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第61章

「あんた、結局コレクションを見に来ないって、どういうつもり?」


 それは、聖ウルスラ祭のはじまる五日前のことだった。ギベルネスがモーステッセン家まで、頼んでおいた車椅子を取りにいった時のことである。ルースが言った<特許>ということに快く許可をだし、彼が末の娘のハンナや九女のダニエラを交替で車椅子に乗せていると――ウルスラが怖い顔をして階段から下りてきたのである。


「ウルスラ姉さん、ギベルネはね、姉さんたちが時々言ってるような暇人のルンペンってわけじゃないのよ。こう見えて結構忙しい人なんだから、大広場であるコレクションを見に来れなくったって、仕方がないじゃないの」


 ルースが肩を竦めてそう言った。彼女の姉たちはみな、一週間後に迫ったファッションショーのことで忙しかったため、ギベルネスに対してはルースが一番話をする機会が多かったのだ。ゆえに、だからこそ彼女にはわかる……上の四人の姉がギベルネスが帰ったあと、いかに勘違いした会話をしているかを。


『ウルスラ、少しくらいはあんた、相手してやりなさいよ』


『そうよう。下の木工職人のツィエールさんにまで、わざわざ何か頼んでここへ来る口実にしてるんでしょう?ルンペンみたいだからってまるきり相手にもしてあげないだなんて、可哀想じゃないの』


 三女のアルマと四女のメリンダが針仕事の傍らそんなふうに話していても、ルースとしてはわざわざギベルネスの口から聞いた真実を教えてやろうなどとは思わない。というのも、聖ウルスラ祭の前はいつもそうなのだが、姉たちは妹がどんなことを話していても、翌日にはまるきり覚えてなどいないのだ。ルースがこの期間、唯一まともに会話できるのはひとつ下の妹のフランシスだけだった。ゆえに、お互い仕事の行き帰りなどに、上の姉らに聞かれては困る内緒話をするわけだった。


 だが、この瞬間ルースにははっきりわかった。長女のウルスラは、『いやあよ。あんなファッションセンスのないダサいルンペン』などと言っていながら――実は案外まんざらでもなかったのだと。


「ええと、コレクションを見ることが出来ないというわけではなくて……単にちょっとこれから、城砦外に用があったりするというそれだけなんですよ。それでも、聖ウルスラ祭の間には戻ってこれると思うのですが、一番見たいウルスラさんのコレクションのショーの時に戻って来れるかどうかわからないと思ったものですから」


「あんたって、ほんっとムカつく!!とりあえず、ちょっと顔貸しなさいよ!!」


 ウルスラはドカドカ階段を下りてくると、三女のアルマが『ノミがいそう』と言っていたギベルネスの茶の僧服を引っ張り、彼と一緒に外へ出た。残された車椅子の上のハンナと、「次わたしね!次わたしね!!」と、横をくっついて歩いていたダニエラは、さっぱり訳がわからず、きょとんとした顔をしたままでいる。


「ルースお姉ちゃん、車椅子!お願いだから、後ろ押して……」


「知らないわよ!!ジャンおじさんか、ルシンダおばさんにでも頼みなさい!!お姉ちゃんは忙しいのっ!!」


 ルースが怒ったようにドカドカ階段を上がっていってしまうと、ハンナとダニエラは今度はガッカリ肩を落としていた。そんなふたりの様子を見ていたジャンは、「おじちゃんで良けりゃあ押してあげるよ」と、車椅子を押し廊下を走ったが、ふたりはもう最初ほど楽しそうでない様子だった。


 上の姉妹たちが思っている以上に、このツィエール夫妻はルースと同じくギベルネと呼ばれる人物について、かなり正しい物の見方をしていたと言える。流石に彼が仲間から<神の人>と呼ばれていようとは考えなかったにせよ、ルンペンに身をやつした傍系の貴族といった、実はやんごとなきお方なのでないかと想像していたわけである。聖ウルスラ騎士団の騎士団長として有名だったラウール・フォン・モントーヴァン卿の元に身を寄せていると知ってからは、尚のことその確信は強まった。


