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第50章

「今日は、ウルスラ服飾店のほうはどうしたのですか?」


 玄関ホールのところで、家の一階部分を貸しているというツィエール夫妻とギベルネスはすれ違っていた。旦那のほうは腕っぷしの強い荒くれ者といった印象であり、妻のほうは一重で眉が薄く、そのせいかどうか、疑い深そうな顔をして見えたものである。ふたりともまったく愛想がなく、ギベルネスのことを見ると(女所帯の家へやって来た、スケベなしょうもない奴)と、軽蔑するような視線を向けてきたものである。


 そこへ、階段で遊んでいたダニエラとハンナが競うようにやって来たので、ギベルネスはほっとした。流石に(このしょうもないロリコン野郎め!)とまでは思われまいと感じたのである。


「どうせ客なんか来ないで、カンコカンコと閑古鳥が鳴くばかりでしょ?だから、思いきって閉めちゃって、コレクションのドレスの仕上げを家でしようってことになったのよ」


 廊下のところで練り菓子やキャンディを受け取ると、ダニエラとハンナは「もうこのおいちゃんに用はない」とばかり、三階へ上がっていった。もっとも、ふたりはこの大切なおやつを隠すために自分の部屋のほうへ上がっていったのであるが。


「そうだったんですか」


 ギベルネスはモントーヴァン邸の厨房からもらってきたものを誰に渡そうかと迷った。というのも、彼の出現でウルスラとエステルとルースは一瞬顔を上げたが、他の姉妹たちは刺繍仕事をしていたり、ドレスの袖や裾を押さえてかがっていたりと……顔さえ上げることがなかったからである。また、ウルスラは少しばかり返事をしてくれ、エステルは「あら、ギベルネさん。こんにちは」と挨拶してくれたが、あとはもう人形に着せたドレスの最終調整に取りかかっていた。


「姉さんたち、わたし今日休みなんだから、好きにさせてもらうわね」


 肩のあたりを叩き、宝石の飾りボタンを縫いつける手を止めると、ルースが言った。彼女に対しては誰も返事すらしなかったが、ルースはそれを(好きにしていい)ものと受け取ったらしい。


「ギベルネさん、姉さんたちは聖ウルスラ祭が終わるまではずっとあんな調子でしょうから、気にしないほうがいいわ。それより、廊下からダニエラとハンナの声が聴こえてわかったの。きのうの今日で早速約束を果たしに来てくださったのね。嬉しいわ」


「いえ……ちょっと私も忙しくなるかもしれないので、来れる間に気になる用事は済ませてしまおうと思ったのですよ」


「そうなの?」


 ルースはギベルネスのことを廊下のほうへ連れだした。彼はここで、持ってきた食材の包みのほうを彼女に渡す。


「え~っ!?何これ、ギベルネさん、もしかしてあなた、魔法使いか天使なんじゃない?」


 若鶏肉を揚げたものや、うなぎパイ、果実のコンポートタルトなどを見て、ルースはすっかり驚いた。「姉さんたち、今日はギベルネさんのお陰でご馳走が食べられると思って、お仕事に精をお出しなさいな!」ルースは居間のほうへ引き返すと、そう叫んだ。「ほら、このご馳走はギベルネさんのご好意で好きにしていいそうよ。それじゃ、あたしはギベルネ氏とちょっと出かけてくるわ」


 姉妹の間で差し入れを持ってきてくれた英雄にギベルネスが早代わりする前に、ルースは彼のローブの袖を引き、急いで階段を下りていった。三階のほうで話しても良かったが、彼女もまたたまの休みくらい、外で何事にも煩わされず、久しぶりにのんびりしたかったのである。


