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ハロルド 下

沈黙が続いたまま、屋敷の前でルイが不安そうに尋ねる。


「ハロルドさん……なんだか、怒ってます?」


「……うん、ルイには説教が必要だ、後で執務室に来てね」


「そんな……何したんですか?俺……」


「何も気づいていないところがダメなんだよ」


ルイが絶望的な顔を浮かべている。


「とにかく、あとでね」


そう言い残して、ハロルドは自分の執務室へと戻っていった。

心の中で、ルイにどんな罰を与えるかを考えながら……。



それからハロルドは、約束通り何度かデジュライ侯爵家を訪れ、食事をともにした。

また、パルマとの約束で開かれた貴族たちとのお茶会にも、二度ほど出席する機会を得る。

そうして、オウル帝国の貴族たちとの関わりも、次第に深めていった。


そんなある日のこと、パルマがふと思い出したように言った。


「ハロルドさん、商会の支社を出す目途はつきましたか?」


「ええ、デジュライ侯爵のお力添えもあり、ダルジュ様との契約も無事に交わせました。あとは、こちらの国に提出する各種書類の準備と……土地を探すだけですね」


「その土地なんですけど……私、少し心当たりがあるんです。今度お時間をいただける?」


「……ええ、もちろんです」


ヘイリーが片眉を上げて、問いかけるようにパルマを見る。

パルマはにこりと笑い、デザートを食べ始めた。どうやら、ヘイリーもパルマの心当たりについては知らないらしい。



しばらくして、パルマから連絡を受け、ハロルドとルイは街の中心にある大噴水へと向かった。

ハロルドとしては、待ち合わせ場所にはパルマの従者が立っていて、そこから案内されるものだと思っていた。


しかし、予想に反して、噴水前に立っていたのは、パルマ本人と見知らぬ婦人。二人は並んで談笑している。

まだ約束の時間より早い。そう思いながら、ハロルドは小走りに二人へと近づいた。


軽く挨拶を交わし、周囲を見渡すと、護衛らしき人物が数人。

ひとまずは安心だが……。


(デジュライ侯爵夫人ともあろう方が、こんな街中で……何かあれば洒落にならない……)


そう考えたハロルドの表情は、やや引き締まる。


「ハロルドさん、お早かったのね。商人はせっかちな方が多いと聞いたので、私たちも早めに来てみたのよ」


パルマはそう言って、隣の婦人と共にカラカラと笑った。


「パルマ様。護衛がいらっしゃるとはいえ、あまりにも無防備です。確かに、私たちは常に二十分前には参りますが、これではあなたをお守りできません。今後は、こうしたことがないよう……」


ハロルドは声をひそめ、穏やかに異を唱えた。

だが……


「まあ! ハロルドさんは、こんなおばあちゃんの私たちを守ってくださるの!?」


パルマは目を輝かせて、まるで少女のように嬉しそうな表情を見せた。


「それは……もちろんです。ご婦人とお会いする約束がある以上、同伴者として当然の責務です」


ハロルドは淡々と言葉を返したつもりだったが、パルマは感動した様子で胸に手を当て、しみじみと頷いている。


「ねえ、ミディ、聞いた? ハロルドさんはとても紳士よ。こんな若い方が私たちを守ってくださるの。嬉しいわね!」


隣にいた、同年代の婦人『ミディ』と呼ばれた女性も、そんなふうに喜んでいるパルマを見て嬉しそうに微笑んでいた。


「ええ、パルマ。本当に素敵な紳士だわ」


なぜか二人は手を取り合って盛り上がっている。

後ろに控えるルイを見ると、首を傾げていた。


(……ルイも俺と同じで、今の状況がよくわかってないな……)


「パルマ様?」


しばらくして声をかけると、はしゃいでいた二人は同時にこちらを振り返った。


「まあ!ごめんなさいね。護衛以外から『守る』なんて言われたの、最近では珍しくて、思わずはしゃいでしまったわ。では、とりあえず向かいのティーサロンでお話しましょう」


パルマが示した先には、街の中心にふさわしい高級そうな重厚なレンガ造りの建物があり、その一角には、お洒落なティーサロンが賑わいを見せていた。


案内されるままティーサロンに入り、奥の個室に通される。

お茶を注文し、皆が落ち着いた頃、パルマが隣の婦人を紹介した。


「こちら、私の友人のミディ・ポルタよ。ハロルドさん、ご存知かしら?」


「ええ、ポルタといえば三大侯爵の……ポルタ侯爵家ですね。ミディ様は侯爵夫人でいらっしゃいますね」


「ふふ……ええ、あたりよ。はじめまして、ハロルド様。ミディ・ポルタです」


(ポルタ夫人に嫌われたら、社交界では生きていけないって噂も聞いてたけど……今のところは優しそうだ。三大侯爵のパルマ様が一緒だからだろうけど……)


