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「イザベル皇妃!」
夜会の会場で、数人の夫人たちと談笑していたイザベルの前に、ザカライアが息を切らしながら駆け込んできた。
「どうされましたか?アービング公爵」
「お話し中に申し訳ございません。少し・・・お時間をいただけますでしょうか?」
その表情はただ事ではない。
「・・わかりました」
イザベルは微笑みながら夫人たちに軽く謝罪すると、ザカライアの後に続いた。
しかし、一歩、また一歩と歩みを進めるにつれ、嫌な胸騒ぎが大きくなっていく。
ザカライアは一言も発しない。
沈黙が、ただただ重い。
王族控室の前で足を止めると、ザカライアがドアを開け、中に入るよう促した。
イザベルが中へ入ると、そこにはアーロンとオーギュスタンがいた。
アーロンは明らかに困惑した表情で、オーギュスタンとザカライアを交互に見ている。
(・・・一体、何が?)
イザベルは静かに促され、アーロンの隣に腰を下ろした。
部屋の隅に視線を移すと、我が国の騎士団長フェイと、デューク王国の騎士たちが数名、控えるように立っている。
息が詰まるほどの緊張感が、空気を支配していた。
(これは・・よほど良くないことが起きたわね・・)
そして、ザカライアが静かに扉を閉め、振り返る。
その表情は、いつもの冷静さなど微塵もなかった。
焦りと怒りが入り混じった険しい表情。
しかし、次に発した言葉は、それ以上の衝撃をもたらした。
「オクタヴィア王女が攫われた」
「!!!!!!」
瞬間、場の空気が凍りついた。
国に招待した来賓が、その城の中で攫われる。
それは、絶対にあってはならないことだ。
下手をすれば、外交問題に発展してもおかしくない。
しかも、攫われたのは一国の王女。
ファルマン帝国にとっても、由々しき事態だった。
(誰が・・どうやって・・・?)
イザベルは拳を強く握りしめた。
「どのような状況だったのです?」
声は静かだが、その瞳には静かな怒りが宿っていた。
「イザベル皇妃から貸していただいた部屋に、オクタヴィアを案内しました。扉の前まで送り、彼女が部屋に入っていくのを確認しています」
「部屋には確かに入ったのね?」
「はい。それは間違いありません」
「それで、部屋付きの私の侍女から話は聞いたの?」
イザベルは部屋に控える騎士団長フェイに問いかける。
「現在、行方不明です」
「・・・そう」
静かに目を伏せ、思考を巡らせる。
いつもこの部屋には六名の侍女が配置されている。
しかし、その全員が行方不明となると・・・
「間違いなく、部屋で拉致され、どこかの経路から運び出された可能性が高いと思われます」
騎士団長の報告を聞き、アーロンが表情を険しくした。
「フェイ、至急、騎士団を集め、オクタヴィア王女の痕跡を追え。それと、城内を隅々まで捜索し、行方不明の侍女たちも探し出せ」
「はっ!」
フェイは即座に敬礼し、部屋を飛び出していった。
「オーギュスタン殿下・・」
アーロンが静かな口調で語りかける。
「我が国のこの度の失態、誠に遺憾である。全騎士団を挙げてオクタヴィア王女を必ず見つけ出す。気が焦るのはわかるが、どうか騎士団からの報告をお待ちいただきたい」
「・・・はい、よろしく・・お願いいたします」
オーギュスタンは目を伏せ、小さく息を吐いた。
今すぐにでも自ら飛び出し、オクタヴィアを探したい気持ちはある。
だが、ここでアーロンに異を唱えるのは無意味だと理解していた。
脳裏に浮かぶのは、いつも笑顔で自分を見上げる愛しい妹の顔。
「アーロン皇帝陛下、一つだけお願いがございます」
「なんだ?」
「我が国の騎士団も、オクタヴィアの捜索に参加させてください」
アーロンは一瞬だけ目を細め、そして静かにうなずいた。
「そうだな、こちらからもお願いしたい。今、迎えの騎士を呼ぶので、合同で捜索に当たってくれ」
オーギュスタンは後ろに控える騎士に目で合図を送る。
デューク王国の騎士たちは即座に理解し、無言のまま部屋を後にした。
(オクタヴィア・・どうか・・・どうか無事でいてくれ!)
祈るような思いで、騎士たちが去っていく背中を見送る。
「ザカライア!」
突如、イザベルの叫ぶような声が響き、オーギュスタンがそちらに視線を向ける。
部屋を出ていこうとしているザカライアの背中が見えた。
「今、あなたが動いても仕方ありません!この部屋で情報を待ちなさい!」
「・・いいえ、それは無理です」
ザカライアは立ち止まることなく、背を向けたまま言い放つ。
「私はいかなるものからもオクタヴィアを守ると、デニス王に誓っております。王家が騎士団を動かすなら、私は私の商会の情報網を使ってオクタヴィアを助けに行きます!」
その言葉には、ただならぬ怒りが込められていた。
「ザカライア・・・・」
イザベルは思わず言葉を失った。
いつも冷静沈着で、どんな時でも表情を変えない弟が・・・今は怒りを全身にまとっている。
それは当然だ。
高貴な令嬢が攫われるということが何を意味するのか、誰もがわかっている。
無事に帰ってくる可能性は限りなく低い。
殺されるか、傷物にされるか・・・。
そのどちらかがほとんどだ。
それが、愛する人であるならば、冷静でいられるはずがない。
「ザカライア・・厩舎に足の速い栗毛の馬がいます。それに乗っていきなさい・・」
ザカライアは一瞬だけ立ち止まり、振り返らないまま低く答える。
「・・ありがとうございます。お借りします」
その言葉を最後に、ザカライアは廊下を駆け出した。
足音が遠ざかっていく。
イザベルはその背中を見送りながら、静かに目を閉じた。
(どうか・・・・間に合いますように・・・)
胸に浮かぶのは、ただ一つの祈りだけだった。




