第32章
翌朝、ハムレットが目覚めてみると、彼はその腕の中に例の聖剣を大切に抱いている自分に気づいた。だが、夢の中で見たのとは違い、それは本当に特にどうということもないように見える、ただの剣であった。確かに、柄頭には光を受けるごと、色の変わるオパールにも似た宝玉が嵌まっていたし、鞘にしても不思議な輝きを帯びた白金で出来ているようには見えた。
だが、ハムレットがごくり、と唾を飲みつつ、鞘を数センチばかり抜いてみても――そこから、例の黄金色の光が洩れてくることはなかったのである。
この時、ハムレットはがっかりするどころか、むしろほっとした。それと同じように、剣は手許に残ったが、王冠についてはまわりを見渡してもどこにもなかったのである。そして、ハムレットは(これでこそ良かったのだ)と、心からそう思えた。
(人間は、目に見えるものに拘りすぎる……もし目に見える形で女王二ムエの与えてくださった王冠なぞというものが存在したら、それを手にした者こそが王に相応しいだのと、そんな話にもかなりかねないことだものな)
そして、ハムレットは剣が残ったことに対しては、心から深く三女神たちに感謝した。何故なら、王冠も剣もなかったらなかったで(あれはただの夢だったのかもしれない)と、ハムレットはのちのち思いはじめる瞬間があったに違いないからだ。
(そうだ。むしろオレはこうして剣が残ったことで……己に対する戒めとすることが出来る。オレは、本当は戦争なんて嫌だ。だが、このように剣が鞘に収まっているためには、やはりより善き志しを持つ王が……いや、王や王権といったものはただの象徴にすぎぬ。その王の元で賢く国を治めることの出来る家臣がひとりでも多くいれば……この国に平和は固く立つことになるだろう)
「おはよう、ハムレット。どうしたの、その剣?」
夜明けとともに、すでにウルフィンは起きて働いていたし、レンスブルックも馬の様子を見にいっていた。まだ寝ていたのは、ハムレットとギネビアのふたりだけだった。他のみなは顔を洗ったり水を飲んだりするのに、泉まで出ていた。そして、その中で一番最初に戻ってきたのがキリオンだったのである。
「ああ、うん。そうだな……きのう、夢を見たんだ」
「夢?一体どんな?」
キリオンは屈託のない、まだ幼さの残る顔でそう聞いた。
「その、なんていうか……女王二ムエについて来いって言われて、カールレオン城の中庭にある環状列石まで行ったんだよ。それで、これからアヴァロンへ行ったら、メルランという男がいるだろうから、そいつに戦争のために必要なものを用意してもらえとか、色々言われて……」
ハムレットは一瞬、信じてもらえるだろうかと不安になったが、キリオンは瞳を輝かせると、「すごいや!!」と叫ぶように言った。すると、いつものように手合わせしようとしていたディオルグとランスロットが剣を抜くのをやめ、城跡探索のことを話しながら戻ってきたタイスとカドールも、キリオンのほうに視線を向けた。さらには、「んがーっ」といびきをかいていたギネビアまでが、キリオンの声でハッと目を覚ましている。
「みんな聞いてよ!ハムレットが……王子が、夢で女王二ムエに会ったんだって。それで、ええっと、なんて言われたんだっけ?」
「そう、だな。夢の中でこの剣をもらったんだ。それで、この聖剣の抜き身の本体と、鞘とどちらが大切と思うかって聞かれて……鞘のほうだと思うって答えたら、『おまえの治世は平和なものとなるだろう』みたいなことを言われて……」
ハムレットは自分でも話していて戸惑った。きのう、夢の中で経験したことは、ハムレットにしても素晴らしい体験だった。それはまだ暫くは胸の奥深くに秘めておいて、何度も忘れぬよう反芻しておきたいように感じる事柄ですらあったが、一度言葉にして話してしまうと――『大体こんな感じのことだった気がする』とか、『こんなふうに言われた記憶があるが、本当はどうだったっけ?』というように、何やら手の平から洩れる水のように記憶がどんどんあやふやになっていくもののような気がした。
一同の中で一番の懐疑家であろうカドールさえも、ハムレットのこの言葉を疑いもせず信じた。ハムレットが手にしている剣は、柄頭に宝玉が嵌まっている以外では、一見特にどうということもない剣であるように見える。だがそれでいて、時折何かの瞬間を捉えて鞘がうっすら貝殻の内側のような虹色に輝き――それをいつまでも惚れぼれと眺めていたい気分に、不思議と人の心を陥らせるものだった。
「だから、もしもう一度カールレオンの環状列石まで行きたいということだったら、道のほうは地図など見なくてもわかると思うんだ」
ハムレットがそう晴れ晴れした顔で確信に満ちて言うのを聞き、一同はすっかり驚き、ある種の畏敬の念に打たれていた。ウルフィンとレンスブルックとギベルネスが戻って来、みなで揃って朝食を取るという段になると、ハムレットは彼らにも夢のことを教えるため、今度はかいつまんでではなく、もう少し詳しく女王二ムエと話した内容について語ることにした。
「じゃあ、これからアヴァロンへ行ったら、その……メルランだかマーリンだかメルロンだかいう男に、戦争に勝てるようその準備を頼めということか?」
