差し伸べる。


(あーあ、俺と楽しそうに喋ってる娘にヤキモチ焼いてるな……ザカライアってほんと、娘のことになると心が狭くなるんだからな~)


ハロルドは思わず口元を緩め、小さな姫をそっと父親に託す。


「じゃあ、行ってくるね!」


そう言い残し、ハロルドは船へと向かった。



オウル帝国へは、ファルマン帝国から船で十日間かかる。

ハロルドはその時間を惜しまず、オウル帝国について書かれた本を読み込んでいた。


客船の甲板にある椅子でくつろいでいた時、ふいにオウル語で声をかけられる。


『オウルの方ですか?』


『……いいえ、私はオウルの者ではありません』


覚えたばかりのオウル語で答えると、日傘をさした若い女性が目の前に立っていた。

濃い茶色の髪に健康的な小麦色の肌。はっきりとした目鼻立ちに、長いまつ毛からのぞく瞳は、オレンジに近い茶色。

本で読んだ、オウルの人々の典型的な特徴だ。


『あなたは、オウルの方ですか?』


気になって、ハロルドも尋ねてみる。


『はい、そうです……読書の邪魔をしてごめんなさい。あなたの読んでいる本がオウル語だったので、つい声をかけてしまって……』


『長旅ですからね。もしお話し相手が欲しいのでしたら、私も暇ですし、ご一緒しませんか?』


ちょうど良い機会だと、ハロルドは自然な笑みを浮かべる。


『まぁ……それは嬉しいのですが……』


女性は少し戸惑って、ハロルドが膝に置いた本に視線を送る。


(読書の邪魔をしていると思ったのか……?)


『どうか気にせず。私はハロルドといいます。仕事でオウル帝国へ行くのですが、初めての訪問なので、いろいろ教えてもらえると助かります』


『そうなんですね……私でよければ。私は、ユーファと申します』


『ユーファさんですね。どうぞこちらに。もう一脚、椅子を持ってきてもらいますね』


ハロルドは近くの乗員に椅子を頼みながら、心の中でつぶやく。


(名前を名乗ったあと、一瞬の間……貴族か?)


持ってこられた椅子をユーファの隣に並べ、ハロルドも静かに腰を下ろす。


『ハロルド様は、オウル語がお上手ですね。失礼ですが……ファルマンの男性は、肌の白い方が多いので、てっきりオウルの方かと……申し訳ありませんでした』


本当に恐縮している様子に、ハロルドは思わずくすりと笑う。


『本当に気にしないでください。僕自身、自分を生粋のファルマン人だとはあまり思っていませんから』


穏やかに微笑む。


彼の肌は、どちらかといえばユーファに近い色合いだ。

平民であれば日焼けもあるが、ハロルドのように少しだけ違う色でも、気づかれにくい。

ザカライアは気づいていても、一度も口にしたことはなかった。


『本当に、私ったら……申し訳ありません。よく気遣いがなってないと怒られます。なんでも思った事を言ってしまうので……』


『そんなことないですよ。日頃私の近くには思ったことしか口にしない小さな姫がいるので、ユーファさんなんて、かわいいものです』


ハロルドは口元を緩めながら、ビビアンのことを思い出していた。


『あっ、それって、さっき見かけたアービング公爵様のお子様ですか?』


その一言に、警戒心が頭をもたげ、ハロルドの視線が一気に鋭くなる。


『……なぜ、そうお思いに?』


穏やかな口調だが、冷たさが混じる。


『あ……あの……また、立ち入った事を……そ、そのう……アービング公爵様は新聞にもよく載る有名な方ですから、お顔は存じておりました。奥様とお子様は初めて拝見しましたが……。船の上から見ても、公爵様の周りには誰もいらっしゃらず目立っていらっしゃったので……つい、眺めてしまっておりました……』


(そうだった、ザカライアほど整った顔立ちの人間など、そうはいない。目立つに決まってる。今日は家族でいたからフードもかぶってなかったし……)


『いえ、納得しました。確かに目立っていましたね』


『はい……』


『……さて、では、私からいくつかユーファさんに質問をしてもいいですか?』


『!……ええ、もちろんお答えしますわ。なんでしょうか?!』


ユーファは、何度も失言してしまい、このままハロルドさんと一緒にいない方がマシなのではないだろうか?と考えていたので、ハロルドが話題を変えてくれたのが、救いのように思えた。


