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真実の愛に理解のある皆様なのですから

作者: 浦 麗

初投稿です。

n番煎じネタですがどうぞよろしくお願いします。


 エステルは怒りのあまり体を小刻みに震わせながら校舎の影からその一団を見詰めていた。


 彼女の視線の先では暖かな午後の日差しの下、一名の女子生徒とそれを取り囲む数名の男子生徒が輪になって談笑している。

 一見何とも微笑ましい、学び舎にあるべき光景に思えるのだが。


 まず、エステルは座の中心となっているフワフワのストロベリーブロンドにまん丸のブルーアイをパチパチと可愛らしく瞬かせた少女、プライス・クラムに鋭い目線を送った。

 プライス・クラム。クラム男爵家の長女である彼女は学園に入学するや否や、生来の可憐な容姿と貴族らしくない素直さと無邪気さによって、あっという間に多くの男子を虜にした。

 その人気ぶりは平民の特待生から高位貴族にまで及び、そして遂には。


 刺すようなエステルのグレーの瞳が、今度はプライスの隣で彼女の腰を抱き穏やかな微笑を浮かべている金髪の見目麗しい青年へと向けられた。

 彼こそは、このクレメント王国第一王子にして次期王太子と目されるローレンス・クレメントである。

 そんな彼をエステルは、建国以来王家を支えてきた栄えあるハートネル侯爵家の令嬢にあるまじき憤怒の目付きで睨み付けた。

 別にバレさえしなければ不敬も何も怖くはない。……というか、例え王族であろうとも浮気野郎に下げる頭など彼女は持ち合わせてはいなかった。


 そう、何を隠そうローレンスには歴とした婚約者がいるのだ。

 敬愛する公爵家令嬢グリゼルダ・メルチェットの花のかんばせを思い起こし、エステルは小さくため息をついた。

 貴族には美形が多い。だが、その中でもグリゼルダの美貌は群を抜いていた。

 陶器のように艶やかで滑らかな肌、陽光の如く煌めくブロンドヘアに確かな知性と芯の強さを内包した宝石と見紛う紫の瞳。

 更には成績優秀かつ周囲への気遣いと配慮を忘れぬ優れた心根を持つ彼女は誰からも淑女の鑑と称された。


「……そのグリゼルダ様を差し置いて何をやっとるんじゃい、クソガキめが~」


 身を隠す建物の石造りの壁の角をむしり取らんばかりの勢いで掴みエステルが呻いた。繰り返しになるが、バレなければ不敬も何も怖くはない。

 それにしても。

 大勢の生徒が行き交う学園の中庭の、こんなにも人目に付く場所であのように堂々と逢瀬に及ぶとは、いよいよあの噂は本当らしい。


 曰く、ローレンスがプライスとの「真実の愛」とやらを貫く為にグリゼルダとの婚約破棄を画策しているという。

 この国の王子はバカなのかとエステルは頭を抱えた。

 何の瑕疵もない婚約者にケンカを売って己が無傷で済むと本気で信じているのだろうか。ましてや相手は公爵家、幽閉上等もしくは平民落ち上等で刺し違える覚悟かと一瞬考えたが即座に首を横に振る。

