桜の苗木
あれは三年前の春だったと思う。
「お爺ちゃん今日、桜が満開だよ」
そう言って中学の孫娘が笑い掛けて来た。
「お前の名前の『さくら』はな、あの美しく立派な木を見てワシが名付けたんだ」
この村一番の銘木として、庭のはるか向こうに八重桜の大木が見える。
「知っているよ。何度も聞いた」
「いい名前だろう」
「うん。でもダムで引っ越しでしょ。あの桜も持って行けたらいいのに」
「そうだねえ」
林業中心だった山間のこの村は、数年後にダムの底へと沈んでしまう。思い出はいっぱいある。そんな故郷のシンボルが、あの八重桜であった。
「接ぎ木して増やそうかのう」
「お爺ちゃん、そうしなよ」
「分かった、分かった」
ワシは長年の林業経験から、接ぎ木して桜の苗木を育てることにした。きっと村のみんなも喜んでくれるに違いない。
それからというもの、この村は櫛の歯が欠けるように、ぽつりぽつりと村人が引っ越して更地になっていった。
ワシは親しい友人を涙で見送り続け、いつの間にか最後の住人となってしまった。
ダム建設に反対していたのではない。お国のためだ。しかたないと思っている。
ただ、桜の見える風景が愛おしくて、出て行く決心が着かなかった。
「今年も桜が咲いたね、お爺ちゃん」
玄関から、嬉しい声が聞こえた。
四月から高校生になった孫娘が、五月の連休に両親たちと村に帰って来た。
三年の間に息子の健一も再就職し、孫娘たちは都会で暮らしていた。
「お帰り。ちょっと背が伸びたかい。ああ、今年もよく咲いてくれたよ。でも最後の花見だねえ」
「お爺ちゃんも早く私たちの家に来なよ」
孫娘が嬉しいことを言う。
「ありがとう。この家も、もう取り壊しだ。夏には水没するし、だから花見くらい、みんなで集まって盛大に祝おうじゃないか」
「うん。じゃあ私、ママとお弁当つくるね」
「楽しみだ。そうと決まったら、かつての村人たちに電話をしよう」
帳面を広げた中には村落二十家が引っ越した連絡先が書いてある。震える指で黒電話を回して一軒目に掛けた。
「もしもし武さんは居りますか。桜の佐藤です。ああ、どうも久しぶり。今、八重桜が満開でして、見に来んかね」
ワシより一回りも若い武さんは、かつての山仲間だ。声は今も元気そうである。
「車で一時間だ。子供たちを連れて花見に来なさいよ」
二つ返事で来ると言ってくれた。
二軒目に電話をしようとしていると、孫娘が受話器を取った。
「お爺ちゃんじゃ日が暮れちゃうよ。私が掛けるわ」
スマホ通じないやと呟いて、テキパキと電話を回してくれた。
この村で生まれ育った孫娘は、皆の人気者であった。若者が少なく、中学までの山道を自転車で通った元気印の「さくら」である。
連休中で留守電もあったようだが、小一時間ほどで二十軒に電話した。
「もうお昼ね。桜の下でおにぎり食べよう、お爺ちゃん」
孫娘はママの居る台所へと向かった。
息子の健一は新聞を読んでいたが、いつの間にか昼寝してしまった。たぶん仕事が大変なのであろう。たまの休みに実家へ帰って来て、ちょっと安心したのかも知れない。
嫁の由美子さんは、急な花見の準備となって孤軍奮闘、台所で料理を作ってくれている。
すまないねえ。
ワシは杖を突いて、孫娘と桜まで歩いて行った。身体は悪くないのだが、七十過ぎると流石に疲れやすい。
それでも優しい孫娘は、ゆっくりと横を歩いてくれた。青いジーパンに白いブラウス姿は、飾らない性格の孫娘らしい。
日差しが暖かかった。
足を止めては満開の八重桜をしばし眺め、数分かけて畦道を歩いた。
「綺麗じゃな」
「キレイね。ここに座りましょう」
黄色いタンポポが咲く若い草地に座って、下から桜の大木を眺めると、ふさふさした薄紅八重の花房と太くて黒い枝振りは、見事あっぱれ素晴らしい限りであった。