ちらりと視線を向けると、パルマはミディと何か小声で話しており、二人はどこか納得したように微笑んでいた。


「ポルタ侯爵夫人、ご挨拶いただきありがとうございます。私はファルマン帝国より参りました、ザカルド商会副会頭のハロルドと申します。今後とも、何卒よろしくお願いいたします。こちらは、同じく商会所属のルイ・サンドーラです」


ルイも紹介し、一通りの挨拶を済ませた。

しばらく、お茶を飲みながらの世間話が続いたが、パルマがふいに本題を切り出す。


「それで……ハロルドさん、この建物なんだけど、破格の金額で買わない?」


あまりに突拍子もない一言に、ハロルドとルイはティーカップを持ったまま固まった。

思考が追いつくまで、しばしの沈黙が落ちる。


(今……この建物を買わない?って言ったか? こんな街のど真ん中の建物を?破格?……しかも、 他国の商人に?……何か裏があるのか?)


一瞬でいくつもの考えが頭をよぎり、慎重に問いかける。


「……この建物は、パルマ様の所有物なのですか?」


調査した限り、デジュライ侯爵家がこのような物件を所有している記録はなかった。とはいえ、一応確認しておく。


「いいえ。この建物はミディのものよ」


「……ポルタ侯爵家の所有ですか」


ハロルドがそう口にすると、ミディは少し苦笑した。


「まあ、普通そう思うわよね。でも、商人なら先入観で判断しちゃ駄目よ。……この建物は、私個人の所有なの」


思わぬ叱責に、ハロルドはわずかにたじろいだ。

近頃は商会の立場にも慣れ、叱られることなど滅多になかったというのに……。


すぐに気を取り直して、丁寧に頭を下げる。

貴族のご婦人というものは、一度でも機嫌を損ねると後が厄介だ。そんなことは、もう心得ている。


「本当に、ポルタ侯爵夫人のおっしゃるとおりです。先入観での不用意な発言、大変失礼いたしました。深くお詫び申し上げます」


驚いていたルイも、ハロルドが頭を下げると、すぐにそれに続いた。


(……やっぱり、ポルタ夫人は噂通り辛辣だな。これは発言に気をつけないと……)


「いいのよ。あなたはパルマの『特別な方』なのでしょう? それならば、私も特別扱いするわ。この国には、今のように、くだらないことで足を引っ張る貴族が山ほどいるの。気をつけてね」


その言葉に、ハロルドはミディの真意を理解する。

今の一言も、オウル帝国の貴族社会の『空気』を伝えるために、あえて向けられたものだったのだ。


「それで、この建物をあなたに売ろうと思うのには、理由があるの。もともと、私の曽祖父がこの建物の持ち主だったのだけれど、主人と相談してね……息子に侯爵家当主を譲って、田舎の領地でのんびり暮らそうと思っているの」


パルマが隣で、うんうんとうなずいている。


「この建物には、このティーサロンのほかにも、いくつか小さな商売をしている子たちがいるのだけれど、皆、もともとは孤児なの。慈善事業に見えるかもしれないけれど、私にとっては彼らは家族のようなものなのよ。もし息子にこの建物を譲れば、息子はきっと建て替えて、儲けを出そうとするわ。そうなれば、今ここで頑張っている子たちは追い出される……。それが、私はどうしても嫌なの」


ハロルドは黙って、それを聞いていた。


「なるほど……そういうことでしたか」


そう言って、静かに息を吐き、うなずく。


「あなたは、もともと孤児だったと聞いたわ。そして今は、この建物を買って、生かすだけの力もある。しかも、一階の一番いい場所は空いているから、商会のお店を出せるし、三階はまるまる空いているから、支部だって設けられる。ただしひとつだけお願いがあるの。この建物を建て替えずに、今いる子たちをそのまま居させて、家賃も今のままの条件でよいと承諾してくれるなら……この建物を、破格の値段でお譲りします。それが、私の考えよ。どうかしら?」


