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第35章

「あんたら、一体何者だ!?」


 まるで自分の家に押し入るように、遠慮なく中へ見知らぬ他人がずかずか入り込んでくるのを見て、三十絡みほどの年齢に見える男は怒りだしていた。ある意味、あまりにも当然の反応である。


「すみません。お留守のところ大変申し訳ないと思ったのですが、勝手に宿代わりにさせてもらってました」


 タイスが一同を代表するように男に近づき、頭を下げる。


「一応そのお礼にと、小麦粉と金貨を置いていくつもりではいたのですが、きのうは天候が悪かったですし、まさかこんなに早くお戻りになられるとは思ってなかったものですから……」


「いっ、いやあ、オラこそすみませなんだ。ここらにはあまり人が寄りつきませんもんで、オイラにしてみりゃこんな朝っぱらから当たり前みたいに誰かと会うなんて予想してなかったもんで、それでつい驚いちまって……」


「ですが、きのうの夜は近くのアヴァロン城址にて、ちょっとした集会があったのではありませんか?」と、カドールは厳しい目つきで男を見て言った。服装のほうは、他の村人と同じくノミでも飼ってそうなボロをまとっているが、彼と同じ人間はあの場にいなかったように思いつつ――とはいえ、カドールにも確信まではない。


「ああ……オイラもよくわからんのですが、月にいっぺんか二回くらい、そんなようなことがあるんじゃねえでげすか。そんあたり、オイラにも詳しいことはわかんねっす。オイラはただ、きのうまで野良仕事手つどうてた家のほうから、ついさっき帰ってきたってわけでげして……」


「きのうだと?」カドールは疑いの濃厚な視線を強めて、男のほうを睨んだ。「我々は、ここまで来るのに馬車で二日かかった。その上、きのうはあの悪天候だぞ。ということはだ、アヴァロン城のあの広場に貴様もいたということだろう?違うのか、ええっ!?」


「へっ、へえ……」自分の住んでいる場所だというのに、ジェラルドという男が強気に出れなかったのには、ある理由があった。それは彼がもともと人見知りで内気な性格をしていたこと、それと、何やら気品溢れる一団に取り囲まれ、すっかり肝を潰していたというのがある。「ええとでげすね……そのげすだ……みなさん方はこの土地の人ってわけでねえんで、よく知らんかもしれませなんだが……湿地帯には畑に水を引くのに水路がありますだ。そこを舟でこう……すいーっとでげすね、移動するんでげす。そしたら、村からここまでやって来るのにも、そう馬鹿みたいに時間はかかりませんや」


「水路?」


 ハムレットは強くその言葉に反応した。うまく言えないが、何かが彼の心の中で引っかかったのだ。


「では、ここアヴァロン城址までやって来るのに、村の人たちはそう時間がかからないのだな?その水路を舟で移動して来るなら……そして、そのことを当然、ホリングウッド夫妻といったよその人たちは知らない……そういうことだな?」


「へえ。べつに特別秘密にしてるってこともない気はするでげすが、舟で移動したほうが早い場所ってのが、領地の中にはいくつかありますもんで」


「もし知っていたら教えてほしい。このあたりに、墓のようなもの……あるいは、あのアヴァロン城址と同じく、遺跡のある場所というのがあるのではないか?」


 ハムレットのような美少年に話しかけられ、内気なジェラルドはすっかり畏まっていた。彼は、こんなに美しい少年は生まれてから見たことがないとすら思っていたのである。


「そうでげすね。確かにいくつかありますでげすよ……すぐそばのアヴァロン城の裏手にだって、墓はありますが、でもそこは比較的新しい場所で……村の人ん中にもそこに埋められることがあるっていうような場所だもんで……オイラは歴史とか、難しいことはわかりませなんだが、ここにはその昔、アヴァロンという大王の都があったとか。たぶん、結構なとこ広い領地だったのでございましょうね。そこのアヴァロンの城と同じく、朽ちかけたような建物というのがあっちこっちに結構ありますでげすよ」


「その遺跡のあるあたりを、案内してもらえないか?」


 ハムレットはジェラルドの目を真っ直ぐに見てそう聞いた。そのあと、「もちろん礼金のほうは弾みます」と、タイスがルーデリ金貨を見せつけてきたからではなく――ハムレットのその眼差しひとつで、おそらくジェラルドはただであっても、遺跡へなどいくらでも案内したに違いない。


「へえ……あ、いやっ、はい、ええでごぜえますとも。むしろ、遺跡を案内しただけでお金までもらっちまったりしたら、申し訳ねえくれえでごぜえまして……」


 ――こうして、一行は一度、二手に別れることになった。というのも、ジェラルド自身がボロ舟と呼んでいる舟は小さく、彼を含めて三名も乗れればギリギリということだったからである。


「じゃあ、俺がハムレットと舟に乗ろうか」


 タイスがそう言うと、ランスロットが反対した。


「いや、誰かひとり、ハムレットさまには必ず護衛になれる者がついていたほうがいい。あの村の男たちだって、ジェラルドと舟に乗っているのがハムレットさまだとわかったら……何をしてくるものやらわかったものじゃないからな」


「何おーう!!そういうことならわたしだって……」


 ギネビアがまたランスロットと張り合おうとするのを見て、カドールが仲裁しようとした時のことだった。


「私が残りましょう」と、ギベルネスが言った。「というのも、実は……そのですね、私は泳ぎが得意です。藻や泥などに足を取られた際には溺れる可能性もありますが、まあもし、万が一にも万が一、舟に穴が開いて沈むといった不測の事態があった場合、ハムレットさまを救助できる可能性は、この中で一番高いような気がします」


(大学時代、プールの監視員のバイトをやっていたことがあります)とか、(人口呼吸や心臓マッサージも出来ます)といったことは言っても意味が通じなかっただろうが、ギベルネスとしてはそうしたことも含めて立候補したわけであった。


「そのアヴァロンの遺跡群へは、陸路では行けないのか?」


 カドールがすかさずそう聞いた。


「いや、ギベルネ先生のことは信頼している。だが、昨夜あったことがどうにも気になるし……第一あなただって、よそ者である我々の誰かを道案内していたなぞと知られれば、のちのち都合が悪いのではないか?最悪、それこそ村八部にされるとか……」


(あるいは、メルランディオスの生贄にされるということだってあるかもしれない)と言いかけて、その部分についてはカドールは口にしなかった。


「いやまあ、オイラのことなら心配いらねっす。それに、村の男衆はみんな、昼間は野良仕事に出てるでげすよ。あと、水路で行かないと辿り着けないような場所も遺跡にはあるでげす。周囲には葦やらなんやら生い茂ってますし、遺跡のあるあたりに用のあるような人間は、まあまずそんなにいんなさらないでしょうしなあ」


「じゃあ、それで決まりだ。オレはギベルネ先生と一緒に、ジェラルドに遺跡を案内してもらうことにする。それで、メルランの墓が見つかればよし、もし見つからなかったとしても、それはそれでいいと思うんだ。ただ、オレとしては女王ニムエの言うとおりに出来なかったということが気になるという、それだけのことだから……」


(どうする?)といったような眼差しによって、カドールが一同を見渡すと、(この場合、自分が言うしかないだろうな)と思ったタイスが溜息を着きたそうな顔で言った。


「俺はたぶん、ハムレットとギベルネ先生が無事戻ってくるまでの間……気が気じゃないという気はするが、かといって、どうやら他にどうしようもないようだ。いずれ、ハムレットにはそうした局面というのが訪れるような気はしていたし、三女神の守りがあるとでも思って、ただ神にでも祈りながら待つという以外はないのだろうな」