タイスは一同を代表するように、ハムレットにそう聞いた。ランスロットもギネビアも、またカドールですらも、彼をすでに主君として仰いでいるため、大切な事柄についてそう直接的な聞き方はしない。ゆえにそうした時、やはりタイスが気安く王子の意向その他を聞くということになるのだった。
「と、いうことなのだと思う」
ハムレットはビスケットに、ウルフィンの作ってくれた塩漬け肉と大豆の入ったスープといった軽い食事をしながら言った。彼の隣には、『疑う者にはこれを見せよ』とばかり仄かに輝く不思議な剣が置かれている。
「もっとも、そのメルランという男はよく名前を変えるとかで、今なんと名乗っているかはわからないということだった。とはいえ、面妖な男で、自分は偉大な魔導士だという振りをしているやもしれぬと。そいつの裏をかいて、こちらの言う通りにするよう使役してやれという、女王二ムエの話ではそうしたことだったな」
「ですが、相手が妖術使いということであれば……その術を見破ることが我々に出来るよう、その点は女王二ムエが手を貸してくれるということですか?」
カドールがそう訊くと、岩屋の下で丸くなって食事していた一同はぷっと笑った。彼が一番そうした神秘的な話を信じそうにないと、今ではみなわかっているからだ。
「いや……どう言ったらいいか。とにかく、その男の相手については、オレがしよう。この点については、そうとはっきり言われたわけではないが、この聖剣がおそらくメルランの術を破ってくれるであろうし、うまく説明できないが、とにかく万事うまくいくことが、今のオレにはよくわかっている。そのメルランという男は、こちらがそいつに恐れを抱けばその分力を増し、蟻かミミズかノミとでも思い、一切なんの脅威も感じなければ……実際そのようにこちらで簡単に踏み潰せる程度の存在に成り果てるということだった。実際にやってみなければわからないとはいえ、オレには今、その男に会ってもみないうちから、勝てる自信と勇気だけはあるのだ」
「アヴァロンは確かに、一見何もないように見える、沼沢地なのですよ」
カドールが再び口を開いて言った。彼だけでなく、今ハムレットにはきのうまでの彼にはなかったもの――曰く言い難い王としての威厳と力が、王権をまだ取ってもいないというのにすでに備わっているかのように、その場にいる者すべてに感じられていた。
「実際、危険な場所でもあると聞いたことがあります。たとえば、鹿をまるまる一匹飲みこむほどの、深い底なし沼があるとも……ゆえに、誰も地元民の案内なしには、そう奥地に入っていくことも出来ないという話でした。ですが、レヴァノンの森というのは、その者たちの言う幻の森のような場所で、まあ常若の国とまったく一緒で、その所在自体、本当にあるかどうかもあやしいような場所だということですし……」
「へえっ。じゃまあ、なんにしてもとにかく、そのアヴァロンって場所には人が住んでるんだな。ここカールレオンみたいに城の跡は残っていても誰もいないっていうんじゃなくさ。じゃまあ、わたしとしては少しは安心だ。じゃなかったら、その村やら村人やらにしてからが、そのメルランとかいう男の幻じゃないかと疑ってしまうところだものな」
干しイチジクのデザートを食べながら、ギネビアが軽い気持ちでそんなふうに言った。だが、次の瞬間、タイスとハムレットがハッとしたように顔を見合わせる。彼らはこの時、お互いまったく同じことを閃いていた。(そうだ!そういえばユリウスが自分はアヴァロンの出身だと言っていたではないか)ということを。
『なんていうこともない、小さな村ですよ。父親は猟師で、母は籠を作って売っているような、貧しい家庭でした。ただ、村にちょうど王都テセウスで学んで帰ってきたという男がいて、村の子供たちを集めて学校を開いていたのです。そこで、私がなかなか賢く物覚えがいいようだということで、王州にある学校のほうで学べるよう取り計らってくださったわけですよ』
「カドールは、その村へ行ったことがあるのですか?」
タイスはハムレットの顔を見て頷くと、そう聞いた。彼らにとって、師であるユリウスは不思議な人だった。文学、歴史、数秘術、占星学、天文学、音楽、武術と、その他ユリウスには広範な知識が備わっており、彼に聞いて答えられないことなど何もないのではないかというように、ふたりにはよく思われたものだった。
「ええ、まあ。通りすがりに一夜の宿を借りたといった程度のことですがね。こう言ってはなんですが、村人の生活は貧しく、本当に何もないところですよ。というより俺は、ハムレット王子がそのメルロンとかいう妖術師に言葉巧みに誘いこまれ、沼地にでも連れていかれはしまいかと、そんなことが心配だったものですから……」
「そのために俺たちがいるんじゃないか」
ランスロットが、砂漠トカゲの乾燥肉をおやつのようにつまみながら言う。
「そんなメルランなんて奴、王子に少しで危害を加えようとしたら、俺の手で一刀両断にしてくれよう」
「やれやれ。おまえは能天気でいいな」
カドールは(やれやれ)というように、溜息を着いている。
