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第6章

(うわっ!なんという暑さだ……)


 目覚めてみると全身汗だく状態で、ギベルネスは朝早くに起きるつもりであったのが、もはや午前八時であり、気温のほうがこの時点で三十度を越しているのを知った。外へ出てみたところでその暑さがやわらぐということは一切なく、ギベルネスはオアシスの水へ飛び込むと、ようやくのことで生き返るのを感じた。


「すまないな。でも、こっちだって暑さで死にそうだったんだ」


 潅木の影からサッと小動物が驚きとともに去っていくのを見て――ギベルネスも申し訳ないとは思った。テントを畳み、エネルギーバーを齧ると、水分補給をし、ギベルネスはオアシスを去る。心の中で(ありがとう)と感謝の言葉を述べながら……。


 二日目の行軍はさらにキツいものとなり、その日の夕刻までに進めた距離は残念ながら15キロにも満たなかった。このままの計算でいくと、あと一週間はかかるということになるだろうか。幸い、水のほうはオアシスで補充した分があるのでどうにかなりそうだったし、フーディアもサディも、二ディアのリュックの中にあったのは惜しまれたが、それでもちょっとした味見にと、緑の皮を破った果肉を少しばかり食べていたせいだろうか。ギベルネスは腹がすくということもなく、食糧については十分節約することが出来そうだった。


『あれからまだ二日しか経ってないというのに、随分ひどい有様だなあ、ギベル』


 夕刻、大きな目印でもある砂漠の城砦跡へ辿り着くと、ギベルネスは(この日陰が日中に欲しかった)と思いつつ、通信機のスイッチを入れた。シェイクスピアの惑星時間において、午前十一時と午後の二時過ぎに二度、連絡が来てもいたのだが――暑いのと砂漠の強い熱風に見舞われたのとで、ギベルネスは返答することもままならなかったのである。


「まったくだよ、ノーマン」心配そうな顔をしているリーダーに向かい、ギベルネスは微かに笑って見せた。アルダンとダンカンの見せる態度には、明らかに(運の悪い君が悪いんだよ)とでもいうような人ごと感があるのだが、ノーマンは違った。本当に自分の身を案じてくれているのだということがわかり、ギベルネスはそのちょっとした差がおかしかったのである。「まあ、これも運命と思って諦める他ないが、砂漠の道なき道を進むというのは、思った以上に体力を消耗するし、時間を食うものなんだな。正直、このまま行き倒れて死ぬんじゃないかと思うほどだったが、城砦都市跡にようやく辿り着いたからね。まあ、あともう暫くの辛抱とでも思って頑張るしかないよ」


『そうか。昼間、二度ほど連絡した時も、衛星から君の苦労する姿というのは見えていたんだ。いや、よく考えたらこちらから第四基地へワープして、小型飛空挺によってでも君のことを迎えに行くっていうのはどうだろうと思って……だけど、その後風のほうも弱まってきたようだったし、君のほうから連絡が来るのを待ったほうがいいのかと思ったものだからね』


(そうか、なるほど)と、ギベルネスは思った。はっきりした時刻のほうはわからないが、おそらく午前の十時から十一時の間くらいに――ギベルネスは一度、流砂に巻き込まれそうになったのだ。その前にも、先のほうを進んでいた砂ギツネが(夜行性のはずなのに、何故そこにいたのかはわからない)砂地獄に飲み込まれていくのを見た。


 もしその砂ギツネが巨大なムカデの先端のような顔を覗かせる砂地獄の餌食になってなかったとしたら……ギベルネスは自分が犠牲になっていたことを思い、心底ゾッとした。もちろん、砂地獄に食われるということまではないだろう。だが、あの気味の悪い黒々としたムカデのような体と赤い触角のことを思い出しただけで、ギベルネスはあらためて身震いしてしまう。その後も、流砂が出現し、その中からグロテスクな姿のスナヘビが何匹も現れるのを見た時にも――生きた心地がしなかった。砂地獄にもスナヘビにも毒性はない。だが、彼らにほんの少しでも触れることを想像してみただけで……この暑い中、鳥肌が立ちそうになるほどだった。


「ありがとう、ノーマン。心配してくれて……まあ、どうにかこうにか生きてるよ。ただ、申し訳ないんだけどね、私なりに精一杯努力したつもりだったが、やはり第四基地へは早くて一週間後にでも到着できれば早いくらいなんだ。やれやれ。こんなことならコリンみたいに、毎日でもジムで体を鍛えておくべきだったと後悔してる」


