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ハロルド 中

その日の夕食は、ファルマンから共にやって来た仲間たち、総勢二十名で長いテーブルを囲んだ。


せっかくなら現地の味を試してみようと、あらかじめオウル帝国式の料理を用意してもらっていた。テーブルの上には、見慣れぬ彩りと香りに満ちた料理が並ぶ。


見たこともないスパイスが香る白身魚のロースト。ほろほろと崩れるまで煮込まれた羊肉に、甘く香ばしいソースがかかっている。添えられたパンにはほんのりシナモンが練りこまれ、食卓全体がどこか異国の祭りのような雰囲気に包まれていた。


「ちょっと甘い?でも、悪くないかも」


「独特の香りだな……」


最初は皆、慎重に食事を進めていたが、一口、二口と味わううちに、その複雑な香りと味の奥行きに次第に惹きこまれていく。


食堂のあちこちから笑い声が上がり、思いがけず楽しい夕食となっていた。


ハロルドは席の端で静かにワインを傾けながら、その様子を満足そうに見つめていた。


「デバル……」


「はい、なんでしょうか」


すぐに背後から声が返る。控えていたデバルが、静かに歩み寄ってくる。


「申し訳ないのだが、これをまたデジュライ侯爵に届けてください。返事の手紙です」


そう言って、懐から封筒を取り出し手渡す。封蝋にはザカルド商会副会頭の印が、赤く、しっかりと押されている。


「それと……明日の昼、侯爵屋敷に招かれました。訪問の準備も頼めますか?」


デバルは手紙を両手で丁寧に受け取り、うやうやしく頷いた。


「かしこまりました。手紙は今夜中にお届けいたします。明日のお出かけの支度も、万全に整えておきます」


「よろしくお願いします」


ハロルドは軽く頷くと、再び賑やかな食卓を見渡した。


(明日から……いよいよ支店を出す準備を始めないとな)


そう思いながら、手にしたグラスを二度、スプーンで打ち鳴らす。

澄んだ音が響き、ざわついていた場が一瞬で静まり返った。皆の視線が、自然とハロルドへと集まる。


「明日は午後から、皆に仕事をしてもらう。一年じゃ足りないかもしれないが、我々の目標は……この国に、支店を構えることだ」


一拍置いて、続ける。


「時間は限られているが、俺は皆の力を信じている。このあと少しだけ、打ち合わせをする。疲れていると思うが、もうひと踏ん張り、付き合ってくれ」


「はい!」


場の空気が一気に引き締まる。全員が快く返事を返した。


ここに集められたのは、かつてデューク王国で支店を立ち上げた精鋭たちだ。仕事への熱意と実行力は折り紙付きで、誰もがやりがいを感じている者ばかり。


その中でも、特にハロルドが厚く信頼を寄せる人物に声をかける。


「ルイ」


「はい!」


名を呼ばれたルイは即座に立ち上がり、ハロルドの元へと歩み寄った。


「予定通り、ここに支店を出せたら、ルイ、お前が支店長だ。そっちの準備は大丈夫そう?」


「はい。親にも話しましたし、引き継ぎも無事に終わっています」


「さすがルイ。俺は明日、少し私用で動くことになるから、その間の取りまとめを頼める?」


「承知しました。ハロルドさん、何か急ぎで進めておくべきことはありますか?」


「うーん……できれば、ダルジュ商会に連絡を取ってほしい。先方の会頭と、会談の約束を取り付けておきたい」


「了解です。すぐ動きます」


「助かる。じゃあ、皆に明日からの業務の共有を始めようか」


「はい。……皆、打ち合わせを始めるぞ!まずはこの資料を回してくれ!」


ルイが準備していた資料が次々と配られていき、それをもとに明日以降の行動予定を全員で確認していく。


打ち合わせはおよそ二時間に及び、ようやく区切りがついた頃には、すっかり夜も更けていた。


ハロルドは深く一息つきながらダイニングを後にし、自室へと戻る。


(……デジュライ侯爵か。この国で後ろ盾ができるなら、悪くないが……)


着替えを済ませ、ベッドに体を沈める。


(さすがに今日は疲れたな……)


目を閉じると、すぐに眠気が押し寄せてきた。深く考える間もなく、意識は静かに闇に落ちていった。



翌朝、空は抜けるような青空が広がっていた。

屋敷の正門前に停められた馬車へ向かう。

今日は、デジュライ侯爵の屋敷への正式な訪問だ。馬車にはデバルが同乗している。

仮にもこの国の最高位である侯爵家への訪問、執事を同行させるのは当然の礼儀だった。



時間もかからず、デジュライ侯爵邸に到着した。

デバルが言っていた通り、本当にご近所だ。


門の前にはすでに数名の使用人が整列しており、思った以上に丁重な出迎えにハロルドは内心で戸惑いを覚える。

馬車を降り、整列した使用人たちの前を通り抜けながら屋敷の入口へと進むと、初老の執事が深々と一礼をした。


「お待ちしておりました。ザカルド商会副会頭、ハロルド様」


「はじめまして」


「どうぞ、こちらへ」


執事に案内され、屋敷の中へと足を踏み入れる。

屋敷内は、シンプルな調度品で整えられており、どこか冷たく感じる空気が漂っていた。


しばらく廊下を進むと、こぢんまりとしたダイニングルームのような部屋に通された。

明らかに来客向きとは言えない空間に一瞬驚くが、ハロルドは顔に出さないよう気をつける。

正面の壁には、男女とその娘と思しき三人の肖像画が掛けられていた。


「では、こちらでお待ちください」


執事が椅子を引き、ハロルドを座らせる。

茶を出して部屋を後にすると、室内にはハロルドとデバルだけが残された。


「デバル、この国では……こういった家族のスペースに来客を通すことはあるのか?」


「いいえ、聞いたことがありませんね」


ハロルドは椅子を離れ、壁に飾られた肖像画の前へと歩み寄る。


「……」


絵の中の少女と目が合った瞬間、胸がざわついた。


(確かに……俺と似ている)