「第一、ハムレットさまの話をちゃんと聞いていたか?そのメルランとやらにはおそらく、実体などないのだ。ランスロット、いかにおまえがローゼンクランツ随一と言われるほどの剣と槍の使い手であろうとも、そいつは斬った途端に再びまた元の姿に戻るなり、何か別の姿に化けた形になるなりして、なんにせよ変幻自在に姿を変えて現れることが出来るに違いない。それなのに、我々の大切な王子を守れるかどうかということが、俺はまったく心配でならんな」
カドールのこの言葉を聞いて、ハムレットは内心で微笑った。彼にしても、人間としてカドール・ドゥ・ラヴェイユという男のことが嫌いなわけではない。とはいえ、今まで彼と自分を結びつけているものは、ある種の損得勘定による主従関係なのだと思っていた。だが、このように寝食を共にするうち、自分がそうしたものすら越えた愛着に近い感情を彼に覚えているように、おそらくはカドールのほうでも同じなのだと、初めてそう気づかされた。
「心配ないよ、カドール」
ハムレットは笑いたくなるのを堪えて言った。また、ハムレットが微かに笑っているのが何故かも、石のテーブルを囲む全員にわかっていることだった。カドールはこの中で亡霊だのいう存在のことを一番信じそうにない性格をしているからだ。
「それより、タイスや他のみなとも相談して、そのメルランとやらに頼む必要なもののすべてを書き出しておいてくれないか?何分、オレにはバリン州を囲む三重城壁について、カールレオンの城壁を元にしているから注意してよく見ておけと女王二ムエに聞いた以外では……そこがどのような場所かもわからなければ、戦争の経験もない。ただ、オレにあるのはみんなの知恵と力と経験と、あとは『どの道を通ろうともおまえは必ず勝利する』という、三女神たちの言葉があるというそれだけだから」
――朝食後、みなで岩屋の掃除をし、旅支度を整えると、ハムレットの案内により、全員でカールレオンの環状列石のある中庭を目指した。無論、女王二ムエの託宣をすでに受けた以上、その必要はなかったかもしれない。だが、ハムレットが夢で辿った通りに城跡の中を迷いなく進んでいくと、当然誰もみな驚くのと同時、ハムレット自身もまた、何もかもすべてが夢で見た通りであることにあらためて畏敬の念を覚えていたわけであった。
下中庭にある朽ち果てた井戸の跡や、かつては広場であったであろう場所など、その他、あるところでは階段を上って細い通路を辿ったり、歩廊から下の苔むして隆起した台地を眺めつつ、その後、今度は階段を下りたりと……カールレオン城の中庭へ辿り着くまでの道のりは、相当入り組んでいた。地図を見ていてさえ迷うだろうその道を、ハムレットが「こっちだ」と言って導くのを見て、誰もが「やはり彼は王として女王二ムエに選ばれたる者なのだ」という思いを新たにしていたと言える。
「これは、我々の信仰心の薄さを示すものでもあるのだろうな」
カドールが、心地好い陽光に輝く緑の中で、黒く、不思議な輝きを放つカールレオンの環状列石を眺めて言った。
「ハムレット王子が、そのような夢を見、さらには女王二ムエに聖剣を与えられたのだと、その言葉だけでしっかり信じることさえ出来れば……むしろ、このようなことはただ遠回りをしただけのことに過ぎぬからな」
「まあ、そう難しく考えるなって」
ギネビアは、「んーっ、気持ちいっ!!」と言いながら、大きく伸びをして言った。
「これで、ハムレット王子の王位は確立されたも同然だと、我々一同再び心をひとつに出来たんだから、それでいいじゃないか。そんでアヴァロンへ行ったらさ、ハムレットさまが沼地を歩かなきゃなんないって時は、わたしがその五歩くらい先を歩いて、足許がしっかりしてるかどうか、ちゃんと調べてやるよ」
「そうだな」と、ランスロットがギネビアの隣で笑う。「それで、おまえが底なし沼にでも沈んだから、縄を胴のあたりにでも巻いて助けてやるとしよう」
「なにおーうっ!!ランスロット、おまえの助けなんかいらないさ。わたしは泥沼からだって、自分の力だけで必ず這い上がってみせるっ!!」
「まったく、可愛気のない女だ」
ギネビアとランスロットがいつものようにいちゃついて(?)いると、他の者はそんなふたりのことを笑いつつ、カールレオン城の高みから見えるあたりの景観の素晴らしさを堪能し、暫く休憩してのち、アヴァロンへ向け出発することにした。馬たちはこの聖なる地の若草を食み、すっかり瞳が輝いて見えたし、心なしか毛並みのほうも一段と艶が増して見えるほどだった。
こうしてハムレット一行はさらに旅を続けたわけだが、夜は野営しつつ、四日ほどもした頃のことである。朝と夕方の一時期、周囲を濃い霧が漂いはじめ、あたりは昼間とは違い、一段と寒くなりはじめた。とはいえ、寒くなるのはほんの2~3時間程度のことであり、夜はそのお陰で涼しく過ごしやすくさえあったが、朝方には上に掛け物をしていても風邪をひくのでないかというくらい、あたりが急激に冷え込んでくるのであった。
陽が昇るのと同時、だんだんに霧のほうは薄くなりはじめ、再び気温は上がってくるのであったが、それでもである。砂漠の暑さに慣れ切っているハムレットやタイスやギネビア、キリオンたちにしてみれば――『霧』というもの自体を見たことがなかったため、その存在自体がまったく不気味であるようにしか感じられなかった。