『まあな。コリンの奴は「ライオンやトラと戦っても勝てるようにトレーニングしてるんだ!!」だなんて、よくわからんことを言う奴だものな。それより、ここだけの話……』


 ノーマン・フェルクスは今、ブリッジにひとりきり(正確にはAIクレオパトラとふたりきり)でいるらしかったが、それでもきょろきょろ周囲を見回してから言った。


「ロルカのことなら聞いたよ。状態のほうは相変わらずなのかい?」


『ああ。アルダンやダンカンからも聞いたかもしれんが、みんなで交替で様子を見るようにしてて……何度瞳を閉じさせても、やっぱりまた数分後には見開きっぱなしになるってことの繰り返しなんだ。その顔つきっていうのがな、なんというかこう……こっちに切々と何かを訴えたくて仕方ないって顔の表情なんだが、何分こっちではどうにもしてやれないしね。ギベルネス、こうした場合、君は今後医者としてどうなると思う?いや、ある程度の予想として、という意味で聞いてることなんだが……』


「私の元いたミドルクラスの惑星の医療設備によってだとしたら」と、ギベルネスは慎重に言葉を選んで言った。「もしロルカの陥っているのがある種の植物状態……正確には遷延性意識障害か。それであれば、それ以上助けようはない。だが、本星エフェメラ……いや、エフェメラでなくてもいい。とにかく上位クラスの惑星でなら、ロルカは間違いなく意識を取り戻すことが出来るよ。ただ、宇宙船<カエサル>にはそのための特殊な医療設備まではないから、本星の惑星開発庁へでも、そう診断がついた時点で連絡するしかないだろうな」


『つまり、ロルカのことをコールドスリープ状態にして、本星へ一足早く戻すっていうことかい?』


(そんなことをして大丈夫なのか?)という心配の影がノーマンの顔をよぎったため、ギベルネスは彼のことを安心させるような口調で言った。


「もしロルカの意識が植物状態に陥っているのだとしても、コールドスリープして問題はない。言ってみれば、体のどこかをガンで蝕まれた人間をコールドスリープしても、それ以上ガンが進行しないのと似たような状態だね。もちろん、私のもともと持っている医学知識というのが中級惑星系のものが基礎となっているものだから、ロルカのことをもう一度よく診断してからそのあたりのことを調べ直すつもりではいるよ」


 ギベルネスは宇宙難民の指定を他の家族――母と妹――とともに受けると、上位惑星系で医師として働こうとした場合、研修をし直す必要があるとわかり、再び医大へ入り直し、四年ほど研修を受けていたという過去がある。


『その……ギベルネス。君は二ディアとどうなってるんだい?』


「二ディアと?べつに、どうということもないよ。私は彼女のことを大切な友達と思っているし、もしノーマン、君の言いたいのが恋愛感情的なことだったとしたら、二ディアにも私に対してそうした気持ちはないと思う。でも、何故だい?」


『ロルカが二ディアのことをレイプしようとした……それはおそらく、確かにその通りなんだろう。心臓が弱いといった疾患でもなかったとすれば、通常ショックガンで人が死ぬことはない。せいぜいのところを言って、長くて数時間目が覚めないといったところだろう。だからこそ彼女はショックガンを使用した。体のどこかに健康上の問題を抱えていたとすれば、そもそもこんな長距離の宇宙旅行へ出かける許可自体下りないわけだし……まあ、私にしてもロルカのことをそう詳しく知ってるわけじゃない。本当は二ディアのことを好きだったとか、こんな辺鄙など田舎惑星までやって来て、突然無性に寂しくなったとか、精神状態としてありえないことじゃない。だけど、ロルカは普通に考えた場合、二ディアでも他の誰でも――レイプするようなタイプの人間じゃないと思うんだ。そういう衝動は男である以上、当然俺にだってある。だがね……何かこう、腑に落ちないというか……』


「確かにね。もしそれで仮に彼が自分の本意を遂げることが出来たとしても、その場合二ディアが黙ってはいないだろう。リーダーであるノーマンにでも、他の誰にでもそのことを彼女が相談したとしたら……残りまだ四十九年もあるっていうのに、人間関係的に難しいことになるじゃないか。ロルカ・クォネスカという男はね、もし目の前に誘惑の塊があったとしても、そうしたあとから後悔するような選択をしそうにないと思うわけだ。それよりも、自身のプライドや名誉が大切だという、そういったタイプの人間だと思うだけにね」


