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第59章

 ギベルネスは、レンスブルックがパン屋ポンピーのラキムという男に殴られたという例の場所――<コリオレイナス食堂>で、ウィザールークと待ち合わせていた。道を渡った斜め向かいにある<ルキア食堂>でも良かったのだが、ギベルネスがこちらを選んだのにはある理由があった。というのもこの<コリオレイナス食堂>の女主人というのが寡婦であって、小さな子供がまだ六人もいるというのに今は亡き主人の味を守りつつ、一生懸命店を切り盛りしていたからである。


<ルキア食堂>のほうはいわゆる人気店であり、昼時などは行列が出来ていることも珍しくない。だが、そんな時<コリオレイナス食堂>のほうではまだ座れる席が残っていることがよくあり……つまり、ギベルネスとしてはこの苦労人のおかみに多少なりクラン銅貨を渡してやりたく思っていたというのがある。確かに、ルースの言っていたとおり、ワインのほうはいただけなかった。だが、料理の味のほうは決して悪くもなく、安い値段でちょうど腹が膨れるくらいのものが出てきたと言ってよい。


「あのおかみ、そのうちノイローゼでぶっ倒れそうだぎゃ」


 一階の店の脇にある階段からは、赤ん坊の泣く声が聞こえ、それをまだ十になるかならぬかくらいの長女があやしているのが丸聞こえだった。そんな所帯じみた雰囲気が嫌だというので、敷居を跨ぎかけた客が帰ってしまうと、おかみは二階に向かい「これであんたたちの食い扶持がまたひとつ減ったよ!そんなガキ、殴ってでも黙らしとくんだ!!」と鬼のような形相で怒鳴り散らす。そこで今度は驚いた客が慌てて金を払い、そそくさ出ていこうとすると――「あ、こりゃどうもどうも。またよろしくお願いしますね。うちも生活が苦しいもんで、ハァ」と一転低姿勢となり、今度は百八十度コロリと態度を変えるのだった。


 おかみはまだ三十半ばほどと思われたが、黒い髪には白いものが混ざっており、これほど毎日客に食事を振るまっていながら、自身は何も食べていないのでないかというくらいガリガリに痩せ細っていた。しかも、ギベルネスが以前やって来た時「こうしたお店を経営していくのは大変でしょうね」と何気なく言うと、今度はホロリと泣きだし、他に客が二名しかいなかったせいもあり、自分の不幸な身の上話をえんえんはじめていたのである。


 また、ギベルネスはレンスブルックが何故彼女に対し「ノイローゼ」と言ったのかも、よくわかっていた。というのも、カウンターの内側で料理を作っている間、おかみはまるで魔女が呪文でも唱えるようにブツブツ言いながら特製スープの鍋をかき混ぜている。そして、その間も別の注文された料理を同時に作っているため、ちょっとした邪魔が入るなり、「うるさいね!今できるよ!!」などと、また鬼のような形相に変貌するのだった。


 おかみの妹や従姉妹といった誰かしらが手伝いに来ている時はそれでもいいのだが、しまいには見てられなくなった客のほうでウェイターよろしく手伝いだすことまであったほどである。そしてそうした時、おかみはまたもホロリと泣きだし、「すみませんねえ。なんとありがたいことでございましょう。あなたは聖人さまに違いない!!」と、今度は小汚いエプロンで頬の涙をぬぐうという始末だった。


 ギベルネスはこの店に通ううち、常連客の全員がもしや、この店の料理を味わうというよりも、おかみの百面相による一人芝居を見に来ているのではあるまいか……と思うことさえあるほどだが、やはりそれがなんであれ店をやっていくのに立地というのは非常に大切なもののようである。というのも、ここ<コリオレイナス食堂>は織工街が近いのみならず、城砦内でも大きな通りにある商店街のひとつで人通りも多い。となると、他の店のテーブルが人で一杯ならば、「まあここでもいいか。味だってそんなに悪くない。いわゆるおふくろの味というやつさ」ということになり、それなりに客もやって来て、一日にクラン銅貨のほうも壺に貯まろうというものだった。


