第57章
赤毛のディミートリアは、深夜帯の巫女たちと祈祷の任を交替するため、火種の皿と清めの水の入った鉢を受け取った。この日――聖ウルスラ祭のある月に入った九月一日――ようやく交替で断食せずに済むようになるため、そのことをどの巫女たちも喜んでいた。
もちろん、自分たちより目上の巫女の誰かが監督官よろしくいる場合においては、彼女たちも喜びをあからさまに表したりはしない。だが、深夜帯と早天祈祷においては、年嵩の巫女たちが入ることは少ないため、ディミートリアもまた、火皿と聖水鉢をロンダという名の若い巫女から受け取ると、「聖ウルスラ祭おめでとう!!」と挨拶を交わした。もう、聖ウルスラ祭までは一週間だったが、この惑星において一週間が八日なのは、自分たちの住む星を含め、他に七つの娘惑星があると一般に信じられているためであった(簡単にいえば、今はなき地球のあった太陽系に火星や水星、木星や金星、天王星や海王星などが存在しているのと同じである。そして、ギベルネスが驚いたことには、確かにここ惑星シェイクスピアの周囲には、この星に住む人々がそう信じているとおり、太陽と月を除いた他に、七つの惑星が同じ太陽系に存在していることだったに違いない)。
ゆえに、エルゼ海を渡ったところにある北王国と南王国にはまた別の文化・風習があったにせよ、西王朝の人々と東王朝の人々にとって、八という数字は聖数として大切な意味があり――祈祷室に入る巫女たちの数も必ず八人と決まっていた。深夜帯の巫女たちは大抵、零時から四時くらいまで祈りの担当をすることから、交替時間である四~五時頃には欠伸をしながら火皿と聖水鉢を次の祈祷時間を務める巫女に渡すことが多い。また、早天祈祷を担う巫女もまた、ほぼ夜明けとともに起きる関係性から、眠そうに目をこすりつつ、祈りの間へ入っていくことが多い。だが、時折抜き打ち検査とばかり巫女教育担当の年嵩の巫女のいることがあるため、そうした時には手厳しく注意を受けることもあった。
ディミートリアは、顔のない天使が翼を広げた祭壇の前で、火皿に香木を足すと、決して香木についた火が消えぬよう注意した。というのも、もし香木の火が消えてしまった場合、他のともに祈りを捧げる聖なる巫女たちから火を借りなければならないが、その際には彼女たちより位階が上の巫女たちに報告が上がることになっている。特に、聖ウルスラ祭のある前月のアルスの月は精進月と呼ばれ、この月と聖ウルスラ祭の行われる週まではいつも以上に注意が必要だった。というのも、この時期に巫女の誰かが火をたやしたとなれば、それは非常に縁起の悪いこととされていたからである。
無論、他のどのような時にも火はたやしてはならないとされてはいる。だが、特に深夜帯の場合に多かったが、ついうっかりというのは誰しもあるものである。そしてその際には、その場にいた他の巫女たちが、自分と比較的親しいか否かによって――上に報告されるかどうか、快く火種を貸してもらえるかどうかが決まると言ってよい。ディミートリアは今の今まで、地味で目立たないどうということもない子というのが神殿内における自分の立ち位置であると承知していたし、そのことに満足してもいた。ところが、巫女姫マリアローザにある日を境に敵視されるようになってから、そんな彼女の運命は変わってしまった。
聖ウルスラ神殿の巫女というのは、一度その道に選ばれ、神殿内において暮らすことが決まった者は、生涯ここから出ていくことは出来ないとされている。ゆえに、巫女同士には巫女同士の派閥に近いものが存在し、その中のどこかに所属することにより互いを家族のように労りあい、助けあう必要があるのだ。ところが、ディミートリアに味方したり庇ったりするとどうやら、巫女姫さまの御不興を買うことになるらしい……その噂が神殿内に広まって以来、ディミートリアは長く苦しい立場に置かれることになった。というのも、それまでどうということもなく親しくしていた巫女たちがパッと離れていったからだし、彼女が特別に親しくしているルドラとラヴィ二アの助けがなかったとしたら――ディミートリアはもしかしたら、聖ウルスラ神殿で首を括って死んだ、初めての巫女になったかもしれなかった。
『ディミ、デミにはボクだっているじゃないか』
金糸と銀糸の刺繍によって縫い取られ、四隅に房のついたブルーのサテンの座布団に膝をつき、ディミートリアが祈りと瞑想を捧げていると、彼女の巫女服の懐あたりから、もぞもぞ何かが動く気配がした。それは、タランチュラほどの大きさの、足先の毛がしっとりした黄色い縞模様の黒蜘蛛だった。