顔の輪郭、目の色、鼻の形、髪の色、そして、笑ったときにできるえくぼ。

彼女のえくぼは、ハロルドとまったく同じ位置に、同じかたちで描かれていた。

男女の違いはあれど、それでもなお、驚くほど似ている。


ハロルドはしばらくその絵を見つめていた。


「その絵は、私の娘が若い頃、画家に描かせたものなのです」


不意に、知らない男の声が部屋に響いた。

ハロルドはすぐに声のした方を振り返る。

デバルはすでに深く一礼し、部屋の隅に下がっていた。


扉の方から入ってきたのは、壮年の男女。

その身なりからして、男がデジュライ侯爵のヘイリー本人であり、彼の腕を取っている小柄な女性が妻のパルマなのだろう。


「侯爵閣下、はじめまして。ファルマン帝国より参りました、ザカルド商会副会頭のハロルドと申します。本日はご招待いただき、誠にありがとうございます」


「……はじめまして、ハロルドさん。私は、手紙を差し上げたヘイリー・デジュライです。そして、こちらが妻のパルマです」


「……妻のパルマと申します……まさか、こんなに……こんなに似ているだなんて……」


パルマ夫人はハンカチを握りしめ、涙を溜めた目でハロルドをじっと見つめていた。

その視線に落ち着かない気持ちになりながらも、ハロルドはなんとか笑顔を作る。


困った時こそ、笑顔を浮かべて平然としろ。

それがザカライアの教えだった。


「こんにちは、パルマ侯爵夫人。ハロルドと申します」


パルマの呟きを聞かなかったふりをして、礼を述べる。

ヘイリーはそんな妻を気遣いながら、執事を呼んだ。


「バーガ、ハロルドさんをご案内して、食事の用意を」


「かしこまりました」


再び姿を現した先ほどの執事が椅子を引いて待っている。

ハロルドは促されるまま、用意された席へ腰を下ろした。


全員が席に着くと、間もなく料理が運ばれてくる。

王宮の饗宴を思わせるような豪華な食事。

昨日、皆と食べた食事よりもずっと高級感がある。美しく盛り付けられた異国の料理に目を奪われる。


「ハロルドさん、お飲み物は……?」


正面に座るヘイリーが尋ねてくる。


「水で結構です」


執事のバーガは小さく頷き、後方のワゴンから水を取り出してテーブルに置いた。


「では、食事をとりながらお話ししましょうか」


「ええ……」


ちらりとパルマ夫人の方を見れば、涙は拭かれていたものの、なお潤んだ目でハロルドを見ていた。


(あの目……落ち着かない。俺と同じ瞳の色だ)


パルマの瞳は、大きくて柔らかいオレンジ色。

髪色はハロルドの錆色をもう少し明るく、透明感を加えたような色で、鼻筋の形もどこか似ている。


「……手紙には娘の話を書かせていただきましたが、目を通していただけましたか?」


ヘイリーが、少し気まずそうに言葉をつないだ。


「ええ。一通り、拝読いたしました」


二人は顔を見合わせ、小さく頷き合う。


「……手紙にも書きましたが、私たちには一人娘がおりました。ある日、娘が“好きな人ができた、結婚したい”と言い出したのです。よくよく聞くと、その相手は……家庭教師として屋敷に通っていた者でした。しかも、娘はすでに身ごもっておりました」


ヘイリーは悔しげに、テーブルの上の手をぎゅっと握りしめる。


「もちろん当時の私たちは、貴族として到底容認できず……その家庭教師を即座に解雇し、娘を田舎の領地に送って出産させ、子どもは養子に出すつもりでおりました。……今思えば、なんと愚かなことをしたのかと……」


「あなた……」


パルマがそっと夫の手の上に手を重ね、言葉を支える。


「ある日、娘は私たちの意図に気づいたのでしょう。私たちの知らぬ間に、身重の体で家を出て行ったのです。家庭教師の名で“妻”と名乗り、ファルマン帝国行きの船に乗った……そこまでの乗船記録が、娘の最後の足取りでした。ファルマン帝国で人探しをするのは容易ではなく、ついに娘も子どもも見つけることができませんでした……」


そこで、一息つくと、手元にあるお茶を一口飲む。

ハロルドは、身動きもせず黙ってヘイリーの言葉を聞いている。


「……ところがある日、街で偶然、ファルマン帝国の新聞を読んでいる者を見かけたのです。そこに載っていた絵姿が、まさしくあなたが……娘のルエルにそっくりで。その人物にあなたについて尋ねると……失礼ながら、あなたは孤児でいらっしゃったと伺い、もしやと思いご連絡を差し上げた次第です」