ハロルドは黙考する。

確かに、悪い話ではない。むしろ、あまりにも都合がよすぎるほどだ。家賃収入など、そもそもあてにしていない。手間を差し引いても、十分すぎる話だ。


「ちなみに、建物のお値段をお聞きしても?」


「……このぐらいで、どうかしら?」


提示された金額に、ハロルドは思わず目を見開いた。


「これは……さすがに安すぎませんか? 普通なら、この十倍の値がついていてもおかしくないと思います」


「いいのよ。私はお金が欲しいわけじゃないの。もう歳でしょう? 生きているうちに、安心して任せられる人に出会いたかった。……パルマからあなたの話を聞いたとき、ああ、この人だって、そう思ったの」


「いや、しかし……」


「あなたなら、ここの子たちを追い出したり、法外な家賃をふっかけたりするような真似はしないでしょう?」


「……ええ、もちろんです」


「なら、話はまとまったも同然よ。これまで何人かに話を持ちかけてきたけれど、心から納得できる人はいなかった。だからようやく、ね。やっと田舎で、静かに暮らせそう」


ミディはニコリとパルマに笑いかけた。


「ミディが、ハロルドさんと直接お話できて、本当によかったわ」


「ええ。紹介してくれてありがとう、パルマ。……では、これでお話は決まりね。後日、代理人をそちらに伺わせます。手続きはそのときに。また改めてご連絡いたします」


「はい。ポルタ侯爵夫人。このたびは、本当に光栄なお話をありがとうございました。喜んでお受けいたします」


ハロルドとルイは、ゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。

満足げにふたりを見やるミディは、ようやく手をつけていなかった紅茶を口にした。すっかり冷めていたが、その味はどこか、心を温めるものがあった。




「凄いですね!ポルタ侯爵夫人、この建物をあんなに安く譲ってくれるなんて!さすがハロルドさん!」


「……ああ、そうだな」


ご婦人方をそれぞれ馬車まで送り届け、ふたりきりになると、ルイは興奮気味にまくし立てた。

だが、ハロルドは上の空だった。ずっと胸の奥に引っかかっている感情の正体を、静かに探っている。


(結局、今回もデジュライ侯爵と夫人に助けられているな……)


ダルジュ商会との件では、ほとんどヘイリーが動いてくれた。支社の物件だって、パルマが持ってきた話だ。


(ふたりが、ここまで面倒を見てくれるのは、やっぱり俺が……)


侯爵夫妻は見返りを求めず、ただの善意で動いてくれている。

けれど、家族というものを知らないハロルドには、彼らのそれが何なのか、いまいちピンとこない。


(今まで、使えるものは容赦なく使ってきたが……でも……)


正体の掴めないもやもやを抱えたまま、馬車で屋敷へ戻る。

戻って早々、執事のデバルが知らせてきた。


「ザカライア様から、お手紙が届いております」


久々の手紙だった。

そこには、その後、祖父のデジュライ侯爵とどうなったのか、血筋を調べる装置の詳細を知りたい、ダルジュ商会との契約の進捗と、残り少ないオウル帝国で不都合はないか?などが、いつもの調子で並んでいた。


(ザカライア、もう『祖父』って言いきってるし……それにしても……あと三ヶ月で帰国か。早かったな〜)


ハロルドは自室のソファに寝転び、手紙を読み返しながら目を閉じた。




あれからすぐ、ポルタ侯爵夫人の代理人がやって来て、契約は拍子抜けするほど簡単に終わった。


そして、いよいよザカルド商会の本店と支店が同時オープンを迎える日がやってきた。

朝からてんやわんやだ。


「ハロルドさん、二時からお約束のケンブリッジ伯爵が、時間を変更して欲しいと……どうされますか?」


「在庫が記載されてるのと違うって話ですが、どうしましょう!」


「ダルジュ商会に頼んでた茶葉が、まだ届いていません!」


ハロルドは落ち着いて対応していく。


「伯爵には『そこしか空いていない』と伝えろ。それでダメなら後日に。……在庫は裏の荷も数えたか?もう一度確認しろ。ダルジュ商会には……ユーファさんに伝えて、連絡を取ってもらえ」