もしこのランペルシュツキィンと自ら名乗った蜘蛛が、ディミートリアの胸の間から「コンニチワ」しているのを見たとしたら――大抵の巫女は失神してしまったに違いない。だが、ディミートリアというこの娘には少々変わったところがあって、彼女は神殿内で時折見かけることのある蜘蛛が少しも怖くなどないのだった。無論、他の巫女たちにしても例のおとぎ話めいた聖女ウルスラ物語についてはよく知っている。だが、それとまた神殿内に時折出没する不気味な蜘蛛はまったく別というわけで、彼女たちはこのメレアガンス州に富と繁栄をもたらしているはずの蜘蛛を見かけると、やはり箒で外へ掃きだすか、誰も見ていないとすればなんらかの殺戮手段に訴えるというのが普通であった。
『そうね、ランペール。あなたがいなかったら、今ごろわたしはどうなっていたかわからないくらいだものね』
ディミートリアは赤みがかった美しいブロンド以外、特に見るべきところのない娘として扱われていたが、実をいうと彼女になんらかの嫌がらせ行為をした巫女たちには――ほとんど例外なくある種の罰が下っていたと言ってよい。とはいえ、それはディミートリアの与り知らぬところで起きていることであったが、彼女に意地悪をしたり、あるいはそこまでいかなくとも悪感情を抱いている者というのは、間違いなく部屋のどこかに蜘蛛や他の昆虫の群れが現れる。他にも、何もないところで転ぶなど、なんらかの不運がつきまとうことになるのだった。
もちろん、イコールそれがディミートリアに害を加えるか、あるいいは加えようとしていたからだとすぐさま悟る巫女というのは少ない。ただ、そんな彼女たちでもついには次のように考えるようにはなるらしい。すなわち、誰かを陥れることを考えてばかりいると、神さまが見ておられて、むしろその呪いが自分に降りかかって来るという、そうしたことなのではあるまいか、といったように……。
また、ディミートリアはこのことで、(自分は頭がおかしいのではないか)と疑ったこともある。つまり、ランペルシュツキィンが彼女の前に姿を現した四歳の頃から、ディミートリアは彼に心の中で話しかけ、その言葉に彼もまた答えてくれるのだったが――他の巫女たちはこっそりにでもそんなことはしていないことがはっきりした時、結局のところ自分は自分の頭の中でこの蜘蛛の言葉をも考えだし、孤独を紛らせているだけなのではないかと疑ったのだ。
だが、そんな時にもランペルシュツキィンは『悲しいよ、ディミ。そして蜘蛛は悲しいと自分の涙に溺れて死んじゃうんだ』とつぶやき、なんと驚いたことには、本当に次の日に死んでしまったのである!ところが、ディミートリアが自分はなんてことをしてしまったのだろうと滝のように涙を流していると……彼はまたどこかからひょっこり姿を現し、『やあ!これでボクのありがたみがわかったかな?』などと前脚(でいいのだろう、たぶん)をちょっと上げて挨拶してきたものである。その前日に死んだ丸々太った縞柄の蜘蛛のほうは、最早ピクリとも動かなくなっていたが――彼は『こんなもの、もうポイさ!』などと言って、自分の古巣をバリバリ食べて始末していたものである。
この時、ディミートリアはランペルシュツキィンから『ボクはある一定の周期で死ぬ必要があるんだ』と教えられていた。『肉体のある者は、どんな者だって永遠じゃない。だけど、ボクはこれからもずっとディミートリア、キミのことを守り続けるよ。それというのも、今聖ウルスラ神殿の巫女姫として祭り上げられているマリアローザは本当の巫女姫じゃない。いずれキミが本当の巫女姫として、この神殿に立つことになるんだからさ!』……ディミートリアはこの時も、やはり自分の頭がどうかしたのかとしか思えなかった。けれど、その後ランペルシュツキィンが語ったことの内には、ずっとこの神殿に閉じこもって暮らしてきた彼女が、決して知りえない情報が含まれてもいた。すなわち、『現在の巫女姫マリアローザは、セスラン=ウリエール卿が宮廷内で実権を握ろうとしたことから作られた<偽の巫女姫>であること、そのことを巫女姫教育に関わった側近巫女たちは知っていること、だが、いずれは本物の巫女姫であるディミートリア、キミが巫女姫として立つ日がやって来る』……といったようなことである。
『そんなこと、絶対ありえないわ』
そう言われた最初の頃も、ディミートリアは溜息とともに否定したものだった。けれど、それから数年して、マリアローザの陰湿ないじめがはじまった時……『あんな娘、殺してやることなんか簡単なんだけどね』とランペルシュツキィンが憤慨して言うのを聞き、彼女はハッとして泣くのをやめた。
『馬鹿な子だなあ、まったくキミは。今でもまだ、ボクの言うことはキミの深層心理における、自分の作りだした会話だとでも思ってるのかい?ボクはね――こんな醜い蜘蛛の姿をしているけれど、まあ大抵のことはやってのけられるのだよ。ディミートリア、キミに完全にアリバイがある時に、マリアローザのことを毒殺してやることなんて朝メシ前なのさ。けどまあ、今あの娘はこちらもまた偽の騎士団長と面白いことになってるようだから、もう暫く様子を見ようと思ってるんだ。いずれあの娘は墓穴を掘る形で、自ら滅びを招くのじゃないかと、そんな気がするからね』