 ゆえに、二階の開け放したドアや窓を通し、ほんの時折ギベルネスのことが話題に上り、彼女たちがきゃっきゃっはしゃいでいるのが聞こえると――ツィエール夫妻はこんなふうに話していたものである。つまり、貴族ではなかったとしても、親が商人か何かであってそれなりに財産があったとしたら、モーステッセン家にとってこの縁組は良いものなのではないか、と。ツィエール夫妻はふたりとも、世の中によくいる人とは違い、他人の色恋沙汰に首を突っ込むのを好まなかったが、むしろそれであればこそ、ギベルネスに対し正しい人物評を持っていたと言える。「女はね、ああいう人と結婚すると幸せになれるよ」とルシンダは茶をすすりながら言い、「そうだな。上の娘たちは何か勘違いしとるようだが、あの人はルンペンなんかじゃないし、むしろあの娘らを気の毒がって食べ物を持ってきたりしとるという、それだけなんじゃないかね」と、ジャンもまた彼女たちの無責任なおしゃべりに呆れていたものである。


 実をいうと、事はこうしたことだった。三女のアルマや四女のメリンダが何かと無責任に囃し立て、次女のエステラも手仕事をしながら適当に頷いてみせるもので――ウルスラは彼女らしくもなく、ギベルネスがよく食べ物を差し入れてくれるのは自分に気があるせいなのではないかと、すっかりそう思い込んでしまったのだ。


 もっとも、彼女にしても最初の頃は(そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない)程度の気持ちだったのだが、何分ウルスラは一年の中で聖ウルスラ祭の前が一番ナーバスになる季節なのである。そこで、ギベルネスが食事を持ってきてくれる傍ら、コレクションに出展する服を見せるたび……彼女にとっては彼が色々褒めたりしてくれるのが、そのたびに謙遜しつつも何より心の支えになることだったのである。


 ところがその後、ルースがちょくちょくギベルネスのことを連れだし、妹がウルスラの知らない彼についてのあれこれを食事の席で披露すると――顔の表情には見せなかったにせよ、ウルスラは腹が立った。それに彼は失恋したばかりのフランシスにもいい顔をしているらしい……つまり、彼女は姉として、ギベルネスが妹のうちの誰かに恋をしているとか、結婚の申し込みについてまで考えているというのであれば、それはそれでいいのだ。今は気のある素振りを自分にも見せたことに対し、腹が立ったとしてもいずれそんなことも忘れてしまうだろう。けれど、ジャンおじさんに車椅子の製造を頼むなど、ウルスラとしては彼の考えていることやその本心がまったくわからないということ――それが何より一番腹の立つ原因だったと言っていい。


「もう、コレクションに出展するほうのお仕事はいいんですか?」


 モーステッセン家を出て、十メートルも行かないうちに、ウルスラはギベルネスの服の袖を、まるで何かばっちものでも触ったようにパッと離していた。そのまま、明らかに「怒っている」とわかる態度によって、すり減った石畳の道をずんずん進んでいく。


 ウルスラは今日も、おそらく売ったとすれば、十人姉妹が三日は食べていけるだろう素敵な服を着ていた。フリルのついたブラウスの胸元にはサテンのリボンが結ばれていたし、チョッキに釣り紐を隠す形で着用した、ストライプ柄の裾がラッパのように広がっているキュロット、足には踵の高いサンダルを履いている。


「この城砦の、特に上流階級の女性というのは帽子を被るのが常識らしいと、ついこの間知りました。それも、その時の流行によって、幅の広いものが流行ったり、羽飾りやブローチだけじゃなく、何か色々ゴテゴテ飾りつけるのが流行したりと……ファッションというものはやはり、お金がかかるものなんですね」


 ウルスラが何故怒っているのか、まるきり心当たりのないギベルネスは、とりあえず思いついたことをしゃべってみた。ところが、それがまた逆効果で、ウルスラはくるりと振り返ると「そうよ!帽子の買えない貧乏な女はね、いつでもその日の服にぴったりあう帽子を持ってないっていうのが普通なのよ!!」と怒鳴りつけ、また先をずんずん進んでいったものである。


(やれやれ)と思いつつ、ギベルネスはウルスラの少し後ろあたりをついていくことにした。それから、ふと考える。自分が幼なじみにして、その後恋人同士となったクローディア・リメスと喧嘩した時――その後どうやって仲直りしたか、といったことを……。