「そうか、わかった」と、カドールも諦めたようだった。「じゃあ、我々は先にホリングウッドの屋敷へ戻るとして……ジェラルド殿。本当に水路で行けば、村のほうへはすぐに戻れるんだな?」


「さいでげすよ。今日はまだ日も早いですし……とはいえ、遺跡のほうはあっちこっちにあって、結構広いんでげす。ハムレットさまがお探しの墓所みてえな場所がすぐめっかるとええんですがなあ」


 ランスロットもギネビアも不満顔ではあった。とはいえ、彼らにしてもローゼンクランツ領地にあるロットガルド山から流れる大きな川――そこで泳いだような経験くらいしかなく、溺れたとすればパニックになるあまり、ハムレット王子のことを救おうにも、もしかしたら一緒に沈む可能性すらなきにしもあらずである。


 こののち、方針さえ決まればあとは時間が惜しいとばかり、ハムレットとギベルネスはみなに見送られ、ジェラルドの案内にて、灰色のボロ舟に乗って丈高い葦の中、湿原の水路を暫し旅するということになった。舟のほうは縦に細長く、真ん中でジェラルドがオールを漕ぐと、彼の前にひとり、それに船尾にひとり乗ったとすれば、それ以上は定員オーバーといったところであった。


「この木造舟の材質はなんですか?」


 沈むのではないかと恐れていたからではなく、ギベルネスはいつものようにちょっとした好奇心からそう聞いた。


「さいでげすなあ」と、巧みにオールを操りつつ、ジェラルドは水路のほうへ漕ぎだしていきながら答えた。「クスノキですよ。他に、カヤやスギなんかも舟の材料に使われることがあるでげすな。湿地を抜けた先に大森林があって、そこに家屋や舟にするのにいい樹木がたくさん生えとるもんで……あわわっ。いや、今オイラが言ったことは忘れてくだせえ。ははは。オイラ、何言っとるんだろ。まだ寝ぼけておるのかもしれねっす」


「大丈夫ですよ」と、ギベルネスは微笑って言った。「私たちはただの通りすがりの旅の者です。そのことは誰にも口外しません。ただ、そんな森があるのなら、村の人たちももう少しいい家を建てて住めそうな気がするんですが……」


「そうでげすなあ。なかなか農作業が忙しゅうて、そこまで手が回らんじゃないでげすか。それに、森まで行って材木を切り出して村まで運ぶのがまた、結構な手間でしてな。また、そんな立派な家にみんなが住みはじめたら、どこからそんないい材木を持ってこれたかっちゅうので、色々面倒がございますわな。そんなふうにして余計な労働と税が増えるのを、みんな恐れとるっちゅうわけなんでげす」


「その森林とやらは……」と、ハムレットはふと思い出して聞いた。「レヴァノンの森と呼ばれたりしていないか?」


「いや、特に名前はついてないんでげすよ。みんな、あの森のことは『あれ』とか『聖なる森』とか言うて、新しく舟を造るのに樹を切り出す時には、村長だけでなく、村で会議を開いて承認を受けてからでねえと、あすこには誰も入れねえことになってるっす」


「そうか……だが、湿地の中には鹿を丸呑みにするほど深みのある場所があると聞いた。そして、そんな立派な森であれば、鹿もたくさんいるのではないか?ということは、それを狩る猟師だって……」


 ハムレットは、ユリウスが自分の父親を猟師と言っていたことが気になっていた。無論、彼が何かの事情から自分の本当の出生について偽っていたという可能性はあるだろう。また、母親が編んでいたという籠の材料はなんだったのだろうか。そんなこともふと気になった。


「そうでげすね。大体、十月くらいには一度、収穫期が終わった頃くれえに、狩猟に入ることはあるようでげすよ」


「そこには……森番のような人間はいないのか?ほら、森っていうのは、適度に手入れする人間が必要だと、ユリウスが……ええと、オレの先生だった人が言っていたことがある。オレがこう聞くことに他意はない。というより、このことを誰かに話してオレに得になるようなことは何もないという意味だが……」


「オイラも会ったことはないんでげすが……ひとり、そうした男がおるそうですよ。というか、その人もオイラのような変わり者で、ひとりで暮らして森の世話をしたり、畑や動物の世話なんかをしとるとかなんとか。そろそろ結構な歳だから、彼が死んだとすれば、代わりの人間が必要になるだろうっちゅうことなんでげすが……とりあえず、村に姿を現したことがねえってだけでも、オイラ以上の変わり者だってことは間違いねえでげすね」


「………………」


 ハムレットは黙り込んだ。本当は、村長あたりにでも、ユリウスの父母に当たる人物に心当たりはないかと、それとなく聞きたいように思ってはいたのだ。だが、そんな存在を隠している森林に住んでいるということからして、もう聞くことは出来ない気がした。というより、ジェラルドがそのことをしゃべったということで罰されても困る。


 だが、湿原の中の水路を進むうち、そのような大きな森の存在を知られずに済んでいるのが何故かについては、ハムレットにしても理解できるようになっていた。湿原に流れる川や、そこから出来た水路はなんとも言えず不気味だった。これは、ハムレットが生まれてから今という今まで育った自然環境が、主に岩山や砂漠ばかりだったというせいだけではない。湿原に溢れる水は、日光を受けてキラキラと輝き、見ようによっては美しいのだが、どちらかというとヌラヌラと不気味に水面は輝き、さらには普通の川のようには底を見通すことが出来ず、この中で溺れたとすれば、まずもって助からないのではないか――という、何かねっとりとした静けさがそこには漂っているのだった。


(これならば、確かに誰かを舟の上から突き飛ばし、そのまま助けずに立ち去ったというそれだけで……相手はまずもって岸まで辿り着くことが出来ないのではないか?)


「こんなことは、なるべく聞きたくはないのだが……」


 ハムレットはなんだかだんだん心細くなってきた。最初は、砂漠にも常時このくらい水があればどんなにいいかといったように思っていた。けれど、水というものがこれほど広く大量にあるということがむしろ不気味だなどとは、これまでの人生で一度も経験してみたことがなかったのである。


「本当に、元の岸まで戻れるのか?水路などと言っても、似たようなところは他にもいくつかあるようだし、そこは葦などが丈高く生えていて、一度中に入ってしまえば、自分がどこにいるやらわからなくなるほどなのに……ジェラルドは迷ったりすることはないのか?」


「大丈夫でげすよ。オイラには他の人にはわがんねえ目印があるっす。まあ、この舟自体はオンボロかもしれませんが、その点は大船に乗ったつもりでいてけらっさい」


 やがて、ジェラルドが口笛を吹きはじめたため、ハムレットにしても少しだけ何かが安心だった。それに、煌く川面の光を受けて、ギベルネスもまた、そんな彼のことを笑うように微笑んでいる。そしてこの時ふと、ハムレットはまた別の疑問が浮かんだ。


(ギベルネ先生は、泳ぎが得意だと言った。ということは、こんなふうにたくさん水がある場所で生まれ育ったのだろうか?ユリウスの口から、泳ぎが得意だといった話を聞いたことはないが、でも、もし先生がアヴァロンの出身なのだとしたら……)


 その後、湿原の川に色鮮やかなオシドリの番いが流れてきたのを契機に、ハムレットは一時的に難しいことを色々考えるのをやめた。本当は、メルランディオスの言っていたことを心の中で反芻し、実の母との再会は、もしかしたら自分の望んだものとはならない――それどころか、母ガートルードには迷惑なだけかもしれないということについて、深く沈潜するように考えなくてはならないと思っていたのだが。


