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第43章

 ウルスラやエステルたちの住むモーステッセン家は、ギベルネスが想像していたよりもずっと遠かった。若干方向音痴の毛のあるギベルネスはこの時も、(惑星ロッシーニでも本星エフェメラでも……GPSによる地図検索に慣れ切っていたからなあ)と、科学の力に頼りすぎることの危険性を感じずにおれなかったものである。というのも、この場合もやはり電話で『怒れる牝牛亭』までかけ、「かくかくしかじかの事情で、ちょっと遅くなる」などと連絡したりすることは出来ないからである。


「帰りが遅くなったら困るだなんて……」


 ウルスラもエステルも、顔を見合わせてさもおかしそうにぷっと吹き出していたものだ。


「ギベルネ、あんたまるで女の子みたいなこと言うのね。あたりが暗くなって怖いってことなら、今日はうちへ泊まっていったらいいじゃないの」


「そうよーう」と、エステルも心から同意した。道々歩きながら話すうち、彼女もまた彼のことがすっかり好きになっていた。「うちはびっくりするくらい狭くて貧乏なうちだけど、ギベルネさえ嫌じゃなかったら泊まっていって欲しいわ。きっとあなたなら、妹たちも気に入るに違いないって思うもの」


「いえ、それが……私はあくまでここメルガレス城砦では旅の居留者に過ぎないのですよ。何より、他の仲間たちは私が今日モーステッセン家へ行くということも知らないものですから、もし暗くなって帰らなかったら、街のゴロツキにでも襲われたのではないかと心配するに違いありません」


 ウルスラとエステルは顔を見合わせると、(ああ、そういう意味)といったような顔をした。彼女たちは手にそれぞれ大きな箱型のカバンを持っていた。家に帰ってから仕上げるためのドレスが入っているのだが、それには鍵までかかっている。おそらく盗難防止の意味もあってのことに違いない。


「まあ、確かにうちの界隈はあまり治安がいいとは言えないものね」


「そうなの」と、エステルが溜息を着いて同意する。「陽暮れ以降に外へ出ていたら、追いはぎにあっても仕方ない……とまでは言わないけど、確かにそれに近いものはあるものね。路地裏の暗がりに連れ込まれて乱暴狼藉を受けて金を盗まれただの最悪殺されただの、毎日メルガレス城砦のどこかで必ず起きてるようなことですもの」


「誰か……警察のような人が取り締まってはくれないのですか。たとえば、夜に見回りをする警備の人たちがいるとか……」


 ここでもウルスラとエステルは、顔を見合わせるとくすくす笑いだした。彼は本当にこの城砦都市のことを何も知らないのだと、あらためてそう思った。


「夜警のほうは毎晩交替勤務で出てるって話よ」と、石畳の坂道を下っていきながら、くるりと振り返ってウルスラ。「ここ、メルガレス城砦はね、大体十六の区画に分かれてるの。それで、区画ごとに専属の巡察隊や守備隊が存在していて、その本部が第一区にあるといったような具合かな。その晩にあった盗難といった事件については、大きなものについては本庁にも連絡がいくんでしょうけど、割合小さい隣家の人間との言い争いだのいうことは、その区画にある巡察隊士たちで処理するといったところなんじゃないかしらね」


「なんにしても、そういうことならギベルネのことは早く帰してあげなくちゃ。ルースの務める『ルキア食堂』のほうが近いってことは、うちからは相当遠いもの。箱馬車で送っていってあげるような金銭的余裕はうちにはないから、長くお引き留めしちゃ申し訳ないってことになるわね」


 エステルがそう言った瞬間のことだった。道の相当向こうから二頭立ての馬車が、荷物を運ぶ牛車や荷馬車を追いこし、道端の砂煙をあげてやって来る。


 この時、ギベルネスが驚いたことには、この立派な箱馬車の前に、御者台に座る御者の他に、見目麗しいお仕着せを着た従者が先頭に立っていたことだったに違いない。しかも彼は馬や馬車に乗っているわけではないのだ。その前を先導するように走っていき、道の邪魔になっている者らに対して、「どけ、どけーいっ!ウリエール男爵さまのお通りだぞっ!!」などと触れまわっているのだった。


 通りすぎていった箱馬車には、おそらくウリエール男爵家の紋章なのだろう、いくつもの頭を持つハイイロオオカミが真ん中に描かれていたものである。


「ああした箱馬車に乗っているのは、やはり貴族階級の人々に限られるものなのですか?」


「そうとも限らないわよ」と、肩を竦めてウルスラ。「格は落ちるにしても乗り合い馬車ならあるし、庶民向けの貸し馬車だってありますからね。でもまあ、自分専用にあそこまで立派な箱馬車を所有してるっていうのは貴族か、富裕な商人階級だけってことになるかしら」