(そもそもローディとは、記憶に残るような大喧嘩をしたような覚えがあまりないな。でも、深刻な喧嘩をしなかったからといって、お互いの関係に危機がなかったというわけじゃない……)


 医学生時代、ギベルネスは忙しかったため、デートしている間もずっとうわの空だったことがよくあった。その時、クローディアのほうでは実は彼が浮気しているのではないかと疑い――「わたしたち、ずっと一緒にいるのが当たり前だから、もうなんの新鮮味もないってことなんでしょ!?」などと、詰られたものだった。ギベルネスとしては浮気など考えてもみないことだったので、驚くあまり弁解するのに時間がかかり、むしろ逆にあやしまれるという悪循環に陥ったものである。


(そうだ。こういう時は、むしろ余計な無駄口の鉄砲を撃つことなく、相手の怒りが静まるまで待つのが一番いいんだ……患者が相手だったりするとそうするのは容易いのに、何故私はあの頃のローディくらいの娘が相手だと、こうも狼狽してしまうのだろうな)


 もういい年をしたおっさんなのに、と思い至ると、ギベルネスはうろたえている自分がなんだかおかしかった。すると何故だか、彼のそうした気持ちが通じたように、ウルスラのほうでも一度溜息を着くなり、くるりと後ろを振り返る。


「あんた、うちの妹たちのうち、結局誰が好きなの?」


「ええっ!?」


 あまりにストレートな直球を食らい、ギベルネスは再びうろたえた。だが、彼がはっきり(そんなこと、思ってもみない)という顔をしたせいだろう。最後にはウルスラのほうで大笑いしていた。


「いいのよ、べつに。わたし、あんたが自分に対して思わせぶりな態度を取ったから怒ってるわけじゃないわ。ううん……それもまたちょっと違うわね。あんたのこと見てて思ったの。今まで、自分が結局のところ振ってきた男に対して、あたしのほうであんたみたいな態度だったんだろうなってわかったわけよ。前に、ルースにこう言われたことがあるわ。『姉さんは、聖ウルスラ祭の前とか、自分の精神が弱くなってる時だけ、自分に気のある男の人を利用して「がんばれ」とか「君なら出来る」とか、「こんな独創的なファッション、君にしか作れないよ」だの言って励ましてもらうためだけにつきあうのよね』って。で、用がなくなるとポイッてわけ……そう言われた時には腹が立ったわよ、もちろん。一体わたしがどれだけ苦労してあんたたちを食べさせてるかとも思ったしね。でもあの子だって働いたお金のほとんどを家に入れてるようなもんだし、一体何が気に入らないんだかって思ったけど、あの子、たぶんあなたのことが好きなのね」


「いや、それはたぶん、ちょっと違うと思いますが……」


 ふたりは、第十六区の広場へ到着すると、人もまばらな市の外れ、菩提樹の生えるあたりに並んで腰かけた。


「わたしたち、妹のうちの誰かがごねたり、不満を持ってるみたいだなってことになると、よくここへ来て話を聞くの。で、どうやらわたしやエステルや、アルマや……家族のうちの誰かが悪かったってことになると、飴玉とかお菓子とか、何かちょっとしたものを買って許してもらうっていうね。何かずっとそんな感じだったかなあ」


 ウルスラはこのあとも、何か独り言でも呟くように続けた。そして、ギベルネスは経験上、よく知っている。彼の母にしても妹にしても、そうした時にはただ黙って語らせておき、聞き役に徹するのが一番だということを。


「そうよねえ。あの子ももう、そんな年ってことだものねえ。<ルキア食堂>で変な男にナンパされてつきあうとか、そんなことにならなきゃいいとは思ってたけど、あなたみたいな年上のルンペンが相手とは、流石に考えてもみなかったわ」


「ええと、だからルースはそんなこと、少しも考えてないと思いますよ。でも、彼女は可愛いし、<ルキア食堂>での働きぶりから見ても、モテはするでしょう。でも、しっかりした子だから、ちゃんと人を見る目もあるし……」


 先ほど、モーステッセン家でも『暇人のルンペン』とルースに言われたことを思いだし、ギベルネスとしては軽くショックだった。そんなふうに思われているとは、想像してもみなかっただけに。


