第9章
タイスとディオルグはヴィンゲン寺院を夜明けとともに出た。その日は満月であったので、黄金の砂丘にかかる金の月がどこか幻想的な輝きによってその光を最後に投げかけていたものである。
ハムレットと同じくタイスもまた、詩心といったものに富んだ青年であったが、この日は夜明けとともに空が薄紫になりはじめ、やがて月が太陽の影のように存在感を薄れさせゆく様についてなど、まったく思いを至らせる余裕がなかったものである。
『「水と緑を制した者が、この惑星を制す」という有名な言葉を、当然おまえも知っておろう。そのために、おまえに必要な者がいる。その者の名はギベルネと言い、非常に賢い男だ。ここにいる誰よりもだ』
(ここにいる誰よりも……)
タイスは緑の女神がそう語った時、胸の奥をチクリと針で刺されるような痛みを感じた。無論、彼にしてもこの広い世界に自分より賢い者など数多くいるであろうとは思っている。だが、自分よりも優れた男が今後、ハムレットの家臣として彼に重用されていくのだろうことを思うと……ある種の嫉妬と悔しさを胸の奥に覚えずにはおれなかったのである。
それと似た嫉妬の感情をハムレットが時折自分に抱くことがあるらしいとは、タイス自身幼き頃より気づいていたことだった。ハムレットとて、物覚えが速く、祈祷書を隅から隅まで暗記し、四則計算についても素早く出来、長老らの語る神学や哲学についてであれば、(一度聞いたら覚えるものを、何故こうも同じ話を長老らは繰り返すのだろう)と、内心欠伸しながら聞いてる口だったに違いない。
無論、ハムレット自身はわかっていなかった。彼がガートルード王妃の手から離れ、使者に託されてヴィンゲン寺院へやって来て以来、大老らはハムレットがいつか王位に立つやも知れぬと思い、ずっと彼に帝王学を教え続けて来たのだということなどは……実をいうと、タイスが若くして長老などという地位に取り立てられたことも、そこにこそ理由があった。こうした事柄に関しても、ハムレットは嫉妬を覚えているらしいとタイスは気づいていたが、長老らが本当に重要な存在であると考えるのは自分などではなく彼当人だということを――タイスは随分昔の幼き頃より感じ続けてきたのである(ハムレットが青池の深みに嵌まって溺れかかった時、タイスが助けたことがあるのだが、長老たちが自分の死よりハムレットの死をこそ遥かに恐れているらしいと……彼は十歳の頃にはすでにわかっていた)。
そして、タイス自身も十七歳になるのと同時、大老や長老らから真実を聞かされた。ハムレットが実は先王の息子であり、彼の父は為政者である現国王のクローディアス王に暗殺されたということ、ハムレット自身も凶刃に倒れるところであったが、忠実な従者に命を救われ、ここヴィンゲン寺院まで共に落ち延びてきたことなど……また、その忠実な従者こそ、昨年まで長老のひとりであったユリウスであったが、彼は死ぬ最後の最後までハムレットのことを目にかけ、まるで父親のように心配していたものである。
(ユリウス長老も、今このように確かに三女神からハムレットに託宣があったと知れば……天空の憩い場において、魂の安らぐ思いを感じておられることだろうな)
そして、このユリウス長老もまた、病いの床において『死に至るまで親友であるハムレットに忠実であってくれ』と、タイスに誓わせてから亡くなっていたのである。タイスにしてみれば、そのように誓いを強制されなくとも、死んでも親友のことを裏切るつもりなぞそもそもない。とはいえ、幼い頃よりやはり、なんとなく気づいていたのである。ユリウス長老は謙遜な人であったので、他の長老たちよりも自分のほうがよほど優れている――といったようには微塵も態度に滲ませぬ高潔な人物であった。だが、あらゆる学問に秀でるのみならず、ユリウス長老がディンブラを爪弾きながら語る詩歌には、誰もがうっとりせずにはおれなかったものだ。
(そうだな、今は亡きユリウス長老よ。オレはずっとあなたになりたいと思っていた。あなたのように謙遜で誰に対しても優しく、振る舞いのほうもどこか高雅ですらあって……そのような人間としての理想の雛形を見て育ったことは、オレにとってもハムレットにとっても、どれほどためになることであったろうか……)
