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ザカライアが馬車を降りると、城門前の空気がふっと張り詰めた。
周囲にいた侍女や侍従たちが、一斉に動きを止め、ざわつきの波が静かに広がる。
窓辺から、廊下の陰から、植木の合間から。
「たまたまそこにいた」風を装って、ちらちらと姿を見せる者が後を絶たない。
その実、全員が全力で“ザカライアに見られる”ための位置取りをしているのは明らかだった。
中にはザカライアの視界に入った瞬間、小さく口元を押さえ、しゃがみ込んでしまう侍女もいた。時折、「誰か!医務室へ!」という声が聞こえてくるのは、おそらく動悸か息切れを起こした誰かが倒れたのだろう。
一方のザカライアは、そんな周囲の騒がしさに一切興味なくまっすぐに城に入って行く。
視線も表情も微動だにせず、まるで自分の通り道以外は存在していないかのような、完璧な無視である。それがまた、彼の存在を一層“高嶺の花”に見せてしまうのだろう。相変わらず存在自体が罪作りだ。
すべて無視をして、執事が出迎えているエントランスに進む。
「アービング公爵様、本日は第三王女ミネルバ様のもとへお越しくださり、誠にありがとうございます。王女様はジゼル様の件でひどくお心を痛めておられますので、ぜひとも励ましていただければと・・・」
「ああ・・・」
「それでは、王女様のお部屋へご案内いたします。どうぞこちらへ」
「いや、待て。未婚の王女の私室を訪ねるのは礼を欠く行為だ。お会いするのであれば、客間にしていただきたい」
「・・しかし、王女様からそのように仰せつかっておりますので・・・」
「一度、確認をお願いできるか?もし体調がすぐれず部屋を出られないというのなら、今日はこれで辞去するつもりだ」
執事はその言葉に顔色を変える。
「・・・かしこまりました。では、こちらの客間でお待ちください」
「帰られてはまずい」と悟ったのだろう。深々と一礼すると、足早に引き返していった。
間もなく侍女が茶を運んできたが、ザカライアは一瞥もくれず、無言を貫いていた。
その隣で、ハロルドだけは侍女の動きをじっと観察している。
侍女はザカライアにちらちらと視線を送り、何か一言でもかけてもらえないかと期待していたようだが、
全くの無反応。むしろ空気のように扱われ、肩を落として部屋を出て行った。
部屋に二人きりになると、ハロルドがため息混じりにつぶやいた。
「王女の部屋って・・魂胆が丸見えだよね。怖いっていうか、図々しいっていうか」
「前回も、しつこかったからな・・・」
ザカライアも苦々しげに言うと、テーブルに置かれたティーカップに視線を向けるが、一切手をつけようとしない。
「このお茶、独特な香りだね・・・怪しすぎ」
「催淫剤のひとつやふたつ、入っているかもしれないな・・・」
「うわぁ・・・本当に怖いやつじゃん」
ハロルドはカップをつんつん指でつついてみた。
「・・・それに、さっきの執事の言葉聞いた?あの王女が気落ちしてるって?」
「嘘だろうな。王太子を運んだ時、ミネルバ王女だけ、何の感情も感じていなさそうだった」
「おかしな王女だな・・」
ザカライアは顎に指を添え、少し考え込むような表情になる。
「ハロルド、おそらくミネルバ王女はしぶしぶこの客間に現れる。私はシーザスの件と、葬儀当日の王族の動きを探る。君は抜け出せそうなら、棺の部屋から音楽室までの構造を見てきてくれ」
「まかせてよ。見てくる!」
ハロルドは、ミネルバとか言う頭のおかしな王女と対峙するより、城内を探索するほうが、遥かに楽そうだと結論づけた。
そのとき、コンコン・・・と控えめなノックが響く。
先ほどの執事が再び現れた。
