第68章
円形闘技場の外は、色とりどりの極彩色のテントに囲まれていた。いつもはこのようなものはないのだが、パンやちょっとした菓子類を提供する露店があるかと思えば、反物や撚糸、それで作った見本の衣類が並んでいる店あり、かと思えばヘビ使いが笛で箱の中からヘビを呼び出していたりと、闘鶏やクマいじめその他色々な見世物がある。
レイモンドは一度闘技場の外へ出ると、その中で一番大きく、そしてテントの色も地味な騎士たちの使用している幕営のほうへ駆けていった。そこには騎士たちのよく手入れされた馬がおり、入口の開いた場所から中へ入ってみると、アラン・アッシャーと二コル・オーランジェという騎士の他、数名の従騎士たちがいた。彼らもまた本当は騎士の桟敷にて試合のほうを見たくはあったのだが、先ほどディロン・ボードゥリアンが真槍を取りに来たように、そうした何かの事態に備え、騎士は幕営にて最低でもふたり待機しておらねばならず、従騎士たちについて言えば、馬や武具の手入れ、またその準備のために幕営にいるわけであった。
「フランツとフランソワの試合のほうは、一体どうなった!?」
ニコルが腰を浮かせ、息せき切ったようにすかさずそう聞く。
「俺にもわからない」と、レイモンドは首を振った。「ただ、とにかく嫌な予感がするんだ。おまえたちはきっと、俺が親友と弟のことをそれぞれ慮っていると思うかもしれないが……」
「わかっている、気にするな。それで?」
アランが、鋭い目つきでそう聞いた。ニコルもアランも、小さな頃からラウール・フォン・モントーヴァン騎士団長時代、レイモンドとは槍や剣術、武術に馬術と、血の滲むような努力をしてきた者同士である。ふたりともサイラス派というよりはフランソワ派であり、今もレイモンドとは互いに交流があるという関係性だった。
ゆえに、多くを語る必要もなく、目と目が合っただけでも――レイモンドが『ここへ何かをしにきた』ことがすぐにそれと察せられたわけである。
「もちろん、騎士団長と副騎士団長の神聖な試合を止めることは誰にも出来ないとわかっている。だが、このままではおそらく、確実にどちらか一方が死ぬか、大怪我を負うかのいずれかだ。とにかく、俺は闘技場の、ふたりのそば近くまで行きたい。いや、違うな……俺たちみんなで、馬で中に入っていくのはどうだろう。理由は……ええと、そうだな。何か、うまいこと考えられればいいんだが……メレアガンス伯爵に咎められた場合、申し開きが出来るように」
「わかったぞ!!何かその理由をうまいことでっちあげることさえ出来れば、伯爵さまも俺たち騎士団の仲間を思いやる意を汲んで、お許しになってくださるに違いない」
「ニコル!おまえ珍しく冴えてるじゃないか」と、アランが笑って言った。「いつもは戦争時の陣形その他、一から百まで説明しないと理解しないっていうのにな」
「うるさいっ!!」
従騎士たちが不安そうに見守る中、三人がない知恵をどうにか絞ろうとした時のことだった。幕営の入口に、突然すらりと背の高い赤毛の美人が現れたのだ。
「おい、おまえっ!!ボドリネールとか言ったな!この町で悪さをしている地上げ屋の小物だと聞いたぞっ。『怒れる牝牛亭』のほうへはあれから顔を出してないようだが、この町の中のどこででも、もしあんなことをしていると次にわかったら……ブタ箱にぶちこんでやるから、覚悟しておけよっ!!」
レイモンドのほうでは、ギネビアのことをすぐに思い出すことは出来なかった。無論、この中に彼女=白銀の騎士アビギネだとわかる者がひとりとしているはずもない。
「悪いが、今取り込み中なんだ。俺の商売に関することで文句があるなら、聖ウルスラ祭が終わってからにしてくれ」
この時、ギネビアは自分の試合が終わったあと、変装を解いて再び闘技場の観客席のほうへ戻る途中であった。一般席ではあるが、貴族たちの高級桟敷の近くで、ハムレット王子たちが試合を観戦しているはずだった。そちらへ合流しようと思っていたが、その時ふとボドリネールという地上げ屋のチンピラを見かけたというわけなのである。
「ふう~ん。これはなんとも素晴らしい大楯だな」
ギネビアは目敏く、鈍色に光り、中央に竜の彫り込み細工のある楯が飾られているのを見て、幕営の中へ入るとそちらのほうへ近づいていった。
「おい!女!!」と、従騎士のひとりが鋭く叫ぶ。「それは、我が聖ウルスラ騎士団に伝わる、聖女ウルスラが星母神さまより賜ったと伝えられる由緒ある大楯なのだぞっ!!毎年この時期しか飾られることは決してない……」
「べつにいいだろ。触らないし、ただ見るだけだから」
(そうか。なるほどな……甲冑のほうは聖ウルスラ大神殿に安置されているということだった。剣の持ち主であるハムレット王子のものになるとは限らないが……やはりこうしてちゃんと実在しているものなのだな)
従騎士たちはギネビアのことをつまみだそうとはしなかったが、アランとニコルとレイモンドの三人は、そのまま彼らの話を続けた。
「伯爵さまや巫女姫さまに……いや、なんだったら大神官のグザヴィエールに対してだっていい。あるいは元老院に叛意のある謀反人が、この聖ウルスラ祭を穢そうとして動いているという情報をキャッチしたというのはどうだ?」
「それなら、試合の終わったあとから警護に入れば良かったと言われないか?聖ウルスラ祭の期間中に関していえば、ここ円形闘技場の警護は軍に任されているからな……騎士団に恥をかかされたなどと、あとからゴチャゴチャ言いがかりをつけられないといいが」
「いや、オースティン・ヴァリ将軍なら大丈夫さ。あとからでも話せば、きっとわかってくださる。それに、それだけの器量の大きさを持ってもおられるお方だからな」
三人はそこまで話しあうと、互いに頷きあい、幕営の外へ出ようとした。最後に一度だけアランが六名ほどいた従騎士たちにこう命令を下す。
「ひとりは、騎士の桟敷のほうへ連絡に行け。ひとりはここで、聖エドワールの楯の見張りをしろ。騎士の持ち物を盗む不埒な者がいるとは思わんが、それでも一応な。残りの四名は騎乗して俺たちについてこい」
「ははっ!!」
ギネビアはよくわからなかったが、外にいる騎士たちの馬の一頭に乗ると、彼らのあとについていった。現在、聖ウルスラ騎士団の騎士団長と副騎士団長の試合の真っ最中なはずである。ギネビアはこの時、フランツの勝利を信じて疑いもしなかったが、フランソワ・ボードゥリアンという騎士団長は、己が勝つためにはどんな汚い手でも使うと聞いたため、彼らが何か手を貸そうというつもりかもしれないと……そう疑ったわけである。
「なんでおまえまでついてくるんだっ!!」
従騎士のひとりが、ギネビアが三人のあとを我先にとばかりついていこうとするのを見て、そう怒鳴った。従騎士とは、騎士になる前の修行段階にある者たちのことで、それぞれ自分の仕える正騎士の主人を持っている。また、それが自分の主人でなかったとしても、他の正騎士の命令には絶対服従というのが主従関係の基本である。ゆえに、彼らは尊敬する先輩方が何をしようとしているかまではわからないながら……それがフランソワ・ボードゥリアン騎士団長とフランツ・ボドリネール副騎士団長の御ためになることだと信じ、ただ黙ってあとに従っていたわけである。
「気にするなよ。それに、あのボドリネールって男は、ただの地上げ屋のチンピラなんだろ?そんないかがわしい男が何故、由緒正しきあんたたち騎士さま方と一緒にいたりするんだ?」
「何を言うっ!!」別の従騎士が先に進みでて言った。「あの方は、名門騎士ボドリネール家の……ええと、とにかく元は騎士となるべく我々と共に武術の汗を流した、本来であればあの方こそが騎士団長になっていたかもしれぬほどのお方なのだっ!!失礼な口は慎みたまえ」
「あ、そっか!忘れてた。そういえばあいつ、フランツの半分血の繋がった兄ちゃんなんだっけか……」
闘技場まで続く、暗闇の通路は思った以上に人声が響く。先のほうを進んでいたレイモンドの耳にも、ギネビアの声は届いていたが、(あの娘、フランツの知りあいか……)といったように思ったくらいなもので、アランもニコルもレイモンドも、とにかく今は聖ウルスラ騎士団の騎士団長と副騎士団長のことしか頭になかったわけである。
円形闘技場の出入口の左右に、馬に乗った騎士がふたり現れても、特段気にする者は誰もなかった。観客席にいる者は誰も、そのくらいフランソワ・ボードゥリアンとフランツ・ボドリネールの試合に熱中していたからである。というのも、ふたりは一騎打ちの決まりとして――左右それぞれに離れて位置につくと、紋章官の吹き鳴らす角笛を合図として、騎乗したままダッと一直線に駆けてゆく。一騎打ちの一本目、フランツとフランソワは中央付近でガキッと一号槍を打ち合い、交差し、馬をそのまま駆けさせていった。ルールとしては三本勝負であり、基本的に三回打ち合い、二本相手から取るなり、それか三本のうち二回が引き分けで、残り一本を勝ち取るか……場合によっては、最初の一本目、あるいは二本目で相手が大怪我を負うか死亡するなりして試合終了という可能性もある。
レイモンドたちが闘技場の出入口に到着したのは、この次、二本目の勝負がはじまろうかとする頃であった。レイモンドは自分が表に出るわけにはいかぬと考え、入口の陰に待機し、親友と異母弟の戦いを見守ることにした。ところが、本来であれば無関係なはずのギネビアが図々しく、そのまま先に馬を進めてゆく。それから、アラン・アッシャーの隣にてじっと試合を観戦しようとしたわけである。
「おいっ!おまえ、一体どういうつもりだ!?」
アランは隣のギネビアに小声で怒鳴った。まさかこんな目立つ場所にまで彼女がついてくるとは思ってもみなかったのである。
「ふふん。おまえ、わたしに三回戦あたりで負けた、アラン・アッシャーだな?だったら、ここにいるのは貴様なぞよりわたしのほうがよほど相応しいというわけだ」
「なっ……ばっ、馬鹿なっ!!そんなはず、あるはずなかろうっ!!」
「しっ!!いいから黙ってろ。今、試合が物凄くいいところだ」
二回目の角笛が吹き鳴らされた。フランツとフランソワはそれぞれ、再び所定の位置から飛び出していくと、互いに鋼の真槍によって打ち合おうとした。だが、フランソワはここで戦術を変えた。先ほどと同じく打ち合うかに見せかけておいて――フェイントの動きを一度入れると、フランツの肩目がけ、強烈な一撃をお見舞いしたのである。
フランツは肩に激しい痛みを感じると同時、ほとんど吹っ飛ぶかのような勢いで、危うく落馬しそうになった。観客席からは女性の「きゃああっ!!」という悲痛な叫びと、「あ~あ……」という、副騎士団長の肩の痛みを嘆く者たちのどよめきが同時に起きている。
(よく堪えた、フランツ……もう十分だ。それだけでも、もうおまえは立派な騎士だ……)
そう思っていたのは何も、レイモンドだけではない。騎士専用の桟敷席に座る他の騎士たちもみなそう思っていた。だが、この中のうち誰ひとりとして、この試合を止めることの出来る者はなかったのである。
この時、レイモンドは闇の中から光の中へ進み出ようとした。そうすることで、どのような罪がのちに己の身に下ることになるかはわからない。けれど、何がどうあってもフランツとフランソワのこの一騎打ちを止めなければならないと考えていた。どちらか一方が命を落とすことになる、その前に……。
「なんだ、貴様。これは騎士同士の神聖な戦いだぞ。たかが町のチンピラ如きがちょっかいだしていいような試合じゃない」
ギネビアが、闘技場の中へ進みでようとするレイモンドのことを、そう言って止めた。彼はカッとするでもなく、馬の手綱を思わず引いた。
「いいから、黙ってみていろ。わたしはフランツのことを信じている。きっとあいつが必ず勝つ……!!」
(なんの根拠があってそんなことを……)
そう思ったのは、レイモンドだけではない。アランにしてもニコルにしても、まったく同じ思いだった。何故なら、彼らは実戦経験があるだけにわかる。肩にあれほどの深手を受けたのでは、右手に槍を握るのも精一杯なはずなのだ。あとはもう神に祈るか、フランソワが最後の最後、もうこれで十分であるとして手心を加えてくれるのを願うかの、いずれかしかない。
「がんばれ、フランツっ!!この一月弱の間、我々に稽古をつけられていた時のほうが、今の痛みなぞよりおまえにとってはよほど苦しかったはずだぞっ!!」
フランツの肩の傷は、鎧の繋ぎ目を貫通して届いたほど威力のあるものだった。彼は最早半ば、己の敗北を確信さえしていたが、ギネビアの今の言葉で目が覚める。
(そうだ。まだ勝負はついちゃいないぞ……)
ぎゅっと右手で真槍を握り直すと、フランツは冑の中でダラダラと流れてくる脂汗と苦痛に顔を歪めつつ、馬首を翻すと、所定の位置についた。遠く、悠然と同じように真槍を握り、騎乗しているフランソワ・ボードゥリアンの姿が見える。
(彼は、次の一撃で僕に止めを刺そうとしてくるだろう。だが、僕にはやはり出来ない……出来なかったんだっ!!副騎士団長の地位に着けさせられて、嫌な思いをたくさんしたのも事実だけど、フランソワが小さい頃から僕に色々良くしてくれたっていうのも、本当だったから……!!)