「……………………」


長い沈黙のあと、ハロルドが口を開いた。


「そうですか……私は赤ん坊のころ、孤児院の前に捨てられていたそうです。身元がわかるような物は、何一つ残されていませんでした……。仮に、本当にあなた方の孫だとしても、それを証明する手段などありません。……私は、仕事でこの国に来ただけです。あなた方に会うのは、あくまでついでだったんです。もうこれ以上、手紙は送らないでください。娘さんのお子さんを探したいお気持ちはわかりますが……残念ながら、それは私ではありません……」


そう言って、ハロルドは椅子から立ち上がろうとした。

それを慌てて止めようとヘイリーも腰を浮かせる。


「少し……少しだけ待っていただけませんか?……もし、それを証明できる手段があるとしたら……協力していただけませんか?」


「……証明できる?」


ハロルドが訝しむように眉をひそめた。


「はい。このオウル帝国には、血縁関係を判定するための道具があります……すでに、使えるよう準備を整えてあります。どうか、ご協力を……」


思いがけない申し出に、ハロルドは目を見開いた。


(血の繋がりを証明できる道具?……そんなものが、この国に?ファルマン帝国には、そんな技術はないが……そんなこと可能なのか?)


動揺と好奇心に心が揺れる。

断って席を立つべきだ。

その理性はあった。

だが、知らない知識、未知の技術。

その誘惑に抗いきれず、ハロルドは一瞬、足を止めてしまう。


ヘイリーはその様子を見逃さなかった。


「バーガ、あれを持ってきなさい」


「かしこまりました」


執事のバーガがすぐに侍従たちとともに動き、ほどなくして、重厚な木箱に収められた大きな装置をテーブルへと運び入れる。見るからに特注品。パネルや管が組み込まれた箱。


ハロルドは、ついふらりとそのそばに歩み寄ってしまった。


「これは私が開発したものです。デジュライ侯爵家は創造の家系として知られておりまして、代々、さまざまな道具を作ってきました。まだ公式に認可された技術ではありませんが、実験では確かな反応を示しています。少しだけ、指先から血をいただきますが……よろしいでしょうか?」


今ならまだ断れる、とハロルドの理性が警鐘を鳴らす。


だが、それよりも目の前の道具が、どう反応するのかを見てみたいという知的好奇心が勝ってしまった。


差し出された小さな針を、ハロルドはためらいながらも指先に押し当てた。滲んだ血が差し出されたボードに一滴、静かに落ちる。

ヘイリーも同じように血を採取し、二人分のサンプルを装置の内部にセットする。


低く唸るような音を立てながら、装置がゆっくりと稼働を始めた。

数分後、機械の動作音がぴたりと止む。


ヘイリーがそっと装置の蓋を開け、中からボードを取り出す。

その中身を見たヘイリーは、一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐにパルマに向き直って、穏やかに微笑み、うなずいた。


「ハロルドさん、こちらをご覧ください」


そう言って差し出されたボードを覗き込むと、全体が淡い紫色に染まっている。


「これが紫に染まるということは、同じ血統の要素を持っている、という意味です。かなりの高確率で、私とハロルドさんは血のつながりがあると判定されました……」


パルマが目を潤ませながら、嬉しそうにハロルドを見つめてくる。

しかし、ハロルドはその視線に居心地の悪さを覚え、わずかに身じろぎした。


「……この機械を初めて見ましたし、結果の説明を聞いても正直なところ、すぐに信じることはできません。それに……」


視線をそらしたまま、ハロルドは静かに言葉を継いだ。


「……たとえ本当に、あなた方が私の祖父母だったとしても、私は、それに特別な感情を抱くことはできません。この国には、あくまで仕事のために来ただけです。一年が過ぎれば、私はファルマン帝国へ戻ります。この滞在中も、仕事に追われているので、あなた方が望むような関わり方は、できません」


ヘイリーは少し考えて言葉を紡ぐ。


「確かに、急にこんな話をされても、ハロルドさんが戸惑うのは当然です。これまで私たちは何もしてこなかった……それは紛れもない事実です……。そうですね、ハロルドさん、もし私たちがあなたのお仕事を円滑に進めるためのお手伝いをすると言ったら……少しだけ、あなたの時間をいただけませんか?」


「それは……」


「あなたがザカルド商会をこの国で展開したいと考えていることは、私たちも承知しています。ですが、この国には王族にも強い影響力を持つダルジュ商会がある。正直、一年やそこらで新規の商会が食い込めるほど、甘い場所ではありません。……そこで、提案です。私たちがあなたの商会の支店を出すための後押しをしましょう。その代わりに……週に一度‥‥いや、月に一度だけでもいい、私たちと夕食を共にしてほしい。それ以上のことは望みません。どうでしょう?……そんなに悪い条件ではないはずです」


それは、とても魅力的な条件だった。

ハロルドは一瞬の迷いも見せず、すっと口を開いた。


「……私は、自分の両親について、何も知りません。ですので、あなた方の娘さんに関して、何か有益な情報を引き出せるとは思えません。……それに、先ほども申し上げた通り、私は、今もあなた方が私の祖父母だとは思っていません。ですが、オウル帝国の最高位であるデジュライ侯爵をビジネスパートナーとすることに異存はありません……それでよろしければ」