 それではプライスとの幸せな未来が手に入らない。愛があれば不自由な暮らしも質素な生活も何のその、などという根性は脳内お花畑な彼らには恐らく皆無であろうから。


 ……であるならば、存在しない罪を無理矢理でっち上げる位しか有利に婚約破棄を進める方法は無い。

 自国の王子の理性を疑いたくはないが、今の彼には諸々の失態も演じかねない危うい雰囲気があった。


「そんな事、させてたまるもんですか」


 変わらず楽しげに語り合う男女に、輝く銀髪を翻して背を向けたエステルは決然と歩き出した。

 プライスを寵愛するローレンスの態度に変化は見られない。むしろ、日増しに悪化の一途を辿っている。

 ならば、周りが気付かせてやらなければならない。自分が臣下にどれだけ愚かしい醜態を晒しているのかを。


「本来なら、それは貴方の役目でしょうが」


 足を止め振り返り、エステルは王子の横で目尻を下げて彼らを見守る黒髪の見目麗しい青年を見た。エステルの表情に宿るのは最早、憤りも侮蔑も通り越した諦観の感情のみ。

 ローレンスとプライスに侍り真実の愛の守護者を自称する彼、スラック侯爵家のレオナルドは彼女の婚約者だった。




 屋敷へと帰り着いたエステルを出迎えた人物に、彼女は思わず淑女らしからぬ歓声を上げた。


「叔父様!」

「おかえり、エステル」


 エステルの母親譲りの銀髪と同じ色の長い髪を揺らし微笑む叔父に、彼女は息せき切って尋ねる。


「いつ隣国からこちらへ到着なさったのですか?」 

「今朝だよ。君がこの子に会いたがっているだろうと思って、取るものもとりあえず馳せ参じた次第さ」


 パチリとウインクする叔父の背後から黒髪の青年がおずおずと進み出た。


「お久しぶりでございます、お嬢様」

「デニス!」


 鮮やかな刺繍が施された高級な衣服に、まだどこか着られている感があるデニスにエステルは恭しく礼をした。


「この度の叙爵、誠におめでとうございます。レディング男爵様」

「止してくださいお嬢様! 揶揄うなんて酷いです……」


 項垂れてしまったデニスをエステルは慌てて慰めにかかる。


「ごめんなさいデニス、貴方を困らせるつもりじゃなかったの! 貴方の功績が世間に大々的に認められたのが嬉しくて、つい……」

「お嬢様……」

「でも、お祝いはキチンと言うべきよね。改めましておめでとう、デニス・レディング男爵。私は貴方を誇りに思う」


 凛と背筋を伸ばし最大限の賛辞を述べるエステルに感極まってクシャリと顔を歪めたデニスは、しかしすぐに表情を引き締め右足を引き華麗なボウアンドスクレープを披露した。


「お褒めに預かり光栄です、ハートネル侯爵令嬢」

「あら、貴族らしい振る舞いが様になっているじゃない」

「そんな、まだまだで……。あ、いえ、先生の教えが良いからです」


 デニスの謙遜に眉をひそめていた先生こと叔父は褒められると一転、笑顔になり可愛いエステルの背中に手を添えた。


「さあ、積もる話もあることだしお茶にしよう! 姉さんの侍女の特製ブレンドのハーブティーを楽しみに来たんだ」

「まぁ、私ったらお客様を立たせたままで。……応接室へご案内致しますわ、デニスもこちらへ」

「はい」  


 部屋へ着くまで待ちきれず、三人は廊下を歩きながらそれぞれの近況報告に花を咲かせた。




 応接室での会話が一段落したところで、叔父は愛する姪が目下抱える問題へと水を向けた。


「さて、エステル。君達のところの真実の愛のご両人は近頃どうしているんだい?」

「どうもこうも、相変わらずです。今日だって人目をはばからず極めて近~い距離でお話なさっているんですもの。もう呆れてものも言えませんわ!」

「ふ~む。そうなるとメルチェット嬢とは……」

「そちらも同じです。あの一件以来、王子はグリゼルダ様を遠ざけております」


 エステルの語る「あの一件」とは。

 男爵令嬢プライスとローレンス王子が急速に仲を深めていた時、グリゼルダは当初静観の構えを取っていた。

 貴族社会ではとんと見慣れぬ天真爛漫な少女のやや不躾な様子が珍しいが故にあの少女を側に置いているのであろうと、婚約者の暫しの火遊びを大目に見ていたのだ。

 だが、ローレンスはプライスに飽きるどころか益々のめり込んでいく。それどころか大勢の耳目のある前で、まるで恋人同士であるかのように触れ合う二人にグリゼルダは危機感を持った。


 火遊びが火遊びである間に事を収めねば今後の国の運営に関わってくる。

 グリゼルダはローレンスとの対話を試みた。まずは一対一で意見を交わし王子の行動を諫めようと、学園の高位貴族専用のサロンへ彼を呼び出す手紙をしたためる。何処に政敵が潜んでいるとも知れぬ王城よりかえって安全だろうという配慮の下での選択だったのだが……。


 そんな彼女の気遣いは、他ならぬローレンス自身の手によって粉々に打ち砕かれた。

 目通りを乞う便りが届いた時点でグリゼルダの用件を察したのであろう王子は、あろうことか校舎の食堂で学友と食事を共にしていた彼女に大声でのたまったのだ。「私達の真実の愛の邪魔をするな!」と。