「ただの自然現象ですよ」
ギベルネスは、ギネビアが不気味がって着替え用のローブを寒そうに前でかき合わせるたび、そう繰り返し言って慰めたものである。
(だが、確かに実際そうだ。ハムレット王子もタイスも、海自体見たことがないということだったし……確か、ロットバルト州はエルゼ海に領地が接していたと思うが、砂漠で育った者が初めて海を見るといった時、果たしてどんな気持ちになるものなのだろうか)
カールレオンを旅立って五日後、濃霧の中、一行は『どうやらこれがアヴァロンにある村らしい』という場所へ辿り着いた。その日も、朝と夕にそれぞれ霧があたりに立ち込めはじめ――昼間の暑さに湿気が加わり、なんともいえないムッとするような空気があたりには漂っていた。
「あーもう、やだやだっ!暑いなら暑いでいいからさ、もっとこうカラっとした空気になってくれってんだ。まったく気持ち悪いったらありゃしないっ!!」
ギネビアがその日も、イライラしたようにそう言った。他の者たちが内心で思っていることを、彼女は大抵いの一番に口にしてくれる。そのせいか、(なんだ、やっぱりみんなそう思ってたんだな)というように、自然と互いの意思を確認できることが多い。
「ですが、これはやっぱりただの自然現象なんでしょうね、ギベルネ先生?」
言葉の棘を久しぶりにカドールから向けられ、ギベルネスは内心で苦笑した。
「まあ、そうですね。私の知る限りにおいて、海霧に近いもののような気がするのですが……とはいえ、ここらあたりに海はないと考えると、不思議な気はしますが」
「いや、湖ならありますよ」
カドールはしぶしぶといったように、そう答えた。
「トリスタンさまの地図には書き記されていませんでしたが、地元の人間ならば誰でも知っていることのようです。私やランスロットにしても、王都や、あるいはメレアガンス州やロットバルト州へ行く途中で、ここへはちょっと宿を借りることがあるだけですから……なんでもこの霧のほうはいつでも、湖や湿地帯のほうから立ち上ってくるものなのだとか」
「ああ、なるほど。それならばわかります」
ギベルネスは今のカドールの言葉で合点がいったものの、それでいて内心で小首を傾げることにはなった。カールレオン城址にしても、ここアヴァロン州にしても――自分は間違いなく衛星を通して見たことがあるはずなのである。だが、そのような湖沼地帯といったものを見た記憶が彼にはまったくなかった。
(無論、私の記憶違いということではあるのだろうな。そもそも、宇宙船カエサルにいた頃は……あくまでも神でもあるかのような立ち位置で地上を眺め、自分とはまったくの無関係なことであるように感じながら、風光明媚な土地を見ていたというそれだけだったわけだから……)
「それならばわかる、とは?」
タイスがギベルネスの隣近くまでやって来て、そう聞いた。ここアヴァロンはユリウスの生まれ故郷であるらしい。だが、やはりギベルネスは顔が似ているというだけで……彼とはなんの縁もゆかりもないのだろうかと、そのことが彼にはやはり不思議だったのだ。
「これは、まだ私の推測の域を出ないことではありますが……たとえば、昼間の暑さで大量の海や湖の水などが熱せられて蒸発すると、気温が下がった時に冷やされた空気がこうして霧となって発生するというわけですよ」
タイスとカドールはギベルネスのこの説明で納得したが、他の者はやはり違った。ギネビアが「それでもやっはり気持ち悪いものは気持ち悪いっ!!」と眉根を寄せて言うことのほうに大賛成なわけである。
「第一、ここの村自体、なんだか朽ちかけた、幻の村みたいじゃないか。こんなんで、本当に人が住んでなんているのかどうか……」
その日の夕方に漂いはじめた霧は、きのう見たよりもさらに濃厚なものであり、粗末な木造家屋が点在する村を、なんだか亡霊の住むそれのように見せかけていたことは確かである。
そんなところへ持ってきて、霧の向こうからぼう、と野良仕事から戻ってきた農民の一団がやって来たもので、ギネビアは「ぎゃーっ!!」と叫んでさえいた。
「ゆ、ユーレイだっ!!まだ完全に陽が沈みきったってわけでもないのに、早くもこのあたりでは亡霊がさまよい歩いてるんだっ!!」
「やれやれ」と、ランスロットが呆れたように苦笑する。「おまえにハムレット王子の五歩先を歩けというのは、どうやら無理なようだな」
そう言って、ランスロットは馬を進めていくと、一日の労働ですっかり疲れ切っている男のひとりに、声をかけていた。何より、彼が幽霊などでないと、はっきりギネビアに知らせてやるために。
「これから、メレアガンス州へ行きなさるので?見てのとおりの古ぼけた村だもんで、宿屋のようなシャレた場所はありませぬが、どこの家でもあなたさま方のような立派な方々の宿泊を拒んだりすることはねえと思いますだよ」
初老のその男は、腰が曲がり、着ている物も襤褸にも近い粗末なものだった。ヒゲもぼうぼうで、顔にも精気がなかったが、それでいてどこか矍鑠としたところがある。
「そうですか。とはいえ、我々は見てのとおり大人数ですし、あまり負担をかけても申し訳なく思います。もし、どこかご紹介していただけると助かるのですが……」
