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第67章

「まずいな……」


 親友の騎士団長と異母弟の副騎士団長が思った以上に互角にやりあう姿を見て、レイモンドは誰にともなくそう呟いた。もっとも、彼の隣には結婚しているも同然の仲のアリューラがおり、彼女は恋人のレイモンドのほうをこそ心配していたと言える。


 アリューラはレイモンドのことを心から愛していた。とはいえ、彼女は彼の貴族の家の事情のことや、聖ウルスラ騎士団内の人間関係についてなど、自分から聞いたことは一度もない。それと同じように、レイモンドのほうでもアリューラの過去について触れたことはない。このふたりはとにかく、「口が堅い」ということにおいて、互いに性格が似通っていたと言えるだろう。また、それゆえに「滅多にいない人間」として互いのことを認めあい、信頼によって深く結ばれてもいたのである。


 それでも、レイモンドがフランソワ・ボードゥリアンや他の騎士仲間らと明け透けに告白話をするのを聞く機会というのがアリューラには幾度となくあり――そうしたところから、彼らの力関係や、直接会ったことはないものの、名前の出た貴族との関係性などについて、彼女にはわかることが多々あったわけである。


 アリューラがレイモンド・ボドリネールという男のことが好きなのは、何よりもこうした公式の場に、『いかがわしい女』として陰で噂される自分を正々堂々と連れてきてくれることだったかもしれない。聖ウルスラ騎士団の騎士たちは当然のことながら、娼婦の女性を愛人として持つ男は誰も、自分の社会的地位を守るためにも、公の場にそうした女性と連れ立ってやって来ることはないものだ。だが、レイモンドは違った。『そんなこと言ったら、俺だって相当いかがわしい男だぞ』と、彼は笑っていたものだ。『いや、そもそも人間自体が男も女も、身分の差など関係なくいかがわしい存在じゃないか』と。


 もっとも、そんなふたりではあったが、恋人同士の関係に危機の訪れたことが一度もないわけではない。レイモンドにとっては「遊び」でも、彼に他に女性がいる間、(こいつともそろそろ終わりかしらね)と、アリューラは寂しく思ったことがある。だが、娼館経営に関しては今後ともレイモンドは自分にそれを任せ続けるだろうし、そうした仕事のみを介する関係にこれからはなる以外ないかもしれない、と。だが、結局レイモンドは彼女の元に戻って来た。アリューラにしても今まで、男との関係であれば文字通り「数え切れないほど」ある。ゆえに、彼がそんなことにコンプレックスを抱いていたなどとは――彼女にしてみればまったく思ってもみないことだった。


 このように、他人には窺い知れぬ理由によって深く結びついているアリューラとレイモンドではあったが、それでも彼女は時々、ある種の言い知れぬ不安に駆られることがある。今でも時々、レイモンドの寝息を隣で感じながら、涙が溢れることすらあるほどだ。それが何故なのか、アリューラにはわかっている。「幸せすぎて不安」なのだ。きっとこんな幸福な関係は、いつかは終わる……それが一体いつなのか、恋愛の泡がある日突然弾けて、それが「飽き」へと変わるのはいつなのか――アリューラがそんなことを思い、レイモンドの隣ですすり泣きながら眠ることがあるのを、おそらく彼は知らなかったに違いない。


 だからこの時、アリューラは時折襲われることのある不安の発作を抑えるように、レイモンドの孔雀の裏地で覆われた黒のローブをぎゅっと握っていた。もちろん、ボドリネール家の家庭の事情に鑑みて言えば、彼がもう一度実家へ戻り騎士としてやり直すとか、貴族として土地や資産を父から相続し、自分のようないかがわしい女とは完全に手を切る必要がある……といったようになる可能性というのは低くはあったろう。けれど、アリューラはやはり、いつでも何かが不安だった。彼女にとって、孔雀にも等しいほど稀有なこの男が、いつかなんの前触れもなく突然、自分の元から去っていってしまうのではないかということが……。


「どこへ行くの!?」


 聖ウルスラ騎士団の騎士団長と副騎士団長の戦いの行方についてであれば、もろろんアリューラにしても心の底から心配ではあった。そのひとりが夫に等しい男の親友であり、もうひとりが彼の半分血の繋がった弟ということになれば、尚さらそうだった。


「いや、そのさ……」


 常に夫の行動の三歩先くらいを見通している恋女房が、自分の服の裾をぎゅっと掴んでいるのがわかると、レイモンドは今一度座席のほうへ座り直した。彼らふたりの座っている座席は、騎士の一団が占める高級桟敷の、斜め後方あたりにある一般席ではあるが、風通しも実によく、試合のほうであればしっかり見ることが出来た(もっとも、この馬蹄形の闘技場自体、後ろのほうの座席でもそれが演劇にせよサーカスにせよ、馬上試合にせよ、観劇や観戦を十分楽しめるよう設計されてはいるのだが)。


