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劇場内は、いままさに二部の上演が始まったばかりだった。
重厚な扉が音を遮っていたのか、騒動に気づく者はほとんどいない。
観客たちは何も知らず、舞台の続きを楽しんでいる。
「ザカライア様・・・リリア様が・・・」
オクタヴィアの声は、震えていた。
床に倒れたままのリリアの胸元に、ひときわ不穏な輝きを放つ小さな針が刺さっている。
あのときリリアの指に光っていた、毒針付きの指輪。
おそらく、ハロルドが咄嗟に手を出したはずみに、リリア自身の体にそれが刺さってしまったのだろう。
毒は想像以上に強力だった。リリアの心臓は、もう動いていない。
その顔には、もう二度と戻らぬ静けさが宿っていた。
「オクタヴィア、怪我はないですか?」
ザカライアがそっとオクタヴィアの手を取り、指先まで確かめるように優しく包み込む。
その手の温もりに、ようやくオクタヴィアの胸の鼓動が落ち着いていく。
「はい、ハロルド様に助けていただいたので・・・」
「肩が、少し赤くなっていますね。どこかにぶつけましたか?」
「・・あ、これは、ハロルド様が、私の身代わりになったときに咄嗟に押していただいて、壁に・・・」
「ハロルドが?」
「ええと・・・いえ、私が体を支えられなくて・・・」
「そうですか・・・・・・・・」
オクタヴィアは言葉を濁す。
ザカライアの視線が、静かにハロルドへ向けられる。
壁際に立つハロルドは、その視線を受け止めず、そっとフェイ団長の方へ体を傾けた。
「あの・・リリア様とご一緒に、ジゼル殿下もいらしていました。今は、リンゼン公爵家のボックス席におられるかと・・」
「ジゼル殿下が?」
「はい、ジゼル殿下が、勉強のためとリリア様を、私たちのボックスにお預けになり・・・」
「イザベル皇妃は、それを許したのか?!」
ザカライアが苛立ちを隠さず言い放つ。
「あの状況では、イザベル皇妃が断ることのほうが不自然でした」
「フェイ!今すぐにジゼル王太子殿下をこちらにお連れしろ。あと、イザベル皇妃にも」
「はっ!」
フェイは近くの騎士たちに素早く指示を出す。
手元では、あの男を縄で厳重に縛っている。男は地面にうずくまり、痛みに呻き続けていた。
「フェイ、この男は・・・?」
先ほどまで切り刻んでいた男を、まるで初めて顔を見たとばかりにザカライアが聞く。
「人相書きによれば、ノートリアス盗賊団のドーガンかと」
「ドーガンさん!?」
オクタヴィアの口から思わず声が漏れる。
ずっと気にかかっていたあの名が、まさか目の前のこの男だとは。
「・・なんだ、皇妃様は俺のこと知らなかったのか?あんなに一緒にいたのになあ・・?」
ドーガンは、痛みに顔を歪めながらも、あの気味の悪い笑いを浮かべていた。
ザカライアが口を開こうとした時、凛とした声が聞こえてきた。
「皇妃は私ですわ」
凛とした声が響き、場が静まる。
ドーガンが驚いたように顔を上げ、イザベルを見つめた。
「盗賊団の首領かどうかは知りませんが、私の顔を知らぬとは・・・お前、仲間に見捨てられたのではなくて?」
「クソ女!黙れ!そんなわけあるか!」
唾を飛ばしながら、イザベル皇妃に噛みつく。
イザベルは、汚いものを見るような目でドーガンを見下ろした。
「あら、だって、おかしいと思わなかったの?私の顔は帝国の者ならば誰しもが知っているわ。だって街のあちこちで私のミニアチュールが置いてありますからね。何故あなたが私の顔を知らずに、間違えて違う者を攫ってしまったのか?普通ならば、お前が他国の人間ならなおさら、ことを始める前に私の絵姿をみせるはず。違って?」
「うるせえっ!黙れって言ってんだろ!」
ふんっと男を見下しながらイザベルはせせら笑う。
「フェイ。それを、もう連れて行きなさい。あとは任せるわ」
「承知しました」
フェイは即座に騎士に指示を出す。
その時、息を切らしたジゼルが駆け込んできた。場の様子を見て、一瞬で何が起きたのかを察する。
そして、リリアの亡骸のもとに駆け寄り、崩れ落ちるように泣き始めた。
「リリア嬢!何故こんなことにっ・・・・!!」
涙に濡れた声で、リリアに縋りつくジゼル。
{ナゼ、ナイテナイノニ、ナクフリ}
まだ、ドレスのヒダに隠れているマダラ蜘蛛が話しかけてくる。
「それは・・・」
「オクタヴィア?」
突然小声で話し始めたオクタヴィアに、ザカライアが不思議そうに顔を覗き込む。
オクタヴィアはそっとドレスの裾をずらす。ドレープの陰に、あの蜘蛛がひっそりと潜んでいた。
それを見たザカライアが、静かにうなずく。
{アイツ、ワラッテル}
蜘蛛にそう言われて、オクタヴィアはジゼルの方へ視線を移す。
涙を流しているはずの顔。その下、覆った手の奥・・・・・。
(ああ、本当に笑っている・・・・)
頬には涙が伝っている。だが、その口元は、明らかに笑みを浮かべていた。
(婚約者が亡くなったというのに・・・・)
背筋が寒くなる。オクタヴィアは、鳥肌が立つのを感じ、自分の腕をさすった。
(やはり、ジゼル殿下は・・・・・・)
ひとしきり悲しみを演じたあと、ジゼルは立ち上がり、涙を湛えた瞳でイザベルと向き合った。