「あら、ルンペンってのはね、ただのいい意味での冗談なのよ」言外に彼がショックを受けたらしいと感じ、ウルスラは笑った。「だってあなた、いつも同じ服しか着てないんですもの。前にも言ったでしょ?この街じゃね、自分の食事を抜いても、服だけは見栄を張っていいものを着るっていう不思議な風習があるから……同じ人に会うのに毎回同じ服を着てるなんてこと、まずないわけよ。でもあなたは違うでしょ?わたしたちのことを気にかけて、食べるものを持ってきてくれるけど、服はいつも同じ。そうねえ。そこが盲点だったのかしら。わたし、てっきりルースはあなたが食べ物を持ってきてくれる人だから、もっと丁寧に扱うべきだと考えて、あなたに纏わりついてるものだとばかり思ってたの。だけど、フランシスもあなたにすっかり気を許しているようだし……」


 実をいうと、フランシスはフランツ・ボドリネールと婚約を解消したということを姉に打ち明けていた。本当は聖ウルスラ祭が終わってから告白しようと思っていたものの――姉たちの仕事が一段落したらしいと見てとり、彼女はこう言ったのだ。『わたし、フランツのこと、まだ完全に諦めたってわけじゃないの。だって、ギベルネのお知りあいの方のお話じゃ、彼、今それどころじゃないんですって。あと、お父さまに貴族の娘さんとの縁談を薦められてるけど……全然本意じゃないんですって。だから、だからわたし……』フランシスに言えたのはそこまでだった。実をいうとギベルネスはその後、フランツに直接会う機会があったのである。いや、ランスロットにそのような機会を作ってもらったというべきか。そこで、フランシスのために彼の本心を聞き出すことにしていたのだ。


「そういえばわたし、フランシスのことでもあなたにお礼を言わなくちゃね。その前までずっとあの子、元気がなかったことはわかってたわ。でも、宮廷に出入りしてる関係から、人間関係で色々あるんだろうって思ってたの。ふふっ。ギベルネ、あなたもフランシスから聞いたかもしれないけど……宮廷の侍女っていうのはね、そりゃもう気苦労が多いものなのよ。あの子はメレアガンス伯爵夫人の衣装係なわけだけど、他にお化粧係の侍女もいれば、御髪を整える係もいるというわけでね。実はこのふたりが仲が悪くて、いつも張り合ってばかりいるらしいわ。メレアガンス伯爵夫人は色々な宮廷における人間関係を重ねたのち、あえてそんなふうに仲の悪いふたりを組ませてるのね。それが何故なのか、ギベルネ、お人好しのあなたにわかるかしら?」


「いえ……ですが、フランシスが伯爵夫人に気に入られていて、お心深くにあることまでお話されるような関係なのが何故か、その理由についてはわかりますよ」


「そうなの、そうなの。あの子はオシャレな可愛い子だけど、貧乏や苦労ってことを知ってるせいか、そこらの若い娘のように浮ついたところがないものね。たぶん、そういうところが伯爵夫人に気に入られた理由なんでしょうけど……たとえばね、伯爵夫人のお化粧係と御髪係がとっても仲が良かったとするわよね?そしたら、仕事が終わったあと、伯爵夫人がこうおっしゃっただのああおっしゃっただの、色々あることないこと言われたりするわけよ。で、御髪係がお化粧係に実際には伯爵夫人が言ってないことを『そうおっしゃったわよね?』と聞き、お化粧係が『ええ、間違いなく』と頷いたりすると――その嘘がまるで本当のことのように流布することになるのよ。ところが、このふたりの仲が悪いとなったらどう?」


「それは……確かに、宮廷というところは大変なところだと噂では聞いていましたが……想像以上ですね。でも、そういうことだったら、いっそのこと、誰か信用できる女性にお化粧も髪も整えてもらったらいいのでないかというのは、男の浅はかな考えなんでしょうか」