『私は商会の仕事でオウル帝国に行くのですが、オウル帝国の輸入品はどのあたりから入ってくるのですか?』


『商会……』


ユーファはその言葉に、ピタリと動きを止めた。


『商会が何か引っかかりますか?』


『い……いえ、別に……』


『オウル帝国で一番大きな商会はダルジュ商会だと聞いていますが……』


『え、ええ、そう……ダルジュ商会が一番大きいです……輸入は、近隣国が多いと……聞いてますが……』


『なるほど。じゃあ、買い物をするなら、どこに行けばいろいろ揃いますか?』


『……ああ、買い物なら、王都の南にあるドーラ街がいいと思います。商店がたくさん並んでます』


『ドーラ街ですね?ありがとうございます。では、そちらに行ってみます』


(商会に、えらく動揺してるな……関係者か?……それなら……)


『ちなみに、ダルジュ商会の幹部と会うには、どうすればいいかご存知ですか?』


『……申し訳ありません……わかりません』


(ふうん……)


ハロルドは俯きがちのユーファに目を向け、静かに首を傾げた。


『じゃあ、オウル帝国で、美味しいものを教えてください』


その問いには、ユーファは顔を上げ、先ほどまでの曇った表情が嘘のように晴れた。そして、嬉しそうに、美味しい食べ物の話を始めた。


二人が他愛もない話をしていると、ふいに一人の女性がユーファのもとへやって来た。


『お嬢様。ずっとお戻りにならないので、心配いたしました。あまり長く風に当たっておられると、風邪を召されてしまいます。そろそろお部屋に戻りましょう』


『シーラ、ごめんなさい。いま、こちらの方とオウル帝国についていろいろお話ししていたの』


ユーファが手振りでハロルドを紹介すると、その女性、シーラの表情がわずかに険しくなる。


『……どちら様でしょうか?』


『ちょっと、シーラ、やめて! ハロルド様は、私の方から話しかけて、お話していただいてただけなの!』


ユーファが慌てて制止するのを見て、ハロルドは内心で「自己紹介が必要そうだ」と察した。そして、相手に不安を与えぬよう、自ら名乗ることにした。


『……先に名乗らず失礼いたしました。私はザカルド商会の副会頭を務めております、ハロルドと申します。身元は明確ですので、ご心配なく。何かあれば遠慮なくお申し付けください』


「ザカルド商会……?」


シーラはその名を聞いた瞬間、明らかに驚いた表情を見せたが、すぐに顔を引き締め、姿勢を正す。


『それは、大変失礼いたしました。ファルマン帝国でも名高いザカルド商会の方でしたか。私は、ユーファお嬢様にお仕えしているシーラと申します。先ほどは無礼な口をきいてしまい、誠に申し訳ございません』


そう言って、シーラは深く頭を下げた。

ユーファの方をちらりと見れば、彼女は目を丸くしてハロルドを見つめている。


『……ハロルド様は……ザカルド商会の副会頭だったのですね……』


『ええ、そうなんです。ユーファさん、お話とても楽しかったです。……お迎えがいらっしゃったようですし、続きはまた次の機会に』


『え、ええ、ぜひ。また……』


そう言うと、ユーファはシーラと共に客室の方へと戻っていった。


「お嬢様、ね?……」


ハロルドは静かに独り言を呟くと、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


(あとで乗車名簿でも覗きに行くか……)


そう考えながら、ハロルドは横に置いてあった本を再び開き、読みかけのページに視線を落とした。



その後、ユーファとは、狭い船内にもかかわらず一度も顔を合わせることがなかった。意図して避けているようにも、偶然すれ違い続けているようにも思えるが、確かめる術はない。


そして明日、船は予定通り、オウル帝国へと到着する。


ハロルドは、静まり返った自室の片隅で、九日間を過ごした簡素な空間に身を置いたまま、例の手紙を広げていた。



=================


ザカルド商会

副会頭 ハロルド様


突然のお手紙をお許しください。

先日、新聞に掲載されたあなた様の絵姿を拝見いたしました。

実は、私の娘は、十九年前、子を身ごもったまま消息を絶ちました。

以来、ずっと探し続けておりますが、いまだ行方は知れず。


そんな折、新聞に載るあなた様の姿を拝見し、

あまりにも娘に似ており何度もその絵姿を見返してしまいました。


お許しいただけるのであれば、

ぜひ一度、お会いさせていただけないでしょうか。

あなた様が、もしも私に連なる存在であるのならば、

それをこの目で、確かめさせていただきたく存じます。


ご迷惑を承知の上で、こうして筆を執りました。

ご許可いただけましたら、こちらから伺わせていただきます。


良いお返事を、心よりお待ち申し上げております。


オウル帝国 

ヘイリー・デジュライ


=================



(ヘイリー・デジュライ……オウル帝国の貴族名鑑には、「デジュライ」の名が侯爵位として確かに載っている……だが……今までにも、こういった手紙は山ほど届いてきた。似ているだの、会って確かめたいだの。だが、この手紙の文面は、それらとはどこか違う。押しつけがましさも、胡散臭い情もない。言葉の端々が、なぜだか妙に引っかかる)