「ごめんなさいね、ギベルネさん。姉さんったら、せっかくあなたが気を利かせてくださったのに、あんな態度で……でも、忙しいとかなんとかいうより、姉さんは自分に気のありそうな男にはいつもああなの。最初、何かがきっかけで親しくなったとするでしょ?するとね、向こうが自分に本当に気があるかどうか試すみたいに、ちょっと突き放した態度を取ったりするのよ。だけど、あなたがあんなご馳走持ってきてくれたとなったらまた話は別よ。でも、そんな理由からベタベタされても、あなただって不快なだけでしょ?」


「その……きのうから思ってたんですが、私はあなた方姉妹の誰かしらに気があるとか、そうしたわけではないのですよ」


 ルースにぎゅっと腕を組まれることに戸惑いつつ、ギベルネスはそう答えた。


「そうなの?ほんとに?でもおかしいわね……きのうの夜はすっかりうちはそのことで話が持ちきりだったんですもの。アルマ姉さんもメリンダ姉さんも、さっき、あなたに顔を向けもしなかったでしょ?だけど、人物評としちゃあなた、我が家ではなかなか上々なのよ?メリンダ姉さんは『今までうちに来た男の中じゃ一番まともそうじゃない?』なんて言ってたし、『家に出入りされても邪魔にならない感じのところがいいわ』って、アルマ姉さんは言ってて……ふたりとも、普段は滅多に男の人を褒めないんだけどね、そんなふうに言ってたってことは、あなた実際には相当気に入られたってことなのよ。エステル姉さんもあなたがウルスラ姉さん狙いじゃなかったら、あなたとおつきあいしたいんですって!」


「じゃあ、たぶん……」ギベルネスは他のことが心配になって言った。「フランシスさんはきのうも、フランツさんとお別れしたとは言いだせなかったってことなんですね?」


「そーなのよう!でもむしろ、姉さんたちがきゃあきゃああなたのことばかりくっちゃべってるから、今日はもう言わなくていいと思って、ほっとしたみたいよ?ふふっ、ねえギベルネさん。もし本当にあなたがウルスラ姉さん狙いでもエステル姉さん狙いでもないんだったら、あたしとつきあっちゃわない?」


「いえ、私はいずれまた、今度はロットバルト州というところに、仲間と移動することになると思いますから……ここにいるのは、本当にそう長くない間だけだと思うんですよ」


 ギベルネスはルースに腕を引かれるがまま、第十六区にある広場のほうへ向かった。そこでは市が立っていたが、野菜や果物といった新鮮なものはすでに売れてしまい、人の姿のほうはすでにまばらだったようである。それでも、いわゆる青空教室――年若い生徒ら(大体、七、八歳から十代前半くらいに見える子供たち)を集め、教師がリーヴル銀貨やクラン銅貨などを使い、算術を教えている姿が見えた。惑星シェイクスピアには紙蜘蛛という、紙の材料となる糸を吐き出す蜘蛛がほぼどこにでもいたから、「紙に何か文字を書きつけたり、絵を描く」という文化が、比較的早く庶民にも浸透していたようである。


「あたしたち、毎日ここへ来ては肉や魚なんかを値切ってばかりいるもんだから、すっかり顔を覚えられてるのよ。もっとも、そんなのはあたしたちばかりじゃなかったでしょうけどね……小さい頃はわたしもそうだったけど、今はあの青空教室にダニエラやハンナが通ってるの。父さんがまだ生きてた頃はお金もあったから、上の姉さんたちはみんなちゃんとした女学校を卒業してるのよ。だから、本や詩を読むことや、算術について、大体のところは姉さんたちが教えてくれるの。もっとも代数や幾何学なんてもの、将来一体なんの役に立つやら、あたしにはさっぱりだけどね!」


「上級の学校では、女性にも代数や幾何学なんていうものまで教えてるんですか?」


 ギベルネスは驚いてそう聞いた。青空教室の教師は、声の通りのいい、まだ若い男だった。仮の教卓の上にクラン銅貨をのせ、「君たちがもし林檎ひとつにつき、三クラン支払って買ったとするな?さて、ここに三十五クランある……リンゴは一体いくつ買えるだろうか?」――教師は名前をアルベールというらしく、「アルベールせんせーい!うちじゃそんなお高いリンゴは買えませ~ん!」という茶々が入り、生徒一同大笑いとなる。「うちも!」、「うちだって!!」と、女の子たちもくすくす忍び笑いを洩らしている。