ヘイリーとパルマは、その返事を聞いた瞬間、心から嬉しそうに微笑んだ。

視線を壁際のデバルに向けると、彼は口をぽかんと開け、まるで信じられないといった顔でこちらを凝視していた。


(そりゃ、そうなるよな……)


「ああ、それで充分だよ。私もパルマも君との食事を楽しみにしている。まずは、ダルジュ商会の会頭と引き合わせよう。日程は、いつが都合がいいかな?」


ヘイリーが、まるで近所の知人にでも会わせるかのように軽く口にしたのを聞いて、ハロルドは内心驚いた。


ダルジュ商会の会頭に会えるなんて、正直、どれだけ早くても半年は先の話だと思っていた。いや、それどころか、一生顔を合わせる機会などないかもしれない、とすら思っていた。というのも、商会という職業の性質上、新参の商会に対しては非常に警戒心が強い。

基本的には、相手の動向を長く観察したうえで、ようやく関係を結ぶかどうかを判断するものだ。


昨夜、ルイに挨拶の機会を取り付けるよう話はしたが、それは形だけのもので、本気で実現するとは思っていなかった。ただ、こちらから接触を試みたという事実さえあれば、これから行動するのに十分だと思っていた。


「日程、ですか?……こちらからお願いしている立場ですから、あちらのご都合に合わせていただければ」


「ああ、そうだな、すまない。少し舞い上がってしまった。では、会頭に相談して、日程が決まり次第お伝えしよう」


「ありがとうございます。よろしくお願いします……」


ハロルドは、一瞬、じっとヘイリーを見つめた。

その穏やかな笑みの裏にある何かを測ろうとするように。


(……まあ、いいか。こっちの仕事がスムーズに進むなら、それでいい)


胸の奥に何とも言えない違和感がくすぶっていた。

あの二人を見たとき、自分と似ていると思ったのは事実だ。

親はもちろん、これまで親族という存在を意識したことなど一度もなかったのに。


帰りの馬車の中で、ハロルドはデバルに「このことは誰にも話すな」と口止めをした。

デバルもそれに黙って頷いた。

さすがはザカライアの推薦で雇われただけのことはある。執事としてしっかり心得ている。


屋敷に戻ると、ルイが出迎えに出てきた。


「ハロルドさん、お帰りなさい。申し訳ありません……ダルジュ商会に面談を申し入れたのですが、まったく相手にされませんでした……」


ルイは悔しそうに肩を落とす。


「まあ、そうだよな〜。……でもルイ、その件なんだけど、後日、ダルジュ商会の会頭と会えることになったから、安心してくれ」


「えっ?いつの間にそんな!?」


「ほら、俺って優秀だからさ」


「……いや、優秀なのは知ってますけどっ……!」


ハロルドは軽口を叩きながら、執務室へと入っていった。

一人になると、深く息を吐き、ソファに身を投げ出す。


「はあ〜……祖父母とか、本当に勘弁してほしいわ……」


胸の奥に残る、得体の知れない不安。

ついさっきまで「赤の他人」だった人間が、突然、自分の人生の中に土足で入り込んできたような、そんな奇妙で気味の悪い感覚。


(……普通、ふたを開けてみれば本物でした。なんて話、早々あるわけないだろ……?)


あの得体の知れない道具が出した結果を、完全には信じていない。

それでも、二人と向き合っていると、どこか自分とのつながりを感じずにはいられなかった。


(たしか、デジュライ侯爵家は創造の家系って言ってたっけ…………)


思い返せば、自分には、妙に強い探究心と、学びに対する異様な執着があった。

それは、ただ知識を蓄えるだけでは終わらない。その先にある、モノづくりに惹かれる感覚。そしてあの祖母の瞳。

どこか自分と同じ色と形をした、あの静かな眼差しが今も脳裏に焼きついて離れない。


(……とりあえずこの結果は、心配してくれていたザカライアには報告しておこう。たしかに、あの二人には妙な感覚を覚えたが……侯爵は使える。仕事が終わって、ファルマンに戻れば……もう、会うこともないだろう)


とりあえずザカライア宛に手紙を書き終えると、ハロルドはお姫様から預かっていた小さな笛を取り出し、そっと吹いてみた。


すると、たいして時間もかからず、窓の外の木に数羽の鳥が舞い降りてきた。

その中の一羽、鋭い目をしたハヤブサらしき鳥がするりと部屋の中に入り、テーブルの縁に軽やかに止まった。


ハロルドは大きな鳥に少しだけ警戒しながらも、小さく折りたたんだ手紙を通信筒に収め、それを鳥の足に括りつける。

すると鳥はひと鳴きして、羽ばたきとともに空へあっという間にその姿は見えなくなった。


(何度見ても、信じられない……野生の鳥を、まるで使い魔のように使役するなんて。お姫様は本当にすごい人だ……)