ユリウス長老が長く病いの床に伏してのち、亡くなると――ハムレットもタイス自身も、まるで実の父親が亡くなった時でもあるかのように号泣した。そして、その時に親友と抱きあうようにして流した悲しみの熱い涙を、タイスは今から永遠までも忘れるつもりはない。
(そういえば、ユリウス長老はその昔、ハムレットがくだらぬ嫉妬からオレと取っ組み合いの喧嘩をするのを見て……面白い話を聞かせてくれたことがあったっけ。エレゼ海の海辺の町に住む軍人オセロが、自分より遥かに高い身分の、その町一帯でも一番の美人と評判の娘と結婚した。ところが、そのことに嫉妬した心根の歪んだ男が、オセロに「まだ結婚したばかりというのに、あなたの新妻はあなたの副官と浮気している」といったように、巧みに虚実取り混ぜた嘘を吹聴して聞かせ、本当はそのような事実は一切ないのに、オセロに妻の浮気を信じ込ませることに成功する。そして、この美しく気立てもいい優しい妻のことを、最後には嫉妬の狂気からオセロは絞め殺してしまうのだ……おそらくユリウス長老は、ある種の教訓をハムレットに教えたかったのだろう。嫉妬というのがいかに愚かな感情であるかということと、一時の激情から決して早まってはならぬということを……)
そしてこの時、砂丘の上をルパルカによって急ぎつつ、(ユリウス長老の残したこの教訓話は、今の俺にこそ必要なものかもしれんな)と、タイスが自嘲的に思っていた時のことである。少し先のほうを進んでいたディオルグが、歩を緩めて彼と並んだ。今ふたりの目の前ではすっかり夜が明けたのみならず、急激に気温も上がり、情けを知らぬ太陽が、砂漠で生きるものすべてに容赦なく強い光線を浴びせはじめる頃合いであった。
僧服のフードを目深に被ったディオルグは、まるで蜃気楼のように見える、砂に埋もれかかった今は亡き幻の王国を遠く眺め――そして言った。
「タイスよ、おぬしはどう思う?あの三女神たちの託宣は、いつか本当に成就するものと思うか?」
「さて、な」と、タイスはあえてすっとぼけたような振りをした。ディオルグはユリウスと親友関係にあった男で、ゆえにタイスにもわかっている。彼もまた自分と同じようにほとんど確信しているのだと。「三女神たちの託宣が成就するもせぬのも、我らの今後の行動次第……というところもあるのではないか?たとえば、我々が今こうして例のギベルネという男を発見すべく、ルパルカによって急いでなかったとすれば――果たして彼とハムレットとは、いずれにせよ遅かれ早かれ邂逅するということになるのかどうか」
「うむ」
シャトランジという、チェスに似たマインドゲームが好きなディオルグはこの時、ユリウスとこのゲームをしていた時のことを不意に思いだしていた。『おまえは、彼の君が本当に王位に就くと信じているのか』、『問題は、王位ではない』と、ユリウスは歩兵を敵陣最終列に進めると、クイーンに変えて言ったものだ。『あの方がご自身の生涯を、「このためにこそオレは生まれてきた」と、そのよう信じて生きることが出来るかどうかが問題なんだ』
「タイスよ、覚えているか。ユリウスは少々変わった思想を持っているところがあったのを……簡単にいえば、彼は運命論者ではなかった。つまり、人がこの世に生まれ落ちたその瞬間から、その人物の行動はすべて天の書物に書き記されており、死ぬ年齢などもすべて最初から決まっている――などといったようには考えなかった。ユリウスはこう言っていた。その書物は人間が赤ん坊である時には、まだすべて白紙なのだと。ただし、その後彼なり彼女なりの人生の文章が書かれるにおいて……どんなことが書かれるかは、ある程度可能性が狭められてゆくだろうと言うのだな。男に生まれるか、女に生まれるか、裕福な家に生まれるか、貧乏な家に生まれるか、健康か、それとも病気がちか……といった環境的要因によってもその後書かれる文章は、神ではない人間にも少しくらいは予測が可能だとな。また、親のしつけが悪かったわけでもないのに、そもそも最初から僻みっぽい性格であるとか、怒りっぽい性格であるとか、本人にもどうにも出来ない性格的要因によっても人生を左右されるのではないかと……まあ、言ってみればこれが人生の縦糸であって、運命にも近いものだ。ところが、貧乏に生まれあまり体が丈夫でなく、運命に見捨てられたような境遇であれ、本人が最良の横糸を通すべく努力するなら――横糸に合わせて運命の女神のほうでも考えを変えてくれることがあるのではないかと、こう言うのだな」