「だから、あくまでもこれはたとえばの話だ!!さあ、計算できる子はしてごらん」


 年長の子たちはすぐわかったらしく、サッと手が上がった。(11個だなあ)と、ギベルネスも青空教室の様子を見守りつつ、心の中で思った。だが、アルベール先生はその子たちが紙に書いた答えを見て回ると、「よし」と頷くに留めておいたようだ。


 小さい子供たちが多いせいもあり、「んっと、んっと……」と一生懸命指を使っていたり、間違いなく半数以上の子供たちが答えについてなど、まるでわかっていない。それでも、アルベール先生が教卓のところまで呼んだのは、一番幼く見える、しきりに鼻をすすってばかりいる七歳くらいの男の子だった。


「いいかい、ここにクラン銅貨が三十五枚ある……リンゴは一個三クランということは……」


 ギヨームと呼ばれた子は、アルベール先生の言うとおり、三クランずつ銅貨をよけていき――最終的に二枚残ると、答えのほうがわかったようだった。「先生!買えるリンゴは十一個だね!!これならぼくにもわかるよ!」……他の指を使って数えようとしていた子供にもわかったらしく、「先生!今度は別の問題だして!!」と、催促する女の子までいる。また、その間も年長の子たちは別の課題を与えられているらしく、そちらと取り組んでいるようだった。


「よ~し、いいぞう!!でも、今度は問題を変えような。さて、ここに定規がある。サンソン、サンソンのお父さんは大工だったな。さて、1センチは何ミリだった?これは、先週やったばかりのところだぞ」


「十ミリです!先生!!」と、当のサンソンが答えると、「その通りだ」とアルベールは頷き、「じゃあ、1メートルは何センチかな?」と、次の問題を出す。下を向いている子供のひとりに、アルベールはちょうど1メートルちょっきりの定規を渡すと、他の子たちにもわかるよう、その子を立たせて数えさせた。「ほら、ここに目盛りがあるだろう?この長さが1メートルということは……そうだ、そうだ。ここまでの目盛りが十センチということは――いいぞ、ヘクター。そのままゆっくり数えれば、答えは自ずとわかるだろう……」


 ここで、「1メートルは百センチ、そして千ミリよ」と、ギベルネスの隣でルースが何気なく答える。正確には、ここ<西王朝>領域では、メートルはエートルと呼ばれており、センチはコルマ、ミリはエリと呼んでいたりするのだが、ギベルネスの脳内ではそのように勝手に翻訳がなされていたわけである。


「そうですね。<ルキア食堂>では、金銭の計算については自然と身に着きそうですが、衣服の採寸時などには、そうした計算というのは必要不可欠なものでしょうね」


「そうなの!!」と、どこか得意気な笑顔をこの時ルースは見せた。「だから、わざわざ青空教室なんて通わなくても、そこらへんのことは自然と覚えるわ。だって、メジャーにもあの定規と同じような目盛りが刻んであるし、しかもあの1メートルしかない定規なんかより、もっとずっと長いんですもの」


 ギベルネスとルースのふたりは、天幕の張ってある露天商の間を縫い、菩提樹の日陰に入った。そして、特に言葉もなくそこへ並んで座り込む。


「ちょうど、風の通り道になってるみたいで、涼しいですね」


「そうね。ここんとこ、毎日家じゃピリピリしてるもんだから、たま~にわたし、そういうので堪んないなって感じることがあったら、ここにやって来るのよ。あー、ほんと気持ちいいっ!!」