ザカライアの妻・オクタヴィアは、動物と通じ合える不思議な女性だった。

理屈はまるでわからないが、彼女は鳥も獣も虫でさえも、まるで友人のように接することができる。ついでにあのバカでかい伝説の馬とも……。


ここから遠く離れた国であっても、あの鳥なら、夜までには確実に手紙を届けてくれるはずだ。


ハロルドは、本当の家族のように慕うアービング公爵一家の顔をふと思い浮かべながら、柔らかく目元を緩めた。

そして気持ちを切り替えるように、テーブルの上に積まれた書類へと手を伸ばした。


コンコン。


「失礼いたします。急ぎのお手紙が届きましたのでお持ちいたしましたが、入ってもよろしいでしょうか?」


「どうぞ」


デバルが、銀のトレーに乗せた手紙を持って入ってくる。


「ハロルド様、こちらデジュライ侯爵閣下からでございます」


「ありがとう」


そう言って、トレーから手紙を取る。


「従者の方が、お返事をこの場でほしいと下で待っておりますが、よろしいでしょうか?」


受け取った手紙を、すぐにデスクにあったレターナイフで開封して、内容を確認する。


「……わかりました。返事を書くので、待たせておいてください」


手紙には、ダルジュ商会との約束を取りつけたことと、会頭に会うときは自分も立ち会いたいという内容が記されていた。

便箋にさらさらと返事を書き、封筒に入れて封蝋を押し、デバルに渡す。


「デバル、よろしく」


(明日の夕方か……)


ハロルドはすぐに部屋を出て、隣の事務官たちがいる部屋に入っていく。


「ルイ、ちょっといいか?」


「はい」


「急だけど、明日の夕方ダルジュ商会で会頭と会うことになったんだけど、一緒に行ける?」


「ええ、もちろんです」


「じゃあ、明日よろしく……あ、そうだった。デジュライ侯爵も一緒に行くことになったから、よろしく」


「デジュライ侯爵?」


「ああ、この国の最高位の侯爵様だ」


「ええっ!?」


「ということで、ルイ、準備よろしく〜」


パニックになっているルイを残し、ハロルドは執務室に戻って先ほどの続きを再開した。



翌日、なぜかハロルドたちが滞在している屋敷の前に、デジュライ侯爵家の大きな馬車が停まっていた。


不審に思い、デバルに様子を見に行かせると、「迎えに参りました」とのことらしい。

馬車の中にはヘイリーに加え、なぜかパルマ夫人の姿もあるという。

こちらからはハロルドとルイの二人が向かう予定なので、定員の心配はなさそうだが……


「デ、デジュライ侯爵閣下の馬車で行くんですか!!??」


「俺も驚いてるよ……でも、こうして来てしまった以上、断るのも失礼だろう。パルマ夫人を退屈させない話の一つでも考えておけよ」


「ええっ!?そんな無茶な……」


二人で足早に馬車に向かうと、執事のバーガが丁寧に出迎えてくれた。

ルイは侯爵家の執事に緊張しきった様子で挨拶をしている。

ハロルドが馬車に乗り込むと、ヘイリーとパルマ夫人の視線と目が合う。


「デジュライ侯爵、本日はお約束を取りつけていただき、さらにお迎えまで来ていただき誠にありがとうございます」


「いや、構わんよ。パルマがたまたま商会の近くで用事があってね。ちょうど良かっただけだ」


ちょうどそのとき、ルイが乗り込んできたので紹介をする。


「いずれこちらで支店が設立された際には、支店長を任せる予定のルイです。本日はご一緒させていただきます」


「侯爵閣下、はじめまして。ファルマン帝国より参りました、ルイ・サンドーラと申します」


「君は貴族なのかね?」


ファルマン帝国では、名前に家名が含まれていると貴族の出身であるため、ヘイリーはすぐに察したようだった。


「はい、男爵家の四男でして……実際には平民と変わらぬ暮らしをしておりますが」


「そうか。それは失礼。ザカルド商会は平民の出身者も多いと聞いていたものだから……」


「確かにそうですね。会頭のアービング公爵は、身分を問わず優秀な人材を登用しますので、貴族も平民も混在して働いています」


「アービング公爵は新聞でよく拝見します。とても整った顔立ちで、どこか冷たそうな印象を持っていましたが……」


「いえ、とんでもありません。仕事には厳しい方ですが、ご家族にはとても甘く、私たち部下にも分け隔てなく接してくださいます。誠に立派な方です」


「ほう、それは興味深い。機会があれば、ぜひ一度お会いしてみたいものですな」


馬車の中では、もっぱらザカライアの話題で盛り上がっていた。

ハロルドは黙ってルイとデジュライ侯爵の会話に耳を傾けていたが、ふとパルマ夫人の視線を感じてそちらを見ると、にこりと微笑みかけられた。

そして彼女は、ハロルドに話しかけてきた。


「ハロルドさんは、この国の貴族の方々ともお知り合いになりたいでしょう?」


「……ええ、そうですね。そうした場があれば、ぜひ参加させていただきたいところですが……」


「来週、私が主催している定例の茶会がございますの。よろしければ、いかがかしら?」


「……茶会とおっしゃいますと、ご婦人方ばかりなのでは? 私などが伺ってもご迷惑ではないでしょうか……」


「いいえ、ご主人方も気軽にお越しになりますのよ。皆さん上流階級の方ばかりですから、ハロルドさんのお顔を覚えていただくのには絶好の機会かと思いまして」


「……そう、ですね。では、もし都合が合いましたら、ぜひ伺わせていただきます」


「ふふ……嬉しいことです。新しい方がいらっしゃるのは久しぶりです」


パルマ夫人は、穏やかで気品のある雰囲気を纏った女性で、若かりし頃は、さぞかし美しかったことだろう。

その愛らしい微笑みは、相手の心を自然と解きほぐしていく。貴族社会においては、人脈が何よりの財産だ。定期的に茶会を主催するというのは、知人や友人が豊富でなければ成り立たない。