 当然、周囲にはたくさんの生徒達が。

 衆人環視の中での暴挙に、グリゼルダと同じ席に着いていたエステルは王子の後ろに控える己の婚約者、レオナルドを仰ぎ見る。

 こんな馬鹿げた行いを何故お止めせぬのかと目顔で問うエステルの前で開かれたレオナルドの口から放たれたセリフに、彼女は大いに失望させられた。


「ローレンス様とプライスの素晴らしき真実の愛を、私は誠心誠意お守り致します。お二人の真実の愛を害する者は我々王子の側近一同を敵に回すと思え!」


 何故王子の想い人の名を貴方が呼び捨てにしているのか、という当たり前の疑問がエステルの頭に思い浮かんだのは一連の騒動でざわめく食堂を後にしてからだった。  

 ふらつくグリゼルダを支え、静かで落ち着ける場所を探して歩を進めながらも彼女は急速に思考を巡らせる。


 王子は人前でプライスを「真実の愛」の相手であると公言してしまった。

 そして、レオナルドを始めとした側近候補の面々はそれに従う、いやむしろ積極的に応援する心積もりであるらしい。

 エステルは懸命に舌打ちを堪えた。

 とにかく、この醜聞が学外へと広まらぬよう手を打たなければ。食堂に集っていた子息、子女への口止めだけで果たして抑え切れるだろうか。

 大いなる嵐の予感にエステルは眉間にきつく皺を寄せた。


 当時の状況を回想し物思いに沈むエステルに叔父が優しく声を掛ける。


「だが、不幸中の幸いというか、王子達の宣言は危惧していたほど噂にはならなかったのだろう? おそらく王家が動いているのだろうが」

「情報操作に精を出されるより、さっさとバカ息子を閉じ込めるなり何なりして改心させる方が先でしょうに!」

「おいおい、流石にその発言は……」

「ここには隣国に籍を置く叔父様とデニスしかいらっしゃらないのだから良いのです!」


 正確には侍女もメイドも護衛も控えているが、主人に忠実な彼らはほぼ壁と同化しているため数には入れない。

 ヤケクソ気味に唇をへの字に曲げて拗ねているエステルを叔父はまあまあと宥めた。


「怒るな怒るな。王家が不介入を決めているからこそ、お前がこれから王子達に仕掛けようとしている“例の件”も認められたのであろうからな」

「それはそうですが……」

「しかし、お前から計画を聞かされた時はびっくりしたが……。お前がそこまでせねばならぬ程なのか? 王子達は本気で男爵令嬢をいずれ王妃の座に据えるおつもりか?」

「恐らく。グリゼルダ様をあそこまで冷遇しておいて伴侶になさるとは考えられませんから」


 食堂での事件以降、グリゼルダは学園を休んでいる。それなのに王子からは文一つ送られてはこないそうだ。

 以前は仲睦まじい、とまではいかなくとも互いを尊重し合う良い婚約者同士であったのに。

 恋とはここまで人を愚かにするものかと痛むこめかみをさすりつつ、エステルは聞き役に徹していたデニスに申し訳なさそうに眉を下げた。


「……という訳で、作戦の決行は決定。デニス、貴方を巻き込んでしまうことになるけれど……」

「俺のことはお気になさらず。俺の生活の基盤は隣国にありますから、こちらでどのような評判を得ようが問題ありません」


 頼もしく胸を叩いてから、デニスは気遣わしげな視線をエステルに向けた。


「俺のことより心配なのはお嬢様の名誉です。不敬を承知で言わせていただくと、お嬢様がご自身の身を賭してまで諭す価値がその王子様達にあるとはどうしても思えません」

「デニス……」


 旧知の友の真摯な言葉に、ここしばらく緊張を強いられていたエステルは他者には気付かれぬ程度に瞳を潤ませた。


「ありがとう、デニス。人からの思いやりってこんなにも温かで心癒されるものなのね」


 デニスと微笑み合うエステルに、叔父が冗談交じりに頬を膨らませる。


「おいおいエステル、私だって愛しい姪っ子を案じているんだぞ? デニスばかりを持ち上げるんじゃない」

「やだ、叔父様ったらもう!」


 苦笑するエステルの向かい側から腕を伸ばした叔父は、昔そうしていたように彼女の頭をそっと撫でた。


「案じてはいるが、信じてもいる。君のことだ、各方面への水面下での調整は済んでいるのだろう?」

「はい、それはもちろん」


 自信ありげにエステルは頷く。


「グリゼルダ様と、王子の側近候補の婚約者の方々の協力も取り付けました。お父様、お母様からメルチェット公爵家へ話を通し、更にそこから王家と学園長の了解もいただいております」

「それでこそハートネル家の子だ。……懐かしいね、義兄夫婦がデニスを私に紹介してくれた時のことが思い出されるよ」

「フフッ! そうですね」


 元々デニスはハートネル家の庭師の息子だった。それがどのような経緯で隣国にて若くして爵位を賜るまでに上り詰めたのかといえば、そこにはエステルの存在が大きく関わってくる。

 エステルが十歳の頃。

 隣国で伯爵家に婿入りした叔父が姉の家族を訪ねて屋敷にやって来た。彼女は母の隣に腰掛けお行儀よく大人達のやり取りに耳を傾けていたのだが、ふと叔父がこんな事を口にした。


「ところで義兄上、姉上。水汲み水車なるものをご存知ないか?」


 この質問に二人は首を傾げたしエステルも両親に倣う。やはり知らぬかとガックリ肩を落としながら叔父は水汲み水車について説明した。


「文字通り、水を川から汲み上げ用水路に流す機能を備えた水車でね。ここより東の地域では大きな水汲み水車を何基も運用し大規模灌漑設備として利用しているらしく、気候が似ている我が領地でも是非とも活用してみたいと思ったんだ」

「なるほどね。それで?」


 エステルの母に話の先を促された叔父は、参ったとでも言いたげに両手を広げた。


「我が国は東の国とは正式な国交が無い。よって、水汲み水車の詳細な設計図を手にする方法も技師を呼び寄せるコネクションも無い。それで、個人的な付き合いのある東の商人からもたらされる口伝えの知識だけで何とか再現しようと試みたんだが……」

「失敗に終わった、と」

「姉上は容赦がないねぇ。……まぁ、恥ずかしながらその通り。出来上がったのは形ばかりの模造品。効率よく水を汲み上げるには存外複雑な内部機構が必要だったんだ」

「商人からの又聞きではそれが限界でしょう」

「ああ。残念ながら農業の抜本改革には至らなかった。……ハートネル家の商会も東と農産物の取引があるでしょう? ひょっとして水汲み水車に関して何か情報をお持ちではないかと少しばかり期待していたのですが」