「この桜を切ってしまうなんて、もったいないなあ」
「ほんと、もったいないわ」
そこに健一と由美子さんが料理を持ってやって来た。
「お父さん、一緒に飲もう」
缶ビールを手渡されて驚いた。
「珍しい。下戸のお前が飲むのか」
「仕事の付き合いで、俺も少しは飲むようになったのさ。でも一缶しか飲めないが」
「ワシは得意じゃがな」
ハハハと笑い合った。
「お料理もどうぞ」
由美子さんが重箱を広げると、卵焼きや唐揚げ、ウインナーに青菜、そして桜餅なども手を掛けて作ってくれていた。
「これは御馳走だ」
渡された箸で桜餅を一口つまんだ。心地よい甘さを苦いビールで喉に流す。
よく晴れた空に薄紅色の桜、仲の良い家族と美味い飯。酔っぱらっていて、このひと時が夢ではないかと思った。
「とても美味い」
「まあ、そう言ってもらうと、作り甲斐がありますこと」
由美子さんは照れて笑った。
「ママ、私にも頂戴」
孫娘が左手におにぎりを頬張りながら、重箱に箸を伸ばした。
「ねえ、さくらは『曲げわっぱ』って知っているかい。爺ちゃんの爺ちゃんは『曲げわっぱ』を作っていたんだ」
ワシは山での弁当を思い出した。
「木の板を丸く曲げたお弁当箱でしょ」
「うん、そうじゃ。明治の爺ちゃんは兵隊さんに行って毒虫に噛まれてね。高熱を出して死の淵をさまよい、仲間に背負われて帰って来たそうだ。優しい爺ちゃんだった。手先が器用なので『曲げわっぱ』作りを始めたそうな。子供の頃のワシは、爺ちゃんと桜を見てよく笑ったものだよ」
「へえー、それで私の名前にしたのね。良かったわ『曲げわっぱ』じゃなくて」
さくらがコロコロと明るく笑った。ワシも両親も楽しく笑顔となった。
「さくら、高校はどうだい」
ワシは孫娘の話も聞いてみたくなった。
「生徒が多いの。一学年四百人もいるのよ」
「そうか。中学時代は全学年で十六人じゃなかったか」
「ええ、それでね、弓道部に入ったの。知ってる。弓矢よ、ゆみや」
孫娘が弓を引く真似をした。ビールでほろ酔いの健一も参加した。
「この子はお転婆なんだ。絵画でも音楽でも良かったのに」
もともと林業で口数が少なかった健一だが、今日は上機嫌だった。
「遠くの的にパーンと当たるとスッキリして気持ちがいいのよ」
そこに車が三台つらねてやって来た。
「こんにちは」
車を降りたのは、武さん御一家だった。他にもお孫さんたちや親類などを集めてやって来たらしい。
「ダムで最後の花見でしょ。お言葉に甘えて親戚一同で見に来ました」
六十代の武さんは元気に歩けている。
「これは、どうも。皆さんで楽しくやりましょう」
挨拶を交わしてブルーシートを広げ、持ち寄った料理が並べられた。寿司や天ぷら、日本酒もある。車座になっての宴会だ。
新しい土地での暮らしぶりや村の昔話などを話しているうちに、車は増えて懐かしい村人たちが続々と集まって来てくれた。
ワシは離散した村の結束というものを甘く見ていたが、なんと夕刻には二十家すべてが揃ってしまった。
旅に出る途中で引き返して来たというツワモノもいる。
宴会では、うちの孫娘はアイドル顔負けだ。鼻歌をハミングしたり、ちびっ子と踊って走りまわったり。
そして谷あいの村に夕日が沈むころ。
そろそろ締めということでワシは立ち上がった。
「えー、村の皆さん夕暮れとなって来ました」
「よっ、桜の佐藤」
村人から掛け声が入る。
「村は間もなくダムに沈みます。この桜の花見も今日が最後です。いろいろ思い出もあるでしょう。皆さんよく聞いて下さい。帰りには、挿し木で増やした桜の苗木をみんな持って行って下さい。故郷を忘れないように。新しい土地でも美しい花が咲きますように」
ワシは八重桜の大木を指さした。
皆が注目する桜は、夕暮れの闇に薄紅色の八重が綿菓子のように映えて、ワシらを甘く懐かしい気持ちにしてくれた。