「ジェラルド、あの美しい鳥はなんて言うんだ?」


 二羽とも、オレンジや青や緑や茶など、まるで画家がそのように絵筆によって塗り分けたのでないかというくらい、絶妙な羽色の混ざり具合だった。


「オシドリでごぜえますよ、ハムレットさま。このあたりには鴨やらサギやらシギやら、色んな鳥がおりましてな。水鳥たちにとって湿原というのは、人間も大してやって来ねえ楽園といったところでしょうなあ」


(オシドリか。もしかしたら翻訳の問題かもしれないが、私の知るオシドリとは、種類が違うようだ。惑星ロッシーニに住むオシドリは、メスのほうは目立たない薄茶色で、オスがあんなふうに派手な色合いになるのは秋ごろからだものな……)


 その後、白鳥が着水し、パシャッという音とともに先をすいすい進んでいった。そして、一羽のみならず、何羽もの白鳥が同じように大空から舞い降りてきたのである。


「なんて綺麗なんだろう!!真っ白くて、美しい鳥だ。本当に……」


「ハハハッ!!なんだか縁起のいい感じでげすな。ハムレットさま、遺跡のある場所まではもう少しでげすよ。なんか珍しい鳥めっけたからって、あんまり舟から身を乗りだしたりされないよう気をつけてほしいでげす。ここらで舟が引っくり返ったとしたら、岸まで無事おふたりを連れて泳ぎつけるほどの体力はオイラにはありゃしませねえでげすから」


「あっ!あれはなんていう鳥だ、ジェラルド?さっきの白鳥と同じように真っ白だが、なんだか少し違うような……」


「白鷺ですよ、ハムレットさま。ちょいといった先に営巣地があるんでさ。オラ、こうして湿原の中で鳥でも見てる時が一番幸せなんでげす。人間でねくて、鳥さ生まれてくれば良かったにと、時々思うことがあるくらいでげすよ」


「そうか……だが、その気持ちは、こうした美しい自然の中にいるとわかるような気がするよ」


 その後、暫くの間あたりには鳥の鳴き声くらいしか音のようなものは存在しなかった。もしもう少し風でもあれば、葦やスゲや、他の湿原に生える草のそよぐ音でもしたかもしれない。だが、その葦の上にも色鮮やかな小鳥がちょこなんと何羽も鎮座しているのを見――ハムレットはなんだか自分がおかしくなってきた。世界はなんと広く、自分はなんと物を知らないのだろうと、そう思ったからだ。


 やがて、丈高い葦の間を再び通り、舟のほうは岸辺とも呼べないような場所へ到着した。土がねちゃねちゃ、ぬとぬとしており、一歩進むごと足首近くまで沈んだが、そのことは最初からジェラルドに言われていたことだった。「長靴でも履いていかねえと、足許が泥で汚れるでげすよ」といったようには。


 ちなみにジェラルドは裸足だったが、ハムレットもギベルネスも靴を脱ぐと、ズボンのほうを膝下までたくしあげ、ジェラルドが舟を陸地のほうまで引き上げるのを手伝った。


「ふう。これでよしっと。おふたりとも、すまねえでげすな。とにかく、遺跡のほうまではそんなにかからずして行けるはずでげすよ」


 ハムレットはこの時、何故だか心がうきうきした。見たこともない珍しい鳥を何羽も見たせいかもしれないし、旅をはじめた時から大人数でいるのが当たり前のようになっていたが、久しぶりに自由を満喫しているような、そんな心持ちになっていたせいかもしれない。


 この時、ハムレットにしてもギベルネスにしても、アヴァロン州と呼ばれる場所の、未開の広大さについて圧倒されていた。湿地帯を抜けると、確かにその先は森林地帯になっていたが、ほとんど道らしい道など、どこにもなかったからである。


「本当に、こんな鬱蒼とした樹木や丈高い草ばかりのところで道に迷ったりしないのか?」


「ハムレットさま、その点についてはオラのことを信用してほしいでげす。ただ、蚊に刺されたり、蛇が突然音もなく這ってきたりだの、そこのところはオイラにも保証しかねますんでな。遺跡のほうはそんなに遠くねえんで、ちょいと我慢してけらっさいよ」


 おそらく、彼は以前にもそのようにして遺跡まで行ったことがあるのだろう。丈高い雑草の間には、人が押して踏み分けた箇所が微かに残っていた。そして、さほど歩かずして、開けた場所に出ると――そこには確かに、昨夜見たアヴァロン城址のような、灰色の石壁に囲まれた、崩れた建物の痕跡が残っていたのである。


「ここは……あくまでも漠然とした印象として言うことですが、なんとなく寺院っぽく見える場所ですね。入口から見て、あちら側が祭壇のようなところで、奥に御神体などを納めた内陣があって、中央通路や側廊の間に信徒席があるといったような……」


「そうですね。オレも見た瞬間から、似たような印象を持ちました。でも、そう考えた場合、寺院のそばにはお約束として墓場が裏手あたりにでもありそうなものなのに、そうしたものは草に覆われて見えなくなってしまったということなのかどうか……」


「オイラ、ここらへんにはしょっちゅうやってくるで、周辺もよく調べてあるでげすよ。けんど、墓みてえなもんは見たことねえなあ」


 ハムレットもまた、溜息を着きつつ、(一応念のため)と思い、腰から例の聖剣を鞘から引き抜くことにした。


「なんだか自分が馬鹿みたいに思えるけど、ここじゃないという気はする。それに、昼間やって来てもあのメルランディオスとやらは姿を現すことがないということなんだろうか」


「ハムレットさま、オイラにはどういうことなんかよくわからなんだが、そんなに気落ちすることはねえでげす。他にも、大体ここと似たような場所ってのが、ここらにはいくつもありますだで」


 ――こうして、三人は再び舟のほうへ戻ると、大体似たような要領で湿地帯の水路を行き、泥の岸辺から舟を引き上げ、似たような幽霊を思わせる灰色がかった白壁の城跡や、なんらかの建物の痕跡が残る場所を順に訪ねていった。


 そしてその過程で、ハムレットの白い足に蚊に刺されたような赤い発疹を見たギベルネスは、いつも懐に常備している薬を彼の足に塗っていた。また、手製のいわゆる虫除けスプレーを、ハムレットにもジェラルドにも吹きかけてやることにしたわけである。


「ギベルネ先生、それは……」


「ある種の忌避剤……ええと、そうですね。簡単にいえば害虫除けですよ。100%完璧にというわけではありませんが、ある程度、蚊やハエや蜂なんかは寄ってこなくなると思います」


「それで、だったんですね。ローゼンクランツ城砦でも、ライオネス城砦でも、色々な植物を採集しては蒸留器のようなもので花の成分を抽出していたのは……」


「あ、これ、なんか薄荷の匂いがするだよ。薄荷の樹ってのはここいらにはあまりねえもんだが、ミントの草なら生えとるところが結構あるでげす。ええ香りだなあ。なーんか、心までスッとするっす」


 ギベルネスはこの件に関してはあまり語らなかった。というのも、スプレーの容器自体は彼が宇宙船カエサルから持ってきたものだったからである。そしてその中身がなくなる前に、ギルデンスターン城砦やローゼンクランツ城砦、またライオネス城砦などにおいて、彼は代わりになりそうな薬草類を探し続けていたのだから。