ランスロットは懐から貨幣の入った袋を取り出すと、そこからレハール銅貨を一枚取り出し、男に渡そうとした。
「ここの先を、まっすぐ行きなされ。さすれば、粉屋のホリングウッドの家がございますわい。このあたりのボロ屋とは違って、ちょいと立派な二階建ての家屋ですから、一目でわかりますわいな」
「ではこちらは、お礼の品ということで……」
「いえいえ、結構けっこう。立派な騎士さまよ。こちらはただ道を聞かれて答えただけのこと……お代までちょうだいするほどのことではありませぬよ」
すぐにくるりと背を向け、男が霧の中を立ち去ったため、ランスロットは彼に銅貨を渡す間もなかった。ただ、彼にしても少しばかり不思議ではあった。以前ここへ立ち寄った時には、粉屋のホリングウッドの名など聞いた覚えはまるでなかったから。
「カドール、どう思う?どうも、以前俺が来た時とは、村の様子が違う気がするんだが……それともこれもまた、霧の見せる印象のせいでそう感じるだけのことなのだろうか」
「さてな」そう答えるカドールの記憶もおぼつかなかった。「以前俺がこちらへ立ち寄った時は、従者も含めて三名ほどでだった。そこで、空き家で一晩寝ることを近くに住む者に一応許可を取ったというそれだけだ。なんともしみったれた何もない村だと思って、ただ通りすぎたというそれだけにすぎぬ」
とはいえ、亡霊たちの住む村でないことだけは確かだった。まばらにポツポツ建つ掘っ立て小屋にも等しい木造家屋からは、赤ん坊の泣き声もすれば子守唄を歌う子供の声も聴こえ、薪を割る若者の姿もあれば、庭先の小さな畑から夕餉の品の野菜を摘む主婦の姿もあったのだから。
また、腰の曲がった男の言っていた、粉屋の家もすぐにわかった。それは二階建てで、破風のある木骨造りの、化粧漆喰の施された立派な家屋だったからである。
「やれやれ。粉屋というやつはどこでももうかるらしいや」
そう言って笑ったのはキリオンだったが、彼のこの言葉にはギベルネス以外みな同意していたようである。何故といって、ギベルネスには粉屋というのが何故そうもうかるのか、よくわからなかったからである。
聞ける機会があればそのことを聞こうと思っていたギベルネスであったが、とにかくその夜、ホリングウッドの屋敷において彼らが久しぶりに柔らかく、とても美味しいパンにありつけたということだけは確かだった。その他、イモのたっぷり入ったシチューなど、急に訪ねてきたにも関わらず、ホリングウッド家の歓待は素晴らしいものだった。
デイヴ・ホリングウッドは丸々と太った中肉中背の男であり、奥方のほうも彼によく似て丸々と太っていた。ふたりいる、六歳と五歳だという男の子も――まるでふたりの太りやすい遺伝子を受け継いだかのように、健康的に成長しているようだった。
「あなたは、ここの村一帯を取り仕切る領主……いえ、領主というのが言いすぎなら、有力者か何かなのですか?」
たっぷりした食事と味のいいビールや葡萄酒、それに美味しいデザートやケーキまで出されたことで、そう聞いたギベルネス以外はすっかり上機嫌になっていた。そのせいもあって、彼らの中には誰ひとりとして心に疑問に感じたことをあえて口にする者はなかった。だが、ハムレットもタイスもカドールも、普段食事中、そう積極的に発言することのない<神の人>がそう口にしたことで――歓談中の空気を凍りつかせたことに驚いていた。
それまでは、「いいお住まいですね」、「いやいや、とんでもありません」、「ご子息たちも賢そうで、将来が楽しみですな」、「いえいえ、とんだ豚児でございますよ」……といった、当たり障りのない話をし、(カドールの奴、ほんとはブタのように太ってございとでも言いたいんだろうに)と、心の中で思うに留めていたというのに。
「すみません。悪気があってこう聞いたわけではないのです。ただ、少し心配になりました」と、自分のあてこすりを、ギベルネスは早くも後悔しはじめていた。ここの惑星の人々には、ここの惑星の人々の流儀があるというのに。「今日見た限りにおいて、こちらのお宅以外の農家の方々はつましい暮らしなようなのに、ある種のクーデターと言いますか、反乱の一揆と言いますか、誰か代表に当たる人物がリンチにあったりすることはないのかと、そんなふうに思ったものですから……」
デイヴ・ホリングウッドは、腹のあたりにたっぷり脂肪がついているのみならず、脳の中もたっぷり脂肪で満ちている人物だったらしい。彼はギベルネスの言葉の中に、毒のようなものなど微塵も感じなかった。むしろ、言葉の額面通り、彼が本当に親切心から心配してくれているのだとすら思ったらしく、それは奥方のマーサもまったく一緒だった。
「いえいえ、大丈夫でございますよ。ここアヴァロンは独立した州のように一応呼ばれていますが、実質的にはメレスガンス州の属州のように扱われている場所なのです。しかも、一年のうち霧のかからない日というのがほとんどないというくらい陰鬱な土地柄で、あまり人が近寄りたがりません。まあ、わたくしどもはですな、農民たちが税金がわりに持ってくる穀物を水車場の石臼で挽いて、それをメレアガンス州に納める税吏のような役割を果たしているといった具合でして……もし仮に、税のほうが重すぎるというので彼らが文句を言ったとして、わたくしどもに一体何が出来ましょう。この屋敷を囲って大騒ぎしながら火を点けたところで、また次の税吏がやって来たり、メレアガンス州から軍隊が派遣されてきて終わりといったところですよ」