『つまり?』


 この瞬間、ノーマンの顔の表情を見ていて、ギベルネスはピンと来るものがあった。おそらく、二ディアから何か言われたのだろう。


「その……二ディアからきのう、こう告白されたんだ。ロルカから思いを告白されたけれど、自分が好きなのはあなただと言ったら彼が激昂して突然襲いかかってきた、なんてことをね。おかしいと思わないか?こう言っちゃなんだけどね、俺は今までの人生でモテたことなんか一度もない。だからわかるんだ。女性が近づいてきて好意を示すとすれば、宿題見せて欲しいとか、パーティのパートナー候補が突然下痢になったから仕方なく誘ったとか、とにかく俺はいつだってセカンド利用の男として生きてきたんだから。しかもロルカがあんなことになった直後っていうのも、なんとなく気になるし……」


『…………………』


 ギベルネスは黙り込んだ。ノーマンの悲しい告白に同じ男として胸が痛んだからではない。確か、ニディアはいつだったか、こんなことを自分に言っていた気がする。『ギベルネス、わたしね、あなたとだけじゃなく、他のみんなともこのミッションが終わるまでの間、うまくやっていきたいと思ってるの。だから、男女間のなんとかいうトラブルとか、そういうことは最初からご免なのよ』と、何かそんなふうに。


『でもノーマン、ニディアが君のことを本当に好きになったっていう可能性はあるよ。何分、私だってこんな故郷の星系から遠く離れた辺鄙な宙域までやって来て……毎日、見るといったらここシェイクスピアの人々の荒んだ暮らしに、窓から見える薄ら寒い宇宙の虚空という景色だけだ。もちろん、現実逃避しようと思えばいくらでも出来ることはわかってる。なんらかの研究課題に取り組むとか、昔の地球のハリウッド映画を見るとか、なんだったらバーチャルな世界へ逃げ込むことだって出来るだろう。だけど、急に何か心細くなって、誰かに頼りたくなったとか、きっとあるんじゃないかな。それで、ロルカの他に五人いる候補者の中で、リーダーの君が一番男らしくて優しくて信頼できるって、ニディアがそう判断した可能性っていうのは大いにありうると思う』


 これは、ギベルネスの本心だった。アルダンとダンカンは有能なのだが、それはどこか情緒の欠けたような、心の冷たさと打算を感じさせる有能さなのだった。無論、ギベルネスにしても、彼らに仲間を思いやる心の優しさがないとは思わない。だがその点、ノーマンはどこか人間らしく、本当の意味での思いやりを感じさせるところがあるのだった。


「そ、そうかな……とにかくね、ロルカのことがもちろん一番心配なんだけど、そうした意味でも君には早く帰ってきてもらいたいんだ。俺にしても、ニディアに強く迫られるような態度を取られると、そのうち誘惑に屈してしまいかねない。だけど、これはただ直感で言うことなんだけどね。ギベルネス、君が戻って来てニディアとまた親しい関係に戻ったとしたら、彼女また態度を変えるような気がするんだ。俺はね――この隊を率いるリーダーとして、ある特定の誰かと親しくして、人間関係のバランスを崩したりするのはどうかと思ってる。君が帰ってきたら、出来ればそういう相談にも乗って欲しいと思ってるんだけど、どうかな?」


『もちろん。私でよければ……じゃあ、詳しいことはまた、第四基地からワープ装置で戻れた時にしよう。第五基地に続いて第四基地でも転送装置が故障したりすることがないよう、祈っててくれ』


「ああ。そっちは今夜も危険と思うけど、どんな時でも何かあったらすぐ知らせてくれ。自分の部屋で寝てようと、VR世界で可愛こちゃんとイチャイチャしてる最中でもなんでも……<クレオパトラ>が君に危険が迫っていると教えてきたら、必ずすぐ応答するから」


 ノーマンとの通信を切ると、吹きつける風と砂によって侵食された城砦都市の、かつては渡り廊下だったのだろう場所を歩いていき、それからあちこち欠けばかりが散見される階段を上り、一夜を過ごすのに安全そうな一室を見つけ、ギベルネスはそこにテントを設置した。もちろん、忌避剤をまくことも忘れなかった。何故なら、ジャッカルやキツネやヘビ、毒サソリなどがこの廃墟へやって来る可能性というのが間違いなくあったからである。


(やれやれ。ロルカからレイプされそうになったかと思ったら、今度はノーマンに迫っただって?)