 そして、実はこの件に関して割と役立ったのが、大聖堂や寺院などを清める際に焚かれる香の香料や、掃き清める時に使われる薄荷の樹の枝や棕櫚や月桂樹に似た樹の枝葉などであった。その成分について確かなところを調べるには、宇宙船カエサルにて化学的な検査をし、AIクレオパトラの出してくれる成分表を見る必要がある。だが、ここ惑星シェイクスピアの住人たちは経験的に――そうした香料の元になっているハーブ類、樹木の葉といったものには単に宗教的な意味での清めだけでなく、実際に科学的な意味でも病原菌を多少なり払い清める効果があると知っているらしかった。


(私の出身惑星ロッシーニでは、薄荷ペパーミントといったものは、草花として存在するのであって、樹木のような形で同じ成分を採取できるものはない。たが、ここシェイクスピアでは、薄荷の樹というのはそれほど珍しいものではないし、生活に馴染み深いものでもあるのだろう)


 この、植物学の分野に関することでは、ギベルネスは自分の記憶力の悪さを呪いたくなることがよくあった。というのも、今のようにその知識の必要性にこんなにも強く迫られることになると最初からわかっていたら……もっとその効能について事細かく調べ、それのみならずその成分表についてまでもしっかり覚えておこうとしたことだろう。


(まあ、植物学に関することだけじゃない。いつでも、調べようと思えばクレオパトラに聞くか、あるいは指先ひとつでネットで調べられることから……そこから分断された場合どういうことになるか、こんなところで身に堪えるばかり思い知らされることになるとは――今の今まで、想像してみたこともなかったわけだ)


 この日、ジェラルドの案内にて、半ば湿原の泥に沈んだような場所に至るまで、ハムレットとギベルネスは見て回ったのだが、結局のところ聖剣が強く反応したり、メルランディオスが例の幽体的な姿によって現れ――「何故ここがわかった!?」というように、驚き怯えつつ平伏す……といったようなことも、何ひとつ起きなかったわけである。


 中にひとつ、白い石によってではなく、黒い御影石による何やら独立した墓のように見える場所があり、「こここそそうではないか?」とハムレットがもっとも期待した場所まであったが、試しにそこへ聖剣を突き立ててみても――特にこれといってあたりで変化が起きるようなこともなかったのである。せいぜいが、風に周囲の草木がそよと鳴ったか鳴らぬかといった程度のことしか。


「ハムレットさま、陽が暮れる前に、そろそろけえらなきゃならねえでげすよ。あのおっかねえ人たち、最後にオイラのこと、もしものことがあったら首をはね飛ばすというくらいの勢いで睨んでただ。それに日暮れ前までに無事、村のほう……てか、ホリングウッドさんちだべな。そっちのほうさ送り届けろとも、オイラ言われておったで」


「本当に、すまないな」


 ハムレットは疲労と落胆の溜息を着いて言った。


「それに、ギベルネ先生も……湿地帯と呼ばれる場所が、まさかこんなに蒸し蒸しして、砂漠とはまた別の意味で不快な気候だとは思ってもみなかった。確かにこれでは、呪われた土地であるとして、小麦といった税を取り立てる以外ではあまり人が近寄りたがらないという気持ちもわかる」


「だからこそ、いいのではありませんか」


 ギベルネスも、時に湿地帯におけるムッとするような嫌な臭気を鼻に感じ、不快なこともあったが、砂漠の高温と、湿度がある分それより耐えやすい気温とどちらがいいかといえば――彼はこちらのほうが遥かにマシだと感じるのだった。(暑さのあまり、もう何も考えられない)というほど、集中力と体力を削がれるわけでないという意味でも。


「おそらくいつかは……何かをきっかけにして、このあたり一帯も開発され、王へのさらなる貢ぎ物を捧げるための対象地となるでしょう。けれど、あの村の人たちが頑なに口を閉ざし続けるなら、ここはそれこそ、言い伝えにあるという常若のティルナ・ノーグに近い場所であり続けられるかもしれない」


 ハムレットには、ギベルネスが何を言わんとしているのかよくわからなかったし、何よりももう疲れていた。それに、女王ニムエの言葉に忠実であるべく、出来るだけのことはすべてしたという自負もあった。ゆえに、彼が隣の州であるメレアガンスにて、次に自分がなさねばならぬことについて思考を移しつつあった時のことだった。


 鋭い矢の一撃が空を切ったかと思うと、近くの立派なニレの大木に突き刺さったのである。と、同時、そばの野原にいた鹿たちが、四方八方へと、十数頭ばかりも駆けていく。


「何者だっ!?」


 ハムレットが鋭く叫ぶと同時、ギベルネスは反射的に懐の衝撃ブラスター銃に手をかけた。またこの場合、このような故郷の惑星から遠く離れた辺境惑星にて客死することになろうとも――ハムレットのことは自分の命に代えても守らねばならぬと、ギベルネスはすでに覚悟を決めていたのである。


「おお、これは失敬」


 丈高い葦原の野を分けて姿を現したのは、丸太のようにずんぐりした四肢の、ごましお頭の男だった。彼は弓を手にしているのみならず、背中に背負った籠には一羽のうさぎに、このあたりの野で採ったと思しき薬草類などを詰めていたようである。


「まったく、わしの腕も鈍ったものよの。最近はわしの作った鹿笛の音もあいつらはすっかり覚えてしまって、仲間と違うとわかるのであろう。すっかり騙されなくなったもんだわい」


「もしかしてあんたが……森番のシグルドさんでげすか?」


 ジェラルドはすっかり驚いた、という顔をしていた。というのも彼は、白髪頭の年寄りといったように話で聞いていたため、これほどに頑健そうな巨躯の男であるとは想像してもみなかったのである。


「いかにも。と言っても、わしのほうではあんたのことはとっくに知っとるがな。あんたのほうでは気づかんかったかもしれんが、よくここらをうろつきまわっておる姿は見かけておったもんでな。けども、今日は随分とハイカラなお仲間衆とご一緒なようだ」


「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」


 ギベルネスがそう言った瞬間のことだった。シグルドは逃がした鹿の群れから次にジェラルドに目を移していたのだが、目を瞠るような美しさの少年の他に、背の高い男がいると認識してはいた。だが、まともに顔を見たのはこの時が初めてだったのである。


「………ユリウスっ!!」


 一言そう叫ぶなり、シグルドはなんとも言えぬような顔の表情をした。ギベルネスが知る限り、その顔はどことなく、認知症の老人が思い出せぬことを思い出そうとしている時の顔つきに似ていたが、彼は次の瞬間にはドッと逞しい両足を地につけていたのである。途端、胸のあたりを押さえ、呻きはじめる。


「す、すまん……。と、時々こうなるが、まあ、暫くすれば……うぐうっ!!」


 ギベルネスは体格のいい森番の胸の音を聞き、脈をはかった。心音のほうは聴き取りにくいが、脈のほうは若干速い。また、もし今彼のよく見知った機械で測定した場合、心電図には狭心症に特有の波形が見られるのではないかと疑った。


(狭心症ですかだの、薬は持ってますかだのと聞いても、この場合無意味すぎるほど無意味だ。それに、ニトログリセリンだって今の私には持ち合わせがない……)


 この時、ギベルネスとしてはとにかく、自分のせいで彼が急性心筋梗塞を起こしたのでないようにと、祈るように願うしかなかった。心臓病に関連した病名についてであれば、ギベルネスは同時にいくつも思い浮かんだが、この場合、一番可能性として高いのが労作性狭心症でないかと推測した。冠状動脈が動脈硬化によって内腔が狭くなり、十分な血液が供給できなくなったことで、心筋に酸素不足が生じているのではないかと……。