「アリューラ、おまえもすでに承知のことと思うが、この一件には俺にもなんらかの責任があるような気がしてるんだ。俺は、正騎士に叙任されなかったことを今も後悔してはいない。そのことを生前望んでいた母に対しては悪いと思っているがな……また、母の遺志を汲むつもりであれば、父がいつか死ぬだろうことを虎視眈々と待ちもうけ、母を不幸にしたあの親子を貴族の身分を剥奪するような形で家から追い出すべきでもあるんだろう。だが、人生は短いからな。俺にはそんなふうに憎しみを燃やし続けられるほどの根性も執念深さもない。それでも、聖ウルスラ騎士団の昔の仲間たちに会うと……なんとも言えない気持ちになることが時としてあるのさ。フランソワは酔った時に『おまえが騎士団長になってりゃ、俺がこんな苦労を背負いこむこともなかった』と愚痴をこぼすことがあるし、フランツにも『サイラスが死ぬことはなかったかもしれない』と言われたことがある。だから……」


 アリューラの自分のローブの裾を握る手が震えはじめるのを見て、レイモンドは彼女のことを抱き寄せた。彼の恋人は時々、彼の理解できないことで情緒不安定になることがあるのだ。


「俺が行って、何か出来るとは思わない。むしろ、邪魔になるだけかもしれない。だが、もし今行かなければ……俺は一生後悔することになるような気がする。理由はよくわからない。すべてはただの直感にすぎん。だが、もう二度と……あの時もし自分が騎士に叙任されていたら俺の人生はどうだったのだろうなどと、極たまに考えることがあったように、あの時何故自分はあのふたりを止めなかったのかと、そんなふうに後悔したくないんだ」


「あんたが今あそこへ行ったって、何が出来るって言うのよ!?」アリューラは押し殺した声で、叫ぶように言った。「あのふたりの試合を邪魔したらむしろ、たとえば不敬罪であるとか、とにかく何かの罪状をでっち上げられて、牢獄へぶちこまれる可能性だってあるのよ?いくらあんたが名門騎士の貴族の家系だからって、お父さんとは絶縁状態である以上、きっと助けてなんかくれないわ。最後にはお金で保釈されることが出来たとしても……あんただって知ってるでしょ?運が悪ければ釈放されるまでにとても時間がかかるってこと!!」


 もちろん、レイモンドもそのことはよく承知していた。というのも彼もまた、自分の裏の世界の友人を牢獄から助けようとしたことが何度もあるからだ。そして、その牢屋へ面会へ行くたびに思ったものだ。こんな惨めなところで、もう二度と一生日の目を見ることはないかもしれんと感じながら、日一日と時を過ごすのは地獄に他ならないということを……またそこに、拷問といった行為が加わった場合は尚更のことである。


「すまない、アリューラ」


 レイモンドは自分の服の裾をぎゅっと握る恋人の前に跪くと、彼女の手にキスをして言った。


「それでも、今は行かせてくれ。そして、無事何事もなく俺が戻って来れたとしたら……その時は、結婚しよう」


「あんたったら、こんな時になんてずるい男なのよっ!!」


 瞳の端に涙を滲ませてなじる恋人の頬に、レイモンドは軽くキスをした。すると、それを合図とするようにアリューラが彼のローブの裾をゆっくり離す。それから、「絶対約束よ」とアリューラは囁くように言い、レイモンドは「ああ、無論だ」と、今度は彼女の唇にキスすると――彼は取り急ぎその場をあとにしていたのである。


 アリューラとレイモンドはそれぞれ、場内のざわめきの中で、観客席の市民らが噂する、次のような話を耳にした。すなわち、「なかなか決着がつかねえから、真槍で一騎打ちするんだとよ」、「真槍ってのはなんだ?普通の槍とは違うのかい?」、「よくわからねえが、あの柄の部分が木製の槍は、騎士さま方が普段練習時に使うものなんだとよ」、「へえ。そいじゃ、いよいよ本気ってわけだ」、「我が聖ウルスラ騎士団の騎士団長さまと副騎士団長さまは、実は仲が悪かったのかねえ」、「ふふん。おりゃあそれはきっと、女の取り合いが原因と見たね」、「へええ。あのふたりが取り合いを演じるってことは、相手は一体どんな女なんだろう。どんなべっぴんさんなのか、一度でいいから顔を拝んでみてえや」……などなど、彼らは実に他愛もない噂話に興じていたものである。