フランツはこの段に至っても心を決めかねていた。次こそ死にもの狂いの本気の一打を繰り出さなければ、自分は彼の槍の一撃によって死ぬ可能性さえある。だが……。
「おいっ、どうした紋章官っ!!」ギネビアは、おどおどしているように見える、マルタン・ド・オーヴァリーに向かって怒鳴った。「騎士団長も副騎士団長も、所定の位置についた。あとは貴様が角笛の合図を出すだけだぞっ!!」
――もちろんこの時、ハムレットやタイス、ディオルグらと座席に座っていたランスロットやカドールが、「あいつ、一体何やってんだ」とか、「あの馬鹿が……」と言いながら、呆れつつ、頭を抱えていたのは言うまでもないことである。
一方、この事態に突然にして騎士の桟敷席のほうが騒がしくなりはじめた。「おい、アランもニコルも一体どうしたんだっ!!何故そんな女に勝手なことを言わせている!?」と、マイヤンスが怒鳴ったのを皮切りに、他の騎士たちも観客席と闘技場を隔てる二メートルばかりもある石造の基部と木製の羽目板のあるところまでやって来る。
そして、彼らが何か言いあううち、試合のほうは中断されたままとなり――メレアガンス伯爵夫妻の目には、騎士たちが自分たちの騎士団長と副騎士団長の戦いをどうにか止めたいがゆえに、何か騒ぎを起こしているのではないかと思われ……円形闘技場にいる者たちは誰も、この先どうすべきなのが正しいか、見失ってしまったわけである。
けれどそんな中、巫女姫が動いた。彼女は近くにいた大神官のゴーマドゥラを呼び寄せると「早く試合を再開させるよう、伯爵に言ってちょうだい」と頼んでいた。こうして、ゴーマドゥラは自分の言葉として神官のひとりにその旨、メレアガンス伯爵に伝えさせたわけである。
「ううむ……」
それが巫女姫の仰せとあっては、メドゥック=メレアガンスにしても、どうにも止めようがなかった。そこで伯爵は、侍従のひとりに紋章官にこう伝えさせることにしたのである。「速やかに試合を再開するようにとの、伯爵さまの仰せでございます」と……。
巫女姫マリアローザは、自分の恋人であるフランソワ・ボードゥリアンの勝利をすでに確信していた。ゆえに、彼がなるべく速く、なんの邪魔もされずに勝ち鬨を上げるところを見たかったのである。
それでこの時、紋章官のマルタン・ド・オーヴァリーが、高々と角笛を吹き鳴らすと――あたりは再び一気にシーンと静まり返った。じっと待機させられ、フランソワの馬は気が逸るあまり前脚で地面を蹴っているほどであったから、飛び出していくのは有利に試合を進めている彼のほうが一瞬速かった。肩の痛みもあり、フランツのほうでは出足が遅れる。この時、フランソワのほうでもやはり迷いがあったのだろう。一気に勝負をつけにいくのではなく、フランツの槍を受け止めると、彼は冑の桟の奥からこう言った。
「適当なところで落馬するか何かして負けろ、フランツ……!!どのみちその傷ではもう戦えまい!!」
「うるさいっ!!これは命を賭けた真剣勝負だぞっ!!それとも、愛しい巫女姫さまの前で格好つけて勝ちたいという、そうした意味かっ!!」
ガキッ、ガキッと槍を打ち交わすごと、フランツは左肩の傷に痛みが走ったが、そのうち何も感じないようになった。兵士らが重傷を負っているのに戦場では何も感じないという、アドレナリンによる例の症状が出ていたに相違ない。
(こいつ……サイラスのことと言い、一体どこまでのことを知っている!?)
先ほど、入口付近にいる若い女が、「我々に厳しく稽古された時のほうがよほど苦しかったはずだぞっ!!」と怒鳴ったのは覚えている。短期間でフランツが腕を上げたのは、そのような陰の鍛錬があってのことなのだろうとも……ということは、<我々>というのは一体誰のことなのか。なんにせよ、フランツがそれらの者たちから色々と吹き込まれたのだろうことは間違いない。
(すまん。許せ、レイモンド……!!フランツをこのまま生かしておけば、俺と巫女姫のことまで告発しかねん。俺自身のことはともかくとして、マリアローザのことは必ず守らねばならん!!)
フランツはほとんど勝手に体が動くに任せるかのように、フランソワの激しい攻撃を防いだ。だが、防戦一方に追い込まれ、反撃の一打を繰り出す間合いすら取れぬまま、フランソワが最後、(これで止めだッ!!)という激しい一戟をフランツの喉に決めようとした瞬間のことだった――彼は突然、重力に弄ばれてでもいるかのように落馬したのである。フランツが、ではない。フランソワのほうがである。
この日、一体何度目かわからぬ、しーんという沈黙が、円形闘技場を包んだ。試合を観戦していた者は誰も、すでに脇の下にびっしょり汗をかいていたものである。より興奮し、感情を大きく揺さぶられた者ほど、外気温のせいによってではなく、手のひらにまで汗をかいているほどだった。だがこの時、一体何が起きたのかわからなかったのは、誰あろう、フランソワ・ボードゥリアン本人だったに違いない。彼は馬の鞍を支える腹帯が突然切れたことにより――それが原因でバランスを崩し、落馬していたのだ。
しかもこのあと、さらなる不幸がフランソワを襲った。これもまたありえぬことであったが(騎士の馬は戦場でも戦えるほどよく訓練されているがゆえに)、興奮した彼の愛馬が主人のことを鎧の上から踏みつけにしたのである!!
フランソワは肋骨の折れる音をその耳にはっきり聞くと同時、失神した。この事態に一番顔を青くしたのはおそらく、フランソワの従騎士であるディロン・ボードゥリアンだったに違いない。従騎士は主人の槍や盾や剣、鎧などの手入れをするのみならず、馬の世話もする。他に、馬の鞍や鐙や手綱など、馬具の手入れをするのも従騎士の大切な仕事のひとつである。ディロンは、今朝方、馬の準備をする時に――何ひとつとして欠けたものはないとして、満足してフランソワのことをこの円形闘技場のほうへ送りだしていたのである。それなのにあれほどしっかりした腹帯が切れるなどとは、彼にしてみれば断じて絶対にありえぬことであった。
「お、おまえ……」
あまりのことによろめきながら、騎士の桟敷からディロンは前のほうへやって来た。そして、ギネビアのほうをはっきり指差しながら、こう叫んだのである。
「フランツを勝たせるために、何か汚い小細工をしたな!?そうだ、そうに決まっているっ!!この試合は無効だっ!!そもそもフランツとフランソワでは力量に違いがありすぎるっ。フランソワはその優しさと温情から、副騎士団長であるフランツ・ボドリネールを憐れみ、なかなか決着をつけようとはされなかったという、それだけなのだぞっ!!」
「チッ。一体なんだこの、頭の悪い青びょうたんは……」
ギネビアは見事な栗毛の馬に軽く拍車をかけると、興奮して闘技場を走りまわっているフランソワの愛馬を追っていった。そのあとの彼女の手並みはまったく見事なもので、観客席からは「ほお~っ!!」という感嘆の声まで洩れていたほどである。
ギネビアは鞍を失ったフランソワの愛馬のほうへひらりとうまく乗り移ると、「よう~し、よしよし」と、たてがみのあたりを撫で、馬の興奮を鎮めた。それから、自分が乗っていた鹿毛のほうの手綱を掴み、そのまま一緒に入口のほうまで戻ってきたのである。
「ようく聞け、おまえらっ!!」
ギネビアは面白くなさそうな渋面を浮かべる聖ウルスラ騎士団の騎士が桟敷の最前列に雁首を並べるのを眺め渡し、彼らに向かってこう怒鳴った。
「この勝負は、フランツ・ボドリネールの勝ちだっ!!もし、そのことに不満と異議があるなら、ふたりの怪我が治った頃にでも再度勝負すればいいということだろう。ルールではそういうことだったな、紋章官っ!?」
すぐ目の前にマルセルがいるとも知らず、ギネビアは自分の後方にいるマルタンのほうを振り返って言った。彼はあまりのことにどうして良いかもわからず、青い顔のまま呆然としている。だが、ようやく蚊の泣くような声で「は、はいィ~……」と答えていた。フランソワの元にはふたりの衛生官が駆けつけており、マルタンもまた彼の様子を見るのにそちらへ向かった。
「聖ウルスラ騎士団の騎士たちよ、よく聞けっ!!」
(もうよせ!)とか(頼むからやめてくれ……)と、ランスロットやカドールがやきもきしているとも知らず、ギネビアはさらに続けた。
「おまえらの騎士としての根性は腐り切っているっ!!なんでも、夜には娼館通いをし、夜警団からは賄賂をもらっていると聞いたぞ。証拠のほうならば揃っている!!ゆえに言い逃れは出来ぬぞ。貴公らの騎士団長と副騎士団長は、ほとんど相打ちにも近い状態で共倒れだ。それが何故だかわかるかっ!?貴様らの性根が騎士として腐り切っているがゆえに、このような分裂という天罰が下ったのだっ。我が名はアビギネっ!!明日、準決勝戦を戦ってのち、優勝する者の名だっ。よおーく覚えておけっ!!」
この言葉を聞いたのは何も、その場にいた聖ウルスラ騎士団の者たちのみならず、伯爵夫妻や巫女姫、その他元老院にその名を連ねる貴族、それにメレアガンス州の州民のみならず、他州から遠路はるばるやって来た観客たちもであった。そして、彼らはこの瞬間、ハッとしたわけである。本来であればこのあとまだ試合があり、明日の準決勝戦を戦う選手が選出される予定だというのに――聖ウルスラ騎士団の騎士たちの中には最早フランツ・ボドリネールを除き、ひとりも残っていないということに!!