 ギベルネスはそのことに対し、嫉妬はしていない。ただ、ニディアの行動について(彼女らしくない)と思い、違和感を覚えていたというそれだけだった。


「まあ、いいか。第一、ロルカの病状のことだけじゃなく、<カエサル>へ戻って彼女から直接話を聞いたりすることが出来れば……すべてはっきりわかることだものな」


(そんなことよりも)と、ギベルネスはマップで自分の現在地と目的地である第四基地とを確認した。(まだかなり距離があるな)と感じるのと同時、体中が痛んで軋むものを感じる。<カエサル>から第五基地へ降下したのが、九日前であったわけだが――正直、ノーマンが自分のことを評して『ひどい有り様だなあ』と言ったのが何故か、ギベルネスにはよくわかっていた。まるで水分を失ったリンゴかオレンジのように萎びた肌をしているのだろうし、たったの九日砂漠で容赦のない太陽光を浴びたというだけですっかり日焼けし、半ば現地住民化して見えるくらいだったろうからだ。


(まあなあ。肌のほうがもうカッサカサだの、そんなことはどうでもいいとして……それにしても、昔はあったのだろうドアや窓がないせいで、ヒュウヒュウ言う風の音がひどいな。なんだかまるで、亡霊の泣き声みたいじゃないか)


 フーディアの効果がまだ残っているせいだろうか。それとも、空腹を感じるよりも他の生命を脅かす危険項目が上位に来ているため、それであまり空腹感を覚えないという可能性もある。なんにせよ、ギベルネスはバナナ味のエネルギー・バーをひとつ食べると、水分補給をし、その日もまた疲労からすぐ深い眠りへ落ちていった。


 そしてこの日、ギベルネスは夢を見た。自分がまだ、母星である惑星ロッシーニで幸せに暮らしていた頃の記憶だ。『お兄ちゃあーん!ローディのブランコ押してえ』これは、妹のクローディアが五歳くらいの頃の記憶。ギベルネスはローディと八歳年が離れていたせいか、この可愛い妹と喧嘩したような記憶がほとんどない。それから、小学・中学・高校時代の学友たちの顔がいくつも浮かんでは消えていく。彼らのうち、半数以上が兄弟星ワーグナーが攻め込んできた時の戦争によって命を落とすか、獣じみた拷問刑ののちに死んでいった。『父さん!僕も衛生兵として志願しようと思うんだ』きっと、軍人の父が喜んでくれるに違いないと思い、戦争がはじまってまだ間もない頃、ギベルネスは父にそう相談したことがある。だが、陸軍で大佐の地位にあるロベルトは厳しい顔を暗くして、息子の肩に手を置くと、諭すようにこう言った。『リジェッロ家に息子はおまえひとりだ。だから、息子として母さんと妹を最後まで守り抜け。そしておまえの清い手は、人を殺すことのためでなく、命を救うことのためにだけ使うと誓ってくれ。わかったな?』――ギベルネスはその時すでに三十二歳だったが、厳格な父親に逆らったという記憶がほとんどない。だが、この時ばかりはすでに民兵登録する心構えであることを強い意志によって父に伝えていた。ギベルネスの周囲でも、学友や親戚、近所の人々など、民兵登録して臨時の兵士訓練所へ向かう人々が数多くいた。みな、自分たちにこそ正義があり、突然攻め込んできたワーグナー星の人々こそ悪だと信じていた。そして、悪というものは正義の前に膝を突き、敗北すべきだということを……。


 だが、結局のところロッシーニはワーグナーに負けた。今、ギベルネスの故郷の惑星ロッシーニはワーグナーの所属星として接収され、ニーベルングと惑星名まで変わり、今どうなっているのか、ギベルネスたちのような他星への避難民にははっきりと知ることが出来ない(というのも、ワーグナーは「惑星ニーベルングの人々はこのように平等かつ民主的、幸福な生活を享受している」といった映像のみ流すのだったが、それはただの質の悪いプロパガンダであると、誰もがわかっていたからである)。