パルマ夫人は、それだけ深い繋がりを持っている人物なのだろう。


「ハロルドさんは、どんなお食事がお好きなの?」


「食事ですか?……特に好き嫌いはありません。なんでも美味しくいただきますよ」


「まあ、オウル帝国のお料理はもう召し上がったのかしら?」


「はい。今滞在している屋敷では、オウル帝国出身の料理人を雇っておりまして。初日は代表的な郷土料理をいくつか作ってもらいました。どれもとても美味しかったです」


「それはよかったわ。ファルマン帝国とオウル帝国では食文化がまるで違うので、お口に合わなかったら大変ですものね。お食事の時間が憂鬱になってしまいますもの」


そんな会話をしているうちに、馬車がゆっくりと停車した。


「奥様、アデライト伯爵のお屋敷に到着いたしました」


バーガがそう告げながら、馬車の扉を開ける。


「あら、もう着いてしまったのね。ハロルドさん、あまりお話できなくて残念でしたけれど、とても楽しいひとときでしたわ。今度、お茶会にぜひお誘いさせていただきますね」


パルマはそう言って馬車の中の皆に微笑み、品よく一礼すると、颯爽と去っていった。


ダルジュ商会は、パルマが降りた場所からそう遠くないらしく、馬車は再び動き出してすぐに到着した。


ダルジュ商会の本部には、ヘイリーを先頭にして足を踏み入れた。案内係に導かれ、建物の最上階へと案内される。


通された部屋の正面、重厚な机の向こうに、ひときわ体格のいい男が腰を下ろしていた。


「エイダーン、今日は時間を取ってくれてありがとう」


「ヘイリー様、何をおっしゃいます。あなた様のご希望とあらば、何でも叶えて差し上げますよ」


男はゆっくりと椅子から立ち上がる。


筋骨たくましい体つきに加え、その精悍な面差しは、まるで海賊を思わせるような風貌だった。


「こちらが、ザカルド商会の副会頭・ハロルド君と、ルイ君です」


「このたびはお時間をいただき、誠にありがとうございます。ファルマン帝国より参りました、ザカルド商会副会頭のハロルドと申します」


「ルイ・サンドーラです」


「エイダーン・ダルジュだ。ダルジュ商会の会頭をやってる。まあ、立ったままでは何だから、どうぞそっちに座ってくれ」


彼は手を軽く差し出し、応接用の椅子を勧める。

エイダーンはハロルドに視線を移しこう言った。


「先日はご連絡をいただいたようだが、ちょうど留守にしていて申し訳なかった」


「いえ、こちらこそ急なご連絡となり、失礼いたしました」


穏やかに言葉を交わしてはいるが、両者ともに心の内では様子を探っている。

相手が「留守にしていた」というのは恐らく建前だし、こちらも最初から連絡がつくとは期待していなかった。

商会同士のやり取りとは、えてして、そういうものだ。

腹の探り合いと駆け引きの場。真正面から素直に応じるほうが珍しい。


無言でそんなやり取りをしている二人に言葉を挟んだのはヘイリーだった。


「エイダーン、娘さんはもう戻ってきたかい?」


「ええ、ようやく帰ってまいりました。一人で生きるというのがどれほど大変か、身に染みてわかったことでしょう」


「またそんなことを。娘さんが無事に戻られて何よりだ」


「あとで、ヘイリー様に挨拶に来るように言っておきます。よろしければ会ってやってください」


「ああ、それは嬉しいね。以前お会いした時は、まだ少女だったから……今では立派なご令嬢になっているのだろう」


今のやりとりからして、どうやらエイダーンとヘイリーは昔からの付き合いがあるようだ。


「そういえば、今日はパルマ様は?娘がお会いしたいと言っておりまして……」


「ははは、今日は商談だよ、ヘイリー?パルマは買い物に出ている。愛しの妻だが、さすがに仕事の場には連れてこないよ」


「……ああ、そうでした……」


そう言った瞬間、エイダーンの顔から笑みが消えた。先ほどまでの穏やかな口調が一変し、鋭い視線をハロルドに向ける。


「で、ファルマン帝国のザカルド商会の方が、何用で来られたんですか?そもそも、なぜヘイリー様はこのお二人をお連れになったんです?」


空気が一瞬にして張り詰める。

エイダーンの視線には、疑念と警戒心が色濃くにじんでいた。


「少し前から事情があって、ハロルド君とは手紙でやり取りをしていてね。こちらの国でザカルド商会も商売を展開したいということで、いくつか相談に乗っていたんだよ。もちろん、ダルジュ商会を脅かすつもりはないそうだ。ファルマン帝国の商品をこちらの国でも販売し、逆にこちらの優れた商品を、ファルマン帝国に展開したいと……そうだったよね?ハロルド君?」


ヘイリーの声は穏やかだが、話の組み立てには隙がない。まるで、すでにすべてを打ち合わせ済みであるかのような口ぶりだった。


やはり、食えない人だとハロルドは思う。短いやり取りの中で必要な情報を的確に伝え、場の流れを整えてみせる。まるで舞台の演出家のようだった。

とても頭が良いのだろう。


「ありがとうございます、デジュライ侯爵。では、ダルジュ様。ここからはルイよりご説明をさせていただきます。ルイ」


「はい、では少しお時間を頂戴いたします。当方がどんな商会かは、すでにご存じかと思いますので、詳細な紹介は割愛し、そのまま本題に入らせていただいてもよろしいでしょうか?」