 そしてこの日も……「いいよ、おかみさん。自分の食いもんくらい自分で運ぶさ」という客が現れるたび、「すみませんねえ、なんて有難いこったろう!あんたは聖人さまだね。ねっ、実はそうなんだろ?」などといういつもの会話が交わされていた時のことだった。


 何人かのならず者――少なくとも、ギベルネスにも、他の客にも一目でそうとしか思えない――が戸口に現れると、何かの書面を片手に、ドカドカ店内へ押し入ってきたのである。


「おい、おかみ!てめえの旦那にゃ実は借金があったってのは、前にも説明したとおりだ!!それで、百リーヴル、耳を揃えて返せる算段はついたのかい!?もし期限までに返せねえなら、この店も二階の住まいのほうも全部、それは全部俺たちのボス、マルヴォアザンさまのものってことになるぜ!!」


 いかにも腕っぷしの強そうな男たちが四人、店の中の椅子やテーブル、あるいはそこにのった物などを蹴飛ばし、「何見てやがんでえ!?」、「見せもんじゃねえぞ、おおう!?」などと凄んで、食事中の客すらもすっかり追いだしてしまう。残ったのは、ギベルネスとレンスブルックのふたりだけであり、レンスブルックはといえば、椅子から半分腰を浮かし、反射的に逃げだそうとしたほどだった。


 気の毒なおかみはといえば、カウンターの隅のほうに身を屈め、顔を覆ってすすり泣きながら、「ああ、神さま!ああ、神さま……どうかどうか、今こそお助けを……!!」と、ブツブツつぶやくばかりだったと言える。


「その借金返済の期限というのは、いつまでなんですか?」


 二階からは六人の子供たちが下りて来、それから店の周囲にも人だかりが出来つつあった。というのも、彼女は<変わり者の名物おかみ>として多くの人たちに知られていたからであるし、また彼女は近所の人々からは同情され、愛されてもいる人だったのである。


「なんだ、このなまっちょろい色男は!?」


 下から顔を覗き込まれるようにして凄まれると、ギベルネスは吹きだしそうになった。なまっちょろいはともかくとして、少なくとも色男ではないと自覚していたからだ。


「その書面にはなんて書いてあるんですか?いつまでの期限に百リーヴル支払えと書いてあるのですか?」


 ギベルネスが、この四人の中では一番のボス格らしい男にそう聞くと、彼は何故か書面のほうを引っ込めようとした。筋骨隆々といった体格の男であるが、顔にはどこか理知的なところがあり、それなりに頭のほうもいいのではないかと思われた。メルガレス城砦は市民の識字率は比較的高いほうであったが、おかみがちょうどそうであるように、字の読み書きが出来ない者というのも決して珍しくなかったのである。


「なっ、なんだてめえはよ!まずい料理だすしか能のねえ、この店の常連かなんかか!?ようするにだなあ、このおかみのしょうもねえ死んだ旦那はよ、マルヴォアザンさまお抱えの娼館で娼婦とねんごろな関係ってやつになり、途方もねえ借金を生前に抱えていたのよ!!それで、その借金を耳そろえて返す前におっ死んじまった。マルヴォアザンさまがお怒りになるのは当然のことだろうが!!」


(マルヴォアザンさま、マルヴォアザンさまと連呼してるということは、おそらくそう大したことのない裏の世界の小物だろうな。もし本当の大物であれば、自分の名前のことは何があっても隠そうとするものだろうし……)


「もし、その書面が正当な法的効力を持つものであれば、法務院のほうに訴えればいいんです。それで、この気の毒なおかみさんの旦那さんが死んだだけではその負債は帳消しとはならず、妻である彼女にも返済するよう法が命じるのであれば……その時、もしおかみさんに返済するだけのお金がないとなれば、私のほうでなんとかしましょう」


「へっ、てめえみたいな貧乏くさい身なりの男に、百リーヴルも払える金があるってのか!?それに法務院に訴えでられて、いい恥見るのはその惨めな痩せっぽちの年増女のほうだぜ!!自分に女としての魅力がねえから旦那が娼館に走って夜毎……いてっ」


 突然、男の背後から石つぶてが飛んできたかと思うと、それは筋肉男の首の後ろあたりに見事命中した。見ると、二階に続く階段のある戸口から、六人の子供全員が顔を覗かせている。


