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第52章

「一体どうしたのよ、フランソワ?いつになく浮かない顔しちゃって……」


 巫女姫マリアローザ……いや、ただの女のマリアローザは四輪馬車の中で、恋人の騎士団長の顔を自分のほうへ向けさせた。彼とこうした関係になって、約一年ほどにもなるだろうか。初めての出会いはもう何年も昔のことになる。聖ウルスラ祭にて、フランソワ・ボードゥリアンは巫女姫である彼女の警護につく、一騎士だった。今までの間も祝祭に相応しく正装した騎士たちに守られつつ、何がしかの祭事において騎士に警護されたことは何度となくある。けれど、その時だけ一体何が違ったというのか、マリアローザ自身にも思い出すことは出来ない。ただ、彼ひとりだけが多くの人々の中にあって、不思議と浮かび上がって見えたのだ。その時、マリアローザとフランソワの眼差しと眼差しは出会い、お互いに何か、特別な結びつきを感じた。とはいえ、巫女姫とただの一介の騎士とでは、滅多に会うことすらままならない……だが、ふたりは今もこうして何度となく逢瀬を重ねている。マリアローザは、フランソワと会うために神殿に多額の寄付を納めているウリエール卿の名前を使った。実はマリアローザは当人がそうと望めば、俗世における彼女の生家といえる貴族街にある屋敷のほうへ時々戻ることが許されていた。とはいえこれは、マリアローザ以前の巫女姫が一度として行使したことのない、特例中の特例の権利であった。あくまでも、彼女がメルガレス城砦、引いてはこのメレアガンス州の有力者であるセスラン=ウリエール卿の娘であるからこそ許されていることだったのである。


 平民の娘の平服を来てヴェールを被り、神殿に詣でている人々の群れに混ざりこめば、彼女が巫女姫であるだなどと気づく者は誰もいない。実は聖ウルスラ神殿にはいくつか、火急の際などのために神殿の外へと通じる通路がある。マリアローザは自分に忠実な巫女のひとりを替玉にして、そのような形でも市井へ飛び出すということが幾度となくあった。


「浮かない顔にもなるさ」と、フランソワ・ボードゥリアンは思案顔で言った。ふたりは神殿の外で出会うと、いつでもこうして箱馬車に乗り、カーテンを閉めきった中でキスをし、それから体を重ね愛しあうのだった。「おまえも俺も、いつまでもこんなことはしてもいられないだろう?俺にしても、騎士団長ともあろう者が身を固めていないのはまずいと、父がうるさいものでな。『いつかそのうち』という言葉も、近頃ではとんと効き目がない。これで、俺が巫女姫さまと通じているなんていうことがわかったら……手打ちにされてジ・エンドといったところだ」


 フランソワが自分の首を刎ねる仕種をするのを見て、マリアローザは笑った。


「馬鹿ね、今さら……そんなこと、そもそも最初からわかりきってたことでしょう。わたしたち、もう心中でもするしかないんじゃない?」


「嘘つけ。俺となんか、死ぬ気もないくせに……」


 真紅のベルベットのクッションの上にフランソワは恋人のことを押し倒した。マリアローザの体からはいつも、神殿で焚きしめた特別な香の匂いがする。


「でも、いざとなったらそうなるかもしれないってことは、いつも頭のどこかにあるつもりよ、これでも……」


 馬車の御者は、ボードゥリアン家に代々仕える従者で、口の堅い信頼のおける者だった。もっとも彼は、マリアローザについて「やんごとなき貴族の姫君」といったようにしか聞かされてなかったが。


 いつもふたりは、同じ馬車と方法によって、メルガレス城砦内を一~二時間ほども走らせ、お互いの近況や政治的企みのこと、あるいは愛の囁きを交わしては愛しあい、離れ難い気持ちを抑えたまま別れ、再び会いたいという気持ちを抑えきれず、何度となく罪ある関係を続けてきた。


「今年も聖ウルスラ祭の季節がやって来るわね……そっちのほうの首尾はどう?」


「首尾はどうって、どういう意味だ?こちらには特に何もないさ。例年通り、馬上試合トーナメントに向け、聖ウルスラ騎士団として恥かしくないよう武芸に励む日々といったところだ」


 馬車のほうは彼らふたりが足を折らずとも横になれるよう、改造してあった。マリアローザはこの日も、フランソワの胸にもたれつつ、「ただの女の振りごっこ」をしている。つまり、普通の市井の女といったものはこんなふうに男の恋人に甘えるのだろうという振りだ。


「馬鹿らしいことね」マリアローザは挑発するようにフランソワの体の上を指でなぞりつつ、軽やかな笑い声を上げる。「だって、あんたたち騎士団のご立派な騎士さま方がいくら武術に励もうと、結局のところ勝利するのはメレアガンス伯爵のボンクラ息子ってことにシナリオ書きが決まってるんじゃないの。まったく、滑稽だったらありゃしないわ。エレガンの奴、本人は美青年でもなんでもないってのに、自分を着飾ることしか頭にないような奴なんですものね」