ユーファは、ヘイリーの口添えでエイダーンの許可を得て、正式にザカルド商会で働いている。

働きたいと言っただけあって飲み込みは早く、すでに即戦力だ。ハロルドも彼女の働きぶりには満足していた。


「ハロルドさん、十時からお約束のハジット子爵の資料、最終確認をお願いします」


書類を手に、ユーファがやってきた。ハロルドは資料を受け取り、パラパラと目を通す。


「うん、問題ない。誤字も脱字もないし、これで大丈夫」


「え? 今ので確認できたんですか?」


「もちろん。全部見たよ」


「ええ……?」


「ところで、さっき茶葉が届いてないって言ってたけど、聞いてた?」


「あ、はい。あれなら倉庫の奥にありましたので、場所を伝えておきました」


「そっか、さすがユーファさん。助かったよ、ありがとう」


ユーファはまだ不思議そうに、資料とハロルドの顔を見比べている。


ハロルドには、一度見ただけで内容を頭に入れる特殊な記憶力がある。形状、文字、色、配置、すべてが映像のように脳裏に焼きつくのだ。

それが評価されて、ザカライアに拾われた。

そして今も、その力をさらに磨き続けている。


「よし、みんな一度集まってくれ。今日の要点を話すよ」


「「「はい!」」」


初日はバタバタだったが、大きな混乱もなく無事に終えることができた。



「ユーファさん、今日はお疲れさま。このあと、明日の打ち合わせできる?」


倉庫で在庫確認中のユーファに、ハロルドは声をかけた。


「はい、大丈夫です。今すぐ行ったほうがいいですか?」


「いや、今の仕事が終わってからでいいよ」


「わかりました。すぐ終わらせますね!」


そんな二人のやりとりを、近くにいた従業員たちがこっそり見ていて、ささやき声が聞こえてくる。

ハロルドの耳には、しっかり届いていたが、ユーファには聞こえていないようだ。


「なあ、ハロルドさん、ユーファさんといい感じじゃない?」


「ユーファさん、ダルジュ商会の娘だろ?同じ商会で働いてるし、お似合いだよな」


「しかも仕事できる同士だしな。最近、ルイよりユーファさんを頼ってるっぽくない?」


「これは……ハロルドさんも、ザカライア様に続いちゃうか?」


「会長、幸せそうだもんな〜……あれ見てると、こっちまで結婚したくなるよな〜」


(……確かに、お姫様と結婚してからのザカライアは、本当に幸せそうだ)


香水の在庫を確認しているユーファに、ふと目が向く。


(ユーファさんは仕事ができるし、頼れる。可愛いとも思う。もし結婚したら、お互いを高め合える。そんな関係になれるんだろうな……)


けれど、ハロルドはすぐに思考を打ち消す。


(だが……デジュライ侯爵とダルジュ商会の会頭が、どうも俺たちをくっつけたがってる空気を感じる。それに乗る気は、まったくない)


ハロルドはそれなりに女性との交際もしてきた。だが、まだ足りない。

ザカルド商会をもっと大きくするためには、もっと視野を広げ、もっと多くを学ばねばならない。

もっとも今は、結婚より、仕事の方がずっと楽しいのだが。


ハロルドはもう一度、香水瓶を手に取るユーファを見つめ、それから何事もなかったように、自分の仕事へと歩き出した。



ザカルド商会は、当初の目論見よりも早く軌道に乗った。二本セットの香水 “Dear Distance ― ディア・ディスタンス ―” は、爆発的な人気を博している。他の商品も好調で、旗艦店として大成功を収めていた。


その日、ハロルドは屋敷から店に向かうため、門を出た。


(商会の仕事もデジュライ侯爵とパルマ夫人の力添えのおかげで、貴族との付き合いも順調だ。ここまでくれば、あとはルカとユーファに任せられる。……忙しかったけれど、あと4日でファルマンに戻れるな……)



「ハロルドさん!」


背後から声がかかる。振り返ると、ルカが慌てて走ってくる。


「どうした、ルカ?」


「た、大変です! ザカライア様がっ!」


その言葉を聞いた瞬間、ハロルドの顔つきが変わった。


「ザカライアに何かあったのか!?」


「い、いえ……、それが、本部にザカライア様が来られました!!」


「!!ザカライアが!?」


来訪の話など聞いていない。ハロルドは、ルカの言葉を聞くや否や本部へ走り出す。ルカも続くが、ハロルドに比べるとだいぶ遅れている。


勢いよく扉を開けて部屋に入ると、懐かしい顔がこちらを振り返った。


「ハロルド、少し痩せたか?」


「ザカライア、どうして!?……」


そう言いかけた瞬間、外から女性たちの歓声が聞こえてきた。どうやらザカライアの姿を一目見ようと、窓の外に人だかりができているようだ。


(ここに辿り着くまでに、美しい顔を見せてしまったな……)