ハロルドは、手紙をゆっくりと折り畳んだ。


(実際に会ってみて、仮にこちらに害意があるような人物だったら……潰しておけばいい。相手が帝国の貴族であっても、必要とあらば徹底的に排除するまでだ)


視線を落としながら、ハロルドは小さく息を吐く。

そこに迷いはない。

彼にとって、自分の出自は過去のものであり、今を動かす力は「商会の名」と「自分の判断力」だ。


そんな考えを頭の片隅に置きながら、これからの一年について思考を巡らせる。


(まずは、オウル帝国で支店の基盤を整える……現地で信頼できる人材の確保、土地勘を持つ交渉人の選定、出店の物件をいくつか見て回って……契約までは、最低でも一年以内に終わらせたい。いや、半年以内でもいいかもしれない……)


思考は自然と業務的な事柄へと向かっていく。

だが、次にふっと浮かんできたのは、ハロルドのお気に入りの小さな姫のことだった。


(ああ、それから……飴もたくさん買わないといけないな……)


そこで思わずくすりと笑った。

いかにも自分らしくない、という表情だ。


(お土産が飴いっぱいじゃ味気ないか……ビビには、他にも何か良さそうなものを見繕ってやるか……)


そんなことを考えている自分を、どこか少しだけ面白がるような気持ちもあった。


(…………それと、デジュライ侯爵か。気になることは先に片づけたほうがいい。会うなら、着いたらすぐにでも。無駄に引き延ばしてもいいことはない)


思いはすでに次へと動いていた。

目の前のことを、淡々と、そして冷静にひとつずつ処理していくのがハロルドのやり方だった。

彼は立ち上がると、部屋を見回し、持ち物の整理を始める。

長かった船旅も、いよいよ明日で終わる。


明日、オウル帝国に着く。


ハロルドは、次の動きの準備を進めながら、その最終日を静かに過ごした。



船の汽笛が鋭く空に響き、ゆっくりと船体が岸辺へと接岸していく。

波が岸に打ち寄せる音に混じって、甲板のあちこちから人々のざわめきが広がっていた。ほどなくして、タラップが下ろされ、乗客たちがそれぞれの目的地へ向かって足を運び始める。


ハロルドは、護衛と事務官たちに軽く指示を飛ばしながら、手慣れた様子で船を降りた。


潮の香りに混じって、街の空気が鼻先をかすめる。そこには新しい土地特有の緊張感と、これから始まる日々の重みが漂っていた。


ふと、最後にもう一度だけ振り返る。

しかし、甲板にも船室の陰にも、ユーファの姿は、やはり最後まで現れなかった。


(……まあ、いいか。彼女が何者なのかは、もう分かった。無理に会おうとする必要もない……そのうち、会うだろう)


ハロルドはそう結論づけ、背筋を伸ばすと再び前を向いた。


抜け目のないハロルドは、念のため乗客名簿にも目を通していた。

入手に多少時間がかかったが、それに後ろめたさはない。

彼が興味を持てば、大抵のものは手に入る。

今回は、それを「記憶」しただけのことだった。


もちろん、それが合法であるかどうかは、ハロルドにとっては取るに足らない問題だった。



ハロルドたちは、城下町にほど近い場所にある大きな屋敷を一年間借りている。

護衛や事務官たちも共に暮らせるよう、利便性を考えてザカライアが手配してくれたものだ。

さらに、足代わりの馬車に加え、屋敷を管理する執事や侍女などの使用人も整えてくれた。

さすがにザカライア自身の屋敷ほどではないが、周囲と比べても立派な屋敷であることに変わりはない。


到着してすぐに、ハロルドはまっすぐ執務室へ向かった。


「改めて、私はハロルドです。一年間と短い間ですが、よろしくお願いします。デバルさんはファルマン語が話せると伺いました。屋敷の中ではファルマン語で構いませんか?」


執務室に入ると、後ろに控えていた執事に改めて挨拶をする。

あえていつもの軽い口調ではなく、ザカルド商会の副会頭としての礼節をもって言葉を選ぶ。


「ハロルド様、私のことはどうぞデバルと呼び捨てで。屋敷の中でも外でも、私に対してはファルマン語で問題ございません。むしろ私自身、ファルマン語のほうが馴染み深いもので」