 義弟に見詰められたハートネル侯爵は申し訳なさそうにかぶりを振った。野菜や穀物を輸入していても、その生産体制まで熟知している訳ではない。

 そりゃあそうですよね、と叔父が肩をすくめたのを潮に大人達の話題が他へと移っていく中、エステルは一人考えていた。

 彼女が車輪付きの木馬であったり関節の動く操り人形であったりを強請るたびに、まるで魔法のようにそれらを一本の丸太を削り生み出してしまう同い年の庭師の子・デニスなら、件の水汲み水車とやらも作り上げることが出来るのではないか、と。


 結論から述べればエステルの目論見は当たった。

 身振り手振りが混ざった彼女の拙い表現を子どもながらに見事に読み解いたデニスは、自身のイマジネーションをフル活用し水汲み水車の作成に取り掛かる。

 そして、一ヶ月後。

 庭造りに情熱を燃やす侯爵夫人が自ら設計した庭園に設けられた小川に玩具サイズの水車が一基かけられた。

 叔父から聞いた話と寸分の狂いも無いと思われる出来栄えに歓喜したエステルは、水車の完成を勇んで両親へ報告する。

 冷静な侯爵夫妻は娘のように安易に喜んだりはしなかった。だが、半信半疑で自領のお抱え技師に水車の現物を見せ、構造の一部を金属部品に置き換え大型化することは可能か等の意見を求め裏付けを重ね、やがて“デニスは天才である”との確信を得る。


 それからの両名の行動は早かった。

 平民であるデニスが能力を発揮するには、若い才能を欲する新興国であり、且つ身分による縛りが緩い隣国へ行くのが良かろうと結論付けるや否や、二人は持てる人脈の全てを駆使して、庭師一家総出の新天地への移住から現地での職探しに至るまで遺憾なく采配を振るった。

 当の本人であるデニスとその家族が現状を把握するより先にあれよあれよという間に事態は進展し、彼らはエステルの叔父を後見に隣国へと籍を移す。

 その後デニスは出身国とは異なる伸び伸びとした風土の下で自由に力量に磨きをかけ、脱穀機等の農機具の改良に寄与した結果、新進の若手発明家として此度の叙爵へと繋がった。


 ちなみに、この一連の出来事が進行する間エステルが完全に蚊帳の外であったかといえば、そんな事はなく。

 後学の為に侯爵夫人は娘に、気難しい大臣やつむじ曲がりの外交官を相手にどんなエサをぶら下げ、彼らをどのように懐柔し了承の返事を引き出したかを事細かに語ってみせた。


「覚えておいてね、エステル。一人で事を成すのは案外難しい、だから人の手を借りるの。根回し大事、地盤固め大事、よ」


 実践を伴うありがたい教えにいたく感銘を受けたエステルはその後、大事の前の備えを怠ることはなかった。

 例えばお茶会の際は出席者の家の派閥や政治的傾向だけでなく個人的嗜好や趣味までも調べ、万が一のトラブルを想定し第三者の目撃者を常に確保出来るよう立ち回る等々。

 そういった彼女の抜け目の無さがスラック侯爵夫妻の目に留まり嫡男であるレオナルドと婚約の運びとなったのだが、食堂でグリゼルダに味方したエステルを彼は敵と見做したらしく、以降現在まで婚約者としての交流に拒否の意を示し続けている。


 パンッと両手を叩いて不甲斐ない婚約者の顔を頭から追い出したエステルはデニスに向き直った。


「それでは昔のよしみで遠慮なく貴方を利用させてもらうわ! 来週からよろしくね」

「はい、お嬢様」

「あら、そんなんじゃダメよデニス」


 あくまで主従の関係を崩さないデニスにエステルがニヤリと意地悪く笑いかけた。


「プランの内容を理解しているなら、これからは私のことは“エステル”と名前で呼ばなくちゃ」

「へ? も、もう計画は始まっているんですか?」


 及び腰のデニスにエステルはじりじりと詰め寄っていく。


「予行演習よ。はい、言ってみて。エ・ス・テ・ル!」

「……そんな練習、要ります?」

「それか愛称って手もあるわね。ねぇデニー……」

「え、エェぇエェエステル様! 僕らはそろそろお暇させていただきます!」


 大慌てでドアへ突進していくデニスの後ろ姿に、叔父と姪は揃って朗らかな笑い声を上げた。




 翌週、デニスを含めた数名の隣国の貴族の子弟がエステルの通う学園に短期留学生としてやって来た。

 二人は初対面を装い挨拶を交わす。

 この時からエステルの『王子と愉快な仲間達の脳内お花畑根こそぎ焦土化大作戦』はスタートした。




 ある朝、学園に登校したレオナルドは普段通りローレンス王子と数名の側近候補達と合流し、プライスを迎え入れるべく教室へ向かおうとした。

 しかし、途中の廊下で予想外の光景を目にした彼は口をあんぐりと開け、その場に立ち尽くしてしまう。


 放心状態のレオナルドの前方には腕を組み親しげに寄り添う男女の姿が。

 背中を向けられていたって分かる。女性の方は間違いなく彼の婚約者のエステルだ。澄んだ小川のせせらぎを連想させる流れるような美しい銀髪の持ち主は彼女の他にいない。


 どうして彼女がどこの誰とも知れない男とあれ程までにくっつき合って歩いているのか。

 脳内で疑問符を爆発させている茫然自失のレオナルドを押し退け、ローレンスは急いでエステルを呼び止めた。


「ま、待ってくれハートネル嬢!」

「あら。おはようございます、王子。それに皆様も」


 男爵令嬢と懇意になってからというもの「学園内でまで身分差を持ち出すのはいかがなものか」と声高に主張するようになったローレンスを尊重し、振り返ったエステルの挨拶は軽く頭を下げるだけに留められた。