 ふたりのいる広場の後ろには、第十六警護院と、隣に法務院の建物があった。そこからは引っきりなしに人の出入りがあったが、広場のほうへやって来る人間は少なかったようである。


 この時、ギベルネスは露天商で小ぶりの林檎をふたつ買うと、戻ってきてひとつをルースに渡した。


「あら、ギベルネさん。あなたあたしたちモーステッセン家の女たちを甘やかしすぎなんじゃない?あたし、林檎なんてもう何か月も食べてない気がするわ」


「いえ、これはただの賄賂です。私が自分の心のやましさを誤魔化すためのものですので、あまりお気になさらず……」


 ルースは緑の木綿のワンピースを着ていたが、その上に重ねてかけたエプロンで、軽く林檎を拭いてからそれに齧りついた。


「あ、この林檎当たりね!ボケたのや、味のしないのに当たることもあるけど、これは甘いわ。それで、賄賂っていうことは、あたしに何か聞きたいことでもあるの?」


「ええ、まあ」ギベルネスはルースの隣に再び座って言った。「フランシスさんがおつきあいされていたという、フランツ・ボドリネールさんのことなのですが……聖ウルスラ騎士団の副団長さんということで、間違いなかったですか?」


「うん、そうなのよ!すごいでしょ?メレアガンス伯爵夫人が引き合わせてくだすったのよ。『ふたり、とてもお似合いだと思うわ』なんて言ってね。あれはもう三年も前のことになるかしら……あの頃はフランツの騎士仲間のサイラスさんも生きてらっしゃって、聖ウルスラ騎士団もなんの憂いもなく煌びやかに輝いて見えたものだったわ。でも、サイラスさんが馬上試合の事故でお亡くなりになってから、フランツもすっかり暗くなっちゃって……だけど、フランシスはそんな彼のことを支えてあげてたと思うし、正直今さら家の事情で他の女の人とだなんてねえ。きっと、何かわけがあるに違いないわ」


「そのお話は、本決まりなのですか?」


「本決まりって、フランツが他の女と結婚するってこと?」


「ええ……もし結婚なさるのだとしたら、どなたなのだろうと」


(もしかしてこの人、ウルスラ姉さんでもエステル姉さんでもなくて、フランシス狙いなのかしら?)そう思い、ルースはいささかムッとした。


「ううん。他に女がいるに違いない、家の事情でその女と結婚することになったに違いないっていうのは、フランシスの被害妄想なの。だけどわたし、あんまりもうあの子の被害妄想を聞きすぎて疲れてるもんだから、否定しないことにしてるのよ。だって、そうじゃない?『あのフランツに限ってそんな……』なんて言ってて、そのうちほんとにボドリネール家の次男がご成婚――なんて話が、耳に入ってくるかもしれないんですものね。そんなことになったら悲劇ですもの。だから本人が最初からそう心に覚悟しておいたほうがいいと思って」


「フランツさんには、お兄さんがいらっしゃるのですか?」


(それは初耳だ)と、ギベルネスは思った。


「これ、ここだけの秘密よ」と、ルースは周囲をきょろきょろして言った。「ボドリネール家の長男のレイモンド・ボドリネールはね、父親から勘当されたらしいのよ。ええっと、フランツとお兄さんのレイモンドはね、異母兄弟なの。で、年の離れた二番目の奥さんとの間に出来たのがフランツで……そのことでちょっと性格のほうがひねこびちゃったらしいのよね。ある時、何かのことでお父さんと大喧嘩して出ていっちゃったんですって。だけど、フランツはあの優しい穏やかな性格でしょ?だから、お兄さんとは今も繋がりを持ってて、仲も悪いわけじゃないみたい」


「その、失礼ですが、そのレイモンドさんという方は、今はどこで何をしてらっしゃるのですか?」


「なんかねえ、人に大声じゃ言えない、裏町に出入りするような仕事をしてるんですって。だけど、名門騎士の家系で破門されたとしたら、そんなふうに影の世界で生きていくしかないかもしれないわよねえ。とにかく、フランシスから聞いた話じゃ、ボドリネール家じゃレイモンドは死んだものと見なして、お父さんの前じゃその名前自体禁句になってるみたい」