エイダーンは、ゆっくりとだが、重くうなずいた。


「今回、オウル帝国で販売したい商品は、多くとも十を超えることはありません。こちらでは未流通の品を中心に、数点を候補として挙げております。もちろん、ダルジュ商会の領域に踏み込むつもりはございません。会頭からも、それは厳しく命じられております。逆に、お願いがございます。ダルジュ商会が扱う優れた商品を、ファルマン帝国で販売していただけないでしょうか?当商会が代理販売をする形でも構いませんし、ファルマン帝国にダルジュ商会の支店を出していただいても問題ありません。すでに、ファルマン帝国皇帝陛下からは、ダルジュ商会の支店設立に関して正式な許可をいただいております」


「ほう……すでにそこまで準備を整えて、この国に乗り込んできたか……」


エイダーンは顎に手を当て、ふむと低くうなった。


「我々だけが得をしても意味がありません。我が商会の方針は、常に国家と民の発展を視野に入れて動いております」


ルイの言葉には一切の濁りがない。

だがそれでも、この場は簡単に信用を得られるような場所ではない。商会同士の駆け引きとは、そういうものだ。


ハロルドは、エイダーンの前に一冊の資料を丁寧に置き、まっすぐにその視線を捉える。


「こちらに、詳しい資料をご用意させていただいております。一旦、ダルジュ様にお預けいたしますので、どうかゆっくりと内容をご確認ください……。ご興味を持っていただけたようでしたら、あらためて詳しいお話を。それで、いかがでしょうか?」


ハロルドの言葉に、エイダーンは目を細めながら静かにうなずく。そして、彼もまた視線を逸らさず、じっとハロルドを見返した。


「……いいだろう。資料は一旦、預からせてもらおう」


静かだが、互いの言葉の奥に探り合う気配がある。交渉の場の緊張が、わずかな言葉の端々に張りつめていた。

二人は一歩も引かず、視線を交わし続ける。


その時、


コンコン


静寂を破って、扉を叩く音が響いた。


「会長、お嬢様がお見えです」


控えめな声で、従者がエイダーンの耳元にささやく。エイダーンは無言のまま、テーブルの資料を手に取り、背後に控えていた側近らしき男に渡した。


「入ってこい」


「失礼いたします」


扉がゆっくりと開き、一人の女性が静かに部屋へと足を踏み入れた。

姿を認めた瞬間、ハロルドの中にあった予感が確信へと変わる。


ユーファ・ダルジュ。


名簿で見た名だ。


(やっぱり……客船の名簿で名前を見たとき、もしやと思ったが……)