「では、今までの間にそうした事件が起きたことがあったということですか?」
ギベルネスがしつこくそう聞いたことで、ハムレットもタイスも、このことは彼にとって非常に重要なことなのだろうと感じた。ギベルネスの言葉には、普段彼から感じたことのない、ある種の厳しさが含まれていたから。
「まあ、そんなこともあったでしょうな」
デイヴは、ゴブレットの中のワインをくゆらせながら言った。ゲップが出そうになるのを、「おっと失礼」と言って、どうにか堪える。
「とはいえ、わたくしが思いますにはな、そうしたことは結局、責任者と農民とのつきあい方の問題なのですよ。最初から棘棒で殴るような姿勢を見せていれば、家畜のほうでもこちらには懐きますまい。わたくしとマーサはですな、こう考えております。彼らには毎日、家にある石臼で麦を挽いて食べるくらいのものは残してやるのです。他ではまあ、病気したり寝込んだりしない程度に……ようするに死なない程度に働いてもらって、定められた小麦を税金代わりに納めてもらうといったところですよ」
「…………………」
ギベルネスはまだ言いたいことは色々あったが、とりあえず黙っておくことにした。実際、こうしてその小麦を元に調理したものを頂いているのだし、なかなかに快適な屋敷の一室で眠らせてもらうことも出来るのだ。自分ひとりだけであればともかく、他のみなに迷惑をかけるわけにもいかないと思った。
「世の中、とかく不平等なもんさ」
キリオンは久しぶりに雨風を防げるのみならず、柔らかい寝具の上で丸まって眠れることを喜んでいた。野営というのは、それと自覚がなくても、自然と体に疲労が蓄積していくものだからだ。
「長いものには巻かれろっていうか、いちいち噛みついていたら、命がいくつあっても足りゃしないよ。ぼくは、ホリングウッド夫妻の気持ちはよくわかるな。美味しいものを食べさせてくれたからっていうんじゃなく、息子がふたりもいたら自然とそうなるものなんじゃないか?自分はともかくとして、子供にはいい家に住まわせて、立派な服を着させてやって、なるべく美味しい食事を取らせてやりたいって、そう思うのが親心ってものだもの」
「まあ、確かにそりゃそうなんだがな」
ランスロットは、隣の部屋のギベルネスに聞こえるからではなく、小声で同意して言った。
「が、騎士たるものは、時にそれだけではいかんのだ」
ホリングウッド邸は、村民たちの住む家屋より遥かに立派であったとはいえ、それでも下に大広間の他、客間が二部屋に夫婦の寝室、食堂にキッチンのある部屋、氷室として使われている地下室、あとは二階に子供部屋が二部屋と、それに屋根裏があるきりであった。
十人は二手に分かれて客間を使わせてもらい、ギネビアもまたそこへ混ざろうとしたが、ホリングウッド夫人に「まあ、とんでもない!!」などと叫ばれ、彼女は二階のほうへ追いやられていた。子供たちのほうは、弟の部屋のほうにふたりで眠ることにするという。
「何故、あそこでせっかく快く我々を受け入れ、申し分ない食事まで振るまってくださったホリングウッド殿に突っかかったりしたのですか?」
カドールはそのことをギベルネスに問いただしたいがゆえに、彼と同室になることを選んでいた。久しぶりにこのように屋根のある家で休めるだけでも十分だというのに、一体どういうつもりなのかということを。
「じゃあ、あなたたちはこのことをおかしいと感じないということなんですね?」
今ではすっかり我を折るつもりでいたギベルネスであったが、それでもカドールに言われると若干ムッとするものがあったというのは事実である。
「つまり、この貧富の差がおかしいと思わないのか、ということですか?」
ギベルネスとカドールの間を仲裁するつもりで、タイスは彼らの間に割って入った。とはいえ、内心面白がっていた部分も彼にはあった。そしてそれはおそらく、隣にいるハムレットにしても同じだったに違いない。
「貧富の差だと?そんなもの、どこにでもある。俺だって名門騎士の家に生まれていなければ、ここの農民たちのように雑巾を絞りに絞って水が一滴も出ないほど重税を課されることにうんざりするという生活だったろうよ。だが、そんなことを憂えたところで一体なんになる?人はその生まれまでを選ぶことまでは出来ない。上に立つ者には上に立つ者の重い責任がある。それを出来るだけ忠実に担って生きていくこと以外、他にどんなことが出来るとでも?」
「俺の国の『知恵の書』と呼ばれる本に、次のような文言が書き記されている」ディオルグは、ギベルネスに助け舟を出してやるつもりで言った。普段、彼はこうした事柄について口を差し挟んだりすることはあまりないのだが。「『ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が掠められているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる』……つまり、下級官吏が民衆を虐げるように、上級官吏は下級官吏を虐げ、この上級官吏と呼ばれる者でさえも、さらなる上の権力者には媚びへつらい追従せねばならぬという意味だ」