 実際のところ、レイモンドは(何かの嫌な予感)に突き動かされているだけであって、具体的に自分に「何か出来ること」があるとは思っていなかった。ただ、聖ウルスラ騎士団の騎士らの幕営にでも行き、彼らが何をどう感じ考えているかを聞いたとすれば――何かを変えられるかもしれないような気がしたのである。


 ところでこの時、レイモンドは聖ウルスラ騎士団の幕営へ向かう途中、人がびっしり並ぶ通路のひとつで、ある男とすれ違っていた。レイモンドはこの男が、例の悪魔教団ネクロスティアの教祖クエンティスであるとすぐに気づいたが、自分の親友と弟のことで胸が急くあまり、そのことをあまり深くは考えなかった。彼にしても、聖ウルスラ教と、聖女ウルスラが崇める神を否定していたにせよ、だからといって、その祝祭に参加してはいけないという法があるわけでもないだろう……クエンティスの禿げ上がった頭と、がっしりと横幅のある太めの体格を見かけた時、レイモンドはその程度のことがちらと脳裏をよぎったというそれだけだった。


 だが、悪魔教団ネクロスティアの教祖クエンティスは実はこの時、ある機会を虎視眈々と狙っていたのである。巫女姫の周囲は、軍に所属する警護団が手厚く守っている。とはいえ、もしかしたらこれからほんの一瞬でも、自分が何かの隙をつき、巫女姫のヴェールを剥ぎ取り、彼女が神の代弁者なぞでないことを証明してやれる機会があるかもしれない……クエンティスはその一瞬がいつ訪れるかと、じりじりする思いで待ち侘びていたのである。


 クエンティスにしてみれば、他の観客席の客たちが固唾を飲んで見守る騎士団長と副騎士団長の試合など、ただのつまらぬ前座であった。なんにせよいずれ、悪魔ネクロスティアさまの生贄よろしく、どちらかが血を流して倒れることだろう。そして、その後に続く式典のため、巫女姫はこの呪われた闘技場に、市民への祝福を携え下りてくる!!なんという偽善であろうか。市民の幸福を搾取する立場の者が、善良なこれらの者をさも得意気な顔をして祝福するとは!!巫女姫や神官なぞ所詮は、自分の贅沢な日々の暮らしのために、さも有難いいわれがある振りだけをして、長い祈祷の言葉を述べるに過ぎぬ……そんな彼らに騙されている市民らの目を、今日こそ自分が完全に目覚めさせてやろう!!


 円形闘技場における祝典にて、二メートルばかりもある囲いから自分が突然飛び下りていったところで、警護兵らに取り押さえられて事はあっさり終わってしまうだろう。ゆえに、機会のほうは慎重に選ばねばならなかった。闘技場での例年におけるのと同じ祝典が終わったとすれば、その後巫女姫は警護兵に周囲を守られつつ、町の大通りを馬車の上の御輿に乗ったまま、さらに市民らを祝福して歩く。薔薇や芍薬や牡丹などの花びらと馨しい香りを周囲に撒き散らしながら……。


(そんな時にでも、隙のようなものは必ず出来るはずだ。たとえば、去年もこんなことがあった……沿道に市民らが押すな押すなとばかり詰めかけ、警護兵らがそちらへの対応へ集中するあまり、巫女姫の御輿に近づく一筋の道が出来ていたのだ。嗚呼、あの時このわしの手に今持っているこの硫酸があったとすれば!!あの忌わしい女のヴェールで隠した顔にビシャリとかけてやり、神に対する呪いの言葉を悲痛な泣き声とともに周囲に響かせてやったものを!!)


 クエンティスは巫女姫マリアローザに対し、忌わしい女と考えていたが、彼は彼女が実は姦通の罪を犯していると知っていたわけではない。単にクエンティスは、悪魔ネクロスティアの託宣を受けた者として、聖ウルスラ教の教祖にも等しい立場の巫女姫を襲い、そこから神の守りなど実は彼女に何もないことを証明し――善良な市民らの暗黒に閉ざされた目を覚まさせてやることこそ我が使命と心得ていたわけであった。


 クエンティスは、灰色の襤褸にも近いマントに隠した、深緑色の瓶を、大切そうに今一度握りしめた。これは、彼が上等のアヘンと引き換えに、工廠街にて手に入れた化学薬品であった。目の前の馬上試合が再開されると、クエンティスは周囲の観客席に座る市民らとは、まったく別の眼差しによってこの見世物を眺めるということになる。すなわち、彼らの巫女姫を守れもせぬ無意味な試合の行方と、その後に続く、死ぬよりも酷い苦しみを受けてのたうちまわる、神の助けなどなきことをその身を持って証明する、ただの女の姿とを……。




 >>続く。






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