(この男がおそらく、ギネビアに孔雀の羽根を渡した男なのではないか?無論、断定は出来ないが……)


「ねえ、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?なんでギベルネさんはフランツの家のことなんかにキョーミあるの?」


「そうですね。私自身はまるきりなんの関係もなかったりするのですが……」話して大丈夫だろうかと思いつつ、ギベルネスは言った。「今、私も含めた仲間のみんなが、ある騎士殿のお宅にご厄介になっているのですよ。そこで、聖ウルスラ騎士団内では今色々問題があると聞いたものですから、フランツさんも、そうした人間関係のゴタゴタしたことがあって、それでフランシスさんと別れることにしたのではないかと、そう思ったものですから……」


「なるほどねえ」この時、ルースは最初に<ルキア食堂>で会った時、彼と一緒に食卓に着いていた面々のことを思いだしていた。中にふたりか三人、騎士風の男がいたように記憶している。「それで、ギベルネさんはなんでメルガレス城砦に来ることになったの?なんていうのは聞きすぎかしら?あのお仲間の人たちもみんな、一角の人物って感じがしたものね。あの背の低い小人さんは別として」


「レンスブルックはいい男ですよ」と、ギベルネスは笑って言った。「もし彼がいなければ、旅のほうはつまらなくて、人間関係も時々ギスギスすることがあったかもしれませんね。そういう意味では彼もまた一角の人物と言えると思います」


「ふう~ん。でもあたし、あなた方が帰ったあと、あの小人さん、どっかで見たと思ってたんだけど……あのがめついことで有名な、『綿布の王』に似てるんじゃないかと思ったの。『綿布の王』もね、右目側だったか左目側だったかを髪の毛で隠してるのよ。なんでも、昔砂蜘蛛に片方の目をやられちゃったんですって。うちで前に食事してったことがあるんだけど、何かの自慢話か武勇伝みたいに偉そうに話してたものだったわ」


(片目を砂蜘蛛にやられたというところだけ、確かにレンスブルックと一緒だな……)


「その『綿布の王』という方は、どういった方なのですか?」


「えっ!?ギベルネさん、あなた本当に何も知らないのね。『綿布の王』っていうのは、ここメルガレス城砦から西に二十キロくらい行ったところにある町で、そりゃもう広~~い綿花畑を所有してることで有名なのよお。ものすごい醜男なんだけど、お金はたっぷり持っててリッチなの。『オラの嫁に来ねえか?へ、へへへ』なんてあたしもお尻さわられそうになっちゃった。ほんっとゾッとしちゃうような感じの男よ!」


「…………………」


(『綿布の王』か)と、ギベルネスは思った。(そんなに広大な綿花畑であれば、相当人手がいるだろう。そうした人員管理もするとなったら、結構な厳しい締まり屋でもなければ、確かに商売として成功させることは難しいだろうな……)


 この時ギベルネスが思っていたのは、その『綿布の王』と呼ばれる男が、レンスブルックと同じく、ハンディを抱えた身で大成するまでの人並ならぬ苦労のことであったが――ふと気づくと、ルースが怒ったような顔をしているのを見て、ハッとした。


「ギベルネさん、あなた変な人よね。こういう時はねえ、『そんなキモい男にセクハラされて、さぞ迷惑だったろうね』とでも言って、一緒に笑うところじゃないの!」


「はあ、すみません……」


 ギベルネスの天然なすっとぼけた顔を見て、ルースはすっかり気が抜けてしまったようだった。


「それで?ギベルネさんは結局、どういう女の人が好みなの?まさかとは思うけど、きのう話してくれた失恋話は実はとっくに乗り越えてて、王都あたりに恋人がいるんだ……なんてわけじゃないんでしょう?」