 カーテシーの必要がないのだから、当然彼女の手は連れの腕にしっかりと絡み付いたままだ。ローレンスは困惑気味にエステルに訊く。


「ハートネル嬢、君の隣にいるのは……?」

「ああ、ご紹介致しますわ! ……と言っても皆様ご存知でしょうが、留学生のデニス・レディング男爵です」

「確かに知ってはいるが……」


 教師を介して、ローレンスは生徒を代表し留学生達と初日に二言、三言言葉を交わしていたが、それっきり特に付き合いは持っていない。

 陛下から異国の者達の行動に目を配るよう言い付かっていたが、プライスとの逢瀬にかまけておざなりにしていた。


 ローレンスは今一度、冷静にエステルと彼女の横で柔らかに微笑んでいる人の好さそうな顔をした茶髪の青年の様子を観察する。


 ピタリと体を寄せ、時折合わさる二人の視線にはただならぬ仲の者同士の間に漂う熱が含まれていた。……ように感じる。

 留学生との交流は推奨されるべき事柄だが、彼女達の場合は明らかに適切な範囲を逸脱していた。

 想い人に夢中になるあまり自国の令嬢、それも侯爵家の子女であるエステルに他国の貴族が近付くのを見過ごし籠絡する隙を与えてしまったのだとしたら、それはローレンスの手落ちとなる。

 己が失態を悟り冷や汗をかく彼の背後から、ようやく我に返ったレオナルドが声を張り上げた。


「エ、エステル! 君は一体何をやっているんだ?!」

「おはようございます、スラック卿」

「は?! ス、スラック卿だと……?!」


 ついこの間まで「レオナルド様」だった呼び方を一方的に変更した婚約者に混乱の極みに陥る彼を余所に、エステルは頬に手を当て悩ましげにため息をついた。


「私とスラック卿はまだ書類上は婚約者ですけれども、これからは貴方様を名前でお呼びするのは控えさせていただきますわ。デニスに悪いもの」

「デニス……?! 君はこの男をデニスと呼んでいるのか?」

「ええ、もちろん。だってデニスは……」


 デニスの肩にエステルはトンッと頭を乗せた。より密着してくる彼女をごく自然に受け止めたデニスは、彼の胸元の辺りまで垂れる長い銀色の御髪をサラサラと指先で絡め取り弄ぶ。髪の一本までも愛おしくてたまらないのだと言わんばかりに。


「私の、真実の愛の相手ですから」


 晴れやかな笑顔を浮かべた彼女は「行こうか、エステル」とデニスに促されると、迷うことなく立ち去って行く。

 そんな彼女達の背中をレオナルドは黙って見送るしかなかった。




 翌日、デニスと他の数名の令嬢と食堂で昼食を摂っていたエステルの下に、プライスを先頭にレオナルドと王子、それに王子の側近候補を含めた一団が突撃してきた。


「エステルさん!」


 名前を呼ぶ許可を与えた覚えはない上に勝手に敬称まで取っ払ってしまったプライスを無視したいのは山々だったが、それでは作戦の意味が無い。

 不承不承、エステルは返事をした。


「はい、なんでしょうか? クラム嬢」

「エステルさんは酷いです! レオナルド様という婚約者がいながら他の男性と仲良くなるなんて!」


 何でレオナルドだけが「様」で私は「さん」付けやねん、こちとら同格の侯爵家やねんぞ? ……というツッコミを無理矢理飲み下したエステルはプライスの影に隠れて何やら決まりが悪そうにしているレオナルドをチラリと見やった。

 流石に彼はプライスとは違って「どの口が言うのだ」的意見を居丈高に叫ぶほど常識を欠いてはいなかったらしい。

 僅かに溜飲を下げたエステルはにこやかにプライスに応じた。


「酷い? 何故?」

「何故って、レオナルド様が可哀想じゃないですか!」

「そうかしら? 私とスラック卿の婚約はあくまでも政略に基づくもので恋愛感情はないのよ?」

「それでも情はあるはずです! 幼い頃からの婚約者を蔑ろにするなんて心が冷た過ぎるわ!」


 だからどの口が言うのか。

 苛立ちを抑えながら、エステルは今度は沈黙を貫くローレンスの表情を確認する。

 プライスがエステルを攻撃する為に放ったはずの刃は、不思議と全て軌道を逸れて彼をめった刺しにしたようだ。青白い顔をしている王子に笑いを噛み殺しつつ、エステルはプライスに向けて悲しげに顔をしかめてみせる。