 ここでウルスラは、(ほーんと、男はなーんにもわかってないわ)というように、大仰に肩を竦めて見せる。


「そうよ。そりゃもちろん、伯爵夫人だって、お化粧くらい自分でしようと思えばできるでしょうけど、まあきっと色々あるんでしょうね。正装のドレスを着て、髪の先から足の爪先まで整えるといったら、軽く四~五時間は最低でもかかるでしょうし。その間も何人もいる侍女たちは、伯爵夫人の着付けを手伝う間もピーチクパーチクかまびすしくくっちゃべるという話よ。たとえば、自分の家系に属する者の小さなあんなお願いごとやこんなお願いごとを涙ながらに語ってみたり、そんな時に伯爵夫人がうっかり『そんなことより今日のチーク、濃すぎやしないかしら?』なんて言ったりしたらどう?『伯爵夫人に頼みごとをしたら無碍に断られた』なんて、言いふらされちゃったりするのよ。ねえ、想像してみてよ、ギベルネ。そんなふうに、自分の家族や親戚に関する欲望についてのなんちゃらかんちゃらを毎日呪文のようにしつこく聞かされ続けたら……誰だっていつしか、自分の頭がおかしくならないために、ある程度のところでシャットアウトして、鏡の中の自分の姿が貴族の人たちの目から見ておかしくないかどうか、素晴らしく素敵に見えるかどうか――そっちに集中するのが普通ってものだと思わない?」


「それは、そうですね……」


 今のウルスラの言葉を、ギベルネスは彼女以上に重いものとして受け止めた。というのも彼は、フランシスの失恋の胸の痛みについては、自分も婚約者と同じことになっていたため、我がことのように考えることが出来たが、まさか彼女が仕事のことでもそんなに重いものを抱えているとは想像してもみなかったのである。それでいくと、彼女自身、他の嫉妬した侍女にあれこれ言われて傷つくこともあったことだろう。ましてや、『フランツ・ボドリネールと婚約解消したんですってね』などと言われた日には、ぐっさり傷ついた胸を抱えて家路を辿るということもきっとあったに違いない。


「ふふっ。ほんっと、あなたってお人好しのいい人よね」


 何故目尻に涙が溢れたきたのか、ウルスラ自身、よくわからなかった。彼女としては、このどこかすっとぼけたところのある男の本命が自分でなかったことに対して涙が出たわけではない。では、今年のコレクションに出展する服のすべてが大体のところ出来上がった安堵感からだろうか?それはウルスラにもよくわからなかった。


「あのね、わたし……あるひとつの夢があるのよ」


「ええ」と頷きつつ、ギベルネスはこの時、実はフランシスのことを考えていた。フランツ・ボドリネールと彼女は本当に似合いのカップルだと感じるだけに……ふたりが結ばれる道は本当にもうないのかと、そう思った。


 ウルスラは、袖で涙を拭うと、泣いていることを彼に悟られないようにして続ける。


「べつにわたし……ファッションへの情熱と結婚してるようなものだから、自分が誰かと結婚するだのなんだの、そんなことはどうでもいいのよね。だけど、次女のエステルや三女のアルマや……末の娘のハンナまでね、みんな、わたしが作ったウェディングドレスを着て、幸せな結婚をしてもらいたいと思ってるの。こんなふうに考えるわたしって、変だと思う?」


「いいえ」と、フランシスのことを考えるのはやめて、ギベルネスはハッとしてウルスラのほうを振り向いた。「でもたぶん……エステルもアルマさんもメリンダさんもあなたの妹たちはみんな……あなたが考えているように、姉であるあなたにも幸福な結婚をしてもらいたいと思ってると思いますよ。どう言ったらいいか……不思議なんですよ。ルースも何故だか、あなたがファッション業界で成功したら、あとはもう結婚なんてどうでもいいから、ウルスラ姉さんを手伝ってお針子として一生懸命働くだけだなんて、そんなふうに言ってましたから。私の見たところ、それは三女のアルマさんや四女のメリンダさんもそうじゃないかという気がしますしね」


「ルースがそんなことを?」


 この時、ウルスラは少しだけ驚いたような顔をした。アルマとメリンダに関しては、彼女もギベルネスと同じように考えていたが、<ルキア食堂>での働きぶりを見ていて、ウルスラは姉として――(この子はたぶん、結婚するのは早いだろうな)と感じていた。(ただし、ここの食堂によく出入りする平民出の男とでしょうから、苦労するのは目に見えてる気がするけど……)と、そんな心配までしていたものである。