「なるほど」


 ギベルネスはウリエール男爵のことについては特に訊ねなかった。特段、自分にはまったく関係ない人物だろうとしか思わなかったからである――とりあえず、この時には。



   *   *   *   *   *   *   *



 ウルスラやエステルのモーステッセン家が住んでいたのは、商店街や機工街やその外輪部にある仕立て屋街からも遠く離れた、どちらかといえば城壁側からのほうが近い、第十六区に属する貧民街だった。もっとも、第十六区のすべてが貧民街というわけではなく、メルガレス城砦においては、第一区にこの城砦都市の富裕階級の頂点に当たる人々が居住しており、第二~第三区画にも貴族階級や富裕な商人階級が立派な邸宅を持っている。だが、これらの人々は全体の割合としてはほんの一割にも満たない上流階級に属する人々であって、第四~五区画に主に上流に近い中産階級が、第六~八区画に中産階級が(『怒れる牝牛亭』があるのもここである)、残りの部分は下層階級の占める割合がもっとも高かったに違いない。


 無論、こうしたことは大まかな区分けであって、工廠街や工房街は街外れにあるが、親方など、職人として上の階級にある者は地位や身分をそれぞれのギルドに保証されてもいるため、工房の大きさ、その腕の良さによっては富裕な商人に近い中産階級といったほどの資産を持つ者もいたことだろう。また、メルガレス城砦から西に二十キロほど行ったところに綿花畑が広がっているが、この町では他にありとあらゆる蜘蛛が吐き出す糸を種類別に出荷しており、これはメレアガンス紡績組合から特別な許可を得た者だけが行えることであった。


 メルガレス城砦においては、主に一般市民が出入りできる場所として東西南北に四つの大きな門があったが、そして、このどこかの大門を通ったとしても、その通りはすぐに都市を貫く大通りに繋がるわけではなく、すぐに小さい通りへと分散してしまう。そしてこの小さい通りは裏道や路地裏へと転じ、大抵はいくつものまとまった住宅街へと変容した。そして、ウルスラやエステルたちモーステッセン家が住んでいるのも、綿花商人や蜘蛛糸商人らが西の大門から入り、ギリギリふたつの馬車が通りすぎられる程度の道を暫く行き、次に機工街へと通じる大通りを目指す、その中ほどの道筋にあった。


 区画ごとに必ず大きな広場と、その近くに巡察隊や守備隊の詰めている警護院があり、その区画住民が訴えを起こした場合に受け付ける、法務院も大抵同じ並びにあった。この広場では市も立つが、市で物を売れるのは陽暮れまでと決まっているとはいえ、大抵の場合、野菜や果物など、食材に関しては昼を待たずして目ぼしいものは売れてしまう場合が多いようである。


 各区画にあるこうした広場の近くに居住できるのは、比較的その中でも富裕な者であって、そこから離れるにしたがい、立ち並ぶ住居は雑然としたものになっていく。ウルスラとエステルとギベルネスは、その頃にはすっかり閑散とした広場を通り抜け、三~四階建ての住居がほとんど隙間なくびっしり並ぶ、お世辞にも小綺麗とさえ呼べない、古ぼけた建物の一棟へ入っていった。


「ただいまー!!」


 ウルスラが奥に向かってそう声をかけると、二階へ伸びている階段から、どどどど、とこちらへ向け駆け寄ってくる大きな足音が響いてくる。


「おねえたーん、おかえんなさーいっ!!」


 最初に下へおりてきたのは、明るい茶色の髪に、はしばみ色の瞳をした七歳くらいの女の子だった。クリーム色の部屋着を着ていたが、フリルがたっぷりついているのみならず、飾りとしてリボンがいくつもついていたというあたり……この家では服装についてのみ、余った布を使うなどして工夫し、貧乏ながら見苦しくないようにしているようだった。


「びっくりしないでね。うち、本当に貧乏で何もないから」


 エステルが気後れした様子で、囁くように言った。末の娘のハンナは、最後の階段を下りきるのももどかしいとばかり、最後の三段目あたりからジャンプし、姉のウルスラに抱きついている。