「今一度同じことを言うから、耳の穴かっぽじってようーく聞けよっ!!貴様らがよそからやって来た騎士らに負けたのは、そもそも普段から騎士としての心がけがなってなかったからだ!!そして、フランソワ・ボードゥリアンには騎士団長として、そのように貴様らが堕落するよう助長したことに対する責任があるっ!!フランツはそのような聖ウルスラ騎士団の腐敗を嘆き憂え、明らかに実力差のある騎士団長と戦うことにより、綱紀の粛清をはかろうとしたのだっ!!そのようなフランツ・ボドリネールが不正をするなど、絶対にありえんっ!!」
聖ウルスラ騎士団内には、夜警団から賄賂を受け取ることもなければ、娼館通いをしてもいない者もいくらかはいた。だが、その彼らにしても仲間の不正を知っていながらあえて正そうとしなかったという意味で同罪だったと言えよう。とにかく、騎士の世界ではそうなのである。
「だが、女よっ!!おまえがあの白銀の騎士アビギネだという証拠は一体どこにあるというのだ!?」
心当たりのある者や、やましいところのある者たちが項垂れる中、反論する望みの細い糸を掴む騎士がいた。彼もまたアビギネに負けた騎士のひとり、キザイア・マイユである。
「ははははっ!!もしわたしが白銀の騎士アビギネでないなら、一体誰がアビギネだというのだ!?そもそも、わたしがそのような嘘をついて何かメリットがあるとでも?よしんば、わたしがかの白銀の騎士でなかったとすれば、おそらく今のこの試合の模様をアビギネがこの闘技場のどこかで見ていて、文句でも言いにここまで下りてくることだろう。これでわかったかっ!?貴様らはこのわたし、本来であれば騎士が守らねばならぬはずの婦女子、女に負けたのだぞっ!!そのこと、恥かしいと思うのであれば、おのおの方はこれから口を慎むが良かろう。まだ貴公らにしても幾分かは恥を感じる心が残っているというのであればな!!」
ギネビアのこの一喝に、周囲は水を打ったように静かになった。その上で、彼女はこの沈黙にすっかり満足したように続ける。
「わたしもまた、騎士のはしくれである者として、今一度貴公らに問いたい。そもそも騎士とは何か?騎士とは一体なんのために存在しているのだ!?騎士聖典によれば、騎士とは卓絶した正義と道徳心を持ち、さらには高貴さを身に着けている者のことだという。そして、主君に忠誠と誠を尽くし、法の守護者として悪を退け、弱き者たちを庇護し、救うのだという話だ……わたしは今、あえてまるで他人事であるかのような言い方をした。何故なら、貴公らが法を曲げ、賄賂を受け取り、騎士らしくなくふるまっているという噂を聞いたからだ。騎士とは、ただ煌びやかな鎧を身に着け、馬に乗り槍や剣を振るっていれば騎士だというのか!?断じて違う!!ただそれだけで騎士になれるのであれば、野山の山賊だとても騎士であろう。何故なら、騎士には聖職者と同じ高貴さと潔癖さとが求められ、それを持って庶民らの模範とならねばならぬ責任が伴うからだ!!」
聖ウルスラ騎士団の騎士たちの内、この目の前の見事な赤毛の美女が白銀の騎士アビギネであると完全に信じられた者は皆無に等しかった。だが、それでいてこのギネビアの一喝には心を打たれていた。本当にその通りであるのと同時、ギネビアのとても女性とは思えぬ、騎士そのものでもあるかのような凛々しさに、彼らはみなすっかり打たれていたのである。
「騎士たる者のこうした責務を忘れる者は、すでに己の主君と正義に仇をなしたも同然であると心得よ!!肉体のみを鍛錬し、己の武勇を誇るだけの者は騎士ではない。今貴公らに必要なのは魂の鍛錬だ!!騎士聖典には、忠誠・真実・忍耐・寛容・良識・謙虚・慈悲……これらが騎士の身に着けるべき美徳であると書いてある。その逆の悪徳とは、貪欲・色欲・高慢・怠惰・嫉妬・怒りであるとも。ただ腕力のみを誇るだけの者は己の武芸に溺れ、その上高慢になり鍛錬を怠る。そして、騎士道の腐敗とはまさにそこからはじまるのだ。その上ついには、神にある信仰心と弱き者に対する博愛心すら忘れ、悪に染まり、腕力によってこれを虐げる。わかったか、おのおの方!!これからは初心に返り、神への祈りと美徳と善行とにまずは励むが良い。我が名はローゼンクランツ騎士団のアビギネ!!まさか、謙虚な心で武芸の教えを乞いに聖ウルスラ騎士団を訪ねて来たにも関わらず、騎士の根幹に関わるこんな基礎的なことで説教する羽目になるとは、思ってもみなかったぞ!!」
このギネビアの言葉には、まだ反論すべき抜け道が存在することに、弁護士といった雄弁術を駆使する職業の者であれば気づいたことだろう。つまりは、魂の鍛錬により、神への信仰と美徳と善行にのみ富んでおり、槍や剣や体術といった腕力の才が低くして騎士となった者は、決して聖ウルスラ騎士団をまとめる騎士団長にまではなれまいという――だが最早、彼らの中にギネビアに屁理屈をこねて反論しようという者はひとりもいなかった。それほどの説得力がこのギネビアの演説にはあったのである。
ギネビアは自分の言いたいことだけ並べ立てると、この時もさっさと退場していったが、そんな彼女のことを引き留めようとする者はひとりもいなかった。レイモンドはこの時、初めてハッとしていたものだ。単に腕力があって喧嘩の強い者と、正規に騎士の訓練を受けた者とでは、剣の扱いにしても体術における身のこなしについても明らかにはっきりとした差が出る。それゆえにこそ、『怒れる牝牛亭』で部下たちがギネビアとやりあいになった時、彼は彼女を見逃そうと思ったのだ。
(だが、むしろそのことで見逃され、助けられたのは俺のほうだったのかもしれぬ……)
ギネビアとすれ違いざまそう思い、レイモンドは馬を下りた。それから、アランやニコルとともにフランソワの元へ彼の具合を見るのに駆け寄ろうとした時のことだった。メレアガンス夫妻や巫女姫、それに貴族方の桟敷のある側には、闘技場へ通じる普段はあまり使われることのない隠し扉があるのだ。本来であれば、マリアローザは明日こそこの祝祭の締め括りにそこから他の巫女や神官らと一緒に出てくる予定であったが、この時彼女は白いヴェールすらも自ら取り去り、恋人の元へ真っ直ぐ駆けていったのである。側近巫女であるミラベルやディアンヌが止める間もなかった。
「フランソワっ、しっかりしてっ!!フランソワっ!!」
衛生官はふたりとも、この美しい女性が巫女服を着ていたことから巫女のひとりとは認識したものの――まさか、彼女が巫女姫その人とまでは思ってもみなかった。というのも、巫女姫というのは公の場に出る時、必ずつばの大きな帽子を被り、そこから白いヴェールが下がっているがゆえに……風でそれがはためきでもしない限り、畏れ多いその御尊顔を拝することの出来る者はないのである。また、マリアローザの胸には例の作られた竜の痣があったが、神殿にいる時とは違い、やはり公式の場において巫女姫が人前でそのように肌をさらすということはないからだ。
「大丈夫です。鎧はすでに取り外しましたし、肋骨が折れていましょうが、普段の鍛錬がものを言い、騎士団長であれば治りも早いはずです」
騎士でありつつ、医術の心得もあるフロモントは、持ってきた担架へフランソワのことを移すべく、もうひとりの衛生官に合図した。ところが、マリアローザは取り乱して泣き叫ぶのをやめず、さらに彼に取り縋ろうとする。
「大丈夫って、口の端から血が出てるわっ!!今動かして、死んだりしたらどうするのっ!?」
「肺か、どこか別の臓器が押し潰されたのやもしれませぬ。どちらにせよ重傷ではありますが、ここで治療は出来ぬ以上、治療室のほうへ一刻も早く運びませんと……」
この時、フランソワはうっすらと目を覚まし、マリアローザの声をどこか遠くで聞いた気がしたが、担架へ移される際に体を持ち上げられると、その時に生じた痛みにより再び気を失った。だが、フランソワが一度意識の戻った徴候を見せたため、マリアローザは安心した。「わたしよっ!フランソワ、わたしのことがわかる!?」などと叫びつつ、彼の手を握りしめ、衛生官らについていこうとする。
衛生官にマリアローザが巫女姫とすぐわからなかったように、観客席に座っている者たちの中で、彼女こそが巫女姫その人なのだとわかっている人物というのは、数として少なかった。メレアガンス夫妻にはわかっていたが、ふたりはあまりの事態が起きたがゆえに巫女姫マリアローザは取り乱したのだと考え、まさか彼女がボードゥリアン騎士団長と情を交わした仲なのだとまでは想像してもみなかったのである。また、観客席に座る市民らも、巫女服を着用していることから、突然飛び出して来た彼女が巫女であろうと想像したとはいえ、まさか巫女姫その人であるとまでは考えなかった。また、(もしや、フランソワ騎士団長は巫女のひとりと恋仲にあるのでは……)と邪推する者がある反面、そのことを裁こうとまで考えた者は極少数だったようである。何故なら、今飛び出せば、自分の命に関わるというのに――彼女は恋人のことが心配なあまり、我が身のことをも顧みなかったのだから。
だが、マリアローザの側近巫女のミラベルとサヴィーヌとディアンヌは違った。自分たちはのちのち責任を問われるであろう、ということを彼女たちは保身から心配はしなかった。ただ、彼女たちの可愛い娘にも等しいマリアローザがこれから一体どのようなことになるのかと……その時自分たちに一体何がしてやれるかと、そのことばかりを考え、彼女たちは顔を青くしていたのである。
そして、さらにこの時――その場にいる誰もが考えてもみない第三の事態が重ねて起きた。悪魔教ネクロスティアの教祖クエンティスは、自分の信徒ら数名に手伝ってもらい、二メートルばかりもある闘技場と観客席を隔てる壁をどうにかして下りてくると、担架に乗ったフランソワに追い縋るようについて行く巫女姫のほうへほぼ一直線に駆けていった。クエンティスは二メートルばかりもある壁から苦労して下り、さらには着地の時にドテッと転び、そのあと転げまろびつしながら、大切な例の深緑色の瓶を胸から取り出し……最後には、「既存神の不在証明のため」との彼にとっての大義名分のため、恐るべき速さにより、巫女姫の御身へとその穢れた肉体を近づけていった。