 ギベルネスはシグルドの発作が過ぎ去るまで安静にさせ、その後そばの楡の樹の葉陰にまで、腕を貸してゆっくり移動することにした。喉元過ぎればなんとやらとばかり、巨躯の男はギベルネスやハムレットの助けを拒もうとしたが、最後にはふたりに寄りかかるようにして重い体重を遠慮なくかけていたものである。大木の根本へ腰を下ろすと、シグルドは肺の奥から吐き出すようにして、深く大きな溜息を着いていた。そして、「ふう。もうそろそろ大丈夫そうだわい」と、心配させたことを三人に詫びてさえいたのである。


「いつからですか?」


 ギベルネスは少しばかり厳しい医者の顔をして聞いた。心臓の病気に効く薬草はこの惑星にも存在するが、それもまた根本的な治療にはならぬ、浮腫をやわらげる薬や利尿剤といった漢方薬的なものしか今の彼には作れない。


「ここんとこ、一年半くれえの間だな。ま、わしもそろそろいつお迎えが来てもおかしくねえ年だから仕方ねえわな。ここの村の老人なんかがその昔、そろそろ朝夕の霧の寒さが身に染みる……なんてことを口にしていたことがあったっけが、わしはずっと健康でこの年までやってきもんで、このくれえ体が悪くなってきてようやく、年寄りの気持ちが本当の意味でわかってきたというわけでな」


「今のような発作があったのは、今まで何度くらいですか?」


「はっ……ははっ。二、二回くれえかな。一度は死ぬかと思ったこともあったが、その後は暫く我慢してりゃあ治まるくれえなもんで……だが、自分でもわかっとる。そのうちまた、今後こそ死ぬというくれえ大きいのがやって来て、その時は間違いなく」


 ここでシグルドは空のほうを指差していた。そろそろ、夕暮れのサフランとラベンダーの淡い色合いが濃くなりはじめる頃合だった。


「……行きだってな。それよか、あんたら一体、どっから来た」


 森番の老人は、恐ろしいまでの強い力でギベルネスの腕を取ると、離そうとしなかった。彼らはメルランディオスという幽霊の墓を探しにやって来たのだったが、シグルドはシグルドで、自分にとっての幽霊と思われる存在を手放したくなかったのである。


(あなたは、ユリウスのことをご存知なのですか?)という問いが喉まで出掛かっていながら、ハムレットは沈黙を守っていた。というのも、シグルドは明らかにそのことでショックを受けて倒れたのだし、これ以上のことを口にするには、もう少し様子を見たほうがいいと判断したからだ。


「私と、そちらのさる高貴な方は通りすがりの旅の者です。ジェラルドさんにこのあたりの湿地帯を案内してもらっていて……そのう、メルランとかマーリンとか、メルロンとか、何かそうした名前の男の墓を探しているのですが、心当たりはありませんか?」


「聞いたことねえな」と、シグルドはしれっとして言った。「それよかあんたら、これからうちまでわしを連れ帰ってくださらんかね?ここでおうたのも何かの縁ってことで、つっとばか、この哀れな老人に情けをかけてくださると有難いのだが……」


 三人は顔を見合わせると、大体のところ言葉なく意見が一致するのを感じた。そこで、そのままシグルドが指示する通り、道なき道を辿り――ようやく開けた場所までやって来ると、そこには一軒のしっかりした造りの丸太小屋が建っていた。


 中のほうも、かなりのところ住み心地が良さそうだった。一階のほうには二間ほどあり、吹き抜けになっている中二階は、狭くはあるが、そこはどうやら薬草類を干すなど、ちょっとした食料貯蔵庫の役目を果たしているらしい。


「本当に、おひとりでここに住まわれているのですか?」


 小綺麗にしてある竈のあたりを見て、ギベルネスはそう聞いた。というのも、もし誰かもうひとりくらい、一緒に住んでいる家族か誰かがいるのだとしたら……シグルドが発作を起こした時、何かの助けになってくれるだろうと思ったからである。


「ああ。ここにはわしひとりしかおらん」


 そう言って、シグルドはハーブティーを煎れた。居間にあたる部分には木材を組み合わせて出来た揃いのテーブルと椅子があり、招かれた三人の客たちはそこへ腰かけた。


「まあ、狭いとこだが、今日はここに泊まっていくとええだ。そしたら、メルランだかロンメルだかいう奴が、もしかしたらここらをうろつきはじめるかもしれまいて」


「あなたは、やはりその者のことをご存知なのですか?先ほどは聞いたこともないとおっしゃっていましたが……」


 ハムレットは、少々癖のあるハーブティーを飲んでそう聞いた。それはマテ茶に味が似ていたが、飲みなれてくると、一種中毒になりそうなほど美味しいように感じられてくる。


「さて、どうじゃろ」と、シグルドはやはり、どこかすっとぼけたような顔をしている。「わしはあの幽霊みたいな奴の名前のことはよう知らん。だが、おそらくあんたらがそいつを探しにきたんだろういうことはなんとなく見当がついたという、ただそれだけのことだて」


「それで、このあたりをうろつくことがあるというのは……」


 重ねてハムレットが聞くと、シグルドは何かを思いだそうとするようにしきりと首を捻っていた。


「あれはわしがここいらに住みつきはじめて、数日した頃のことだわな。その頃はわしも妻もまだ若かった。その昔、わしはロットバルト州に住んでおって、まあ州都の役所で書記官をしておったのだが、やってもおらん罪の濡れ衣を着せられ、逃げるようにしてメレアガンス州、それからここアヴァロンまでさらに逃げてきたのだて。もしここへも追手がやって来るようであれば、さらに砂漠を遠く旅することになったやもしれぬ。だが、今の村の村長の父親がだな、わしらのような者のことは見たことない言うて、匿ってくれたよの。わしは彼らに迷惑をかけるわけにはいかんと考え、人の寄りつくことのない湿地帯のさらに奥地へと隠れた。それから一体何十年になるやら……唯一、妻にだけは悪いことをしたと思うておるが、とにかくロン=メルランとかいうやつの話じゃったな」


 ビールでもぐびぐび飲み干すように、シグルドはハーブティーを飲んで続けた。ぷはーっと、最後に満足の吐息を洩らす。


「あやつはおそらく、ここいらに人が住みつくのを好まんのじゃろ。ここへわしが丸太小屋を造りはじめると、毎日のように夜現れて嫌がらせをするようになったのだて。が、わしはあのような亡霊野郎よりも生きた役人どもに捕えられ、牢屋へ入れられることのほうがよほど恐ろしかったでな、あいつが現れるたびに怒鳴ってやったり叱ってやったり……まあ、よう喧嘩しとったわな。わしはあやつが一体何者なのかまったく知らんし、ぼんやり想像するには、昔ここら一帯は偉大な王の都じゃったということだから、その何代目かの王にでも仕えておって、非業の死なり無念の死なりを遂げるかなんかしたのじゃないのかね?ま、その後どうなったかといえば、あやつはわしのことは『いないこと』にでもしたのかどうか知らんが、今はほとんど交流はないわい。わしのほうでもあんな奴のことは『いないこと』にして無視するようになってから結構になる……が、その気配は時々感じるといったようなところじゃわな」


「ほいじゃ、シグルドさんはそのユーレイとやらがお見えになるので?」


 ジェラルドが今にも震えそうになりながら言った。というのも、彼はこのあたりの湿地帯が、夜になればどれほど暗く、漆黒の闇の底に落ちたのでないかというほどの暗闇に閉ざされると知っている。自分も似たような環境で一人暮らししているとはいえ、それでも村人に助けを求めようと思えばそうも出来る距離にいるというのではまるで違う。そして、これほどまでの孤独に耐えることの出来るシグルドという男は、彼の理解の範囲を大きく越えていたのである。