「そんな、心が冷たいだなんて……。クラム嬢は私とデニスのことを分かってくれると信じていたのに」

「はぁ? レオナルド様は私のお友達よ。お友達に辛いことが起きたら味方するのは当然じゃない」

「でも、私とデニスは真実の愛で結ばれているんです」

「……へ?」


 零れ落ちそうな程に目を見開き呆けているプライスの両腕を鷲掴みにし、エステルはここぞとばかりに捲し立てた。


「デニスと初めて顔を合わせた瞬間に私の世界は一変しました! 空には七色の虹がかかり小鳥は軽やかに歌い数多の花が咲き乱れ、単調でつまらぬ毎日が突如としてキラキラと輝く楽園での日々へと姿を変えたのです! そして私は気付きを得ました。デニス、彼こそが私の真実の愛を捧げるべき相手なのだと!」

「に、虹? 小鳥??」

「はい! 私達はこの世の春を謳歌しているのです!」


 高らかに演説を終え肩で息をするエステルの腰を抱き寄せたデニスは、居並ぶ一同に微笑みかけ口を開いた。


「僕もエステルと全く同じ気持ちですが、最初はこの恋を諦めなければいけないのかと絶望していたんです。侯爵令嬢の彼女と僕とではあまりに身分が違い過ぎたから。……でも、この国では王子様が率先して真実の愛の素晴らしさを喧伝なさっているとか」


 ですよね? ……と、ローレンスに一つ頷いてみせたデニスは曇り無き笑顔で言った。


「僕とエステルの関係を祝福してくださいますよね? 真実の愛に理解のある皆様なのですから」




 食堂がシーンと静まり返る。重苦しい静寂の中にプライスが漏らした呟きが小さく響いた。


「え、え~っと。エステルさんとデニスさんは真実の愛の恋人同士で、つまり私とローレンス様と一緒……?」


 目を左右に泳がせていたプライスが確かめるようにエステルの方を窺うので、彼女は「その通りです」と答える。

 この返答はプライスの混乱に拍車をかけた。


「私達と一緒なら、真実の愛は尊いもので……。え? でも、レオナルド様はとても苦しい思いをされて。えっと、エステルさんとは政略だから、けど、婚約者に裏切られるのは悲しいことで……」


 支離滅裂になりながらも本人なりに一生懸命に考えをまとめようとしているプライスを眺めていたエステルは密かに判定を下す。

 未だ彼女が悪意を持ったバカなのか天然のバカなのか、真意を測りかねていたがやっとハッキリした。

 プライス・クラムは後者だ。目先の事にしか意識が向かない、天使のように無邪気で恐ろしく頭の悪い子ども。 

 なるほど、それならばグリゼルダが彼女に後れを取ったのも致し方なしとエステルは結論付けた。

 純真無垢な子どもの愛らしさに敵う者はない。百戦錬磨の淑女といえども相手が悪過ぎた。

 うんうんと納得するエステルの前に、今までプライスの後ろにいた王子の側近候補の内の一人がズイッと進み出る。騎士団長の家の次男がおもむろに喋り出した。


「だがな、ハートネル嬢。真実の愛とはいえ、そちらの男は元は平民だろう?」

「ええ。それが何か?」


 デニスが新興の貴族であるという件については一応調べがついているらしい。

 しかし、たったそれだけの情報一つで鬼の首を取ったかのように唇の端をニヤリと歪めている騎士団長の子息に、エステルは口には出さずに二十五点と点数を付けた。

 調査対象であるデニスのルーツがハートネル家にあることまで辿り着けない時点で手抜かりが多過ぎる。

 けれども、自身の迂闊さに気付かぬ彼はまるで教え諭すかの如き優しい口調でエステルに訴えかけた。


「いくら互いに思い合っていても、貴族と平民では考え方も価値観も何もかもが異なる。君達の愛にはやはり無理が……」

「デニスは平民ではありません。訂正と謝罪を要求します」


 騎士を目指す人間としての思い遣りを込めたつもりの発言を途中で遮られた彼は眉を吊り上げ激昂した。


「成り上がりの男爵風情が、我らと同じ貴族を名乗るなど百年早いぞ!」


 彼の暴言にエステルはすぐさま反論しようとした。だが、それよりも早く彼女の向かい側に座っていた女性が腰を上げ、いきり立っている子息を睨み付けピシャリと言い放った。


「ほぅ? 我が国の爵位はこの地においては尊ぶほどの価値はない、と?」

「……へっ?! い、いや、決してそういう訳では……」


 目の前で自分に厳しい視線を送る彼女が誰であるのかを瞬時に把握した彼はしどろもどろの釈明を始める。

 しかし、隣国の公爵家の長女であり、留学生達の中で最も高貴な身分の彼女はその見苦しい弁解をハンッと鼻を鳴らして一蹴した。


「そもそも、今ここに集まっている者は皆貴族だが所詮は親の威光の傘下にあるに過ぎぬ。それを己が才覚で男爵位を賜ったレディング卿に上から物言いなど片腹痛いわ」

「……申し訳なかった、レディング男爵」


 堂々たる公女様にやり込められすごすごと引き下がった彼に代わって、今度は現宰相の嫡男が銀縁の眼鏡を押し上げながら意見を述べる。


「そうは言ってもね、ハートネル嬢。貴方達の恋には未来は無いと私は思いますよ」

「あら、どうしてでしょう?」

「分かりませんか? 貴方がそこまで浅はかとはね」


 才女と名高いエステルを貶められるのが余程嬉しいのか、彼は目に浮かぶ侮蔑の色を隠さずに語った。


「仮に貴方がレディング卿のもとへ嫁いだとしましょう。けど、彼が貴方に用意出来るのは男爵家としての生活のみ。これまで裕福な侯爵家で何不自由なく育ち、高位貴族として周囲に敬われてきた貴方が一介の男爵夫人として扱われることに我慢出来るとは到底考えられません」