繰り返しになるが、クエンティスは巫女姫が聖ウルスラ騎士団の騎士団長と恋仲であるらしい、などという俗な理由によって突然怒りを燃やしたのではない。むしろ、そのようなことは彼の頭には今この瞬間も思い浮かびもしないことであった。彼はただ、警護している兵士ですらも騎士団長と副騎士団長の一騎打ちに気を取られるあまり、警備が手薄になっていると気づき、その隙をどうにか突いて巫女姫マリアローザに近づけはしまいかと、馬上試合そっちのけで、ずっと美しい巫女方の座る座席のほうを睨むようにじっと見つめ続けていたわけである。
そして彼はとうとう――何かの羽虫が空気中に脅威を感じ、一目散に逃げる時のような速度で、一瞬にしてマリアローザの元まで追いついた。クエンティスにとっては、彼女の若さや美しさ、その身に纏う馨しい香りのことなどは一切どうでもよいことだった。彼はただ、自分の崇める悪魔の名を口にし、「悪魔ネクロスティアさまに栄えあれ!!そして聖女ウルスラに呪いあれ!!」と大きな声で叫ぶと、きつく閉められた薬品瓶の封を解き、その中身をすべてぶちまけたのである。
マリアローザはガクガク震えたまま、その場に腰を抜かして座り込んだ。だが、彼女の体には、硫酸は一滴たりとも降りかかってはいない。何故なら、クエンティスの深緑色の瓶の中身を受けたのは……咄嗟に巫女姫の目の前に飛び出した、レイモンド・ボドリネールだったのだから!!
「兄さんっ!!」
フランツもまた左肩に重傷を負っていたが、不審者としか思えぬクエンティスがえっちらおっちら壁を下りてくるのを見て――馬を下り、どうにかこちらへやって来ようとしていたのである。レイモンドは咄嗟に黒いローブを広げていたことから、顔に硫酸を受けることは避けることが出来た。だが、その衣服すらも溶かし、硫酸は彼の肩や背中、それに腕や胸にまでも達していたのである。
(ぎィやああっ!!)と叫びたくなるのを、レイモンドはどうにか堪えたが、それでも痛みのあまり、その場に右へ左へと何度となく転がって身悶えた。剣を抜く力が残っていたとすれば、間違いなく目の前のクエンティスのことを彼は殺人罪云々考えることなく斬り伏せていたことだろう。
衛生官ふたりもまた、青ざめた顔をしたまま戸惑っていた。重傷者があらたに増えたことで、どうしていいかわからなかったのだ。だが、レイモンドは息も絶え絶えながら、「早く、行け……っ!!」と、噛みしめた奥歯から苦悶とともに命じたのだった。「そこの、お姫さんも……早くっ!!」
この段になると、何人もの警護兵らが隠し扉のある場所から飛び出して駆けつけた。フランツは剣を抜くと、「動くなっ!!」と叫び、クエンティスのことを脅した。そうこうする間に、クエンティスは右からも左からも屈強な警護の兵たちに殴りつけられ、地面に屈服させられる形となり、最終的に縄でしっかり縛られていた。
「おい、みんなっ!!手を貸してくれっ。兄さんが重傷だ!!」
次から次へと起きる恐るべき事態に、聖ウルスラ騎士団の騎士たちは呆然としていた。だが、このフランツの一喝で目でも覚ましたように、彼らもまた羽目板を飛び越え、何人も闘技場へ下りてきた。
さらにこの時――クエンティスがなおも星母神の名を汚し、聖女ウルスラを罵り、自身に顕現したという悪魔の名を褒め称えていると、真夏の払暁を思わせるような赤毛の巫女が、苦しみにのたちうちまわるレイモンドの元へスッと跪いたのである。
「よくぞ、巫女姫マリアローザを守ってくださいましたね」
肩に蜘蛛、その名をランぺルシュツキィンという大仰な名の黄縞の黒蜘蛛を乗せたディミートリアは、レイモンドの硫酸を浴びた傷口に触れた。途端、レイモンドの肉体から嘘のように痛みが引いてゆく。彼はまるで、キツネにつままれたような思いで、自身の焼け爛れたはずの傷跡を呆然と見た。悪魔崇拝の気の狂った妖術使いの妖術にかかったのではなく――硫酸をかけられたのは紛れもなく現実であることが、むしろそれでわかったほどだ。
(だが、何故突然痛みが引いたんだ!?)
レイモンドは不思議だった。そしてそれは、彼の弟のフランツにしても同様だった。というのも、真実の巫女姫ディミートリアは、フランツの左肩の傷に触れると、「あなたも、聖ウルスラ騎士団を立て直すため、よく戦いました。これからはあなたが騎士団長を名乗るように」と一言いい、彼の左肩に触れるなり――フランツはそこから一瞬にして痛みが去るのを感じたからだ。
「我が愛するメレアガンス州のみなさん、聞いてください!!」
ディミートリアは円形闘技場の中心まで行くと、そこからそう呼びかけた。彼女は小柄であったし、普段の彼女を知る他の巫女たちであれば……そんな勇気があの小さなディミートリアのどこにあったのだろうと、間違いなく訝ったに違いない。
だが、彼女のうっとりするような美しい声は、不思議と闘技場の隅々にまでよく響き渡っていたのである。ディミートリアの声の調子には少しも恐れているようなところはなく、彼女はあくまでも冷静に落ち着いた態度で、その場にいる人すべての心に直接訴えるかのように語りはじめた。
「この国は今、重税を課され、みながともに同じ苦しみによって鎖のように繋がれています。また、それゆえにこそみんな、自分の生活のことのみを考えざるをえず、さらなる苦しみの底へと落ちていかざるをえないのです。自分だけが生きていくのに精一杯なら、どうして隣に住む人に愛と慈善など施せましょう?わたしは、住民税や通行税、紡績税や染料税、薪税その他、以前までは税金のかかってなかったものについては廃止し、あるいはその税率を低くし、市民らの負担を軽くすることをメレアガンス伯爵に望むものです」
この時、メドゥック=メレアガンスは、ディミートリアの巫女姫としての威厳に圧倒されるあまり――痛いところでも突かれたように、(うっ!!)となった。だが、彼女の美しいハシバミ色の瞳に見つめられると、何も言わぬわけにもいかない。そこでメドゥックはその場に立ち上がると、自分の背後に控えた貴族たちを越え、その後ろで固唾を飲んで領主の言葉を待つ州民らにこう宣言した。
「約束しよう!!余は必ず巫女姫の言うとおりにするということを!!」
無論、メドゥックにはわかっていた。巫女姫マリアローザであれば、先ほどフランソワ騎士団長とともに退場していったとは。だが、このようなことを大衆に向かって言えるということは、彼女こそが本当に巫女姫なのだと、そう民衆らも考えているはずだと感じていた。
円形闘技場はワッ!!という割れんばかりの歓声で一瞬にして湧き立ったが、巫女姫にはまだ話があるらしいと感じた彼らは、再びこの聖女ウルスラの生まれ変わりである生き神女の言葉を聴くべく、潮が引くように静かになっていった。
「さらに、わたしは貧しい人々に向け、昔はあったという食糧の配給制度を復活させるよう望みます……ですが、実質的に我がメレアガンス州が、みなさんの支払えない税金を肩代わりすることによって財政のほうが火の車だというのは、みなさんもご承知のことと思います。そのこと、間違いありませんね、カンブレー財務長官?」
カンブレー卿は、立派な体格の、人徳ある英邁な人物であったが、この時巫女姫ディミートリアに名前を呼ばれると、驚きのあまり貴族席から十センチばかりも腰を浮かせそうになっていたものである。
「は、ははっ!!確かにその通りでございます、巫女姫。と言いますのも、王都テセウスから課される税があまりにも重いのであります……そこで、住民税その他、支払えぬ者は十分身辺調査をした上、財務省のほうにて肩代わりをしているのでして。ですが、いくら借金のためであれ、その者から碾き臼や下着まで奪ってはならぬと法律にもあります通り、税の代わりに家宅財産をすべて差し押さえ、没収すれば良いということでもございますまい。税金を支払うためにも何かの商売をするに当たっては、人の信用というものも大切でしょうからな」
「その通りです、カンブレー財務長官。そこで、みなさんにわたしはお聞きしたい……何故、そんなにも重い税金をわたしたちは王都テセウスから徴収されねばならないのですか?ここに、王都へ行ったことのある者はいますか?王宮の人たちがどんなに贅沢な暮らしをしているかを、その人たちならもしかしたら知っているかもしれません。そうなのです。わたしたち外苑州に住む者たちは、内苑七州に住む人々から『田舎者』であるとして笑われることもしばしばなのに、その内苑州に住む人々が楽をするために、わたしたちは紡績税、反物税、染料税その他、あらゆるものに税をかけられ、苦しまなくてはならないのです」
この巫女姫ディミートリアの言葉は、ここメルガレス城砦に住む市民のみならず、メレアガンス州の地方郷士たちの胸に、特に強く響いたようだった。
「今ここに、そうしたわたしたちの苦境を救うため、星母神さまが王となるよう命じ、北方のヴィンゲン寺院からはるばる旅をして来た方がおられます。この方は、現王クローディアスの兄、エリオディアス先王の御子息で、ハムレットさまと仰せられる方。そして、クローディアスが今のように王の地位へ就くために、兄であるエリオディアス王を殺害するのに続き、まだ幼いハムレットさまも殺されかかったのですが――忠臣ユリウスがハムレットさまをヴィンゲン寺院までお連れし、そこでいずれは王となるためのあらゆる知恵を授けられ、優れた僧たちから高い教育をお受けになったのが、このハムレットさまなのです」
この瞬間、ディミートリアが真っ直ぐに自分のほうを見つめ、彼の座る座席の闘技場と観客席を隔てる壁の近くまでやって来るのをハムレットは見た。とはいえ、彼としては不思議だった。何故といって、ハムレットはディミートリアと会うのはこれが初めてであり、さらにはオスティリアス修道院長を介して何か手紙のやりとりをしたというわけでもなく……まったくなんのコンタクトも取っていない状態で、今のようなことを突然言われたからだった。
「どうぞ、ハムレットさま、こちらへ。あなたこそ、次にこの国の王となるのに相応しいお方……わたしはそのように星母神さまから託宣を受けたのでございます。ハムレットさまが王に御即位なさった暁には、この国を、いえ、大陸を苦しめているすべての問題について、暁のように美しい光が差すであろうということを!!」