「時の女神の織物の話ですね」
タイスもまた、ユリウスが幼き自分とハムレットに話してくれたことを、この時思い出していた。機織り職人の織物と同じく、その人の人生に描き込まれた絵の全体図というのは、死んで最後に糸が切られるまではわからないというのだ。『とはいえ、タイスにハムレットよ。おまえたちが二十歳になる頃にはすでに、毎日毎日刺した糸からすでにある程度先の絵柄については予測が出来ようというものだろう。同じように、基礎教養と精神修練といったものを若い時から積んでおくことこそ大切なのだ。最初から、たったの二色でしか描かれないと決まっている人生は、おそらく行く末のもほうもすでにある程度定まっていてつまらんぞ』……タイスはふとこの時、ディオルグと同じくユリウスにはどこまでのことがわかっていたのだろうと思った。まるで千里眼でも持っているかのように賢い彼ではあったが、いよいよハムレットが王座に就くべくその一歩を踏み出す前に自分が死ぬことになろうとは、流石に予測出来ないことだったに違いない。
「つまり、そのユリウスの論理でいくとだ」
色褪せた砂色のフードの奥から、ディオルグはにやりと不敵に笑った。
「ユリウスはハムレットがいずれ王位に就く可能性があると考えていた。ゆえに、そのために自分は最善の準備をせねばならぬ……そう信じて奴は死んだ。そして友であるわしはな、奴に代わってハムレットがこれから<西王朝>の王となれるよう、微力ながら最善の力を尽くしたいと思っている。なあ、タイスよ。こう想像することは出来ないか?三女神がハムレットが<西王朝>の王となると予言したということは――その図像が彼女たちによってハムレットの人生のある時起きることであると、すでに描き込まれているのだ。だが、そこに至るまでにどのような運命の糸が入り乱れることになるのかは、人間である我々にはわからん。そして、ハムレットがその図像に至るためには、これから我々が探そうとしているギベルネという男の力がどうしても必要なのだ。あるいはもしかしたら、このギベルネという男が霧か霞か幻のように存在しなかった場合、ハムレットはいずれ王位に就くにせよ、相当遠回りをしたり苦労したりするという、そうしたことなのかもしれぬ」
「布石を打たれましたね、ディオルグ長老」
タイスもまた、フードの奥で微笑んだ。彼がルパルカの歩みを遅めて自分と並んだのが何故か、その理由がタイスにも初めてわかったのだ。そして、ディオルグの気持ちが自分とまったく同じものであるとわかり――そのせいで微笑を禁じ得なかったのである。
「まあ、三女神の予言したギベルネという男が、もし仮に今我々が向かおうとする砂の城砦跡に蜃気楼か幽霊のようになかったとしても……我々ががっかりする必要はないということです。また、その場合三女神の予言が的外れなものとして、彼女たちの権威も一気に失墜しようというものですが、俺が狭い世界しか知らないせいなのかどうか、ギベルネなどという名は今の今まで一度も耳にしたことがない。だから、こうしてはどうでしょう。ギベルネという男が今は砂の城砦跡に見つからなかったにせよ、我々が王都へ向かう過程で立ち寄る町々や村々でそのような名の男がいないかどうかと片っ端から聞いて回ればいい。もっと言うなら、三女神が予言したその男は、きのうの夜は確かにそこにいたのかもしれない。だが、今はすでに移動して、気でも変え、エレゼ海にて船へ乗るべく南下したということなら――この場合、ロットバルト州へ必ず向かうということでしょう。とすれば、我々は一度ヴィンゲン寺院へ戻ったのち、ハムレットとともに急いで彼が通りそうなルートを追えばいい。そうしたことになるのではないでしょうか?」
「ま、ユリウスの言い種に従えば、それが運命を見通せぬ我々人間の、最善の横糸行動ということになるのだろうな」
だが、タイスもディオルグも当然知らない。砂の城砦跡には確かにギベルネではないが、ギベルネスという男がいて、炎のように赤い髪の女神がそうと予言した通り――彼が<デンパ障害>なるものにすでに悩まされる運命にあったことなどは……。
>>続く。