「ハンナ、今日は珍しいお客さんを連れてきたわよ!」


 姉にそう言われて、ハンナはギベルネスの存在に初めて気づいたようだった。途端、もじもじしだし、エステルのスカートの後ろに隠れようとする。


(やれやれ。これは前もってわかっていたら、子供の喜ぶお菓子でも買ってきておいたほうが良かったんだろうな……)


 それでも、ポケットをごそごそするうち、紙に包まれたキャンディがあることに気づいた。キャンディといっても、どちらかというとギベルネスの感覚としてはキャラメルに近い味のものではあったが。


「これ、食べるかい?」


 ギベルネスがキャンディを渡すと、ハンナはそれが何かよくわからなかったらしく、暫くじっと見つめていた。それから、「お礼は?」とウルスラに促され、にっぱーと初めて笑う。


「ありがとう、お兄さん!!」


 ハンナはエステルと手をつなぐと、そのまま二階へ上がっていった。ウルスラが、小声で囁くようにギベルネスに言う。


「うち、一階は貸してるのよ。で、二階と三階がうちの住居ってわけなんだけど、キッチンは共同だからね。貴重な家賃収入のためにも、揉めないように気をつけないとって思ってるの」


「そうなんですか。でも、そうは言っても女の子が十人も上に住んでいたら、うるさくせず静かにしていることのほうが難しいのではありませんか?」


「それはそうなんだけど」と、ウルスラはギベルネスと腕を組み、階段を上がっていきながら笑った。「なんていうか、色々ご事情のあるご夫妻らしくて、そこらへん、割と理解があるのよ。向こうも向こうで、もし何かあってここから追い出されたら、新しく住むところ見つけるのも大変っていうか……あ、そんな変なあやしい人たちってわけじゃないのよ。まあ、生きていれば誰でも人生色々あるっていう意味で、持ちつ持たれつというかね。何より、旦那さんがもともとは工房街で働いてたでしょ?だから腕っぷしも強いし、何かあった時にはこの家の用心棒にもなってくれるってわけなの」


「そうでしたか。では、ある意味安心でもあるわけですね」


 階段を上がっていくと、そこにあった親柱のところに、先ほどのハンナよりも少し年上の子が寄りかかっていた。黒い髪に青みがかった黒い瞳の子だった。ギベルネスが察するに、おそらく九女のダニエラではないかと思われる。


「お兄ちゃん、わたしにはないの?」


「えっと……」


(困ったな)と、ギベルネスは思った。あのキャンディはあくまで、たまたまポケットに入っていたものだったからだ。


「ダニー!自己紹介もしないうちから、お客さんに物をねだらないの。ハンナはまだ小さいからしょうがいないけど、あんたはお姉ちゃんでしょ」


「ごめん。次に来る時には必ず……何か持ってくるよ。キャンディでもお菓子でもなんでも。何がいいかな?」


 この時、ダニエラのほうではギベルネスのことをじーっと見た。どうやら、人見知りする末のハンナとは違い、物怖じしない性格らしい。


「お兄ちゃん、ウルスラ姉ちゃんの一体何?ふたり、つきあってんの?」


「どっちだと思うー?」


 ウルスラが思わせぶりな態度を取って、もう一度ギベルネスと腕を組んだ。すると、ダニエラは興味を失ったようにくるりと踵を返し、片側だけ開いたドアのほうへ戻っていく。


「べつに、どっちでもいいや。どうせまた長続きしないもん!」


「まったくもう!憎ったらしい子ね、あんたは!!」


 逃げるように走っていったダニエラのあとを追うようにウルスラが居間のほうへ入っていったので、ギベルネスも彼女に続いた。そこでは傷の多い大きなテーブルの前で、ふたりのモーステッセン家の娘が針仕事に励んでいるところだった。


 テーブルには十人分の椅子が置いてあり、後ろに食器類のしまわれた棚があることから、おそらく食事の時間には刺繍の道具類はしまい、家族全員がここに集まって食事をするのではないかと思われた。