「まあ、不思議なもんでな。妻のイレーナはわしが幽霊の話をすると、寝ぼけているとか、大法螺吹きと罵るでもなく、言った話をそのまま信じてくれた。とはいえ、妻にはあやつの姿がまったく見えないし、あやつが姿を現したり話しかけてくるのはもっぱらわしひとりだけでな……」


 ここでシグルドは一旦黙り込んだ。彼の息子にも亡者の姿が見えていたが、特に何か害を及ぼす力が幽霊にないとわかってからは――この父子はメルランのことを軽く見るようにさえなっていったのである。


「ですが、我々が今晩ここへ泊まったとしたら、その幽霊がこの丸太小屋の戸口に立ってノックするとか、そうした話なのですか?」


 ギベルネスがそう聞くと、再びシグルドの顔にはなんとも言えぬ不思議な表情が浮かんだ。もちろん、ギベルネスもハムレットも、彼が「ユリウス……!!」と驚いたように叫んだことは覚えていた。だが、そのことはまた折りを見て後から聞けばいいと思っていたのである。


「いやあ、あいつはそんな礼儀正しい奴じゃないだでな」


 シグルドは、自分の息子もよく、そんなふうに茶目っけのある物の聞き方をしたものだと、懐かしく思いだしつつ言った。


「用があると、外へ呼びだすか、夢の中に出てくるのよの。で、その夢ってのがなんとも現実感のある夢でな、目が覚めるまでは、本当にあいつと森の中で言い争い、互いに組み合ったり首を絞めあったりの大喧嘩をしているように思うものの――ハッと目覚めて見ると、わしはこの丸太小屋で、確かに妻の横に寝とるってわけでな。普通の人間ならばまあ、恐ろしゅうなって、そんなことが一度か二度でもあればどっか別の土地に居を移すかもしれん。が、わしには故郷の州に戻れば死罪という、実際には犯してもおらん罪のせいで牢獄生活を送らにゃならんといった事情があったもんで……わしはその後、何度あやつが『出ていけ!』とか、『この土地から去ね!!』と言って脅したり、毒霧の如き呪いの言葉を吐きかけてきても、聞く耳持たんかったわけだわな。そいで、おまえさんらがあのロンメルマとかいう奴に用があるっちゅうことは、ま、おそらくは向こうから出向いてくるんじゃないかという、これはそうした話だで」


「そう、うまくいくといいのですが……」


 ハムレットは、考えこみながら思わずそう口にした。というのも彼は、メルランディオスが今夜姿を現さなかったとしても、自分がここへ長く滞在し続ければ――いずれは根負けするような形で、話しあいの席へ着くかもしれないと思ったわけである。だが、とりあえず明日には一度戻らねばならないと考えていた。


(何より、タイスたちが心配するだろうからな。それとも、ジェラルドに言付けを頼めばいいだろうか?そのような事情で、もう少しこちらへ滞在するということを……)


「ハハハッ!!あんたら、わしのことを変人思うとるかもしれんが、そう言うあんたらも相当変わっとるで。普通、幽霊なんぞというものをわざわざ探しに、こんなところまで来たりはせんじゃろうということも含めてな。どういう事情かは知らんが、まあまずはとりあえず、夕食にでもすることにしよう」


 シグルドの夕食のもてなしは、とても素晴らしいものだった。そばの畑で作っているという野菜類と肉のたっぷり入ったシチューや、ライ麦や大麦のパン、彼は燻製肉の作り方も上手く、ソーセージやピクルス、チーズなども美味なものばかりだったと言える。


「こりゃあ、シグルドさんはここで、王さまの暮らしをしてるも同然でげすな」


 遠慮なくたっぷり使えと言われ、バターやあんずジャムをパンに塗ったくって食べると、ジェラルドは満足の吐息を洩らしていた。


「まあ、もし今後わしが死んだとしたら」と、シグルドは上機嫌な顔でニコニコしながら言った。「ジェラルド、おまえさんがここの丸太小屋を使えばいいべ。飼ってる豚や羊やヤギなんかも、好きなようにすればええし、その代わりまあ、わしの死体だけ始末する手間だけかかるわな。すまんが、それだけ妻の墓の横あたりにでも埋めてけれやといったところでな」


「だども、ここらあたりにはユーレイが……」


 ジェラルドはもじもじするように言った。


「どうだべな。わしが死んで、もしあやつと同じような存在になったとしたら、首絞めて『死ね、こんにゃろこんにゃろ!』なんてやってここからあやつを追い出せる自信まではねえわな。が、まあ、ここらの湿地帯で遊ぶついでに、昼間休んでいくくらいならいいべ。村の人たちも少しくらいこのあたりに入植してくれば……いや、村長の話では税金納めるだけで精一杯ってことだったからな、余計なことは言わんほうがええのかな」


 だが、ジェラルドの顔がこの時パッと輝いて見えたため、ハムレットとギベルネスは互いにこの時、視線だけで会話した。これからそんな形によって、ふたりの間に交流があれば……そう思うと、シグルドの病気のことも、少しばかり安心だったからである。


「それは、お薬か何かだったりするのですか?」


 キッチンまわりや中二階などに、香辛料の元になるものや、玉ねぎ類やニンニクを乾燥させたのが干してあるのを見て、ギベルネスはそう聞いた。というのも、シグルドが食後に何かギザギザした葉を乳鉢の中ですり潰し、それを飲んでいたからである。


「ああ。これはな、昔から水腫によく効くと言われる葉っぱよの。初めて発作を起こしてから、飲むようになったもんだわい。心臓の働きが悪くなると、血と水の巡りが悪くなるもんだで……この葉は、血液の循環をよくして、悪い水を排泄する働きがあるそうじゃ」


「なんの草か、教えていただいても構いませんか?」


 ギベルネスはこの時も、何故宇宙船カエサルにいる間に、先人である惑星学者たちが調べた薬草類のファイルをもっとよく調べて暗記しておかなかったのかと、心から悔いていた。というのも、それが単に迷信的にそう信じられているものか、他の薬草との組み合わせによっては害となるかどうかも、今の彼には確かめる術がなかったからである。


「ディギタリアとか、ディゴキシニアとか呼ばれとる、ここらじゃそう珍しくもない、水辺によく生えとる草じゃ。花のほうは可愛らしいのだがな、昔から毒があると言われておるもんで、それを摘んで人にプレゼントしたとしたら、ロットバルト州あたりじゃ、相手のことをよほど憎んでおるか嫌っとるしるしということになる花だで」


「毒があるとわかっていて、それを飲んでいるのですか?」


 今度はハムレットが驚いて聞いた。


「ま、毒をもって毒を制すというのか、毒をもって病いを制すというのかわからんが、年を取ると、心臓の働きが悪くなるっちゅうのは、一般によく知られておることよの。その他、体の冷えに効く薬草やら婦人病に効く薬草やら……言い伝えとして古くからそのように言われておるもんはたくさんあるわけだわい」


(確か、ジギタリスによく似た花だ。だが、私の出身惑星ロッシーニにある花の葉の成分と同じとは限らないものな。それに、どの程度の症状の時にどのくらいの量処方すべきかなども、ここの惑星にはここの惑星流の伝統があることだろう。そして、今のところは腹痛や頭痛や神経痛に効くと一般に言われる草花の根茎をすり潰したものなどは城砦にある商店でも売られているが……何故効くか、その中のどの成分がどういったように作用するからそうした効果が現れるかについては、もっと文明が進んでからでないとわからないということだろうな)