「父ちゃんはそんなヤラしいところに行ったりしないよ!!」


「そうだ、そうだ!!父ちゃんは母ちゃんのことだけ愛してたんだから!!」


「それに、毎日一生懸命働いて、うちの一階と二階を行ったり来たりする生活だったんだから、そんな気力も父ちゃんにはあるわけなかったよ!!」


 次男も三男も、まだ六歳とか七歳くらいの年だったから、男の言った本当の意味についてはわかってなどいなかったろう。それでも、赤ん坊を抱いた十歳の娘がもう一度渾身の力で石を投げようとすると、流石のならず者たちも良心が疼いたようだった。


 そこへもってきて、店の正面からも石が飛んできた。もし、この<コリオレイナス食堂>がならず者たちの暴力によって奪われてしまうとしたら、次は自分たちの番かもしれないと、他の近所に店を構える者たちが石を投げはじめたのである。


「あんたたち、それでも人間なのかい!?」


「あんな、生活の苦労で頭がおかしくなってる人に対してよくもまあ……」


「恥を知れってんだ!!わかったら、とっとと帰りな!!どのみち、百リーヴルなんて金、ここにあるわけねえだろうがっ!!」


 ならず者たちは、しぶしぶといった体で店から出ていったが、最後にもう一度、テーブルを蹴ったり、カウンターの皿を床に投げつけるのを忘れなかった。だが、そんな突然の嵐が過ぎ去ると、店の外にいた人々はわっとばかり中に入って来、散らかった<コリオレイナス食堂>の店内を片付け始めたのだった。


(チッ。くだらねえお涙ちょうだい物語だな……)


 待ち合わせ場所へウィザールークが到着してみると、何故だか食堂のまわりに人だかりがしている。背が低く、さらには右目しかない彼としては、一体何が起きているやらまるでわからなかったのだが――それでも、店のほうから聞こえるならず者の脅す声からある程度察することは出来た。続く、子供たちの叫び声やら、ならず者たちを非難する声やらなんやら……。


 ウィザールークはしらけるあまり、その場から即刻立ち去りたいほどだったが、それでもやはり、約束は約束である。<コリオレイナス食堂>の前から人々が三々五々散ってゆき、店内のほうもある程度静けさを取り戻すと、彼は自分とよく似た男と、茶の僧服を着た人物のいるテーブルのほうへ進んでいった。


「景気の悪い店のようだから、場所を変えようか。どうやらここは商売の話をするにはいまいち縁起が悪いようだからな」


 美味しい鶏の脚を齧っていたギベルネスとレンスブルックは、互いに首を振っている。


「べつに、ここでいいぎゃ。きっと、先生もそう思ってるぎゃ」


「そうですね。ガーゼや包帯といったものは、どのくらい作れそうですか?」


 店内は賑やかでありつつ、それでいてどこか人々のしみじみとした優しさの余韻が空気中に漂っているようでもあった。おかみさんは涙々のあまり、すっかり料理も手につかなくなっているので、代わりに隣の雑貨店の女主人が出来た料理をよそったり、包丁仕事をして手伝っている。子供たちはみな、皿を運ぶのに大忙しだった。そして、そうこうするうち、近くに住んでいるおかみの妹や従姉妹らが、話を聞きつけてすっ飛んできたというわけだった。


「あんた、さっき百リーヴル代わりに払ってもいいとか言ってたな?ボロっちい身なりをしてる割に、実は結構な資産家だったりするのかい?」


「そんなお金、あるわけありません」と、ギベルネスはケロリとしたような、すっとぼけた顔をして言った。「ただ、彼らはようするによくいる手合いの地上げ屋みたいなものなんだろうなと思ったんですよ。ここは立地がいいから、おそらくはどんな商売をしてもある程度儲かるでしょう。何分、寡婦というのは立場が弱いものですからね……ああいうならず者たちというのは難癖をつけ、暴力によって物事を解決しようという連中です。法務院などへ行かれて困るのは彼らのほうだろうと思ったので、あんな言い方をしたまでのことですよ」


「あんた、マルヴォアザンがどんな奴か知らないのかい?」


 注文を取りにきた八歳くらいの娘に、ウィザールークは「強い酒を持ってこい」とぞんざいに言った。「ここのワインは安いがどうにもいただけねえ。ラム酒かジンか、とにかく飲めるような酒を持ってくるんだ」