「それは……」


 異を唱えようとしたエステルの眼前に細い腕がスッと差し出される。彼女を制した女性が立ち上がり踵を返すと、集団の後ろで縮こまっていたローレンスがあっと声を上げた。


「グ、グリゼルダ……」

「お久しぶりでございます、ローレンス王子」

「君、髪が……」


 エステルの隣の席に着いてずっと話を聞いていたグリゼルダにローレンス達が気付かずにいたのも無理はない。

 彼女は背を向けていたし、おまけに腰まであった豊かな金髪は肩口までの長さにバッサリと切り揃えられキチンと結い上げられている。後ろ姿だけならまるで別人だ。

 狼狽えるローレンスを意に介さず、グリゼルダは宰相の子息を冷めた目付きで見詰めて問うた。


「真実の愛を貫けば、これまでとは暮らしが一変するのはクラム嬢とて同じこと。彼女がその試練を乗り越えられるならエステルとて耐えられましょう?」

「プライスとハートネル嬢とでは条件が全く違う! プライスはむしろ地位が上がり裕福になるのだから良い事尽くめではないですか!」

「本当にそう思われて?」


 広げた扇で口元を覆ったグリゼルダがもう片方の手で何かを指折り数え上げていく。


「貴族として幼い頃より感情の抑制を学び、外見及び内面の美しさを磨く淑女教育に加え、自国のみならず周辺国の歴史、言語、マナーの習得、更には学業でも優秀な成績を残すことを求められ生徒らの模範となり……。あら嫌だ、指が足りませんわ」

「一体何の話を……」

「第一王子の婚約者に選ばれてから、私はこれだけの事を必死で身に付けてまいりました」

「……?!」


 挑発的に眇められたグリゼルダの紫の瞳が雄弁に告げる。プライス・クラムにそれが出来るのか、と。

 悔し気に顔をしかめた彼は眼鏡がずれるのも構わず身を乗り出し吼えた。


「た、確かにプライスには教養も何もかもが足りないが、だからこそ我々がいる! 皆で彼女の不足を補えば……」

「ならば、私達も全力でエステルの真実の愛を支えましょう」


 グリゼルダが毅然として頭を上げるのと同時に、同じテーブルに居た令嬢達も一斉に起立した。

 その内の一人が胸を張って宣言する。


「私は全面的にエステル様を応援致します。我が家は隣国とも取引がございますので、エステル様があちらでも憂いなく過ごせるようお力添え致しますわ!」

「僭越ながら、私めも」

「私もですわ!」


 次々と賛同する彼女達に合わせて、隣国の公爵家の子女も重々しく頷いた。

 側近候補達は揃って言葉を失う。そんな彼らの垣根を突き破って、それまで考え込んでいたプライスが唐突に場に躍り出た。


「ご、ごめんなさ~い! 私、自分とローレンス様のことばっかりで、グリゼルダさんの気持ちとか全然……。……っていうか王家に嫁ぐ責任とか何も思い至らなくって、うわぁどうしよう、私ってダメダメだ~!」


 赤子顔負けの勢いでわんわんと泣き出すプライスに全員が呆気に取られる中、グリゼルダがローレンスに尋ねた。


「慰めて差し上げなくてよろしいの?」

「……」


 暫しの逡巡の後、ローレンスは決然とした表情で切り出した。


「私の愚かな振舞いがグリゼルダ、君を深く傷付けたのだから。ならば、私が慰めるべきはプライスではなく婚約者である君だ」


 虚を突かれたグリゼルダは一瞬ハッと目を見開いたが、すぐに気を取り直すとパチンと音を立てて扇子を閉じ言った。


「そういうの今は要りませんので、とりあえずその騒がしい娘をどうにかしてくださいませんこと?」

「……あい分かった」


 うっすら涙目になり少し震えている王子に女生徒達の白い目が向けられた。




 騒動から数日後、王宮へと呼び出され陛下と面会した後にハートネル家を訪れたレオナルドを、エステルは先にお客として屋敷に来ていたデニスを伴い迎えた。

 エステルと十分距離を空けつつも並んでソファに座るデニスにチラチラと鋭い視線をやりながらも、レオナルドは向かい側の席から二人に対して深々と頭を下げ陳謝する。


「……陛下から話は全て伺った。君達が我々の目を覚まさせる為に一芝居打った、と。大変な迷惑を掛け本当にすまなかった」

「どう? ご自身の行いを客観的に見せ付けられた感想は?」

「幼稚で無責任なバカな真似をしたと思っている。後悔しきりだよ」


 俯いたまま、レオナルドは弱々しい声音で言葉を紡ぐ。


「ただの言い訳になってしまうがローレンス様も、そして私達も憧れがあったんだ。真実の愛というものに。私達の両親はお世辞にも仲睦まじい夫婦とは呼べないから」

「……なるほど」


 貴族は政略結婚がほとんどなのだから当たり前のことだろうがこのド阿呆、と切って捨ててやりたい気もしたが、彼らの思いも分からないでは無かったのでエステルは一先ず罵詈雑言を喉の奥に留めた。