「ユーファさん」


ハロルドに名を呼ばれて、女性は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、顔を上げた。


「ハロルド様……?」


その場にいた全員の視線が、二人に集中する。

エイダーンも、ヘイリーも、ルイも、言葉を失ったままやり取りを見つめていた。


「まあ……こんなところでお会いするなんて」


「私も驚いています。まさか、こんな形で再会するとは」


穏やかに応じながらも、ハロルドは再会をどこかで予期していた。

ダルジュ商会と関われば、彼女と会うことになる……そんな予感があった。


そのとき、静かにエイダーンが口を開いた。


「……知り合いか?」


「え、ええ……お父様。……こちらに戻ってくる船の中で、ご一緒させていただいた方なんです」


ユーファは戸惑いながらも、率直にそう答えた。

エイダーンはしばし黙って娘を見つめた後、ちらりとハロルドへと視線を向ける。

その目には、先ほどよりさらに強い探る色が宿っていた。


「お久しぶりですね、ユーファ嬢」


そのとき、横から穏やかな声がかかる。声の主はヘイリーだった。


「ヘイリー様!おひさしぶりです!ただいま戻ってまいりました!!」


ユーファはぱっと表情を明るくし、嬉しそうにヘイリーの前へと歩み寄る。

それまで張りつめていた空気が、一気にやわらいだ。


「ファルマン帝国での留学生活はいかがでしたか?」


「はい!とても勉強になりました!すべてヘイリー様とパルマ様のお陰です!……パルマ様はお元気ですか?」


「ええ、元気にしてますよ」


「近いうち、お邪魔してもよろしいですか?お二人にお土産があるのです!」


「それは、嬉しいですね。パルマにも伝えておきます」


ハロルドは、目の前で繰り広げられるユーファとヘンリーのやり取りを見ていたら、すぐ近くでエイダーンの声がした。


「おい」


「……なんでしょう?」


「お前、ユーファと何かあったわけではないよな?」


「……なにもないですよ。お互い暇つぶしで話していただけです」


「……そうか……」


「俺の娘は可愛いだろう?」


「?……ええ、そうですね」


エアダーンが何を言いたいのかわからないが、まあ、確かに可愛らしい令嬢ではあるのでそう返事を返す。


「ハロルド副会頭は、たしか平民だったな……」


「……ええ……そうですが……?」


「そうか……」


エイダーンはそう言うと、何か考えごとをし始めたので、それ以上は話しかけてこなかった。

この後も、最初の会談としては、和やかに終えて帰り支度をしていると、ユーファが声をかけてきた。


「ハロルド様、先日はありがとうございました」


「ユーファさん、ダルジュ商会の方だったんですね」


「……身分を隠していて申し訳ありません」


「いや、あの状況ですからね、身分を隠すのは賢明です」


ハロルドがユーファと会話をはじめると、


「ユーファ、皆様をお見送りしろ」


ヘイリーと話していたエイダーンが何故かこちらを見ながらそんなことを言う。


「お父様?……え、ええ、わかりました」


きっと、普段はそんなことを父親から言われないのだろう。少しびっくりしながらユーファは返事をする。

まあ、ヘイリーとは顔見知りで仲が良さそうだから、少しでもヘイリーと一緒にいられるようにと父親としての配慮なのかも知れない。


……そう思っていたが、帰りの道すがらヘイリーはルイと話していて、ユーファに話しかけない。

ハロルドは、仕方ないかとユーファと話を続ける。


「ファルマン帝国に、留学に来ていたのですね」


「はい、一年ほど」


「ファルマン帝国はいかがでしたか?」


「国民が皆明るく健やかに見えました。街の設備も整っていて素晴らしい国でした」


「そうですか。それは良かった」


「オウル帝国も、住みやすい国ではありますが……色々と自由なファルマン帝国のほうが優れていると思います……」


「自由?」


「ええ、自由です。こちらの国は、ファルマン帝国と違い、まだ女性が立場が弱いので……」


「立場ですか?それはどのような?」


「例えば……女性がオーナーとしてお店を開くことは、禁じられています。オーナーはあくまで男性でなくてはいけない。私がファルマン帝国で最初に驚いたのは、街のパン屋さんが女性のオーナーだったこと、しかも、商会で女性が働いていました……本当に、驚きました」


「確かに、ダルジュ商会に女性はいませんでしたね?」


「ええ、そうです。従業員は全員男性なんです」


「あ、もしかして、ユーファさんは、ダルジュ商会を継ぎたかったのですか?」


「…………兄がいるので、継ぐことはできませんが……商会で働きたいとは思いました」


「なるほど」


「父は私に、仕事などしなくていいので、帰ってきて見合いをしろと言っています。私は……結婚よりも働きたいのです」


「そうですか……」


「あ、ごめんなさい!こんな話、困りますよね・・・・・」


「いいえ、困りはしませんよ……」


そう返そうとしたところで、馬車の前に到着してしまった。


「ユーファさんは、働きたいのですか?」


後ろからルイがユーファに声をかける。

チッと、ハロルドは心の中で舌打ちした。


(くそッ!ルイ、余計な話を!ダルジュ商会の娘など厄介ごとでしかない……流して会話は終わりにしようと思ってたのに……)


「あ……は、はい……」


声は落としたものの、後ろの二人に話が聞こえていたことに気がつき、ユーファはバツの悪そうな顔をしている。


「では、うちの商会に支社ができた際には、うちで働いてみてはどうでしょう!」


(おい!ルイ、いいかげんしろ!それ以上言うな!)


じっと睨んで目で訴えるが、ルイはまったく気づかない。

普段は仕事もできる男だが、こういうときはどうしようもなく鈍感で、しょっちゅうザカライアに怒られている。


「それはいい提案ですね。私もエイダーンに頼んであげましょう」


今度はヘイリーが後押しをはじめる。


「どうですか?ハロルドさん!」


ルイは「地元の有望な人材を確保しましたよ!」とでも言いたげにニコニコしている。


ハロルドは一瞬ルイを睨みつけ、それから笑顔でヘイリーに視線を移した。


「……いいんじゃないでしょうか」


「では、なるべく急いで支店を建てましょう。私も手が空いていますから、お手伝いしますよ。ユーファ嬢、一緒に頑張りましょう」


(……いや、待て。今、デジュライ侯爵が『一緒に頑張りましょう』って言わなかったか?)


「いいのでしょうか!とても嬉しいです!」


「いいですね!一緒に頑張りましょう!」


ハロルド以外の三人が勝手に盛り上がっている。


(こいつ……あとで海にでも捨ててやろうか……)


ハロルドは、深い絶望を感じながらルイを見た。


(オウル帝国一のダルジュ商会の娘と、俺の祖父だと言ってる侯爵閣下と……バカな鈍感のルイと商会を立ち上げる?ない。ないない。絶対阻止、断固拒否だ)


ハロルドはとりあえず、ここから離れようと思った。


「とにかく、今その話をするべきですか?ここはダルジュ商会の前ですよ。さっさと帰りましょう」


盛り上がっていた三人がハッとし、動きを止めた。


「ルイは……あとで話がある。とにかく馬車に乗れ」


「!!!」


さすがに、まずい空気に気づいたらしい。ルイはしょんぼりと馬車に乗る。


「では、ユーファさん。送っていただきありがとうございました」


簡単な挨拶だけを残し、ヘイリーも馬車に乗り込んだ。

ユーファの返事を聞く前に、馬車はすぐさま発車した。

帰り道の車内は、重い沈黙に包まれていた。

誰もほとんど口をきかず、それぞれが思いに沈んだまま帰路についた。

デジュライ侯爵は、ハロルドたちを屋敷まで送り届けてくれた後、丁寧に礼を交わして別れた。


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