 この店の次女は、ウィザールークに凄まれると、ビクビクしながらカウンターのほうへ取って返した。彼は四十になった今も百センチほどしか身長がない。だが、小人として小さな子供らにからかわれるのが嫌いなため、ウィザールークは相手が子供でも常に容赦がないのだった。


「この城砦の悪の大物だったりするのですか?」


「そんなところだ……とでも格好つけて言いたいところだが、残念ながらそこまでじゃない。ただのあぶれ者の小物チンピラといったところかな。裏町の大物の使い走りをして日銭を稼いでいるといった手合いの奴だよ」


 酒のほうを持ってきたのは、おかみの妹だった。彼女は自分の可愛い姪を脅したウィザールークのことが気に入らなかったのだろう。ただ黙ってジュニパーベリーによって香りづけされた酒を置いていく。


「へん!こんなもん、水とアルコールを混ぜてつっとばかジュニパーベリーで香りをつけたといった程度のもんだな。これで金とろうってんだから、ぼったりくりもいいところだぜ」


「そんなに文句を言うものじゃないぎゃ。それに、いい酒を飲みたきゃ、それなりの店のほうへ行くぎゃ。ほら、オラのパンとソーセージを分けてやるから、先生に恥をかかせるような真似だけはやめるぎゃ」


 レンスブルックがそう言うなり、ウィザールークは皿の上にあった彼の分のパンとソーセージをガツガツ食べた。最後に、脂のついた自分の親指と人差し指を美味しそうになめる。


「よう、兄弟。恵んでくれてありがとうよ。それで、お宅のほうの景気はどうだい?」


「よくも悪くもないぎゃ」ウィザールークのほうで面白がっているのとは違い、自分とよく似た顔を見るだに、レンスブルックは嫌悪感がこみ上げてくるのを感じてしまう。「オラのほうはあんたみたいに商売をやってる金持ちってわけでもないぎゃ。ま、そのうちいつか……陽の目でも見られりゃいいとは思ってるぎゃ。けんど、その場合でもあんたみたいな金持ちにはまずもってなれんぎゃ」


「ふふん。よく似た顔の、しかも同じく砂蜘蛛に片目をやられた者同士のよしみというやつで、うちに来て働いてくれたっていいんだぜ?ま、オレたちのように容貌のよくねえチビッ子ってやつぁ、世間からろくな目に合わされやしねえ。そのこと、身に沁みてよくわかってるだけに、レンスブルック、お宅のことだけは特別だ。なんか悲惨なことでもあって、もう生きていたかぁねえってくらいの時には、オレのことを思いだしな。そしたら、うちの地所で綿花畑の世話の監督でもしてもらって、従業員どもを鞭打って金でも稼いでもらおうじゃねえか。なあ?」


 レンスブルックは返事をしなかった。彼はドッペルゲンガーという言葉を知らなかったが、いうなれば、そのような存在に人が出会った時に感じる不気味さ……ウィザールークにレンスブルックが感じる気味の悪さは、そうした種類のものだったろう。


「それで、ガーゼと包帯の件は承知していただけるでしょうか?」


「まあなあ」くいっとジンを飲みながら、ウィザールークは不機嫌に言を継いだ。「だが、あんたに百リーヴルほども金がないとわかった今じゃ、ちょいと魅力のねえ商取引というやつだな、それは。あん時は、自分と瓜二つのそっちのレンスブルックという生き別れの兄弟みてえな奴がいたもんで、これも何かの縁かと思い、つい安請け合いしちまったが……そんなものをたんと山ほど作ったあとで、「やっぱいーらない!」だの、金が払えねえだの言われたら、こっちゃたまったもんじゃねえからな」


「お金のほうは、必ずお支払いします」


「だからさ、前金としていくらもらえるかって話なんだっての!!あんたからもらったサンプルを元に、こっちで一応作ってはみたがよ」


 そう言って、ウィザールークは鮮緑色の上衣の懐から、蜘蛛たちが吐きだす糸を元にして作ったガーゼと包帯を取りだした。正直、ガーゼも包帯も、彼が仕立て屋街にて承っている布地に比べたら――遥かに金がかからず量産できるものではある。だが彼は、苦労に苦労を重ね、今の人から敬われる商人としての地位を得た。ゆえに、金に関しては出来るだけ吹っかけ、びた一文たり負けたくないという精神を誰に対しても貫いてきたのである。