噂が噂を呼び、野次馬が押しかけてきたのだろう。さすがは“ファルマン一の美麗”。すでに父となっていてもなお、ザカライアの美貌はまったく衰えていない。


「……やはり、ハロルドの祖父だというデジュライ侯爵のことが気になってね。『そんなに気になるなら、直接挨拶に行けば良い』とオクタヴィアに言われてな……」


ザカライアは少し気まずそうに、声のトーンを落とす。

ハロルドを弟のように考えているからこそ、彼に親族が現れたことに、どこか落ち着かない気持ちを抱いていた。


商会の立ち上げが忙しくなってきた頃から、ハロルドからの手紙も来なくなり、心配が募った。ザカライアは、普段はあまりやらないようなことまでやった。オクタヴィアに頼んで、鳥たちにハロルドの様子を見てきてもらったのだ。


鳥たちは口々に{ハロルド、ゲンキ}と伝えてくれたが、それでも、突然の祖父母の登場、商会と店舗の立ち上げに追われるハロルドのことが気がかりだった。


「あと半月もしないうちに、そっちに帰ったのに……」


「まあ、そうなんだが……。支社や支店も見ておきたかったし、侯爵には多大な力添えをもらったのだろう?会頭としても、できればお礼も兼ねて挨拶をしたい。侯爵と面談できる場を設けてもらえるか?」


「……いいけど……でも、とりあえず、従業員に挨拶してくれる?みんな集めるよ」


ハロルドは一瞬、考え直す。


「ああ、でも……ザカライアは今着いたばかりだろ?先に屋敷に行くか?」


「いや、大丈夫だ。時間もないしな」


「わかった。……それにしても、お姫様二人を置いてきちゃってよかったの?」


「ん? ああ。できれば一緒に来たかったが……ビビアンはまだ小さいからな。それにちょうど、オーギュスタン殿下がファルマンに滞在中なんだ。丁度いいから二人を任せてきたよ」


「ふ〜ん、そっか。あの王子様また来ていたのか……それにしても、ザカライアが急に来たから驚いたよ!強行日程だったでしょ?」


「まあ、オウル帝国は、かなりファルマンから離れた国だからな。なかなか機会がないと来れないし、侯爵の件もあって……。ちょうど良いと思ったんだ」


「そっか……」


ハロルドはそう言いながら、思わず口元を緩めた。


もちろん、新規オープンした支店の視察が主な目的かもしれない。でも、ザカライアが自分のために時間を割いてオウル帝国まで来てくれた。

ハロルドはそれが素直に嬉しかった。


この国に支店を出すことで、ザカライアは貴族としてまた一段と格を上げるだろう。

そして、何よりもハロルドにとっては、自分に多くの機会を与えてくれたザカライアの恩に報いることができる。


(なんてったって、ザカライアは、孤児だった俺を商会のパートナーにしてくれた。いくら公爵とはいえ、それがどれだけ大変だったか、俺にはわかる。だからこそ、これからも損得抜きで、この兄のような存在であるザカライアの力になりたい)


……兄のような……?


突然、ハロルドの脳裏に、二人の人物の顔が浮かぶ。


(そうか……俺は…………)