「ギベルネ、この子が我が家の三女のアルマよ。モーステッセン家一番のしっかり者」


 ウルスラがそう紹介すると、黒い髪をひっつめにしたアルマは、ギベルネスに対しちょっと会釈しただけで、またすぐテーブルに広げたドレス製作のほうへ戻っていった。


「で、こっちが四女のメリンダ。刺繍仕事をさせたらピカ一」


 メリンダは、ウルスラに少し面差しが似ていた。ただ、無口で内気な質らしく、彼女は刺繍仕事に夢中だという振りをして、ギベルネスのほうは見ようともしない。


「それから、六女のフランシスは宮廷で伯爵夫人の衣装係をしてるって、確かわたしあなたに話したわよね?じゃ、五女のルースはっと……」


「ルースは、まだ『ルキア食堂』から戻ってないんじゃない?」と、エステル。


「そうよね。七女のケアリーはどこ?」


「ケアリー姉ちゃんは、洗濯仕事に行ってるよ」と、ダニエラ。


「そうだった。八女のメイシーは?」


「メイシー姉ちゃんはデメテルおばさんのとこだよ。おばさんが麦や豆を分けてくれるっていうから、取りにいったの」


「そういえばそうだったわね。毎日麦粥ばかりで申し訳ないけど、これもあと一月の辛抱よ。そしたらきっと、暮らし向きのほうもよくなってくるからね……」


 そう言うウルスラの声色は、何故か暗いものだった。ギベルネスはヒビの多い薄汚れた壁に、十人の娘たちの肖像画が額に入れて飾ってあるのを見た。他に、彼女たちの父と母の並んだ肖像画と、両親と上の五人の娘たちが着飾って描かれたものもある。肖像画一枚につきいくらかかるかは、描いた画家次第だったろうが、それでもギベルネスは(おそらくまだ父モリスが生きていた頃は、この家はそれなりに羽振りが良かったのではないだろうか)と見てとった。


「じゃあ、次に来る時には……何か食材を持ってきたほうがいいでしょうね。何がいいですか?」


 ギベルネスにしても、自分の物言いが少し失礼かもしれないと思いはした。また、あとからウルスラかエステルにこっそり聞いても良かったが、彼女たちはどちらも(施しを受けるほど落ちぶれていない)というように、彼の申し出を断るに違いなかった。


「お兄ちゃん、あたしねー、お肉がいいー。もうずっと食べてないのっ。毎日、麦と豆ばっかり!そいでね、パンも欲しいの。カタイのじゃなくてやーらかいのっ」


 キャンディをあげたせいだろうか、もしかしたらハンナは茶色い服を着たお兄ちゃん=食べるものをくれる人……というように頭の中にインプットしてしまったのかもしれない。また、末の娘の無邪気な態度で、一瞬仕事の手を止めると、非難するような目でこちらを見てきたアルマとメリンダも――ギベルネスと目が合うなり、すぐにパッと手許に視線を戻し、黙々と針仕事を続けた。


「じゃあ、近いうちに必ず持ってきます。ただ、十人分っていうと……パンそのものより、小麦粉のほうがいいんでしょうか。お肉にしても、塩漬け肉か、それとも新鮮なもののほうがいいのか……」


 ギベルネスが真剣にそう思い悩んでいると、ウルスラが彼の腕をぐいと引いて、廊下のほうへ連れだしていく。


「ねえ、ギベルネ。確かにあなたの好意は嬉しいけど……無理しなくていいのよ。あなたたちがどういう人なのかは知らないけど、お金なんて実際は大して持ってないんでしょ?わたしたちのことなら気にしなくていいわ」


「まあ、確かにお金はありませんが」と、ギベルネスは笑った。ホレイショやキャシアスがコショウその他の換金出来る香辛料を隠し持っているように、彼には彼でカエサルから持ってきた、多少の自由になる金がまだ残っている。「ただ、十人分の食材ということになると……あまり見当がつかなかったものですから。私は十二人で旅をしているので、よく考えたらわかりそうなものなんですけどね」


 このあと、ウルスラは二階に他に三部屋あったうちの、廊下を挟んだ向こう側の部屋のほうへ彼を連れていった。ギベルネスが思うに、そこはウルスラ専用の仕事部屋というよりも……彼女の父親の仕立て部屋だったのではないかという気がした。


「これは、私がデザインしたものじゃないのよ」


 頭部のない人形は三体あり、それぞれ黒、モスグリーン、濃紺の、ギベルネスが知る世界でいうところの、それは燕尾服やスーツに極めて近いシンプルな、無駄のないデザインだった。


「素晴らしい、完璧なデザインだと思います」


 ギベルネスが感嘆してそう言うと、仕立て屋街の服飾店にあるのと同じ、どっしりした作業台にウルスラは座った。そこには、彼女の父のモリス=モーステッセン愛用のメジャーや鋏や針刺しといった品々が大切に仕舞いこまれた道具箱が置いてある。他に、このスーツを作るのに使われたと思しき型紙も重ねて置いてあった。