「素晴らしいですね……!これなら、怪我人たちを手当てするのにちょうどいいどころか、少し上質であるようにさえ感じるくらいですよ」


「そうかい?おりゃあよ、この街の衣服には一家言あるうるせえ人たちのあらゆる注文に答えてきたって男なもんだから、こんな簡単に出来るもんを大量に注文してえなんて聞くと、むしろなんか騙されてる気がしてきて、ケツのあたりがムズムズしてくるのよ。つか、あんたこんなもんにほんとに金払ってくれんのかい?」


「ええ。申し訳ありませんが、今すぐお金を支払うわけにはいかないかわり……」


(だろ!?そう来ると思ったぜ)


 ウィザールークはそう思い、チッと舌打ちしてジンを煽るように飲んだ。


「もし、それが必要という時にはこちらから連絡しますので、その時には必ずきっちりお金のほうはお支払い出来ると思います」


「そんなこと言ったってなあ。こっちは他にも仕事が色々あるもんで、いきなりその時急いで作って持ってこいなんて言われても、そう出来るとは限らねえんだぜ。けど、前金をちょいともらっておいて、残りの分仕上げてくれたらこんくらい払いますぜと、ちょいと証文でも一筆書いてもらえりゃあ、こっちだって「よしきた!!」とばかり、一生懸命なんでもさせてもらいまさあな。あんたが旅のお人で、ここに長くはいんなさらないと聞かされてる以上、そこんところは尚更だ。そこだけつっとばかこっちの事情についても考えてもらえませんかね」


 ギベルネスは考え込んだ。というのも、ウィザールークの言ったことは誰が聞いてももっともなことだろうと思ったからである。だがここで、レンスブルックが蜂蜜パイを頼み、自分と瓜二つの男の隣に椅子を進めた。ちなみに、この蜂蜜パイというのはウィザールークの大好物である。


「兄弟、これはここだけの話ぎゃ」と、レンスブルックは囁き声で続けた。「今先生が頼んだことはここ、メルガレス城砦の政府のお仕事だぎゃ。そんで先生は、そんことをなるべく秘密にしたいぎゃ。そこでなんかしら証拠が残ると困るわけだぎゃ。ということは……だぎゃ。頭のいいあんさんには言うまでもないことのような気もするぎゃ、こんなガーゼや包帯がぎょうさん必要になるってえことは、そりゃもうてえへんなことなわけだぎゃ。ほいで、この仕事をあんさんがきっちりしてくださったとしたら……伯爵さまは大喜び、お宅さんはもうこんな程度のことでよもやメルガレス城から招待されるとはというくらいの栄誉が得られるぎゃ。ようするに、先生が金のことを心配せんでええ言うとるのは、そういう意味だぎゃ」


(えっと、それはちょっと違うかな……)


 ギベルネスはそう思ったが、とりあえず黙っておいた。ウィザールークの反応をとりあえず見たかったのである。


「兄弟、それは本当か!?」


 用心深いウィザールークが、こんなにも簡単に話に乗ってきたことには、レンスブルックもギベルネスも驚いた。実は彼には、かねてよりある野望があったのである。その昔、ウィザールークが今の商売をはじめて間もない頃……仕立て屋街や織工街などを順番に回り、必死に頭を下げて仕事を取ってきたものである。それぞれの店には昔より長く懇意にして商取引しているところがあるゆえに、こうしたゼロからの開拓というのは非常に難しい。それも彼のような一見してどこの誰とも知れぬあやしい者ということになれば、それは尚更である。だが彼は、相場よりも安い値段によってより上質な布地や糸、染色料などを提供することによって、寝る間も惜しんで働き、今の商人としての地位を築いたのである。そして、そんな彼がさらなる望みとしているのが――実はメルガレス城に出入りし、伯爵さまや貴族さま方専用の出入り商人になるということだった。