何かがストンと腹の奥に落ちた。


「ルイ、従業員をすぐに集めてきて。会頭から挨拶がある」


「はい!」


ルイは元気よく返事をして、部屋を飛び出していった。



デジュライ侯爵との面談は、翌日すぐに設定された。だが、ザカライアは午前中に王城へ赴き、陛下への挨拶も控えているらしく、分刻みのスケジュールで慌ただしそうだった。

時間ぎりぎりになると伝えられていたため、ハロルドは先にデジュライ侯爵家へと向かった。


いつものように、侯爵家の食堂で三人でお茶を飲みながら談笑していると、パルマがどこか寂しげに言った。


「ハロルドさんと、この食堂で会うのも……今日が最後かもしれないわね……」


「パルマ」


「あなた……ごめんなさい。今日は暗い話はしないって決めてたのに……」


隣に座っていたヘイリーが、そっとパルマの肩に手を添え、静かにさすってやる。


「この一年、とても楽しかったの。ありがとう、ハロルドさん……」


パルマの目に、涙が滲んでいた。


「パルマ様……」


なぜかいつもより空気が重く、ハロルドも言葉を選んでしまう。

三人で黙ってお茶を飲んでいると、デジュライ家の執事のバーガがやって来て、ザカライアの来訪を伝えた。


「では、応接室に移動しよう」


ヘイリーが立ち上がり、パルマも後に続く。

ハロルドは、気丈に振る舞う二人の、どこか悲しげな後ろ姿を見つめながら歩いた。


応接室に入ると、ザカライアはすでにソファに座っていた。

その姿を見た瞬間、パルマとヘイリーは思わず目を見開く。

整った顔立ちに加え、立ち居振る舞いまで品がある。オウル帝国でも、こんな男はそういないだろう。


ハロルドが彼の隣へと歩いていくと、ザカライアは一度ハロルドの顔を見てから、向かいに立つ夫妻に視線を移した。

ふたりとも微笑んでいたが、どこか浮かない表情だった。


そこで、ザカライアはわざと隣のハロルドに軽く話しをふる。


「ハロルド、君の親族を紹介してくれないか?」


「!!!!!」


ハロルドもヘイリーもパルマも、あまりの不意打ちに動きを止めた。


(なるほど……やはり似ているなこの三人……)


ザカライアの爆弾発言に最初に反応したのは、やはりハロルドだった。

じっとザカライアをにらみつけるが、本人はどこ吹く風で、涼しい顔のままソファに背を預けている。


しばらく沈黙が流れたあと、ハロルドはふぅっと小さく息をつき、ゆっくりと口を開いた。


「ザカライア。こちらが……俺の、祖父母だ。デジュライ侯爵とパルマ夫人」


ハロルドの言葉に、パルマとヘイリーが、ゆっくりと彼を見つめる。

けれどハロルドは、恥ずかしさや照れ隠しもあって、視線を合わせようとしなかった。


「デジュライ侯爵、パルマ夫人、こちらは、俺…………私がファルマン帝国でお世話になっている、ザカルド商会会頭のザカライア・アービング公爵です……」


ハロルドの紹介に、パルマの目から涙がひとすじこぼれた。

ヘイリーも、目を細めながらザカライアを見つめる。


「はじめまして……アービング公爵。ヘイリー・デジュライです。お会いできて光栄です……」


まだどこか信じられないような表情でザカライアに挨拶をするヘイリー。

パルマは涙を流しながら、ハンカチで涙をぬぐっている。


「ハロルドから、あなた方が彼の祖父母だと伺いました。どうしてもお話をしたくて……貴重なお時間を無理に頂いてしまいました。急な訪問にもかかわらず時間を作っていただき、ありがとうございます」


「いえ……いいえ、私たちもアービング公爵にいつかお会いしたいと思っておりましたので、このような機会をいただけて嬉しく思っております……ところで、お食事はなさいましたか?」


「いえ、お恥ずかしい話ですが、予定が詰まっておりましたので、まだ……」


「そうですか!よかった。一緒に食事でもとりながらお話いたしませんか?」


ハロルドから、貴重な言葉を引き出したザカライアを気に入ったのか、ヘイリーは嬉しそうに食事に誘う。


ハロルドはそんな二人の会話を見守りながら、ゆっくりと啜り泣いているパルマのもとへ歩み寄った。


「パルマ様……」


「ハロルドさん……あなた……」


そう言いかけて、パルマはまた大粒の涙をこぼしはじめた。

ハロルドもハンカチを差し出し、そっとパルマの涙をぬぐう。


しかし、その優しい行動に反して、パルマの涙は増すばかりだった。

パルマは、ハロルドから『祖母』と認めてもらえたことに気持ちが追い付かずにいた。


(信じられない……ハロルドさんから祖父母だと紹介されたわ……。あの日、血液を調べて結果が出たときから、本人が嫌だろうからと、ヘイリーと私で、ハロルドさんとはあえて身近な友人のように接しようと決めていた。でも、ハロルドさんを見るたびに、私の孫だと大きな声で自慢したかった……でも私もヘイリーも、娘ルエルにしたことでハロルドさんを孤児という立場にしてしまった負い目から、「孫と呼ばせてほしい。私たちをおじい様、おばあ様と呼んでほしい」なんて、図々しいことは言う権利すらなかった。一年間という貴重な時間をハロルドさんの近くで過ごせればそれでよかったのに……なのに……)


「……パルマ様、私の事は、ハロルドと呼んでください……」


「……ハ、ハロ……ルド……?」


「はい‥‥」


もう、そこからは、パルマは泣き崩れ、歩くこともままならなくなった。

やがてパルマは一度落ち着くため、自室で休むことになった。


三人はパルマを待つ間、ヘイリーの研究室に案内された。


「ハロルドさんは……いや、ハロルドは……あなたにこの機械の話をしたのでしょう?」


ヘイリーは、まだ慣れない呼び捨てでハロルドの名前を丁寧に発音した。


「ええ、伺っています。非常に興味深く思っています」


「私たちデジュライ侯爵家は昔からオウル帝国で新しい道具を開発し、世に出すことを役割として担ってきました。他国の優れた技術をさらに昇華させ、実用化する研究を行っています。この機械もその一つです」