「ごめんなさいね。わたし、あなたといると、ついいつも自分のことばっかりしゃべっちゃう」


 ウルスラはもちろん、ギベルネスが自分の肩くらい抱くべきかどうか迷っているらしいと気づいていた。けれど、彼女にはもう、そうした慰めはすでに必要なかった。


「それで?あなたがわたしの――というか、わたしたちのコレクションを見に来れないのは残念だけど、あの貴族か何からしいあなたのお仲間と、どこかへ行く用でもあるの?」


「いえ、出来ればどうにか見たいとは思っています。ただ、アルマさんに紹介していただいた、<綿布の王>ことウィザールークに、蜘蛛の糸紡ぎを見に来ないかと誘われましてね……その、私はちょっと彼にある頼みごとをしてまして、突然へそを曲げられて、『やっぱりあんたとの商談は決裂だ』などと気を変えてもらいたくないのですよ」


「ふう~ん。蜘蛛の糸紡ぎねえ」


(そんなもん見て、どうするの?)


 この惑星に住む人々にとっては、蜘蛛が上質の糸を紡ぐというのは当たり前のような常識だった。また、ギベルネスもどのようにして蜘蛛があれほど素晴らしい布地の元となる糸を吐き出すのか――その加工の過程について興味があったとはいえ、蜘蛛だらけの部屋を是非とも見学したいとまでは考えていない。だが、ほとんど商取引するサラリーマンが先方の機嫌を取るにも等しい気持ちで、「え、ええ。そうですね。是非とも見てみたいものです……」などと答えてしまったのである。


「そういえば、わたしもエステルも最初気づかなかったんだけど……ギベルネ、あんたが最初にうちの店に来た時、一緒にいた小人みたいな愉快な人がいたでしょ?彼、ちょっとウィザールークの奴に似てるわよね。だからそれがなんだって話ではあるけど……でもあいつ、毎年コレクションを見るためだけに、この時期はずっとメルガレス城砦にいるんじゃない?だって、その年の流行だなんだ、そんなことを知るのはウィザールークの商売にとって大事なことだから、いつも割と前のほうの席でコレクションのほうをガン見してるのよ、あいつ。でも、ギベルネのことを是非とも自分の住むメレギアの町にまで連れていきたいってこと?」


「じゃあ、ウィザールークにそう聞いてみましょう。私はお金はないのですが、割と大きな仕事を彼に頼んだものですから、無理にそんなふうに言ったのかもしれませんし……」


 ウルスラはこの時にははっきりわかっていた。というより、コレクションに出展する服がほとんどすべて完成しただけに――途端、肩の荷が下りると同時、色々なことがクリアに見えるようになっていた。ギベルネは彼女が想像するに、そもそもあのただ者でない雰囲気の貴族たちのために動いているのだろう。自分たちのことはその過程でちょっとぱかり関わりあったという程度の、彼にしてみればそのくらいの出来事であったに違いない。


「ウィザールークの奴は相当がめつい守銭奴よ。その男が目の色を変えるんだとしたら、それは相当なことなんでしょうね。よくわからないけど、ギベルネ、あなた本当に大丈夫?あいつは蜘蛛使いとしては一流でしょうけど、蜘蛛の中には当然、猛毒を持っていたり、危険なのもたくさんいるわ。実際にはそんなことないでしょうけど、ウィザールークの奴が今<綿布の王>なんて呼ばれてるのは、そんな形で邪魔者を順に消していったからじゃないかなんて、噂する奴もいるくらいだしね。もちろん、もしそんなことでもあったら、すぐにこの城砦中にそんな疑いがあいつにかかって逮捕されてるはずよ。だから、嫉妬した連中が流してるただの噂なんでしょうけど……」


「ええ。なんというか……彼が、自分とよく似た容貌のレンスブルックのことを気に入ってくれて、それで商談のほうがうまくまとまったようなものなんです。もしかしたら彼としては、レンスブルックに自分の職場を見せたいといった気持ちが強かったのかもしれませんし」


「なんにしても、気をつけてね。それと、食べ物の差し入れ、本当にありがとう。ルースもね、<ルキア食堂>の残り物を時々もらってきてくれるんだけど……ほんと、わたしが長女としてもっとしっかりしなくちゃいけないんだけどね、ようやく衣装製作のほうが終わって、ずっと視野狭窄だったのが、ある程度まわりのことも冷静に見えるようになってきたわ」ここで、ウルスラはとんとんと、自分の肩のあたりを叩き、首をまわした。「でも、わたしのことはともかくとして――うちの下の娘たちのうち、『この娘となら結婚してもいいな』と思ったら、そうしてくれないかしら。だってあなた、本当にいい人だもの。これから先もずっと、友達づきあいか、親戚づきあいしていってもいいなって思えるくらいね」