 宙港へ向かうという時、父ロベルトがすでにこの戦争で死ぬ覚悟であることを、口に出さずとも母にもギベルネスにもクローディアにもわかっていた。そしてその日以降、ギベルネスは自分の個人的な自由や欲望といったものを捨てることにした。だから、婚約者のクローディアが他の愛していない金持ち男と家族のために結婚すると聞いた時も――彼女を奪い返しに行くこともしなかった。いや、せめて彼女が自分と同じ惑星に避難していたのだったら、そうしたことも可能だったに違いない。だが、ギベルネスには遠い惑星にまでクローディアを迎えに行く金もなかったし、彼女と結婚して幸せに出来る自信もなかった。避難先の惑星では医師として働くことも出来ず、難民プログラムによって出来る日雇い仕事をしては小金を稼いで母親と妹のことを養った。


 ギベルネスの持っているのは、自分の住む惑星内でのみ医師として活動できる一般医師免許であったわけだが、避難した先の、ロッシーニと同じ中級惑星アルテミスで働くためには、本星エフェメラの定めた特級医師免許か第一級医師免許(これがあれば上位惑星系のどこででも医師として活動できる)、あるいは第二級医師免許の資格が必要であった。そして、この第二級医師免許があれば、中位惑星系、あるいは下位惑星系でも医師として働くことが出来るわけである(とはいえ、こうした惑星資格クラスを無視したいわゆるモグリの医者というのが宇宙中に散在している)。


 難民プログラムの相談員から、本星エフェメラにて学び直しながら医師免許のグレードを上げてはどうだろうかと言われ、ギベルネスは一も二もなくその機会に飛びついた。母は母星と死んだ夫を恋い慕って泣くばかりの毎日だったが、「息子のため」という大義が人生に生まれると、一緒についていくことを承諾した。そしてそれは妹のクローディアも同じであった。惑星アルテミスには、たくさんの親戚や故郷を同じくする親しい人々がいたが、本星エフェメラへ行くということは――誰ひとりとして知りあいのいない、まったく新しい環境へ飛び込むということだったからである。


 ある種のショック療法と言うべきか、惑星アルテミスにいた頃にはあった母ローザの「昔の幸せな暮らし」を恋い慕うホームシックは移星後、意外にもすぐ治っていた。『ギベルや、もしかしてここは天国かい?』と、ローザは実はコールドスリープが今も解けておらず、自分は夢を見ているのではないか、母星ロッシーニが隣星ワーグナーと戦争になったことも全部嘘で、夫のロベルトも生きているのではないか――母が過去に現実に起きたことを、自分の都合のいいように改竄していることがあるようだとギベルもローディも気づいていたが、とにかく母の話に適当に合わせるようになっていたものである、この頃には。


 本星エフェメラの惑星民となれることは、昔の地球史で言うとしたならばローマ市民としての特権を持っているにも等しく……いや、やはりこれは例えとしては適当でなかったろう。とにかく、ギベルネスは本星の厳しい惑星難民基準法に無事パスすると、家族ともども、一切金などかからずして良い住居を与えられ、月々十分な生活保障費も受給できるという環境下で、新しい人生をスタートさせた。


 毎月決まった日にやって来る調査員チェッカーと呼ばれる相談員が、人間そっくりのアンドロイドだと知ったのも随分後のことだったが、ギベルネスとクローディアはやはり、若さのなせる業であろうか。最先端の機器に囲まれているという環境に慣れるのも速かったが、母のローザはいつまでもガイドロボットに頼りっぱなしだったものである(けれど、ガイドロボットもまた人間そっくりであったため、ローザのちょうど良い話相手となってくれた)。


 だが、その後四年して、ギベルネスが無事第一級惑星医師免許を取得した頃――ある問題が持ち上がった。その頃にはクローディアもまた四年制大学を卒業し、惑星人文学者の資格を得ていた。そしてある時、それまで親切だったチェッカーが突然こんなことを言いだしたのである。


『ご長男であるギベルネスさんは、第一級惑星医師免許を取得され、ご長女であるクローディアさんは星立第十七大学を今年ご卒業見込みとのこと……こうなるとですね、すでにリジェッロ家のみなさまは惑星難民プログラムから外れるということになり、これからは自立して生活していただかなくてはなりません』


『そうですね。そのことは、最初に惑星難民として本星の保護下に置いていただいた時から、そう聞かされてはいたことでした。私が第一級惑星医師免許を取得するなどして、独り立ち出来そうだったら、ここの無料住居からも出ていかなくてはならないと……』


『はい、その通りでございます。ではこちらの同意書にサインしていただいてですね、本日より半年以内にこちらのマンションから出ていっていただくということでよろしかったでしょうか?』