「その意味するところは?」
カドールは若干棘のある目でディオルグを見た。いつもは彼のことを年長者として敬っているのだが。
「つまり、世の中はそのようにして堕落しているということだ。この書を書き記した賢人は、時の東王朝の王に仕える高官だった。王の側近として、王が心を許している者のひとりだった。ところがだな、王に衷心から正しいことばかり言うと疎まれるし、王と家臣として睦まじいばかりでいても、他の臣下たちから妬みを買う……この賢人は芸術や文学や詩学を愛好し、天下にある書物と名のつくものを読み漁り、王の覚えもめでたく、権力者として栄耀栄華を欲しいままにもしたが――最終的にその一切が虚しく、すべては風が吹けば消えるようなものでしかないと自身の書いたものに記しているわけだ」
「『空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう』」と、ハムレットは幼き頃、ディオルグから教えられた、その賢人の書物を暗誦して見せた。「『一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は昇り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る』」
「『すべてのことは物憂い』」と、タイスがハムレットの続きを引き受ける。「『人は語ることさえ出来ない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものはこれからもあり、昔起こったことは、これからも起きる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起きることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう』」
「『私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。だがそれもまた、風を追うようなものであると知った』」と、ハムレットがさらに続ける。「『実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい」しかし、これもまた、なんと虚しいことか。笑いか。馬鹿らしいことだ。快楽か。それが一体何になろう。私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだは葡萄酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてが虚しいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない』」
「よく覚えていたな、おまえたち」と、ディオルグは感心して微笑みつつ言った。「『私は再び、日の下で行なわれる一切の虐げを見た。見よ、虐げられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。虐げる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。私はまだ、命があって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、虚しく、風を追うようなものだ』……」
「『ある州で、貧しいものが虐げられ、権利と正義が掠められるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる』」ハムレットは、先ほどディオルグが言った文言を繰り返して言った。だが、それはさらにこう続くのである。「『何にも増して、国の利益は農地を耕させる王である。金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、虚しい。財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、心地好く眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。しかも、人は一生、闇の中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許される命の日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、幸せを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ』」