この時、正午からさらにずっと傾きかけた太陽の陽射しが、ディミートリアの赤い髪に照り輝いた。普通であれば考えられぬことであるが、その時の太陽の照り返しには、人でない何者かの――神といった、人知を超越した存在の――強い力が介在していたのは間違いない。というのも、その瞬間、円形闘技場にいた人々は一瞬目がくらみ、巫女姫からも太陽からもほとんど同時に目を逸らすか、眩しいあまり腕などによって強烈な太陽光を遮らねばならぬほどだったからである。
そして次の瞬間、その場にいた人々は見た。まるで巫女姫ディミートリアが、輝く太陽の光の中から、彼女が言ったハムレット王子を取り出したかのように……そこには、見目麗しい、人々が「これこそ我々を治めてくださるのに相応しい」と感じるような容貌の王子が存在しているのを。
実際には、ハムレットは巫女姫ディミートリアの要請に応えなくてはなるまいと感じ、ただ、彼女がくぐったのと同じ隠し扉を通り、ディミートリアの招きどおり、彼女の隣に姿を現したに過ぎなかったのだが。
「メレアガンス伯爵!!それに、エレアガンス子爵も!聖ウルスラ騎士団の騎士たちも――今ここに、ハムレット王子……いえ、いずれは王となられるこの方に忠誠を誓うのです。もしこのことに反対の者があれば、今すぐこの場を立ち去りなさい。ただし、その場合は次のことをよく心に留めておくように。それは、巫女姫であるこのわたしに逆らうことなのではなく、星母神さまの御神意に叛旗を翻すことなのだということを!!」
メドゥック=メレアガンス伯爵も、その息子のエレアガンス子爵も、慌てて闘技場の、ハムレット王子と巫女姫ディミートリアの前に出てくると、その場に跪いて礼をした。フランツとレイモンドのボドリネール兄弟はもちろんのこと、聖ウルスラ騎士団の騎士らも彼らに続いた。さらには、貴族の桟敷にいた者の中で、「これはのちのち権力に与るためにも、どうやらハムレット王子に忠誠を誓ったほうがいいようだぞ」と感じた者たちは、何十人となくこの行列に連なっていった。
こうして、円形闘技場は煌びやかな衣服の身分高い人たちの群れで占められるようになり――「我が一族、そしてメレアガンス州のすべてのものは、今この時よりハムレット王、あなたさまのものでございます」とメドゥック=メレアガンスが忠誠を誓うと、ハムレットもまた伯爵に応えるように剣を抜いて宣誓した。
「我はこの名剣デュランダルの刃において、貧者を抑圧する富める者を打ち、また弱者を抑圧する強き者を打つことを今ここに約束しよう。この栄えある伝説の名剣に祝福あれ!!我はこの全宇宙の創造主、聖なる全能な、とこしえなる神に誓う。星母神が慈愛の甲冑と美徳の盾とを授けてくださったがゆえに、万民を守るため、ただ正義のためにのみ、この剣を振るうということを!!」
途端、約二万人を擁する円形闘技場が、割れんばかりの喝采によって包まれた。またその声は、外で露店を出していた者たちやその客のみならず、近隣一帯に鳴り響くほどであったという。その場にいたほとんどの男たちは拳を振り上げこう叫んだ――「ハムレット王に祝福あれ!!メレアガンス伯爵に栄えあれ!!巫女姫さまと聖ウルスラ騎士団よ、永遠なれ!!』と。そして女性たちも子供も、誰もが総立ちとなって拍手をし、男たちとまったく同じ言葉を唱和した。これから、この国が重要な時代の転換点を迎えるだろうことを、この場にいる人々は理解し、この日この円形闘技場で起きたことは、一両日中にもメルガレス城砦の隅々にまで伝わったと言われる。そして、有力な地方郷士たちはこの喜ばしい知らせを自分たちの住む城壁町や村々などへ持ち帰り、メレアガンス伯爵の正式なお布令が到達する前から州民のほとんどがこのことを知っているほどであったという。
さて、聖ウルスラ騎士団の騎士団長であったフランソワ・ボードゥリアンと、巫女姫の名を僭称していたマリアローザ・ウリエールのその後についてだが、ボードゥリアン邸にはその翌日には逮捕状が届き、フランソワは怪我が治癒次第、最高法廷へ出頭することが要請された。マリアローザには聖ウルスラ神殿に戻るか、ウリエール邸にて謹慎するかの選択肢が与えられたが、彼女はただの女、貴族の娘としてウリエール邸で謹慎することのほうを選んでいたのである。おそらくこの時彼女は、神殿に戻ることを選んだほうが、ディミートリアの温情の元、自分の育ての母とも言える三人の側近巫女らとともに少しは寛いで過ごせたはずである。
だが、彼女の父親であるセスラン・ウリエールは、巫女姫に祭り上げた自分の娘が聖ウルスラ祭の例の馬上試合のあの時――フランソワ・ボードゥリアンが瀕死の重傷によって倒れたのを見て、巫女姫という身分のことすら忘れ、娘が彼の元へ駆けつけたその瞬間に、すべてのことを悟っていた。その時点では円形闘技場にいた者のほとんどが巫女姫が聖ウルスラ騎士団の騎士団長と姦通の仲だなどと察することまではなかったというのに……彼は即座にそうと知り、メレアガンス州における自分の栄耀栄華もこれまでだと瞬時にして理解していた。ゆえに、他の貴族らに続き、ウリエール自身はハムレット王子に忠誠を誓うことはせず、その場を自分の一族の者らとともに立ち去っていたのである。
さらにセスラン・ウリエールはこののち、メレアガンス州を捨て、財産没収の憂き目に会う前に、内苑州の貴族の元へ嫁に出していた次女アニエス=デ・ラメイを頼り、そちらへ移住したようである。彼は自分のこの判断についてものちに、まったくの誤りであったと悟ることになるが、この時の彼にはそれが最善の策であるようにしか思われなかったというのは――確かに無理からぬ話ではあったろう。
こういった事情により、マリアローザが実家へ戻ってくるとウリエール卿は冷たくあしらい、「何故もっとうまくやらなかったのだ」とか、「一体なんのために苦労しておまえのことを神殿へ送りこんだと思っている」とか、彼女が泣きながら父親のことを詰ると、「フランソワ・ボードゥリアンの前で、その爛れた股を一体何度開いたのだ、この売女め!!」などと、さらに酷い喧嘩言葉の応酬がこの父娘の間ではいつ果てるともなく繰り返されることになったのである。
彼は家財をまとめると、地方荘園などは懇意にしていた貴族たちに売り払う約束を取り決め、牢屋へぶちこまれる前に自分の一族の者らとともに姿を隠した。こののち、メルガレス城砦のウリエール卿の大邸宅には、この家に長く仕える者たちが残り、マリアローザの世話をすることになった。この土地と家屋については執事のバルガスに与えられたのであり、ゆえに彼にはこの憐れな娘を法の名の元、牢獄送りへすることも出来たであろう。
だが、いずれフランソワ・ボードゥリアンともども、どれほどの過酷な刑が課されるかと思うと、ただ非情なる父に利用されただけのマリアローザが憐れでならず、バルガスはヴォーモン卿の指示通り、彼女のことを軟禁状態に置くことにしたのである。何分、今まで神殿にて我が儘放題に育ってきた娘であるがゆえに、彼女に言うことを聞かせるのはなんとも骨の折れることであった。だが、バルガスやこの屋敷に残った者たちは、なるべく心をこめてマリアローザの世話をしていたようである。というのも、フランソワ・ボードゥリアンの怪我がある程度良くなり、彼が最高法廷にてどのような証言をするかはわからぬにせよ、減刑を望む気持ちから、マリアローザにたぶらかされたなど、自分の父のみならず恋人からも手酷い仕打ちを受ける可能性があり――本物の巫女姫でなかったとはいえ、それ自体は彼女自身の責任ではない。少なくとも巫女のひとりではあるとして、そのような心持ちによりバルガスの妻や侍女たちはマリアローザの取る必要のない機嫌を取り、我が儘をうまくあしらうようにしていたようである。
重傷を負ったフランソワが、ベッドの背もたれにようやく寄りかかれるようになるだけでも二か月かかり、その間彼は地獄にも等しい苦痛を味わった。ラウールを車椅子に乗せ、ハムレットたちの後方から馬上試合の行方をじっと見守っていたギベルネスだったが、その後どうしてもこのボードゥリアン騎士団長のことが気になり、衛生官モンテスタンを通じ、彼の屋敷を訪ねたのであった。フランソワは激痛により、寝返りを打つのも困難なほどであったが、ギベルネスの診察と治療により、以降はっきりした回復の兆候が見えるようになってきた。その前までフランソワは(このまま俺は死ぬのかもしれぬ。だが、死に至るまで、このような地獄にも等しい苦しみを耐えねばならぬとは……)と、日々悔恨の思いに駆られつつ、彼は他に自分の手では何も出来ぬ長い一日を過ごしていたのだった。
「肋骨のほうは、自然にくっつくのを待つしかないでしょうね……」
診察ののち、ギベルネスがそう絶望的に呟くのを聞いた途端、フランソワはある希望を持った。彼のその口調から、(どうやら、自分は死ぬことなく治るらしい)と感じたからだし、『手当てする』という言葉の通り、ギベルネスはフランソワの怪我に対し非常に同情的であり、色々と質問する間も実に丁寧な態度で、かといって妙に患者に対しおもねっているということもなく……ほんの十分も話さぬうちから、フランソワはこの医者に強い好感を抱いたほどである。
このあと、ギベルネスは最低でも二か月か三か月の間は安静が必要だと言い、フロモントが処方している薬について教えてもらうと、最後に深い溜息を着いていた。
「ボードゥリアン騎士団長は、意志力の強い方であるとお察しします。ゆえに、傷が治癒するか、痛みを感じる時間が耐えられる程度、短くなったとすれば……おそらく、ご自身でおやめになるでしょうから、モルヒネを処方したいと思います」
「ギベルネ先生、そのモルヒネとやらは、貧民窟の連中が飲んで廃人のようになっているというあのアヘンのことではないのですか!?わたしは、衛生官である前に騎士として、そのようなものを用いることには断じて反対しますっ!!」
フロモントは決して頭の固い男ではなく、むしろその逆であったが、アヘンに関しては用心していた。というのも、例の逮捕された悪魔崇拝の男は、その悪魔の薬物によって頭がおかしくなり、今回の凶行に及んだのであろうとの、もっぱらの噂だったからである。