「本当も本当ぎゃ」


 説得するのは難しいだろうと感じていただけに、レンスブルックはむしろ、このウィザールークの食いつきっぷりに驚いた。


「オラもあんたの布地商売のことはよくわからんぎゃ。せいぜいのとこ言って、あんたのその衣服が最上級の染料によって染められているのに対し、オラのこの緑の服はただの安い草木染めだってことくれえのことしかオラにはわからんぎゃ。とはいえ、そんなに苦労もなくガーゼや包帯を作れるなら、政府のほうに恩を売っておけば……間違いなくそれなりに見返りってものはあるに決まってるぎゃ」


「うむ。オレと同じ器量の悪い顔、それに人から好かれそうもない空気感を纏ってるおまえに言われたのでなかったら……オレももう少し考えたかもしれん。だが、オレはおまえを信用するぞ、兄弟。というのもな、おりゃあ、政府公認の仕事ってやつをするのが昔からの夢だったのよ。宮廷に出入りしてる人間どもが、どんなふうに仕事するか知ってるか、兄弟?まさに濡れ手に粟というやつよ。確かに、第一級の布地によるドレスやらダブレットやら、そんなものしか伯爵さまも貴族さま方も身に纏うってことはねえだろう。だが、そいつをお届けするために宮廷に出入りしてる人間てえのは、普通に同じ仕事してる奴らの軽く三倍か五倍か、あるいは事によったら十倍も儲けているというわけよ。兄弟、おりゃあな、おめえと同じこんなチンケな容貌だが、一度宮廷に出入りしてるご身分だなんてことが周囲に知れてみろ。「なんとかさまにこんとかいうお願いごとをしていただけませんでしょうか」なんておべっか使う連中が激増すること間違いなしよ。へ、へへ、へへへ……そしたらよ、オレのほうではどうすると思う?涼しい顔して、「ど~しよっかな~。ま、頼んであげてもいいけどお~」なんて具合でな、これ以上胸のすくってことはないってくらいなもんだぜ」


(チンケな容貌は余計だぎゃ)と思ったが、レンスブルックはウィザールークの気持ちがよくわかるのだった。とはいえ、彼の片目しかない右目のほうが、金や名誉欲といった欲望にギラついているのを見るたび、(こんなふうにはなりたくないもんだぎゃ)とは、同時に思うのだったが。


「まあ、兄弟。そういうことだから、お宅の好物の蜂蜜パイでも一緒に食べて、先に祝杯でも上げるとするぎゃ」


「ありがとうよ、兄弟」ウィザールークのほうでは、すっかり自分の頭には栄誉の冠でも輝いているかの如く、気分よく酒に酔っている様子だった。「おめえに最初に会った時から、おりゃあ思っていたのよ。そりゃまあ、最初は驚いたわな。こんなみっともねえチビがこの世にもうひとりいる……しかも同じく砂蜘蛛に食われて片目がねえときてる。こりゃ一体なんの因果か前世の業かってな。だが、おめえからはなんとなくいい奴の風が吹いてくるのがオレにはわかってた。ふふん、オレのこういう勘てのはいつでも当たるもんよ。なあ、兄弟。オレたちにはもしかしたらなんの血縁もないかもしれねえ。が、これからはオレのことを本当に兄ちゃんか何かだと思って頼ってくれ。その他、多少のことであればなんでも都合してやろう」


(オラがあんたから最初に会った時に感じたのは、なんとも嫌な奴から吹いてくる風だったぎゃ。ほいで、顔が似てるってことは、オラも同じ嫌な奴の空気を周囲に振りまいてるかと思って、絶望したぎゃ……が、まあ、同じ顔と背格好だからわかるってこともあるぎゃ。無一文からはじめて、今くらいの金と地位を得るのに、ウィザールークがどんくらい苦労したかとか、そういうことについては痛いほどわかるぎゃ……)


 ――こうして、無事商談が成立し、ギベルネスとしてはほっとした。もちろん、レンスブルックのウィザールークに対する説得の文言には問題のある箇所もあっただろう。だがこの先、メレアガンス州の領主であるメドゥック=メレアガンス伯爵が、ハムレット王子に味方してさえくれれば……残りの部分の口約束や金についてはおそらくどうにかなるだろうと、ギベルネスのほうではそのように見積もっていたのである。




 >>続く。






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