 だが、ギベルネスがずっと、中二階あたりに吊り下がっている薬草類などにじっと目をやりながら話していたからだろうか。シグルドは「ハーブなんかに興味があんのかい?」と、食後に色々と詳しいことを教えてくれた。


 沈香、白檀、丁子、桂皮……さらにこちらは草花ではないが、麝香や海狸香など、大変貴重な薬草類や香料など、シグルドはあくまで軽い世間話風に色々知っていることを教えてくれ、それはギベルネスにとって大変ためになることだった。また、シグルドは薬帳くすりちょうと表紙にある、彼自身が調合した薬草類について書いた綴り本を読ませてもくれた。そこには薬草のみならず、キノコ類、さらには昆虫をすり潰して煎じ薬としたものなど、多種多様な組み合わせによる薬について書かれてあったものである。


「まあ、村人たちの中に誰か病人が出たりした時に、大抵は村長かその使いのもんがな、その病人を連れてくるか、あるいは病気の症状をわしに話して、こうした薬の何がしかを貰い受けにくるのよの。わしは医者と違うから、そのことで誰かからおまえの薬が効かなかったとか、飲ませたらさらに病気が重くなっただの文句を言われたりしたことは今まで一度もねえが……とにかくわしは、今の村長の親父に命を助けられたいう恩があるもんで、村の人らに必要なもんは他になんでも渡してきたというわけでな」


 夕方がすぎ、夜になるとあたりからは耳を聾するような何かの生き物の長く引き伸ばしたような、なんとも言えぬ声が満ちはじめた。とはいえ、それは気味が悪いというよりも、ある種陽気であると同時に深い悲哀のこもった鳴き声であり――幽霊というものを心底恐れているらしいジェラルドであったが、彼はハムレットが「あれはなんですか?」と、奇妙な顔をして聞くと「カエルでさ、ハムレットさま」と、退屈そうな顔で答えていたものである。


「ここらの湿地帯の沼なんかで、たぶんカエルのオスが何百匹もメスを求めて一晩中鳴くんでげす。まあ、オラなんか、毎年聞き慣れとるのに、それでも時々夜中にふと目を覚ました時なんか……おかしくなってきて腹抱えて笑いだすことすらありますわな。神さまは、なんであんなふうな鳴き声にカエルを創造したんでしょうなあ。メスのほうはメスのほうで、ほとんど不感症みたいな体でどっしり構えておって、オスだけがなんやらギャアギャアガアガア、交尾のことで大騒ぎしとるっちゅうような次第で……」


「あんた、ジェラルドさんよ」と、シグルドは食後のフルーツとして、マンゴーを乾燥させたものを出して言った。「お宅さんは結婚する気はねえのかい?もしあんたが、わしが死んだあとにでもここの丸太小屋で森番として暮らすとしたら、誰か連れあいがひとりくらいいれば楽しかろうにと思うのじゃが、どうだね?」


「オイラは嫁っこなんて……」


 ジェラルドは照れたようにしきりと頭をかいていた。


「第一、オイラみてえな変人と結婚してえなんてすきもん、いるわけねえでげすよ。まあでも、なんかひとりでやるには面倒だが、ふたりいればはかどるっちゅうような仕事でもあれば、いつでも声かけてくだせえ。オイラでよければいくらでも手伝いますけえ」


 シグルドはこの件に関してはそれ以上何も言わなかった。だが、もしジェラルドが自分の後を継いでくれるのだとすれば、村長に相談して、誰かちょうどいい娘でもいないものかどうか、こっそり打診してみるつもりでいたわけである。


 シグルドとジェラルドはその後、近くにある牧草地の囲いまで牛や羊やヤギの様子を見にいったが、その間もギベルネスはランプの灯りの元、例の薬張を暗記でもしようとするかのようにじっと読み続けていた。


「シグルドもまた、ギベルネ先生、あなたのことを我が師ユリウスにそっくりだと思ったのでしょうね」


 ふたりがいなくなると、薬草類の効能について夢中になっているらしいギベルネスに悪いとは思ったものの、ハムレットはやはりそう聞かずにはおれなかった。というのも彼は、シグルドがユリウスの父なのではないかと想像していたが、今となっては何故かそのことを聞きずらいように感じはじめていたのである。


「私は当のユリウスさんをまったく知らないもので」ギベルネスはぼんやりして答えた。「その件については実は今も全然ピンと来ないままなのですが……今までユリウスさんに関する話を聞いていて思うに、あのシグルドさんはユリウスさんの血縁者なのではないでしょうか」


「やはり、先生もそう思われますか!?」


「ええ……食事中も何度か、そのことを思いきって聞こうとしたのですが、よく考えるとデリケートな問題であるような気がして。ユリウスさんの亡くなったのが、今から約一年半ほど前ですか。もしシグルドさんが……ユリウスさんがすでに病没していることをご存知ないとしたら、そのことをお伝えするのがいいことなのかどうかさえ、私には判断がつきかねると思いまして」


「そうですよね」と、ハムレットも溜息を着いた。「それに、そのことでまた発作を起こされるかもしれないし、我々がここを立ち去ったあと、日々落胆して過ごし、寿命を縮める可能性だってないとは言えない。いや、そのことも大切とは思うのですが……ギベルネ先生。あのメルランディオスとやらは、シグルドの言うとおり、今夜あたりにでも我々の夢の中へ化けて出るものでしょうか」


「さて、それはどうでしょうね」ギベルネスは薬帳から顔を上げると、隣のハムレットのほうを見て笑った。「これからここで眠ってみないことには、それはなんとも言えませんが……今日、ジェラルドさんの案内で回った遺跡というのは、もしかして夜に行かないとあまり意味はないということなのかどうか。でも、みんなあなたのことを心配してるでしょうし、このことではあまり時間をかけられないような気はします」


「オレも、まったく同じように考えていました。もしあいつがこの聖剣を恐れて、このまま姿を現さないとしたら……もちろん、その場合でもオレたちはこれからも旅を続け、バリン州のバロン城を破る方策についてよくよく考え、策を練らなければならない。それに、女王ニムエはメルランという男の助けがなくともオレは勝つだろうとも言っていたんです。だが、目に見える強大な軍隊だの武器だの、そんなものが大量にあればあった分だけ、オレの味方となってくれた人々にとっては心強いことだろう、といったようなことを」


「なるほど。なんにしても、明日のことは明日考えましょう、王子」と、ギベルネスは思慮深い顔をしたまま言った。「何分、シグルドさんはメルランディオスと一度ならず夢とも現つともつかぬ世界で取っ組み合いの喧嘩をしたということでしたからね。我々にしても、もし今夜だけで話がつかなかったとしたら……心配している他のみんなには申し訳ないですが、また何日かここへ滞在して、メルランディオスと話しあいを重ねるという必要性が生じるかもしれません」


「そうですね……」


 このあと、シグルドとジェラルドが戻ってくると、四人は寝仕舞いをして眠るということになった。カエルの求愛の鳴き声は相変わらず凄まじく、シグルドとジェラルドの話によれば、夜明けが来るまでずっと夜の闇の中で同じ状態が続くということであった。


「では、盗っ人が現れても、カエルの鳴き声でその足音もかき消されてしまいそうですね」


 シグルドはハムレットに寝室のベッドを譲ってくれようとしたが、ハムレットは遠慮した。病人から寝床を奪うなどとんでもないと感じたからだが、彼は頑としてそのことでは譲らなかったのである。