「あなたが医師として警戒されるお気持ちはよくわかります。おそらく、探せば中毒性があまりなく、それでいてある程度痛みを麻痺させる効果のある薬草といったものはあるでしょう。ですが、今私たちの手許にあるのがケシの苞芽から取ったアヘン以外ない以上、これを使うしかありません。起きていて目が覚めている間、ただ激痛に耐えるしかないというのは、本当に苦しいことなんです。一月も過ぎれば今より良くなるでしょうと言われても、それまでの一日一日の過ぎるのがどれほど長く感じられるか……『男なら耐えろ』とか、『騎士たる者の根性で』などと言われたら、私ならそんな相手のことは呪い殺してやりたくなるほどでしょうね」
フランソワは長い言葉をしゃべろうとすると、肺と喉のあたりが詰まったようになり、結局はうまく話せなかった。ゆえに、このふたりの医師の会話に意見を述べることは出来なかったが、ただフロモントのほうを「頼む」というような必死の視線でじっと見つめた。そこでフロモントは溜息を着くと、「何度か試してみて、経過を見ましょう」と同意してくれたのだった。
ギベルネスがモルヒネと呼んだものは、恐ろしくよく効いた。時と場合によっては、彼のような人物が王宮あたりにでも入りこみ、これとまったく同じ効能のものを難病に苦しむ王侯貴族の誰かに与えたとすれば……その時には、それこそ「瞬時にして病いを治す<神の人>」として、一時的にもてはやされもしようが、その後権謀術数により、今度は悪魔の使いとでも呼ばれ、拷問の末、歴史の闇へ葬られるのではあるまいかと思われたほどである。
とにかく、フランソワにとってはギベルネスが診察にやって来た時からすべてが好転していった。単に彼がモルヒネによってフランソワの苦痛を除き去ってくれたというそれだけではない。薬によって痛みを忘れていられる時間が出来ると、彼の元には何人もの見舞い客が次々とやって来た。そのほとんどは聖ウルスラ騎士団の騎士たちであり、彼らはフランソワに特段あれこれ質問して聞くでもなく――まず第一には彼の傷の具合のことを心配し、あとはあれこれ四方山話をして帰ってゆくのであった。
「あの黒騎士のロットランスと青銅の騎士のテオドール、それに白銀の騎士のアビギネな。三人ともローゼンクランツ州のローゼンクランツ騎士団の騎士だったらしい。それで、三人とも例のハムレット王子にお仕えしていて、メレアガンス伯爵に味方になってもらおうとしていたってことなんだ」
「だけど、ほら……メレアガンス伯爵は良い方だけど、ほら、その……なんていうか、ちょっと優柔不断ってえか……ま、その気持ちもわかるじゃねえか。だって、王都テセウスじゃ、道端にゴミを捨てたってだけで明日には縛り首になるって笑えねえジョークまであるくらいなんだからさ。第一、代々ペンドラゴン王朝に忠実に仕え続けたボウルズ伯爵ですら、これ以上もない悲惨な形で拷問死を遂げているんだぜ。次は自分の番かもしれないと思ったら、もし俺が――なんとも恐れ多いことではあるが、もし俺が伯爵さまであったとしても、ハムレット王子にお味方しようとは、すぐには思えなかったに違いない」
「ハハハッ!!それにしても、あのお嬢さんの演説は俺たちにゃなかなか効いたな」と、キザイア・マイユが愉快そうに笑って言った。「ああ、そっか。フランソワ、おまえは自分の馬に蹴られちまったもんで、アビギネ……いや、ほんとはギネビアって名前のあのお嬢さんの俺たちに対する説教を聞いてなかったんだっけな。まあ、簡単に縮めて言えば、俺たちが騎士としてぶったるんでるもんで、俺やアラン・アッシャーなんかは女の彼女に負けたんだってえな話さ。やれやれ。ローゼンクランツ州では素質さえあれば女でも騎士になれるのかね。ここメレアガンス州ではまったく考えられん話だが」
見舞いに来た騎士たちは、色々なことを楽しげに話し、その後どういうことになったのかを教えてくれ、その他「アビギネに説教されたので、娼館通いを暫くやめにゃあならん」、「なんだっけ?俺たちゃローゼンクランツ騎士団様と違い、魂の鍛錬が足りないということだったからな。ま、ああまで言われちゃ暫くは反省し、大人しくしてにゃあなるまいよ」などなど、面白おかしく語って帰っていくのだった。
フランソワは長い言葉を話せなかったため、軽く頷くなどして顔の表情によってその意思を伝えるか、「ああ、そうか」といったような短い単語しか語ることは出来なかったが、大体のところ彼らがすべてにおいて上手くやっているらしいとわかり、ほっとしていた。また、フロモントが最後、ゴホンゴホンと白々しい咳をつくのを合図として、彼らはようやく重い腰を上げるのが常だったが――紋章官のマルセル・ド・オーヴァリーがやって来た時、フランソワはモルヒネで痛みが引くようになってから書いた、ある手紙を彼に託していた。
つまり、それは今後はフランツ・ボドリネールに聖ウルスラ騎士団長の位を譲るというものであり、何も自分がわざわざそのように手紙に一筆書かずとも、いずれそうなるであろうことはフランソワにしてもわかっているつもりであった。単に彼は、すでに自分が騎士団長という地位にまったく拘ってないことを示すため、また己の罪を懺悔するため、そのような手紙をしたためたわけであった。
そして、マルセルにその手紙を託した翌日、フランツが見舞いにやって来た。彼もまたボードゥリアン邸へ見舞いにやって来たいとは思っていたが、自分という存在がフランソワの傷に障るかもしれないと考え、もう暫くの間は遠慮したほうがよいかもしれぬと考えていたのである。
フランツはこの時、フランソワと目と目が合うなり泣きだしていた。「馬鹿だな」と、フランソワはその昔、自分とレイモンドの後をついて回ってばかりいた弟分に対し、笑ってみせた。
「べつに僕は、聖ウルスラ騎士団の騎士団長の地位が欲しかったってわけじゃないんだ……」
「わかってるさ。それに、おまえと俺の仲で、そう長ったらしいような説明はいらん。話のほうなら、みんなから色々聞いた。なんでも、巫女姫さまから直々の文書が届いたそうだな。もっとも、ディミートリアさまの直筆の文書などというのではなく、巫女姫の語った言葉を側近巫女が書き記し、さらにそれを神官どもが正式に法的効力のあるものとすべく、聖ウルスラ神殿神官庁の有難き判と封印のあるものが届いたってことなのだろうがな……それには、おまえを聖ウルスラ騎士団の騎士団長に命じるということと、兄貴のレイモンドを騎士として叙任するようにと書いてあったのだろう?」
「うん。そうなんだ」
フランツは、ベッドの横にある椅子のひとつに腰かけると、フランソワが彼が想像していた以上に元気なのを見て、心からほっとしていた。
「ほら、マリアローザさまを悪魔崇拝教のクエンティスから身を挺して守ったことで……その褒美といったことだよね、ようするに。みんなとも相談したんだけどさ、兄さんには副騎士団長の地位に就いてもらうってことで話のほうはまとまってるんだ。だって、巫女姫さまからそのような有難い申し出があったのに、なんの地位にも就けないっていうのもちょっとどうかってことでね」
このあたりの話についてであれば、フランソワはすでにレイモンドから聞いていた。彼の親友は「あの巫女姫さまも、一体何を考えているのやら」と皮肉げに言いつつ、それでいてレイモンドが内心ではこの上もなくそのことを喜んでいると彼にはわかっていた。フランソワ自身、親友が騎士として復帰した騎士団に、もう二度とは戻れぬことを心から悲しみつつ――そのこと自体はとても嬉しいのだった。
「あの娘……名をなんと言ったっけ?フランシスなんとかという……その娘と結婚する予定だと、レイモンドから聞いた。並いる貴族の娘たちとの見合い話をすべて袖にしてな」
「う、うん。父さんもさ、ようやくなんか色々、納得したみたいなんだ。兄さんも、そのう……あの綺麗な女の人と結婚するみたい。今じゃさ、屋敷の中で母さんがまた父さんに勝ち鬨をあげるようになった感じかな。ほら、僕もフランシスもそういう考え方はしないけど……母さん、『平民出の女なんかより、もっと立派な女性とレイモンドは結婚するそうですよ。おほほほ』なんて、嬉しそうにしょっちゅう言うんだものな。あ、これ、嫌味とかそういうんじゃ全然ないんだ。実際のとこ、一度うちに兄さんが紹介しに連れてきてくれたけど、これからは僕たち、家族みんなでそれなりにうまくやってけそうな感じなんだよ」
「そうか。良かったな」
この時、フランソワは突然にして胸の奥が痛んだ。モルヒネの効果が消えかかっているからではない。彼のマリアローザは今ごろどうしているだろうかと思うと、胸が痛んだのである。レイモンドからは、ウリエール邸に現在は軟禁状態らしいとは聞いたが、それ以上のことは情報通の彼にもわからなかったらしい。
「その、さ……余計なことだったらごめんって思うんだけど、フランソワは巫女姫……じゃなくて、マリアローザさんとのこと、どうするつもりなの?」
「そうだな。なんにしても俺はまず、この傷を治さにゃならんだろうよ。今は俺からウリエール邸に手紙を出すことも、誰か使者でも出して物を届けることも出来んし……父親のウリエール卿が脱兎の如くメレアガンス州から逃げ出したと聞いた以上、誰かがあの娘には味方してやらねばなるまい」
「それは……ようするに、愛してるからってこと?」
「さてな」と、フランソワは微苦笑した。いつか、フランツとこんな話をする日がやって来るとは、彼にしても思ってもみなかった。「おまえもこれから結婚する身だと聞いたからな、一応後学のために少しくらい最後にそんな話でもしておこうか。残念ながら、俺とマリアローザのこれからの道は薔薇色に輝いているんじゃなく、ただ荊の苦しい道だけがある。そういう時、普通の男と女の恋人同士というのは、『それでもわたしたちの間には愛がある』とでも言える逃げ道があるに違いない。だが、俺とあいつの間にはもう何もない。いや、俺の側にはあっても、あいつに何もなければ、それは俺の中でもないに等しいものに変わり果てるだろう。何分、相手は普通の女ではないからな。父親から偽の巫女姫として仕立て上げられ、神殿でも何不自由なく我が儘放題に振るまうことが許されたんだ。あいつは名門騎士の家系の、聖ウルスラ騎士団の騎士団長としての俺にだけ興味と関心があった……そういうことなら、この先何をどうしたところで、俺とマリアローザの関係はうまくいかないだろう。だが、次に会った時、あの娘にとってはそういうことなのだということがわかっても、俺はせめてもマリアローザのことを愛しているという振りくらいはせねばならん」