『偽の騎士団長……?』
何故今の騎士団長が偽なのだろうかと、ディミートリアは不思議に思った。というのも、毎年聖ウルスラ祭の時にある馬上試合トーナメントの際には、巫女たちは最前列かそれに近い場所で見ることが許されている。他に、巫女たちがメルガレス城へ上がる時など、聖ウルスラ騎士団の騎士たちは巫女の護衛につくため――心密かに彼らに憧れる巫女というのは実に数多いのである。
『あいつは、騎士団長を決めるという試合の時に不正をして今の座に就いた不届き者なのさ。何故ボクがそんなことを知っているのか不思議かい?ボクにはね……簡単に言えば仲間がいる。その仲間が、ボクと同じような蜘蛛だと考えるのも、今ボクが蜘蛛に憑依しているように、他の動物や昆虫なんかに憑依していると考えてくれてもいい。とにかくね、そんな情報網がボクにはあるってことなんだよ。そして、ディミートリア、キミが次の巫女姫になるってことは、ボクたちの総意だってことなんだ。ボクの言ってる意味、わかるかな?』
『いいえ、わからないわ』
頭というのか、心に直接話しかけてくるランペルシュツキィンの声が、本当にいっそのこと自分の深層心理の幻なら良かったのにと、この時ディミートリアはそう思いかけたほどだった。
『まあ、なんにしても待っておいで。いずれ、星母神書に「神の御前にへりくだれ。さすればあなたは、神がちょうどよい時にあなたを上げてくださるのを見るだろう」とあるように、キミはその瞬間がやって来るのを目にすることになるだろうからね』
『…………………』
ランペルシュツキィンにそう言われても、ディミートリアにはそれが本当に自分にとって幸いなことなのかどうか、よくわからなかった。彼女の希望としては、このままただの巫女のひとりとして静かに生涯をまっとうしたいように考えていた。彼女は内気な恥かしがり屋だったので、他の巫女たちのように宮廷で伯爵さまや伯爵夫人、あるいは貴族といった高貴な人々と交流したいとも思わなかったし、元老院議員たちの食卓に招かれて、政治的な意見を交わしたいといったようにもまるきり考えなかった。ディミートリアはただ、聖ウルスラ神殿という場所と、そこで巫女たちに囲まれて祈りに専念する生活というのが好きだった。また彼女には、ルドラやラヴィニアのように、『普通の娘の生活みたいなものに憧れるわ』という気持ちもよくわからなかった。もちろん、ディミートリアにしても、両親や兄弟姉妹のいる生活というのには憧れる。けれど、今の自分の生活が一般庶民のそれに比べ、遥かに恵まれたものであるということは、重々承知しているつもりだったのである。
ディミートリアは、ランペルシュツキィンの言ったことが(我が身に実現しますように)と願ったことは一度もなかったにせよ、彼の言葉が彼女にとって強い励ましになったというのは事実だった。巫女姫マリアローザにいじめられている間、ディミートリアは他の巫女たちからも避けられたり、巫女姫に同調する者たちからも意地悪されたりと、悲しく苦しい、散々な日々を送っていたけれど……そんな時、ランペルシュツキィンの慰めの言葉というのは、確かに彼女にとって強い力となった。いざとなったらこの自分には、マリアローザなんかけちょんけちょんにのしてやることの出来る力があるのだ――といったことではなく、そんな時には自分こそがマリアローザに代わる、聖ウルスラ神殿の本当の巫女姫なのだと想像すると、なんとなく心が晴れた、といったような意味合いにおいて。
その後、巫女姫マリアローザのディミートリアに対するいじめというのがすっかりやむと、彼女は大体のところ以前と同じ目立たぬ地味な存在へ戻っていった。けれど、彼女は再びマリアローザにとってはその目の中にも入ってこないような数多くいる巫女のひとりになったことで、心底ほっとしたものである。ただ、ディミートリアは前以上に用心深くはなっていた。たとえば、祈祷の間に入っている時、うっかりして火種を絶やしてしまった場合、他の巫女たちが香木に火を移させてくれたとしても――自分がぼんやりしていてそんなことになったということは、必ず側近巫女たちに報告されるはずだと思っていた。他にも、自分に少しでも何かおかしなところがあれば、目敏い巫女の誰かしらがそのように密告するだろうと。
とはいえ、ディミートリアはこの時、祈祷の間にて(今年もつつがなく聖ウルスラ祭が祝福されますように)と祈りながら……まさか、とうとう蜘蛛のランペルシュツキィンが小さな頃から自分に語って来たことが実現するその瞬間がやって来ようとは、その日が間近に迫りつつあるのだとは――彼女は夢にすら思ってもみなかったのである。
>>続く。