「アービング公爵様、ミネルバ王女様は間もなくこちらへお見えになります。王太子様の訃報に心を痛めておられますが、公爵様のご来訪にどうしても応じたいとのことでして・・・」
「そうか。では、ここでお待ちしよう」
横で聞いていたハロルドが、急にそわそわと席を立つ。
「執事さん、俺トイレ行っていいですか? さっき侍女さんに場所聞いたんで、自分で行けます!」
「・・・どうぞ」
扉を開ける執事の視線には、明らかな呆れがにじんでいた。
おそらく、「使えない従者」と判断されたのだろう。
「ザカライア様、では、ちょっと失礼します!」
元気よく言って部屋を飛び出したハロルドの姿に、執事は小さく頭を振る。
「お茶が冷めてしまいましたので、新しくお淹れいたします」
そう言って、先ほどの茶器を下げ、新しいティーカップに紅茶を注いでザカライアの前に差し出す。
「どうぞ」
「・・・ああ」
だがザカライアは、やはり手を伸ばそうとはしない。
執事もそれ以上何かを言うことなく、静かに身を引いた。
そして三十分後。ようやく部屋の扉がノックされた。
「お待たせいたしました、ザカライア様!」
具合が悪い割に、やけに張りのある声である。
顔色も悪く見えるが、どうせ化粧で演出しているのだろう。
名前を勝手に呼ばれる不快感を抑えつつ、ザカライアは席を立ち、丁寧に一礼した。
「本日はご招待いただき光栄です。ご心労の中、お時間を割いていただき感謝いたします」
そう言って顔を上げ、にこりと笑みを浮かべる。
ミネルバはその笑顔に、あからさまに顔を赤らめた。
「い・・・いえ。確かにお兄様の事はショックですけど・・・部屋にこもっていては気分も落ち込みますので・・・・」
「そうですか。私との時間がミネルバ王女様の心を癒せるといいのですが・・・」
「まあ!もちろんです。ザカライア様とともにいれば私も癒されます!」
そう言って、彼女は当然のようにザカライアの隣へ座ろうとした・・・が、ザカライアはさりげなくその手を取り、自然な流れで向かいのソファにエスコートした。
一瞬、何が起きたかわからなかったのか、ミネルバはうっとりしたまま座り込む。
ザカライアは王女の後ろに視線を向ける。
ミネルバの背後には、侍女が一人立っていた。
(・・・・やはり、そうか)
あの人相・・・間違いない。
後ろの侍女はオクタヴィアを敵視する、オルガだ。
ザカライアの視線に気づいたミネルバが、振り返って侍女に声をかけた。
「ねえ、オルガ、ここはいいわ。部屋の外に出ていて」
「・・・ミネルバ様。バーバラ王妃様から、常にミネルバ様のお傍にいるよう仰せつかっておりますので・・ここに控えさせていただいてもよろしいでしょうか?」
ちらりとザカライアを見るミネルバ。
彼の興味が他の女に向くことなど、我慢ならないのだろう。
「いいえ。とりあえず外に出てなさい」
オルガは、どこか寂しげにミネルバを見つめた。
「・・わかりました。ミネルバ様がご無事であれば、私はそれで構いません。部屋の外におりますので、何かあればお声がけくださいませ」
その声音も、表情も、まるで心の底からミネルバの身を案じているかのようだった。
彼女はしずしずと頭を下げると、名残惜しそうに扉のほうへ向かう。
そんなオルガの後ろ姿を見て、ミネルバの表情にかすかな痛みが走った。
どこかで心がちくりとしたのだろう。思わず、その背に声をかける。
「・・・オルガ。ごめんなさい。あとで一緒にお茶でも飲みましょうね」
オルガは立ち止まり、袖でそっと目元をぬぐう仕草を見せる。
うつむいたまま、小さく一つ頷くと、静かに部屋を後にした。
(・・見事な演技だな。この王女が人に謝るとは・・よほど気に入られているらしい)
「では、ザカライア様、何か面白い話を聞かせてくださいな・・・気持ちが癒されるような・・・」
「そうですね・・・・・・」
ザカライアはとりあえず、適当な話を始めた。