そう言って、ほこりよけの布を外すと、以前ハロルドが見たあのパネルや管が組み込まれた箱が姿を現した。


「人の血液を特殊な方法で解析し合わせることで、同じ血筋かどうかを判断するものです。まだ改良の余地はありますが、結果はかなり信頼できるものです」


「ほう、これが……」


ザカライアは機械に一歩近づき、中を覗き込み、不思議そうな顔をしている。


「見ただけでは説明してもわかりにくいでしょうね……では……ハロルド、少し血を分けてくれますか?」


ハロルドはうなずき、指先から少量の血を取り、ヘイリーに渡す。

ヘイリーも自分の指先から血を少量採取した。


「もしよろしければ……アービング公爵の血もここに少しいただけますか?」


興味を持ったザカライアは言われるがまま、ためらうことなく血を提供した。


まずザカライアとヘイリーの血を機械に入れ、動作を開始する。

大きな機械音が響き、やがて止まると、ヘイリーがボードを取り出し持ってくる。


「ご覧ください。ボードの色は白いままですね?」


「そうですね……」


「では、こちらにハロルドと私の血を入れます」


同様に血液を入れて機械を動かす。大きな音が響き、やがて止まると、ヘイリーはボードを取り出しザカライアに見せる。


「このように……ボードが紫に染まると、血縁関係にある証明になります」


「驚いたな……他の血縁の者も同じ反応を?」


「はい。これまで100名以上に協力いただき、血縁がある場合はこのような結果が出ています」


ザカライアは、紫色に染まったボードをじっと見つめたまま、しばらく何も言わなかった。


「なるほど……そうか。これは……凄いことだ」


しばらくして、何かを考えていたザカライアが顔を上げる。


「侯爵、あなたの研究は、本当にすばらしいですね。もう少し近隣にあれば、もっと、色々な研究のお話ができたでしょう。オウル帝国がファルマン帝国から離れていることが、とても残念です」


ザカライアは心から悔しそうだ。

と、そのとき、

扉の向こうから控えめにノックの音が響いた。


「……パルマ様が、落ち着かれたようです」


執事の声に、三人はゆっくりと顔を上げた。


食堂に移動すると、すでにパルマが席についていた。

三人が入ってきたのを確認すると、彼女はゆっくりと立ち上がり、品のあるカーテシーを見せた。


「……先ほどは、取り乱してしまい申し訳ございませんでした。改めてご挨拶させていただきます。アービング公爵様、ヘイリーの妻、パルマと申します」


「パルマ様、ザカライア・アービングです。このたびは、我が商会のために多大なるご配慮を賜り、ありがとうございました」


ザカライアも軽く頭を下げて応じた。


「アービング公爵様、こちらこそ……本当に、ありがとうございます」


パルマは、胸の内から湧き上がる感謝を、ゆっくりと言葉にした。


「いえ、私もありがとうございます……これで、おあいこですね」


ザカライアは、パルマの思いをすぐに察し、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。


パルマも自然と頬を染め、同じように楽しげな笑顔を返した。


「さあ、公爵様もお腹が空かれているでしょう? どうぞ、オウル帝国のお料理をお楽しみくださいませ」


全員が席につくと、すぐに食事が運ばれてきた。

ヘイリーとザカライアは息が合うようで、一時間も経たぬうちに研究の話で夢中になっていた。


一方、ハロルドはパルマと向き合い、自然と会話をすることになった。

商会の品々のこと、貴族たちの噂話など、パルマが話しやすいようにハロルドは気を配って言葉を選ぶ。

そんな中、ふいにパルマが言った。


「……あなたが、この国に留まらないことは、わかっています。あなたが生まれたのは、ここではなく、ファルマン帝国。あなたの祖国は、そちらなのでしょう……。私たちを祖父母と認めてくれただけで、十分だわ……」


「パルマ様……」


「ふふ……そうね。いつか『パルマ様』じゃなくて、『おばあ様』と呼んでもらえたらって考えてしまうことは図々しいかしらね……でも、そうなってしまったら、また私は感極まって部屋から出られなくなってしまうかもしれないけれどね……」