「私もですよ」と、ギベルネスは微笑った。「コレクションの成功を、本当に心から祈っています。それに、ウルスラ、あなたならどのような形であっても結局のところ今の仕事を上手くやっていくことが出来るはずだと信じています」


「だといいんだけどね」


 ウルスラは立ち上がると、すっと右手を差し出し、ギベルネスに握手を求めた。彼のほうでも彼女の手を取り、ゆっくり握手する。


「あの車椅子、荷馬車か何かで取りに来るんでしょ?なんだったら、ジャンおじさんにモントーヴァン邸まで運んでもらうって手もあるわよ。わたしもよくわからないけど、あの車椅子の特許、ぽいっとただで渡しちゃったんでしょ?きっと、そのくらいのことならしてくれるんじゃないかと思うけど」


「そうお願いできると助かるのですが……無理なら、こちらで誰か人に頼もうと思ってるので、ツィエールさんには、そのようにお伝えください」


 ――こうして、ウルスラとギベルネスは、お互いなんのわだかまりもなく別れた。結局のところこの年、ウルスラは市民栄誉賞と呼ばれる特別賞しかファッションショーにて得ることは出来なかったが、それでもコレクションが終わったあと、順当に仕事はやって来た。そして、最初は妹たちと一緒に悔し涙を流したウルスラではあったが、のちにはそのことを天国にいる父や母に感謝していた。何故といって、メレアガンス伯爵夫妻の名を冠した最高栄誉賞を得ていたとしたら、父モリスと同じく一躍時の人となり、貴族たちの間ですらも有名人としてもてはやされたかもしれない。だが、もしそうなっていたら、ウルスラは仕事に打ち込みすぎるあまりノイローゼになっていたかもわからず、何より彼女にとって嬉しかったのは、名門貴族の名を冠した賞には掠りもしなかったにせよ、織物商といった目利きの市民たちには受け容れられたということであった。そして仕事のほうも、常に忙しくはあったが、かといってパンクしそうだというほどでもなく、大体のところほどよく糸車は回転するといった具合で<ウルスラ服飾店>のほうを営んでいくことが出来たのである。


 ウルスラも、彼女の他の姉妹もみな……その後、ギベルネスが魔法のように消えてしまったと聞いたあとも、時々彼のことを思いだすことがあった。とりわけウルスラにとっては、『きっと、あなたは時代を創りますよ』と言ってくれたことが、いつまでも忘れられなかった。そして、彼女はその時、ギベルネスが『時代を創る』と言ったのは、父モリスの燕尾服はいつか陽の目を見るだろう――といった意味に捉えていたのだが、その後<ウルスラ服飾店>は、実は王室御用達の服飾店として指名を受けることになるのである。


 ハムレットは、ウルスラやエステルに新しく衣装を作ってもらうたび、いつも同じ冗談を言ったものだった。大体のところ、「新しく服を作ってもらいたいんだが、生憎金のほうがない。それでも作ってもらえるだろうか?」といったようなことを。それから、フランシスが最初の息子にギベルネと名づけたと聞き、「君たちの妹の生んだギベルネ先生は元気かい?」と訊ねることも忘れなかったものである。


 実際のところ、王室の庇護の下、ウルスラ・モーステッセンはデザイナーとして時代を創ることになるわけだが、その頃には彼女も日々の忙しさの中、父モリスの燕尾服のことは忘れてしまっていた。だが、彼女の父の名前は娘たちの名とともに歴史に残るということになる。さらには、モリス・モーステッセンの<薔薇の灰色>も、一時代を隔てて再び流行し、さらには彼の残したデザインのスケッチ画は――四百年後に再発見され、その時代の人々を非常に驚かすということになる。その頃には人々はオペラやバレエ、演劇を鑑賞しに行く際、男性は燕尾服を着るのが普通になっており、それよりもずっと昔、四百年以上も前にすでにそのような形で紳士服は完成されていたのだと知り……その謎について、服飾研究家たちは大いなる興味をそそられるということになるのである。




 >>続く。






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