「まあ、ベッドだなんぞと言っても、大した場所でもねえべ。なんにしても、ここには昔、イレーナが作ってくれた古い寝具類があるから、ギベルネさんとジェラルドには、そんなもんの横にでもなってもらうしかねえな。もし前もって来るってわかってれば、ちゃんと洗濯して干しておいたが、そこんとこはちょっと勘弁してもらうしかねえべなあ」


 そんな形によって、ハムレットは寝室にて、他の三人は居間となっている場所でほとんど雑魚寝に近い形で眠るということになった。ランプを消す前、丸太小屋へ入り込んでいたヤブ蚊をシグルドは大きな貫禄のある手のひらでピシャピシャ打ち殺していたが――ギベルネスはそんな彼の様子を見て笑いを禁じ得なかった。以前までの彼であれば、あの蚊のうちの一匹でも、カエサルからの使いではないかと想像するのをやめることが出来なかったものだが、今ではもうそんなことにも希望をかけなくなりつつある。


 やがて、ジェラルドがいびきと寝息の中間くらいの音をさせつつ寝入ってしまうと、シグルドはポツリとこんな話をはじめた。ギベルネスは寝つきが悪いほうではなかったが、まだ起きており、シグルドにはそのことがわかっていたのである。


「わしには、イレーナとの間にひとり息子がおってな。いや、息子はもうひとりいた……が、生まれて間もなく死んでしまったのよの。イレーナはその次男が死んだ時に埋めた墓の隣に今は眠っておる。本人がそうしてくれと言ったその通りな。やがてわしも死んだらそこに一緒にしてもらいたいと思うておる。が、ひとり息子のほうはな、随分北のほうにある寺院で……病気で亡くなったそうじゃ。ローゼンクランツのご領主さまから、そのように連絡があった。まったく、ご親切なことよの。そのことではまったく、公爵さまに感謝しておる」


「……ご存知だったのですね」


 自分が起きていて、確かに聞いているということを知らせるために、ギベルネスはあえてそのように返事していた。


「ああ。もっともその時に、ショックで発作を起こしたりはしなんだが、ギベルネ先生、お宅の顔を見た時には息子に面差しが似ておったもんで、まったくびっくりしたわい」


「今まで私は……シグルドさんのご子息と思われる方に……ユリウスさんに、何度もよく似ていると言われてここまでやって来たのです。私は取り立ててこれといったものを何も持たぬ人間ではありますが、ユリウスさんは大変博識で、ご立派な方だったと聞いています」


「自慢の息子じゃった」


 シグルドの声が微かに震え、そこに涙の気配が漂いはじめるのを感じても――ギベルネスは何も気づいていないというように、ただ黙ったままでいるしかない。


「今も、時々よく思うことがあったもんじゃ。一体なんの運命の悪戯からか、罪人として追われるようなことにならなかったとすれば……ユリウスの運命もずっと違っておったかもしれん。だが、起きてしまったことは起きてしまったことじゃ。最初は、わしとイレーナとで、教師がわりに知っておることをなんでも教えた。だが、あの子は賢すぎたでな……こんな人との関わりもない環境で今後も過ごさせるのが不憫じゃった。そこで、イレーナの親戚に、仲睦まじいが子のない夫婦がおったもんで、ティセリオン州に住むその夫妻にユリウスのことを預けることにしたわけじゃ。そののち、王都テセウスのほうで教師のようなことをしておると聞いた。さらには、そのことが評判になり、王室へ出入りするようになったとも……あの子がそこから逃げてヴィンゲン寺院におると知らせてきた時、親の因果が子に移りとはこのことかとわしは思ったほどじゃった」


 ギベルネスはただ黙ってシグルドの話を背中で聞いていた。また、そのことも彼にはわかっているという確信がギベルネスにはあったのである。


「わしの今の気持ちがわかるかね、先生や?どうせ逃げるなら、うちに帰ってくれば良かったにと思うたことは、わしにもイレーナにもあった。じゃが、あの子がわしたち親の想像を遥かに越えて志しの高い人間だということは、わしにもイレーナにもわかっておった。あの美しい少年は……ハムレットさまが何者かも、わしにはよくわかっておる。先生、今のわしの気持ちがわかるかね?きっと、神さまはこの世に存在しておるのだと、わしは生まれて初めて思ったほどじゃ。息子が……ユリウスが生きたことには十分すぎるほど十分な意味があった。先生、あなたさまにはもしかしたら、わしの今のこの気持ちはわからないかもしれぬ。じゃが、どうしても言わせてくだされ。本当に、あなたさまとハムレットさまがなんの偶然からにせよ、ここへ来てくださって良かった。もしこれからわしが発作でも起こして死んだとしても、なんの悔いも残すことはない……本当に、もう何ひとつとして思い残すことはないのじゃ。この気持ち、おわかりくださるか」


「ええ……私は結婚しておりませんし、ゆえに子供もありませんが、それでも父は戦争で死に、そのことで親戚や友人らとはバラバラの生活を送ることを余儀なくされました。母も妹も私も、父のことでは今も悲しんでおります。戦争さえなければ、父さえ今も生きていれば……そのことの悲しみの影は、今後とも私の人生にも母や妹の人生からも消えて失くなることは決してないでしょう。そうした意味で……シグルドさんのお気持ちは、すべてでなくてもわかるところがあると思います」


「先生にしてみたら、こんな老いぼれの、よくわからぬ過去の愚痴を聞かされても……迷惑とは思うのじゃ。じゃが、ほんまによう来てくださった。とはいえ、あのメロロンだかランロロだかいう幽霊野郎のことでは、あまり協力できそうもなくて、大変申し訳ない限りだわい。ただ、あなた方おふたりが、このような貧乏な田舎家へ立ち寄ってくださったことで、わしがこの世の宝はもはやひとつもいらぬというくらいの大金持ちの心地で今はおるということを……どうか少しだけでええ。覚えておって欲しいのじゃ」


「いえ、こちらこそ……素晴らしくもてなしてくださって、なんともお礼のしようもないくらいで……」


「ああ、そうじゃ。あのわしの薬帳をあんたにやろう、先生。実はな、もしかしたらいつか、ここから出ていくようなことでもあれば……内苑七州のどこかの州都ででも高値で売れるかもしれん思うて、写しのほうはすでに取ってあるのよの。じゃから、心配せんで持っていくがええ。ああ、わしはまったく幸せ者だて。人生の最後の最後で……あとは惨めな死が待っているだけという段になって、このような幸福と巡り会えようとは……」


 何か、深い満足の吐息のようなものと共に、シグルドの言葉は途切れた。ギベルネスとしても、それ以上なんと声をかけてよいかもわからなかった。ただ、シグルドの気持ちのほうは痛いほど彼に通じていたし、それはシグルドのほうでも同じであろうということは――言葉で説明などされずとも、よくわかっていたのである。


 また、杉材の壁とドアを通した向こうの寝室にて、ハムレットはギベルネスとシグルドのこの会話を聞いていた。無論、シグルドとしてはハムレットにまで聞かせるつもりまではなかったことだろう。そのことは彼にもわかっていたが、それでもどういうことなのか、理由のほうがはっきりわかって良かったと思うのと同時――ハムレットはこの時、師ユリウスのことを思い、枕を濡らしながら眠ることになっていたのである。


 これが三女神の導きによるものなのかどうか、それともただの偶然なのかはハムレットにもわからない。だが、彼はこの時暫しの間メルランディオスのことは一切忘れ……幼き頃より時に厳しく自分のことを育ててくれたユリウスのことを思い、思い出の涙にかき濡れつつ、眠りに落ちていったのである。




 >>続く。






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