「……」


「あなたが、これまでどれだけ頑張ってきたのか。どれほど寂しかったのか……私たちには、本当のところはわからない。でも、あなたがアービング公爵に出会って、かけがえのないものを得たのだと、私は思うの。だって……あなたが彼を見るときの目に、すべてが表れているから。兄を慕う弟のような、あんなに優しい眼差しで……人は誰でも見られるものじゃないわ……あなたにも、ファルマン帝国に家族がいたのね……それを知れただけでも、今日を迎えられてよかったと思うわ」


ハロルドは言葉を失い、ただ黙ってパルマを見つめた。

彼の胸の奥に、長いあいだ封じ込めていた想いが、静かに揺らぎはじめる。


そんな様子に気づいたのか、パルマは微笑を浮かべたまま、ふっと視線をヘイリーとザカライアのほうへと移す。


「ふたりとも、楽しそうね?」


見ると、ヘイリーが小さな部品を指さしながら、ザカライアと笑い合っていた。

話している内容は専門的すぎて、遠くからではよくわからないが。


「なんだか、私にも一気に家族がたくさんできたわ。なんて素敵なことなのかしら。今度は私たちが、あなたたちの国に行くわ。絶対よ」


パルマはそう言って、ハロルドの手を取り、まるで約束を交わすかのようにぎゅっと握りしめた。

ハロルドは、その華奢な手を静かに見つめる。


「本当は、あなたをこの国で結婚させて、しばりつけようと思っていたのよ……残念ながら、それは失敗に終わったけれど」


突然の悪だくみの告白と、いたずらっ子のような笑み。

ハロルドはその笑顔を見て、ふと思った。

……この人の笑顔が、きっと俺の人生でいちばん好きな笑顔だ、と。


「俺が、おばあ様の企みに気づかないとでも?残念ながら、まだまだ結婚はしませんよ」


ハロルドも笑いながら、祖母へと軽口を返す。


『おばあ様』


その呼び方に、パルマはまた滝のような涙をこぼしながら、「急にそんなこと言って驚かせるのはやめてちょうだい!」と声を上げていた。



やがて、帰国の日がやってきた。

港にはザカライアの姿もあり、ルイやユーファたちが見送りに集まっていた。


「……本当に、行ってしまうのね」


パルマの声は、どこかまだ信じたくないような響きを含んでいた。


「ええ。でも、今度はファルマン帝国に二人で来てくれるのでしょう?」


ハロルドはそう言って、パルマの手をもう一度、しっかりと握った。


「ファルマンで、今度は『家族』として迎えますよ。おばあ様」


その言葉に、パルマはまたしても涙をこぼし、ハンカチを取り出す暇もなく、袖で目をぬぐった。


「やっぱり、あなたって……ずるい子ね。最後の最後まで!」


その後ろで、ヘイリーがそっとパルマの背をさすっていた。

そして、パルマたちが一歩下がると、ルイやユーファ、使用人たちが次々に別れの言葉を告げていく。


ザカライアが「そろそろ、出航の時間だな」と声をかけると、ハロルドは大きく一つ息を吸い込み、船のタラップへと足を踏み出す。


振り返ると、港に集まった人々の中で、ヘイリーとパルマがひときわ大きく手を振っていた。


船の汽笛が空気を震わせる。


「おじい様!おばあ様!お元気で!!……では、また!」


ハロルドは大きな声でそう叫び、何度も手を振った。



たった一年。


されど一年。


それは、ハロルドの人生を大きく変えた一年だった。


今思えば、あの時。

デジュライ侯爵から届いた一通の手紙を見たとき、心のどこかで、何かが動き出していた。

だからこそ、あの時ザカライアに、こう言ったのだ。


『なあ、ザカライア……東方に支店を出してみないか?』


あの時の自分は、なぜか、強くオウル帝国に惹かれていた。

理由なんてわからなかった。ただ、そうすべきだと強く思った。


不思議だ。

本当に、不思議な一年だった。


気がつけば、もう陸地は遠ざかり、視界には青い海と空しかない。


ハロルドは最後に一度だけ、オウル帝国の方角を振り返る。


そして静かに身体の向きを変えると、ハロルドはゆっくりと、ザカライアたちがいる客室へと戻っていった。


気軽な気持ちで書きはじめたら何だか長くなってしまいました。

ハロルドの恋愛も気になった方がいるかもしれませんが、残念ながらハロルドの恋愛はまだまだ先になりそうです。

お読みいただいてありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
ちょっと虫の知能高過ぎませんかね?
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