 だが、しかし。


「貴方達は王子の真実の愛を支持しつつも、全員クラム嬢に懸想していましたよね?」

「そ、それは……」


 汗を拭ったり腕を組んでみたり、レオナルドは一頻り体をソワソワと動かしこの場を切り抜けようとしたが、エステルが一歩も引かぬ姿勢を見せると観念したのか秘めていた胸の内を告白した。


「プラ……、いや、クラム嬢は他の誰とも違っていた。純粋で裏表が無く……。こういう人となら温かい家庭が築けるのではと、私達は皆揃って夢見てしまった。けれども……」


 一度ギュッときつく閉じた瞼を開け、レオナルドは真摯な眼差しでエステルを見詰める。


「私は過ちを犯した。家族に愛を求めるのなら外に目を向けるのではなく、婚約者である君に本音を曝け出し語り合うべきだったのだ。こちらが真心を持って接すれば君は誠実に応えてくれる。エステルはそういう真っ直ぐな人だと私は知っていたはずなのに……」


 悔しそうに右手の拳をグッと握り締めてからレオナルドは話題を転じた。


「ところで、もう聞いているかもしれないがローレンス様とグリゼルダ様の婚約は継続されることとなった」

「ええ、存じております」

「陛下がおっしゃっていた。この決定は偏にグリゼルダ様を王妃とする、ただそれだけの為に成されたのだと」

「非公式とはいえ、これはまた思い切ったことを」

「妥当であると、ローレンス様は粛々と受け入れられた」


 実際、この国にグリゼルダほど王妃の器に相応しい者はいない。ましてや、この一件で彼女は更に一皮剥けた。グリゼルダを繋ぎ止めるのに王家はどれだけの代償をメルチェット家に支払ったのか、現公爵の苛烈な性格を思い出しエステルは背筋にゾッと寒気を感じた。

 同じ考えに至ったのか、若干顔色を悪くしたレオナルドが話を続ける。


「そして、私はローレンス様の側近を外され……」

「あくまでも貴方達は側近候補です。お間違えの無いよう」

「……側近候補を外されることとなった。廃嫡は免れたが、スラック侯爵家を継げるかどうかも現時点では不透明だ」


 震える声でレオナルドは「エステル」と呼び掛けた。


「君はレディング卿と恋仲であるフリをする前にグリゼルダ様や隣国の公爵令嬢、あらゆる人々に根回しを行い味方につけていた」

「はい」

「私の両親とも事前に会談し、……婚約の白紙を願い出ていたそうだね」

「……正式な手続きは済んでおりませんが、提案は致しました」

「エステル、私は……!」


 立ち上がったレオナルドはエステルの側へ回り込むと跪き、切々と訴えた。


「君はこれからも着実に功績を上げていく人間だ。対して私は何もかもを失ってしまった愚かな男に他ならない。だが、君が事を学園内で収まるよう尽力してくれたお陰で挽回の機会が得られた。……私は必ずや返り咲いてみせる。だからどうか、強く賢い君と歩んでいく権利を私に与えてはくれないだろうか?」

「……」

「お願いだ、エステル……!」


 なりふり構わぬ懇願に、エステルはレオナルドの肩にそっと手を乗せ答えた。


「スラック卿。……いえ、レオナルド様」

「……エステル?」

「私は信じてる。……というか、知っている。貴方ならやり直せるってね」

「では……!」


 見出された希望に顔を輝かせるレオナルドに、しかしエステルはチェシャ猫の如く唇をニッと横に割り裂き意地悪く笑ってみせた。


「けどね、それとこれとは話が別」

「……へ?」

「もちろん貴方と共に行く道も視野には入れる。でも、今回の件を通して得た新たなご縁を活かしてみたいって考えもあるの」


 隣国の公女とお近付きになれたのはエステルにとって僥倖だった。完璧な淑女であるグリゼルダとはまた異なる、豪放磊落な気質の彼女とは是非今後とも良い関係を保っていきたい。

 それに……。

 エステルが横目でデニスを窺えば、それまで無言で会話に耳を傾けていた彼はしたり顔で口を開いた。


「我が国はお嬢様を歓迎しますよ。……ああ、それとスラック卿」

「何だ?」


 不機嫌に対応するレオナルドにデニスが余裕の表情で告げる。


「東洋の島国には“嘘から出たまこと”という諺があるそうです」

「なっ……?!」

「俺とお嬢様の偽りの恋愛劇がそうである、とは言いませんが……」


 悪戯っぽく微笑むデニスにエステルも首を大きく縦に振った。


「そうね。私にとって真実の愛とは見付けるものではなく育むもの。レオナルド様と私、そしてデニスと私の間に芽吹いた親愛の芽がどう成長するのかはこの先のお楽しみね」


 二人の青年を見据えるグレーの瞳には温かな光が宿っていた。          


ご覧いただきありがとうございましたm(_ _)m

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