「まさか」と、ギベルネスは笑った。「私はそんなに器用なタイプじゃないんです。ダニエラちゃんとの約束も果たしましたし、暫くはモーステッセン家へはお邪魔しないほうがいいんでしょうね。私も針仕事のお手伝いが出来るといいのですが、そちらは不得手なものですから……そういえば、もうひとつお聞きしたいのですが、この町には馬車職人の方というのはいらっしゃるものでしょうか?」


「なあに?まさかとは思うけど、あなたたちこれから、新しい馬車でロットバルト州へ行く予定ってことなの?」


「そういうわけじゃないんですが……」


 ギベルネスはごそごそポケットのあたりを探ると、そこから紙蜘蛛の作った紙の葉を取りだした。そこには、木製の車椅子が――ルースの目には、袖椅子に小型の車輪が付いているように見えるものが描いてある。


「こういうものを作っていただけそうな方を探してるんです。まあ、家具職人の方でもいいのかなと思ったりしてるんですが……」


「そういうことなら、下の階に住んでるツィエールさんにお願いしたらいいわよ!あの人、元は腕のいい木工職人だから。なんかねえ、親方と喧嘩して工房を出ることになったんだけど、今もほんとは機織りを製造する仕事のほうに戻りたいのよ。今は工廠街のほうで雑用したり、用心棒みたいな仕事やってみたりとか、なんか色々大変みたい。奥さんのルシンダがね、時々ぶつくさこぼすのよ。『意地なんか張ってないで、頭下げて戻ってくれりゃあ暮らしのほうも少しか楽になるのに』って。ほら、そんな形で工房でちゃうと、ギルド中にぱっと噂が広まっちゃうから、他の工房でも雇うのを断られたりしちゃうみたいなの」


「そうだったんですか。お金のほうはいかほどお支払いすればいいかわからないのですが……木材を購入してきて、こんなふうに作ったらいいとか、アドバイスしていただけるだけでも、私としては相当助かります」


「たぶん、ジャンのほうでは暇な時を見てやってくれんじゃないかと思うわよ。あの人、うちの煙突直してくれたりとか、屋根の修繕をしてくれたりとか、そういう仕事が好きで、少しも苦じゃないって人なのね。無口で無愛想だけど、手先が器用で、いい仕事してくれるって感じの人なの。いいわ。あたしのほうで上手いことお願いしといてあげる。だってあなた、きっと馬車工房なんかへ行ったとしたら、普通以上にお金ぼったくられちゃいそうですものね」


「ありがとうございます。大変助かります」


 ギベルネスは自分よりずっと年下の娘に頭を下げた。


「そんで?これ、一体なんなの?椅子に車がついてるみたいだけど、こんなので街中移動してたら、なんか馬鹿っぽい感じするけど……もしかして、聖ウルスラ祭で豪華な衣装でも着て、これで移動する人でもいるの?」


「私が今ご厄介になってる屋敷のご主人が……片足のほうが動かないものでしてね、移動するのにこんなものでもあれば便利かと思ったものですから」


「ふう~ん。ようするに人助けってことね!わかったわ。それでギベルネ、あなた、次は一体いつうちに来られる?それまでにジャンおじさんに話のほうはつけといてあげる。もちろん、お金のほうは材料費の他に少しくらいは当然取られるわよ。ツィエールさんちも、生活が苦しいみたいだから……でも、ここメルガレスの商魂逞しい工房街の店を直接訪ねていくよりは、よっぽど安くすむことだけは約束しといてあげる!!」