「……良かった。あなたならきっとそう言ってくれると思ったわ。父さんはね、結局のところこれを発表はしなかったの。でも、自分では一番気に入ってたのよ。わたしも、着たことがあるんだけど、本当に身体にピタッとフィットして、最高に着心地がいいの。でね、今日あなたが作ってくれたあれ……」


「ネクタイですか?」


「そう、よくわからないけど、それ……ちょうどよく合うと思わない?」


 ウルスラはポケットからギベルネスが店のほうで作ってくれた、例の黒いネクタイと蝶ネクタイを出した。それから、燕尾服やモスグリーンのスーツのほうへそれをかける。


「男性がリボンをつけてもいいなら、ボウタイでもいいんでしょうね。あとは、チョーカーやコサージュとか……」


 チョーカーやコサージュの意味をウルスラが理解しなかったらしいと見て、ギベルネスは製図を引く時に使うチョークで、いらない布の切れ端をもらい、そこに図を描いた。


「これがボウタイで……あ、名前のほうはウルスラのほうで好きなようにつけていいんですよ。チョーカーは中に宝石か、何かそれっぽい石を紐に通して飾りとして首のところで締めるような形ですね。ペンダントとどう違うんだと言われると、まあ確かにそうなんですが……」


「ううん。ギベルネの言いたいことは大体わかるわ。こっちではそういうの、ロゼットって呼んだりするんだけど……ただ、これを一体どうやって人に広めるかっていうのが問題というか。ほら、聖ウルスラ祭で発表するには、勇気がいるのよ。まあ、当たったら当たったで、父さんみたいに一躍時の人になって忙しくなるあまり体を壊しちゃったり……最初にこのアイディアを盗まれたら、あとはもう誰にでも似たようなのを作れるようにもなっちゃうわけだしね。ファッションの世界は博打なのよ。聖ウルスラ祭に出品するまでには、最上の高い糸やら布地やらで、出資するだけでも凄くお金がかかる。父さんも、そのせいで借金したこともあったし、薔薇の灰色が当たって父さんが死ぬ前までは暮らしぶりもなんとかなったけど、それももう今年で最後だわ。ここの家賃を支払うことも苦しいし、<ウルスラ服飾店>のほうだって、いざとなったら手放さなきゃならないし……実はね、もう抵当に入ってるのよ。期限は今年の聖ウルスラ祭が終わる月まで……つまりは来月の末までってこと」


「ですが、聖ウルスラ祭でコレクションのほうが好評だったり絶賛されたとしても……その後、注文が入って仕立てるまでには材料費その他かかることになるのでしょうし、経済的にうまく回っていくまでに時間がかかるのではありませんか?」


「まあ、そのあたりは前金をもらうのが普通だからね。それはなんとかなるにしても……父さんが苦労して手に入れた店を手放すってことは出来ないわ。本当に、ここが正念場なのよ」


 ウルスラが自分のほうに寄りかかってきたため、ギベルネスは彼女の肩を抱いた。自分も含めた十人もの大所帯を切り盛りしていくのは、きっと彼女にしても時に重荷に感じることがあるに違いない。


「ギベルネ、あなた……本当はどん引きしてるんじゃない?」


 ウルスラは彼から体を離すと、顔を伏せたままそう聞いた。


「どん引き、ですか?」


「そうよ。うちに来た男は大抵がそうなの。まあ、何かがきっかけで、なんとなくちょっといい雰囲気になったなんてこと、うちの姉妹のうち、上の六人に関しては一応みんなあるわけなのよ。だけど、うちの姉妹の誰かとつきあっていずれ結婚なんてことになったとしたら……この家庭の残り九人姉妹ともうまくやっていくことを意味している、なんて思ったら、すぐ逃げ腰になっちゃうのよね。フランシスが今、いいとこの騎士さまとおつきあいしてるんだけど、彼はいいとこのお坊ちゃまでフランシスにぞっこんだから、割と理解もあるんだけど……最終的にどうなるかなんてわからないじゃない?何分うちでは、持参金なんてものも用意できないわけだし」


「確かに難しい問題ですね、それは……」


 ギベルネスにしてもよくわかってはいないのだが、こちらの世界観では騎士というものは騎士というだけで、それはもうモテるものらしい。ランスロットやカドールはそのタイプに当たらないとは思ったが、それでも「いいとこの騎士さま」に遊ばれて捨てられた――なんていうことは、実際よくあることらしい。