「それは……どうして?」
フランツには、フランソワの言っていることの意味がわからなかった。彼の兄のレイモンドであれば、おそらくすぐにその意味するところを理解していたに違いないが。
「俺がマリアローザと接見することは、おそらくこのまま二度とないか、あるいはあっても法廷で、お互いに相当距離を取ってということになるだろう。あの娘のほうで、俺のほうにたぶらかされて嫌々ながらこのような関係になったと言うのかどうか、そこのところはわからん。俺にとってもそこらあたりはどうでも構わないし、気にしない……」
フランソワはそのまま話を続けようとしたが、「僕は気にするよ」と言って、フランツは彼の言葉を遮った。「だって、フランシスがもし……一度はお互いに愛してるって言いあった中なのに、何か都合の悪いことが起きて、突然そのことを否定しだしたら『なんだこの嘘つき女は』って絶対思うと思う。というより、僕だったら絶対許せないし、そのことで彼女に対して恨みの気持ちを抱かずにはいられない気がする」
(だからおまえはガキだというんだ)とは言わず、フランソワは一度溜息を着いてから、話を続けた。
「つまりな、あのマリアローザって娘はそのくらい世間知らずだという話なのさ。フランツ、おまえの可愛い恋人のフランシスであれば、世間ってものをある程度は知ってるし、処世術ってもんがどんものかも心得ってものがあるだろう。だが、あの娘は本当にそんなことさえ何も知らない。だから、父親のウリエール卿には捨てられ、今はどんな扱いを受けているかは知らんが、もう自分にはなんの後ろ盾もないと感じていることだろう。それで、周囲の人間の誰かれ構わず、こんな可哀想な自分を憐れんでくれ、自分は実の父親が権力を得んがため、巫女姫に祭り上げられたんだとでも……泣いて縋っていれば、まだしも可愛げがある。ところがだ、小さな頃から我が儘放題に育ってきているせいか、変にプライドの高い娘だからな。次に俺と法廷のどこかで会って、マリアローザが俺に対して『ひどいかどわかしを受けた』だなんだのと罵るのは構わない。だが、せめても俺くらいは……彼女が何をどう言おうと『愛している』とか、『それでも愛していたんだ』と言ってやらないことには……あまりにもそれは酷い話なんじゃないかということを、俺は言ってるだけの話なのさ」
「でも、それって結局ようするに……」
(愛してるってことなんじゃないの?)と言いかけて、フランツは口を噤んだ。彼は兄のレイモンドにも、フランソワと元巫女姫のマリアローザがどうなるかと、心配で聞いたことがある。今まで、巫女姫が姦通を働いたといった前例はないにせよ、巫女の姦通罪は告発されれば死罪であると決まっていることから――法律に照らして言えば、ふたりはともに死刑となるはずなのである。
『男と女のことはわからんよ』と、彼の兄は言った。『俺にしても、どういった経緯でふたりが恋に落ちたかを、多少なり聞いた程度のことに過ぎんからな。だがまあ、ただ一度見つめあっただけで、その瞬間に「ああ、この女だ」、「この男だ」と思い、「お互いにとってお互いがお互いのものだ」と直感しあうということはあるだろう。もちろん、それがただの錯覚で終わることもあれば、結婚し子供も成したものの、何故あの時そんなことを思ったのかについて、のちに後悔するってこともあるだろう。フランソワとマリアローザがどうなのかは……ふたり以外の他の誰にもわからないことなんじゃないか』と。
「とにかくな、フランツ。俺はおまえにはこれから結婚して幸せになってもらいたいという、これはそうした話なんだ。巫女姫ディミートリアが聖ウルスラ騎士団長におまえのことを任命したのだから、変に卑屈になったり、自分はこの任に相応しくないのではないかなどと、くよくよ悩んだりしないことだ。まあ、レイモンドがついているからそのあたりについては心配してないが、俺にせよ他の誰にせよ、その者こそが我々の騎士団長だということになったとすれば、みんなが必ず盛り立てていってくれる……騎士同士の仲間の絆は血よりも濃いものだからな」
フランツとフランソワの間には、もうなんのわだかりもなかった。それは、室内で最初に目と目の合った瞬間からわかっていたことではあるが、この時、他の聖ウルスラ騎士団の騎士たちのみなが感じていたとおり――フランツも(彼ほどの素晴らしい騎士を失った)という喪失感と寂しさを感じつつ、ボードゥリアン邸を彼もまたあとにするということになっていた。
その後、ハムレット王子一行は、メレアガンス伯爵の親書を携え、メルガレス城砦からロットバルト州へとさらに旅の駒を進めていったが、フランソワとマリアローザの裁判については、随分時間がかかって結審へ至っていたようである。セシル・ヴォーモンは連日のように出勤時と退勤時に、ふたりを擁護するための民衆の群れに行く手を阻まれたものだった。そこで彼は、日一日と増える「元騎士団長と元姫巫女」の助命を嘆願する人々に対し、「その嘆願書に署名を集めなさい」と助言していた。「署名した人の数が多ければ多いほど、あのふたりの罪も少しは軽くなるかもしれないからね」と。
今では、聖ウルスラ騎士団のサイラス派だった騎士たちも、彼の従騎士だったセドリックも、父親のラウール・フォン・モントーヴァン卿も……フランソワ・ボードゥリアンのことを赦していた。というより、彼は罰のほうならばすでに十分すぎるほど受けていると、誰もがそのように感じ、市民たちの集めている彼とマリアローザの助命の嘆願書に署名することさえしていたほどである。
また、セシル・ヴォーモンがこのメルガレス城砦における――否、メレアガンス州はじまって以来の大スキャンダルといっていい件に関し、時間をかけたことにはある理由がある。まず先に巫女姫マリアローザに危害を加えようとした悪魔教の崇拝者クエンティスの裁判の判決を下す必要があったこと、さらには時間をかければかけた分だけ……民衆たちのふたりに対する同情はより深く高くなりそうだと思われたということがある。
セシル・ヴォーモンは大法官という、この州の法律に関し、最高位の地位にある者ではあるが、それでも<民意>というものを完全に無視するというのは賢いやり方でないということは、よく心得ていたのである。たとえば、クエンティスに関しても、母親はアルコール中毒者、父親は大工だったが怠け者で、夫婦仲は悪く、彼が幼い頃から働き他の弟妹たちを養ってきた……極貧といっていい貧しさが彼の元はあった正しい神への信仰を曲げ、ついには悪魔の囁きに負けたというのは、ヴォーモン卿にとっては「情状酌量の余地」があることのように感じられてならない。だが、法律に関してのみならず、<民意>に照らしてみても、クエンティスのことはヴォーモンは大法官として極刑に処さざるを得なかったのである。
そのように最終的にクエンティスに宣告が下されるのは早かった。しかも、極刑と宣告されてのち、その二週間後には、彼は早々に処刑場へ引かれていったのである。その上、牢獄から処刑場へ至る間にも数え切れぬほど石つぶてを投げられ、大勢の民衆が睨むようにして見物する中、焼きゴテを体中に当てられ、さらにはその傷口に硫酸をかけられるといった拷問刑が行われてのち――処刑執行人の斧に首を刎ねられ、ようやくのことで彼は絶命していたのである。その後も、クエンティスの首は見せしめとして、長く公開処刑場にさらされたままであったという。だが、その生首にまでも、市民らは通りがかるごと、石を投げたり、呪いの言葉や罵り言葉を声も限りに叫んでいたと、メルガレス城砦の歴史書には記述が残っている。
セシル・ヴォーモンはフランソワ・ボードゥリアンとマリアローザ・ウリエールの元に、それぞれ使いをだし、前もってどういったシナリオによって裁判が進んでいくかを知らせておいた。無論、その使い自体、大法官である自分とはまったく関係のない筋であることを偽装し、さらにはそうした文書は読んだら必ず燃やして証拠を残さぬようにと指示してあった。また、こうしたことを考えあわせてみると、確かにセシル・ヴォーモン卿は大した役者だったと言えたに違いない。彼は九人いる陪審員らが、最終的にふたりのことを無罪にするだろうとわかっていて――あえて、「自分はそのようなことは望まない」といった渋面を浮かべつつ裁判を進めていたのだから。
ヴォーモン卿はふたりに、法廷において民衆たちが望むようなメロドラマを演じるよう前もって通達しておいた。こうしてフランソワとマリアローザのふたりは、互いの間の話になんらの矛盾も生じさせることなく、出会ったその瞬間、瞳と瞳が出会った時から恋に落ちたということなど、実際のところ、語ったことの半分以上が本当のことでもあったがゆえに、またこの結果に自分たちの命と人生のすべてが懸かっているとも理解していたことから……このふたりは変に演技がかってもおらず、毎回真摯な、敬虔といえる態度でこの法廷のほうへ望んでいたに違いない。
この世紀の一大裁判については、民衆の誰もが見たがり、高い倍率の中、聴聞席に入ることが出来た人々は――その日、外に出てくるとマリアローザさまが何を語ったか、フランソワさまが何を言ったかと、興奮して話を聞きたがる人々に滔々と語って聞かせたということである。
最終的に、法廷における焦点は、「このふたりに真実の愛があったか否か」、「もし真実の愛があったのであれば、このふたりを何ぴとたりとも咎めてはならない」といった方向へ導かれていき、聖女ウルスラと聖騎士エドワールの例の神話がかった話が最終的に引き合いに出され……元巫女姫マリアローザと、元騎士団長フランソワ・ボードゥリアンとは、大法官セシル・ヴォーモンの元、「無罪」を宣告されるということになったのである。
ふたりはその後、メレアガンス州の田舎へ引っ込み、ボードゥリアン家が所有していた荘園のひとつにて、つましい生活をしながら夫婦として暮らしていったと、そのように言い伝えられている。だが、後世の人々はそれだけでは自分たちの想像力を満足させることが出来なかったのであろう。巫女姫マリアローザと聖ウルスラ騎士団の騎士団長フランソワの恋物語は、オペラやバレエ、演劇などに脚色され、のちの世において大人気を博するということになる。