 ギベルネスはクローディアと目と目を合わせると、彼女の同意を得て、チェッカーが電子パネルに表示した文書に指でサインした。


『ありがとうございます。本日より半年後に、リジェッロ家のみなさまには惑星難民基準法が適用されなくなりますが、今後とも生活のご相談には乗らせていただきますし、新生活をはじめられましてから約半年ほどの間、わたくしのほうでもこれまでと同じくご訪問させていただきましてですね、暮らし向きにご不便な点などないかどうか、惑星移民管理局に提出する報告書のほうを作成させていただきたく存じますです、ハイ』


 時と場合によっては、『血も涙もない役人アンドロイドめ!』と、人間から唾を吐かれることもあるチェッカーであったが、ギベルネスとクローディアは彼が帰ったあと、ふたりきりで相談を開始した。母親はこの日も、惑星難民パスポートによって、無料でオペラを鑑賞しに行っている。だが、これからはそんな贅沢も出来ないということになって来るだろう。


『兄さん、わたしもこれから一生懸命働こうと思ってるし、何よりもこれからはギベル兄さんに幸せになって欲しいと思ってるの。第一級惑星医師試験にも無事合格できたんだし……母さんのことはわたしが面倒を見るから、これからは自分のことだけ第一に考えて欲しいのよ』


『いや、そういうわけにもいかないよ。それよりもローディ、おまえこそクリストフとこれから結婚して、幸せになって欲しい。医師として働いて人並に稼ぐことさえ出来れば……母さんひとりくらいは僕だけで養っていけると思うしね。ただ、問題は……』


 ギベルネスはずっと言おう言おうと思っていて、なかなか打ち明けられずにいたことを、この時ようやく妹に告白した。つまり、第一級惑星医師免許を取得したのち、ここ本星で医師としてすぐに活動できるのは、極一部のエリート医師だけであることを……。


『ええっ。そんな馬鹿な……一体どうしてよ!?』


『つまりね、大抵の本星の医大を卒業した医学生というのは……他の惑星の病院で修行を積み、それから戻ってきて本星で働くっていうのが通例らしい。それだって、招聘してくれる病院があったり、惑星大学病院であれば強力なコネや根回しが必要らしいんだ。僕みたいに、他の惑星から難民としてやって来て、お情けでどうにか医師免許を更新させていただいたといったような人間はそもそも論外なんだね』


 本星エフェメラで医療を受けることさえ出来れば、治らぬ病いはない――そう惑星間において流布されているほど、エフェメラにおける医療技術は高い。だが、その高い水準を保ち続けるために、本星では公的関連病院のみならず、個人の開業医にも厳しい基準を設けているのである。


『じゃあ、じゃあ……兄さん。兄さんはもしかしてこれから、医大で斡旋された他の惑星へ移住して、そこでお医者さんとして働くってこと!?』


(離ればなれはもうイヤよっ!!)


 口に出されずとも、家族であるだけに、ギベルネスは妹の気持ちが痛いほどわかっていた。それに、これほど快適な首惑星を離れ、再びどこか別の星へ移住するなど、母親のローザには耐えられないことに違いない。


『ローディ、現実的に考えてくれ。そして現実的に考えた場合、僕らに取れる道はいくつかに限られてくると思う。僕がもし医師としての仕事をしたければ、現状、ここ本星で働ける病院はない。また、どこか他の惑星であれば、おそらくそれなりの待遇によって働ける病院はいくらでもある。だから、僕はその中の病院のどこかを選んでそちらへ移住するしかないと思うんだ。そして、働きながらこちらへ仕送りをしようと思う。ごめん。さっき言ったことと矛盾してるな。でも、僕が他の惑星の一流の病院でいくら外科医として研鑽を積もうと……本星へは一度出たら二度と戻って来れないかもしれないんだ。四年前、惑星難民プログラムによってこの星へやって来た時、僕はこう思った。自分たちはなんてラッキーなんだろうって。でも、その時は知らなかったんだ。それが惑星難民プログラムによるものであれなんであれ、ここエフェメラから一度出た者は、審査が厳しくてなかなか戻って来られない。だから、母さんとローディには、このままここで幸せに暮らしていて欲しい。そのためのお金なら、僕のほうで働いて必ず送ることにするから……』


『そんなのダメよ!家族は絶対一緒にいなきゃ。それに、そんなこと母さんが絶対承知しないわ。わたしだって働けば、多少貧乏でもそれなりに生活のほうはやってかれるはずよ』