「そうなの。だからね、わたしは妹たちが自分が本当に好きだと感じる男と結婚するためにも、長女として頑張らなきゃって思ってるのよ。ある意味、父親がわりでもあり、母親がわりでもあるわけだから……デザイナーとして店のほうがうまく回っていくようにさえなったら、あとはもうただ必死に働くっていうそれだけよ。それに、ファッションには生涯身を捧げるだけの価値があるわ。わたしにとっては一種の中毒みたいなものなの。これなしには生きられないし、情熱のない人生を生きるなんてことも考えられないもの」


「じゃあ、ウルスラにとっての一番の幸福というのは……」


「そうよ。わたしにとっては男と結婚することなんか、本当にどうでもいい。それでも、わたしが物凄い美人に生まれてて、大金持ちの男に是非にと乞われていたら……自分のことを犠牲にはしたかもしれないわよね。妹たちのために」


「そうでしたか。なるほど……」


 このあと、「何話してるの?」、「途中から、よく聞き取れなくなっちゃった。姉さんがなんか小声でしゃべってるから……」、「あら、それは愛を囁き交わしてるってことなんじゃないの?」というヒソヒソ声がドアの向こうから聞こえ――ウルスラはうんざりしたような溜息を「はーっ」と洩らした。それからつかつか歩いていき、ガチャッといきなりドアを開ける。


「あんたたちっ!毎回そんなだから、うちには結局男が寄りつかなくなっちゃうのよっ!!」


 そう姉に怒鳴りつけられ、ケアリーと帰ってきたばかりらしいメイシー、それにダニエラとハンナは――パッと廊下を走って逃げていった。脱兎の如く、という言葉をこうした場合にも当てはめていいとしたら、彼女たちはみな、実に逃げ足の速い可愛いうさぎに似ていたと言えよう。


 ギベルネスはそろそろ暇を告げて帰ろうとしたが、帰り道について心許なかったため、最後に簡単に地図を描いてもらって説明を受けた。仕立て屋街まで無事戻ることさえ出来れば、彼にしても『怒れる牝牛亭』まで戻れる自信が多少なりあったからである。


(もちろん、小麦粉やスープに入れる肉なんか多少持ってきたところで、十人もいたらすぐ失くなってしまうことだろうな。それに、たまたま知りあっただけとはいえ、このメルガレス城砦で困っているのは何も彼女たちだけというわけじゃない。そう考えた場合……)


 まずは、第十六区の広場まで向かいながら、ギベルネスは溜息を着いた。狭い路地にはお互いの家屋の間にかけた洗濯紐があり、そこにはシャツその他、色々とお粗末な衣類がぶら下がっている。その下の地面についても決して清潔とは言えない。ゴミがこびりついた壁や、糞尿の跡、何かの死骸の上を舞うハエなど……路地裏から漂ってくるすえた匂いをかぎ、ネズミが走っていく姿を見ると、ギベルネスとしては何かの伝染病のことが心配になってくるほどだった。


(こうした界隈でペストとは言わないまでも、インフルエンザといったものが流行した場合、人から人へ移っていくのはあっという間のことだろうな……)


 ギベルネス自身は、ペストにも天然痘にも、さらにはマラリアやデング熱その他の各種感染症にも基本的にかかることはない。それはワクチンを打ってきているからだったが、惑星ごとにそれぞれ異なる様々な病気の変異種が存在するとはいえ――本星エフェメラで作製されているワクチンは、それらをも考慮して作られた万能型なのである。


(やれやれ。私がもしあのままカエサルにいたままだったとしたら……今もこう思ったままでいたことだろう。この惑星の困っている人間の困り事のすべてを解決できるわけではない以上、ある人間を助け、他の誰かを助けないというようなことは出来ない。ゆえに、どんな身の上の人物の苦しい状態を衛星画像を通して見たとしても……見ない振りをするどころか、結局どうにも出来ないのだからあまり深く知らないままでいたほうがいいと、今もそう思ったままでいたことだろう)


 ギベルネスにしても、宇宙船カエサルと連絡を取れるようになるまでは、手持ちの資金については節約して使う必要があるとわかっていた。また、モーステッセン家がもし仮に三日ほど、食事の心配をせずにすんだからといって、それがどれほどのことだろう。いや、おそらくは彼女たち以上にもっと貧しい家のほうをこそ助けるべきではないのか――ということについて、ギベルネスはもう悩まなくなった。そうではなく、今はむしろこう思う。もし、奇跡というものが起きるとしたら、自分が他者に与えるものが何もなくなったあと、より大きなことが起きると信じ、そこにすべてを賭けることの出来る者こそ、本物の<神の人>なのではないかということを……。




 >>続く。






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