デバルは落ち着いた口調でそう答えた。

初老の品のある紳士で、もともとファルマン帝国の出身らしい。

青年期に家の都合でオウル帝国へ移り住んだのだという。

どこからともなく、ザカライアは本当に優秀な人材を見つけてくる。


「では、遠慮なくデバルと呼ばせてもらいます。オウル帝国については、事前に書物で勉強はしてきましたが、こうして実際に足を踏み入れるのは初めてです。いろいろと教えていただけると助かります」


「はい、喜んでお手伝いさせていただきます」


デバルはにこやかに返事をし、軽く一礼した。


「まずは、この手紙をヘイリー・デジュライ侯爵へ届けてください」


ハロルドが手渡した手紙を、デバルは丁寧に銀縁のトレーへ乗せる。


「デジュライ侯爵様の屋敷宅は、ここからそう遠くはございません。すぐにお届けしてよろしいですか?」


「できるだけ早くお願いします」


「承知いたしました。お返事もその場で頂戴してまいりますか?」


「いや、そこまではしなくていいです。ただ渡してくれれば」


「畏まりました。では、お茶をお入れしてからすぐに出発いたします」


執務室の机の上には、すでに分厚い書類の束がいくつも積まれている。

この屋敷に入る前に、事前に準備しておいてほしいとデバルに頼んでおいたものだ。


(まずは、この資料に一通り目を通して……それからだな)


デバルがそっとティーカップを持ってきて、目の前で紅茶を注いだ。

静かに立ち上る湯気とともに、部屋の中に優雅な香りが広がっていく。

ハロルドはふと息を吸い込み、懐かしい香りに目を細めた。


「ハロルド様はファルマン帝国のご出身と伺っておりますので、こちらのお茶よりも紅茶の方がよろしいかと思いまして」


「こちらのお茶というのは、どんなものなんです?」


「香りよりも味を楽しむお茶です。やや苦味がありますが、慣れれば奥深い味わいです」


「なるほど……聞いたことがあるな。興味があるので、夕食のときにでも用意してください」


「かしこまりました」


デバルは深く一礼し、手紙の乗ったトレーを持つ。


「では、デジュライ侯爵様のもとへ行ってまいります」


「頼みます」


扉が静かに閉まり、執務室に再び静けさが戻った。

ハロルドは紅茶のカップを片手に、窓辺へと歩み寄る。


窓の外には、遠くオウル帝国の城がその華やかな姿を見せていた。

丸い屋根の棟がいくつも重なり合い、東方らしい色彩と意匠に彩られたその城は、どこか異国の絵巻物のように煌びやかで、不思議な迫力を持っていた。


(……ここで一年か)


彼は心の中でそう呟き、もう一口、紅茶を口に運んだ。


しばらくして、デバルが帰ってきた。


「ハロルド様、デバルです。今よろしいでしょうか」


執務室には紙をめくる音だけが響いていた。ハロルドは資料に集中していて、外がすっかり夕暮れに染まっていることにも気づいていなかった。


「どうぞ」


「失礼いたします。先に、ランプに火を入れさせていただきますね」


デバルは静かに入室すると、壁際に並ぶランプに一つずつ火を灯していく。炎が揺れるたび、部屋の中の陰影が柔らかく変わっていく。

書類に落ちるハロルドの影が、次第に長くなる。


最後のランプに火を入れたデバルは、満足げに部屋を見渡してから、執務机へと歩み寄った。


「ただいま戻りました。デジュライ侯爵様がその場で手紙の返信を書きたいとおっしゃいまして、少々お時間をいただきました。こちらを……ハロルド様にお渡しするようにとのことです」


そう言って、彼は封蝋のされた手紙を、まるで何か大切な品を扱うように慎重に机の上へ置いた。そして一歩、静かに後ずさる。


「他にご用はございますか?」


ハロルドは手紙から目を離さず、しばし沈黙ののち、低く答えた。


「いいえ、今は大丈夫です」


「かしこまりました。では、夕餉の準備を確認してまいります」


扉が音もなく閉じられ、再び静けさが戻る。


ハロルドは手紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。白い封筒の上に押された赤い封蝋が、灯りに照らされて鈍く光っている。


デバルが部屋を去り、しばらくたってからもハロルドは手紙を見つめたまま動かなかった。

暫くして、手紙に指をかけ、封を切る。

紙の擦れる音が、妙に大きく耳に響いた。



=================


ハロルド様


ご連絡ありがとうございます。

現在オウル帝国に来ていらっしゃると聞き、

とても驚いたと同時に、心から嬉しく思っております。


お会いいただけるとのお返事、感謝いたします。

もしよろしければ、明日の昼、

我が屋敷で昼食をご一緒しませんか。


お越しいただけることを、

心よりお待ちしております。



ヘイリー・デジュライ


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