 ギベルネスは今にも泣きださんばかりの妹に、諭すような口調で言った。自分が衛生兵として民兵登録しようと思った時、父のロベルトもこんな気持ちだったのだろうかと、そんなふうに思いながら……。


『ローディ、僕だって今までに色々考えた。そろそろここにも無料では住み続けられないし、かといって同じくらいの水準の生活を続けようと思ったら――月々、結構な額のお金がかかってくるだろう。ここは他のどこの惑星にも増して物価も高いし……こんなこと、おまえには説明しなくてもわかりきってることだとは思うけど、母さんのことだって心配だ。今まで、惑星政府のほうから月々結構な額の生活費が支給されてきたけど、半年後にはそれもゼロになる。もし引っ越し先が見つかったとして、引っ越し費用とそこの家賃を最初の一か月も支払ったら、僅かな貯金のほうもすぐに底をつく。今までみたいに気軽に外食だって出来ないし、生活のほうも切り詰めなきゃならない。でも、僕はね……ローディ、今の贅沢な暮らしに慣れてしまった母さんから、そうした楽しみのすべてを奪いたくないんだ』


 実際のところ、今までの四年の間、リジェッロ家の生活というのは<難民>とはほど遠いほど、贅沢なものであった。というのも、住居も光熱費もタダだったし、大学で学ぶための授業料も無料。そこへ、三人暮らしてゆくには十分すぎるほどの月々の生活費の支払いまであったのである。もちろん、彼らは過ぎるほどの贅沢というのはしたことがなかったとはいえ、そうした特権が一切なくなるとわかってから――『本星エフェメラ』で暮らしていくことの厳しさに初めて気づいたのである。


『つまりね、僕が医師として働くためには、どこか本星以外のよその惑星へ行くしかない。ここのところはほとんど確定事項だ。そうとなったら、現実的に判断して……僕が単身赴任するような形でね、母さんとローディが今まで通りの暮らしを送れるよう、仕送りするっていうのが一番いいと思うんだ』


『ようするに、わたしと母さんのために、兄さんひとりが犠牲になるってこと?』


『犠牲なんて考える必要はないさ。ローディが今つきあってるクリストフ・ランドルファーだけどね、あいつはいい奴だ。きっとおまえのことも幸せにしてくれるだろう。ただ、母さんのことだけが心配だけど……』


 ふたりの母親のローザの中では今、夫のロベルトは死んではおらず、いつか自分たちを迎えに戻って来ると、彼女はそう信じているらしかった。また、実際にはロッシーニを守るために兵士となり、死んでいった甥が今も生きていると信じていたり、彼女の中では記憶のほうが色々と都合のいいように改竄されていた。こうしたことは、もともと住んでいた母星からなんらかの理由によって強制的に移住させられた人々に、ある種の適応障害として出る症状として知られているものだった。精神科医からも、場当たり的にその時々で違うことを言って、ある時には死んだと言ってさめざめ泣いたかと思えば、また別の時にはやはり生きているといい、事実を指摘すると憤慨することもあるから、とにかく本人の話に適宜合わせておくしかないとアドヴァイスされている。


 ギベルネスもクローディアも、母が何故そんなふうに自分に都合よく記憶を改竄したのか、その根本原因についてはよくわかっていた。自分がそこで生まれて死ぬと当たり前のように信じきっていた母星から引き離されたショック、愛する夫の死、その他親類縁者を含めた多くの人々がほとんど無意味としか思えない形で戦死していた。それなのに、何故自分だけが今幸福でいられるのか、幸せでいていいのか……そこから生じる罪悪感を補償するために、おそらく母はそんな事実とは違うことを現実として認識しているに違いない。


 その後もギベルネスは何度となく妹のクローディアと話しあいを重ねた。そして、ローディがそのことで悩み、恋人のクリフと別れようとさえしたことがきっかけで――クリフがローディにプロポーズし、ふたりは結婚することになったのである。


 母ローザもクリフのことを気に入っていたし、それはクリフの両親もそうであった。それに、彼の父親は惑星政府の官僚であり、そうしたコネについても色々持っていた。とはいえ、そのクリフの父を持ってしても医療機関でギベルネスの就職先を見つけるのは困難だったのである。というより、そうした明らかなコネというのは目につくので、よほどの高い医療スキルをギベルネスのほうで備えていない限り、勤めはじめてから嫌な思いをさせられることになるだろうということであった。