「まあな」と、フランソワもまた笑った。そして、その笑いの振動は、マリアローザにもはっきり伝わってくる。こんな冴えた会話の出来る女は、彼は自分の恋人以外誰も知らなかった。「州一番の権力者の息子として生まれたとしたら、そんなものだろうさ。俺だって、自分がもし『お鏡の中のフランソワさまは十人並み以下のご容姿でございます』と誰も言ってくれなかったら……自分の男ぶりはそう悪くないと信じて疑うことはなかったろうしな」


「あら、あんたは違うでしょ」


 マリアローザは(十人並みだなんてとんでもない)という顔をして、恋人の顔をぴたぴたはたいた。確かにフランソワ・ボードゥリアンは、生まれつきの金の巻き毛の中に、凛々しい眉、その下の憂いを帯びたサファイアの瞳、それによく通った高い鼻梁を持つ――いわゆる少々濃い目の、またそれゆえに男らしい顔立ちをした美青年であった。


「自分でもわかってるくせに……」


 そう言って、マリアローザは薄い茶のドレスのボタンを自分からぷちぷちと外した。それから、恋人の手にたわわな白桃のような自分の胸を触らせる。フランソワは彼女の胸を優しく包みこむように揉みながら、マリアローザの紅い唇に何度となくキスした。『この刺青を入れた時、とても痛かったのよ』と言われた時の衝撃を、フランソワは今も忘れることが出来ない。だが、実は彼女が本物の巫女姫でないとわかった時、心のどこかでほっとしたのもまた事実だった。


 フランソワはいつも、マリアローザの左の胸にある竜の青い刺青を何度となくしつこいくらいなめる。まるで、今も彼女がその部分に痛みを感じ続けていることを癒すように……。


「神殿の巫女さま方は相変わらずか?」


 石畳に揺れる馬車の中で激しく交わったあと、再びフランソワはマリアローザのことを優しく抱いた。お互い、汗をかいたせいだろうか。マリアローザの体からは、神殿の香の匂いがより強く立ち上っていた。小さな頃からこの香りの中で暮らしてきたせいで、この特殊な香の香りは、まるで彼女の体の一部のようになっているのだろう。


「わたしのほうは、毎日起きることと言えば同じことの繰り返しだっていうのは、あんただってわかってることじゃないの」


 ただの女に戻れた喜びに震えつつ、マリアローザは恋人の体にぴったり寄り添ったまま言った。いつまでもこうしていられたらいいのに、何故楽しい時というのは鳥の翼のようにあっという間に過ぎ去っていってしまうのだろう。


「いや、そうじゃなくて……」


「ああ、ディミートリアのことね。毎日、下働きの女みたいに一生懸命神殿で働いてるわよ。あんた、そういえば一度恐ろしいことを言ってたわよね。あの子のこと、市井に連れだして、誰か適当な男にでもレイプさせて神殿から追い出せばいいんじゃないか、なんて……」


「おまえこそ、人のことが言えるか」と、フランソワは笑った。彼らは恋人同士であると同時に、ある種の共犯関係にもあるのだ。「俺が何故今こうして聖ウルスラ騎士団の騎士団長なんてものになってると思う?そもそもは、おまえがそそのかしたそのせいじゃないか。この小悪魔め!」


 マリアローザのほうでも、恋人の胸の中でくすくす笑った。そうなのである。彼女はフランソワと恋人関係になると、キスの次の段階へ進む前に、あるひとつの条件を出したのだ。すなわち、聖ウルスラ騎士団の騎士団長になることが出来たら、という。だが、マリアローザは自分の恋人が対戦相手が毒によって倒れるよう仕向けたことまでは知らなかったし、フランソワにしてもサイラス・フォン・モントーヴァンが、まさか落馬して首の骨を折るとまでは想像してもいなかったのである。


「次は、おまえの嫌いないかがわしい娼館にでも行って、ゆっくりするとしようか?」


「ふふっ。まあ確かにね、いつもこう窮屈な馬車の中でだなんて、あんたもつらそうですものね。それに、そんな場所にまさか巫女姫さまがいらっしゃるだなんてこと、誰も思わないっていうのもあるけど……大丈夫なんでしょうね?フランソワ、そんなことであんたが弱味を握られて、相手の言うなりにならなきゃいけないだなんてことにならなきゃいいけど……」


「大丈夫さ。そもそも、向こうが俺の弱味を握ってるんじゃなくて、俺のほうがあいつらの弱味を握っているんだからな」


「もう、フランソワ!あんたったら、ほんとに悪い奴ね!!」


 愛しあう恋人たちは子犬のようにじゃれあい、その笑い声も喘ぎ声も、馬車の軋む音や石畳の上を走る車輪の音にかき消されていった。だが、それでいてふたりとも、頭のどこか片隅ではわかっているのだった。背徳の悦びと共犯の鎖に繋がれているからこそ、相手のことが恋しい。けれど、もしお互いに巫女姫でもなく騎士団長でもない、ただのひとりの男と女、それも貴族でもなければなんの財産も持たぬ男と女になったとすれば――彼らはそんな相手のことなどあっさりと捨て、すぐにも忘れ去ってしまうに違いないということを……。




 >>続く。






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