(これでギベルネとまた会える口実が出来たわ)そう思い、ルースは心の中でにんまり笑った。そして、次にギベルネスがモーステッセン家を訪ねていってみると、ジャン=ジャック・ツィエールはすでに半分以上、完成品に近いような試作品を作り上げていたのである。というのも、ルースからその話を聞いた次の日には、あちこちの区の市を見てまわり、背もたれの壊れた椅子を発見したり、その背もたれの部分を張り直したり、その後ギベルネスから「座り心地のいいように」と依頼されると、クッションの利いた布を座面と背中部分に追加してくれたりと……作業のほうは、彼が失業していたお陰で思った以上に早く進んだ。難しかったのは車輪の部分だったが、これもまたギベルネスが「馬車の車輪と同じようなもの」と言うと、ジャンはすっかり意味を理解し、何も言わなかったのにブレーキまでも付け加えてくれていたのである。


 最終的に、喧嘩するダニエラとハンナを交替で乗せ、無事この車椅子が完成すると――金を払おうとするギベルネスに対し、ジャンは言いにくそうにこう言った。「そのう、実はわしは、金の代わりにこの車椅子の特許が欲しいんで……」と。この時、その場にいたルースは叫ぶようにふたりの間に割って入ったものだった。「ダメよ、おじさん!きっとこの車椅子、これからとても高く売れるようになると思うもの。特許のほうは、ギベルネのものだわ」


「いえ、いいんですよ。私としては……この車椅子をジャンさんがこれからたくさん造って、足の不自由な人が少しくらいは心楽しく過ごせるようになって欲しいものですから。そのかわり、お金持ちからはたくさんお金を取るのも結構ですが、本当に困ってる人には、安く貸し出してあげるとか、何か方法を考えてくださるなら、その車椅子の特許のほうはあなたのものにしてくださって構いません」


「ギベルネったら、もう!ジャンおじさんが特許を申請して通ったら、もう車椅子のお金は一クランたりともあなたの懐に入ってこないってことになるのよ!?あなた、法務院で毎日のようにやってる裁判を見たことないわけ?『あいつが俺のなんとかいう技術を真似た』だなんだの、色んな訴訟やっちゃってんだからね。あなたがあとからお金に困って、『やっぱり特許は私のものに戻してください』なんて言ったって、その場合はわたしももう同情なんかこれっぽっちもしないわよ!!」


「本当に、いいんです」と、ギベルネスはこの時、完成した車椅子に満足して言った。背にも座面にもベルベットのような肌触りの布が張ってあり、座り心地のほうも最高だったからだ。「それより、申請が通るまでの間も色々大変でしょう。もしかしたら、私が今宿泊させていただいてる屋敷の主人が、これを気に入ったら買い取ってくださるかもしれません。そしたら、お金のほうはちゃんとしたものをお支払い出来ると思います。そういうことでいかがでしょうか?」


「それは、わしとしては願ってもねえことで……」


 ジャンはウルスラやルースに、『あの人は結局、どういう人なんだい?』と、何度か聞いたことがあったが、姉妹方のうち誰も、はっきり答えられる者はいなかった。『でも、悪い人じゃないってことだけは確かよ』と。


 それは聖ウルスラ祭を控えた、ほんの五日ほど前のことだったが、ギベルネスがラウールとセドリックにこのプレゼントをすると、ふたりとも殊の外このことを非常に嬉しがってくれた。ギベルネスは毎日のようにラウールの病状のことを気にかけており、よくたらいのお湯に香油を入れては、彼の手や足を洗ったり、動かない左側を中心にマッサージをしたものだった。そうしたことを通してもラウールはすっかり元気になっていたし、これからは車椅子で楽に広い庭を移動したり、あるいは街へ出かけたりも出来るようになると思うと――彼らにしてみれば、このギベルネという痩身の縦に細長い男は、<神の人>と呼ばれるに足る人物としか思えなかったものである。


 そして、ジャン=ジャックとルシンダのツィエール夫妻にしても……ラウール・フォン・モントーヴァン卿が車椅子を作る工房に全面的に出資してくれたことで、このことをきっかけに――彼らもまた一財産築くということになっていくのであった。




 >>続く。






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