これらは、その音楽家なり脚本家によって話の筋がそれぞれ異なっていたり、結末が違っていたりするところが、おそらく面白いところであったに違いない。ふたりは出会ってすぐ惹かれあい、恋に落ちた、その後も人目を忍んで何度となく会い続けた、この際においてもふたりの関係はキスどまりだった、あるいは一度だけ思いを遂げたことがあったなど、それぞれ筋に違いがあったようである。また、聖ウルスラ騎士団の騎士団長と副騎士団長の決戦というクライマックスにしても、気の毒にもフランツは悪役に仕立て上げられる場合が多かったようである。あるオペラの筋では、この時フランツは悪巧みによってフランソワに勝利するものの、その彼の元にマリアローザが駆けつける、瀕死の恋人に彼女が口接けて終わるということもあれば、フランツとの友情との間で引き裂かれ、フランソワのほうでわざと負ける……といった脚色の場合など、様々なバリエーションが存在する結果となったわけである(大抵は、裁判についてまで描かれることはなく、円形闘技場がふたりが愛を確認しあうクライマックスとなり終焉を迎える場合が多かったようだ)。
さて、実際のフランソワ・ボードゥリアンとマリアローザ・ウリエールはどうだったのだろうか。ふたりは、田舎の荘園に引っ込むと、いわゆる<分に応じた暮らし>というのを心得て生活し、地味ながらもフランソワは堅実な荘園経営をし、マリアローザは彼との間に四人の子供をもうけたらしい……ということが、その地方の記録として残っている。そのメートルランディア地方の人々の間に残されている話によれば、フランソワは荘園主として頼れる人物であり、人心を掴むのに長け、物惜しみをしない、快活で英邁な人だったというように言い伝えられているらしい。一方、奥方のほうはあまり人づきあいをしない気難しい女性で、いつでも都会の暮らしを懐かしがり、メルガレス城砦がどのように素晴らしい場所かを語り、自分は本来このような田舎に住むような人間などでない……とばかり、周囲に貴族臭を振りまいてばかりいたという。
フランソワとマリアローザは時に、暫く口も聞かぬほどの喧嘩をすることもあったが、結局のところ子供の存在や、狩猟といった気分転換、さらには古い友人が訪ねてくることなどによって――自然と仲直りを繰り返していたというあたり、その時代の、どこにでもいる夫婦のように暮らしていたというのが真実であったようだ。
さて、ここから舞台のほうはメレアガンス州からロットバルト州、さらにはバリン州や隣国のリア王朝のことなどへ移ってゆくが、この【メルガレス城砦編】については、最後に蛇足として<コレオレイナス食堂>のエピソードを付け加えておこう。ギベルネスは、ギネビアが何かばっちいものでもあるかのように放っておいた孔雀の羽を彼女からもらい受けると、それを<コレオレイナス食堂>のおかみに渡しておいたのだ。「次に、マルヴォアザンとその一味がやってきた時には、この孔雀の羽をちらつかせて『こっちにはボドリネールの旦那がついてるんだ!!」といったように脅すといいですよ」と。
実は、事はこうしたことであった。ギベルネスはウィザールークが屋敷を構えるメレギア町からの帰り道、アヘンを調達するのにメルガレス城砦の外に広がる城壁町のほうへ立ち寄っていた。ギベルネスとしては、こうした大麻や麻薬の類に関するものについては裏の世界の誰それが幅を利かせている……といったイメージが強かったため、そのあたりの事情を地元民に直接聞いてみたわけである。すると、「マルヴォアザンとその一味?あんた、あんなつまらないチンピラと知り合いなのかい?」ということだったので、このあたりのシマは一体誰のものなのかとさらに訊ねてみたところ、「ボドリネールの旦那は確かに払いがいいね」という話であった。また、マルヴォアザンの一味というのは、少なくとも彼よりずっと格下の存在である――ということが、ほぼ同時に判明したわけであった。
もっとも、<コレオレイナス食堂>のおかみはギベルネスから孔雀の羽なぞもらってもピクリとも嬉しそうでなく、彼女が笑顔を見せたのは手伝いの子供たちへチップを上乗せして食事代を払ったその瞬間だけであった。聖ウルスラ祭の間中、<コレオレイナス食堂>は大忙しだった。二階のほうは、子供たちを全員親戚の家へ預けて空くようにしてあり、三組の客を泊めていたし、妹夫婦や従姉妹その他にも交替で手伝いに来てもらったが、それでもいつも以上にてんやわんやの状態であった。
おかみは何かの小さなことで難癖をつけられると、「夫に先立たれて云々」といったいつもの話をし、よよと泣き崩れることで許しを乞い、竈の暑い火の前で料理する間は精神病患者のようにブツブツ呟いてばかりいたものだった。「くだらないことで文句つけやがって」、「まったく、困ったうかれトンチキどもだよ」、「闘鶏や熊いじめででも大損すりゃいいんだ」……などなど、いつも何かのことでブツブツ不満を洩らしてばかりいた。また、そんな時に限って常連客から注文が入ったりすると、「聞いてるよ!次の次の次の次に作るから、待っとくんだね!!」と、鬼の形相で怒鳴っていたものである。
さて、聖ウルスラ祭の前後も含めた約十日ほどの間、<コレオレイナス食堂>は実に繁盛し、おかみは夜中、ひとりで小銭の詰まった壺からクラン銅貨やリーヴル銀貨を取り出しては、「お金がたくさん!あんた、お金がこんなにたくさんあるよ!!お金がこんなにいっぱいあるのなんか、あんたが死んで初めてのことかも知れないね……」などと、夫にブツブツ幸せな報告をしていたものだった。その頬には、苦労の報われた者の、喜びの涙が月光に輝いてさえいたほどだったのである。ところが、子供たちも二階に戻って来、店のほうが大体のところ通常営業へ戻った頃のことだった。例のマルヴォアザンの一味が、聖ウルスラ祭で儲けただろう金を目当てに再び狼藉を働きにやって来たのだ。
「ババア!金だしやがれ、金をよォッ!!」
「聖ウルスラ祭の間、たんまり儲けたんだろ!?ああん?」
「ずっと見てたたんだぜェ、こっちは……てめェがよォ、客が壺にチャラチャラ小銭入れるたび、卑屈な笑顔を浮かべて愛想笑いするところをよォ!!」
この時、店内にはギベルネスのようにガラの悪い連中相手に立ち向かおうという気概のある人物はひとりもいなかった。そそくさと店を出ていくのみならず、このどさくさに紛れて金を支払わず、無銭飲食を働き「ラッキー」と内心思っていた者までいたほどである。
「お、お母ちゃん……」
食堂がガラーンとし、心配した子供たちが上から下りて来た時のことだった。おかみは二階の秘密の隠し場所にある六つもの大事な壺のことを思いだし、怯むことなく、細い両目を吊り上げていた。
「心配おしでないよ、おまえたち。いいから、そっちのほうに下がっておいで」
「なんだ、ババァっ!!ふふん、どうやら観念してようやくみかじめ料ってやつを支払う気になったらしいな」
四人いた男たちのリーダーらしき男が、まるで代表するようににんまり笑ってそう言うと――おかみはギベルネスからもらった例の孔雀の羽をカウンターの下にある棚からゴソゴソ取り出していた。それからそれを男たちの前にずずい、とばかり見せつけるようにして叫んだ。
「おまえたち、これを見ろォッ!!これは暗黒街の教祖、ボドリネールさまがわたしにくださったものなのさァ!!わかったらとっととここから出ておいきっ!!それで、もう二度とその汚いツラ、この店に見せにやって来るんじゃないよっ!!」
「なんだと、このババァ。とうとう頭がおかしくなったんじゃねえのか!?」
四人いた男のひとりが嘲るように言って笑ったが、残りの三人は違った。「ヒャハハッ!!」という、仲間内で一番若い男の笑い声を聞いても、一切笑うことはなく――「あの孔雀の羽は確かに、ボドリネールの奴のもんだろう」、「たぶんな。間違いねえ」などと真顔で話しあい、すごすご後退りすると<コレオレイナス食堂>から何事もなかったかのように出ていこうとしたのである。
「フハハハハァッ!!おまえたち、これが目に入らぬかァッ!!ボドリネールの孔雀!孔雀のボドリネールっ!!とにかく、わたしがボドリネールと言ったら、それはボドリネールなのさァッ!!」
ギベルネスの言っていたとおり、本当にこの孔雀の羽にご利益のあることがわかり、おかみはすっかり鼻高々で調子に乗りまくった。実際、男たちのほうでは彼女が一言「ボドリネール!!」と叫ぶごと、一歩、また一歩と後ろへ下がっていったのだから、効果覿面という言葉は、この時のおかみのためにこそあるような言葉だったに違いない。
「く、くっそおっ!!覚えてろよっ!!」
三人の男たちは黙って逃げるように立ち去っていったが、最後に若い男ひとりだけが、そんな捨て科白を吐き、ようやくのことで出て行った。弱い者に取り憑き、不法な方法によってしか金を稼ごうとしない人間というのは、いつの時代もどこにでもいるものである。だが、おかみはそんな連中の悪の権威に屈することなく、孔雀の羽ひとつと少しばかりの勇気で打ち勝ったのであった。
「さあ、おまえたち。心配おしでないよ。今日はもう、店のほうはこのまま閉めちまおう。母ちゃん、聖ウルスラ祭の間、一生懸命働いたからね。そのお金で、おまえたちにちょっとしたものなんかを買ってあげることが出来ると思うよ。それから、今日はお母ちゃんの作ったのでない、何か美味しいものでも食べにいこうね」
六人いた子供たちはみんな、わっと喜んで、母親の元まで駆け寄って来た。こののちも、彼女の亡き主人の残したこの<コレオレイナス食堂>は繁盛し続け……小金が貯まった頃、ビールやワインを質のいいものに変え、食堂の建物が古びてきた頃には成長して大工になった長男が手入れをし、娘たちは嫁に行ったあとも親に対する恩を忘れず、時間のある時には必ず店を手伝いと――その後も悪い人間に足許を見られることなく、家族みんなで協力しあい、コリオレイナス一家は幸せに暮らしていったようである。
『惑星シェイクスピア』第一部、了。第二部へと続く。