 こうして最終的に、ギベルネスは超のつく辺境惑星シェイクスピアの第十三惑星調査団の一員として加わることになったわけである。もちろん、彼にしても本星エフェメラから比較的近い惑星の病院で就職したくはあった。けれど、やはりギベルネスの医師のキャリアとしての大半が中級惑星クラスのものであるため――PC面接時に『同じ中級クラスの星で医師として働いたほうがいいのでは?』と言われたり、『本星エフェメラの超一流の医療技術を身につけた外科医をこっちは欲しかったのに期待外れだな』などとはっきり言われ、なかなか就職先が決まらなかったわけである。


 そこで、船医としてキャリアを積みつつ稼ぐ……ということをギベルネスは考えたわけであるが、こちらもやはり本星発着の宇宙船の医師は人気が高く、ようやく見つかるといえば、惑星シェイクスピアほどではないにせよ、やはり本星より遠く離れた辺境惑星しか就職先がなく――ギベルネスは(どうせなら)と、給料と賞与がもっとも高い惑星シェイクスピアの惑星調査員となることに決めたわけであった。


 実際、妹のローディが結婚したことで責任の肩の荷が下りたという部分もあり、次に自分がシェイクスピアから戻って来た時、母や妹が生きているかさえもわからなかったが……ギベルネスは自分の選んだ道をとりあえず、後悔してはいなかった。


 とはいえ、宇宙船<カエサル>へ乗るという時には、妹のクローディアも母のローザも泣いていた。母には『数年後には帰ってくる』という曖昧な伝え方をしたが、そのことには理由があった。母のローザは仮にそのための金があったとしても、新しい肉体に記憶データを移して甦りたいとは考えておらず――『その時には父さんと再び一緒になるよ』などと、いつもの『父さんは今も生きている』という設定を忘れたのかどうか、そんなことを口にしていた。ゆえに、自分のこともいずれはそんなふうに考えるようになるのではないかと思い、『もう二度と会えないかもしれない』といった言い方はしなかったのである。


(まあ、私にしても五十年という調査期間を終えて本星へ戻った時……新しい肉体をオーダーメイドによって所有できる法的権利を得られるのみならず、その費用のほうも負担してもらえるとはいえ――母さんもローディも生きてなかったら、もうそのまま墓へ入ろうかという気持ちになるかもしれないものな)


 まるで、自分の人生を走馬灯のような形で夢の中で見る間……ある種の精神波の波の間をうつらうつらと漂う中、ギベルネスは真夜中に一度ハッと目を覚ましていた。テントの外に、何かが<いる>とはっきり感じる、強烈な存在感があった。


(まさか、幽霊!?)


 そんな非科学的な存在のことまでが脳裏に閃き、ギベルネスは昼間とは違い、摂氏ゼロにまで下がった空気の中、気温差によってではなく流れる別の汗が、背筋にぞわりと湧いてくるような感覚を覚えた。


 もちろん、一番いいのは思いきってテントの外を確認することではあったろう。だが、ギベルネスはそんな気持ちになれなかった。もしジャッカルや砂ギツネといった獣の気配であったとすれば、それらがこちらの姿を窺おうとする微かな動きによってでも、それと知れたことだろう。けれどギベルネスが今感じているのは、そうした獣の気配ではなく、それは人間という存在であるようにすら思われない者の強い存在感だった。彼の直感としては、(強いて言うならば、人間という存在に近い感じがする)という、何かそうした気配の投影だったのである。


 ギベルネスは無駄に心拍数が上がる中、ただとにかく少しも身動きすることが出来なかった。金縛りにあっていたわけではない。ただ、自分が今ここでピクリとでも動けば、向こうがこちらに襲いかかって来るような気がして――それで、ただひたすらに息を殺していることしか出来なかったのである。


 非常な緊張感の中、目が冴えてしまったため、ギベルネスはもう自分は再び眠ることはあるまいとすら思った。けれど、まんじりとも出来ぬ中、結局のところ彼はもう一度気づいたら寝ていたのだ。そして朝となり目を覚ました時……ギベルネスは泣いていた。何故なのかはわからない。今度は夢を見ていたような記憶はない。だがそれにも関わらず、魂そのものを慰撫されたような優しい感覚が心のどこかに残っており――ギベルネスはそのことをとても不思議に感じていたのである。




 >>続く。






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