「『知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何かまさっていよう。目が見るところは、心が憧れることにまさる。これもまた、虚しく、風を追うようなものだ。今あるものは、何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている。彼は彼よりも力のある者と争うことは出来ない。多く語れば、それだけ虚しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろう。誰が知ろうか。影のように過ごす虚しい束の間の人生で、何が人のために善であるかを。誰が人に告げることが出来ようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを』」
「それで、結論としてあなたがたは、俺に……あるいは、俺とギベルネ先生に何が言いたいんです?」
<西王朝>の人間は<東王朝>の人間を憎み、<東王朝>の人間は<西王朝>の人間に我々よりも一体どんな勝ったところがあろうかと、大体のところ互いにそう思っているわけである。だが、このように<東王朝>の中にも立派な人物がいるのだということを、カドールにしても今は認めぬわけにいかなかった。
「とかく世の中ままならぬもの、ということさ」と、ディオルグが腕組みしたまま、面白がるような顔をして言う。「そしてそれは、王や国の有力者たちでさえもまったく同様である……そうした意味においてはみな平等であるが、結局のところ同じであるのならば、金と権力と食べ物と女も自由に出来たほうがいい、といったように読めんこともない。ただ、俺は今日の食卓で少々驚いたのさ。ギベルネ先生はそんなこと、とっくにご承知といったような、涼しい顔を普段はされておいでだ。ところが、実際にこれだけ貧富の差というものがありすぎるほどあって、隣人たちが苦しんでおってもそれを屁とも思わず、ムシャムシャ自分たちだけ美味しいものを食べ、いいものを着て平然としていられる――そんな人間の有り様を見て驚き、義憤を覚えたという、そのように見えるのが俺には何やら新鮮だったという、これはそうした話だ」
(いや、それほど格好いい話ではない)と思い、ギベルネスはむしろ己を恥じた。それならば、今すぐに自分だけでもこの屋敷を飛び出し、野宿でもしろという話でもある。
「ギベルネ先生。お約束します」と、ハムレットは<神の人>に向けて言った。「もしオレがこれから、この国の王になれたとしたら……こうした貧富の差というのを、急になくすということは出来なくても、まず、ここアヴァロンの地の人々の首から、そうした苦労のくびきをなくすということを先にお約束しておきたいと思います。法的な理屈としては、ここもまたすべて王の地であるから、その王の地を借りて耕させていただいている以上、そこから上がる収穫物はすべて王のものだという、そうしたことらしいです。また、師ユリウスの話によれば、こうした土地を突然彼らのものにして、そこから上がる収穫物をすべて自分たちのものにして良い……ということにしても、駄目だということでした。何故なら、彼らはそうしたことについて何も学んでこなかったし、むしろ混乱するだけだからと。まずは、そのあたりの指導の出来る者を上に置き、その人物が民たちから好かれるような人間であることが大切だという、そうしたことだったと思います」
ハムレットのこの結論によって、この夜、他の者はただ静かに眠った。ただ、ハムレットやタイスには不思議だったのだ。ユリウスはここ、アヴァロンの出身であるという。これは、本人がそう言っていたのだから、おそらく間違いないことであろう。だが、顔は似ているが、まったくの別人らしいとわかっているギベルネスが、普段は穏やかで、喧嘩どころか口論さえ嫌っているような節さえある彼が、この地の民のことについては黙っておけなかったのだ。彼らにとってこれは、ただの偶然とは到底思えぬ出来事だったと言える。
この翌日、やはり朝方には霧が濃く垂れ込めていたものの、午前中の早くにそうした濃霧も消え去り、あたりは湿気を含んだムッとするような熱気に包まれた。ハムレットたちは朝食ののち、ホリングウッド邸の裏手にある川の脇に、水車小屋があるのを見にいった。ギベルネス以外にとっては、水車小屋というのは見たことのある建物だったが、彼は写真や動画、あるいは観光案内の本によってしか見たことがなかった。ゆえに、どういった仕組みによって動いているのか、実に興味深かったといえる。
簡単にいえば、川の流れによって小屋の外側にある水車が回ることにより、小屋の中の石臼を挽く心棒が動き、これが穀類を砕くと彼らのよく知る白い粉になるわけだったが、石臼の動く重い音を聞きながら、ギベルネスはやはりこう言わずにおれなかったものである。
「これと同じものを、川の他の部分にも設置すれば、みんな平等に等しい数パンを焼くことが出来るのでは……」
「まったくわかってないなあ、ギベルネ先生は」
キリオンがチッチッチッというように、右手の人差し指を振る。
「そんなことしたら、ホリングウッドさんちの商売が上がったりになるじゃないか。だから、この村にはひとつしか水車小屋がないの。っていうか、この水車小屋がふたつに増えようと三つに増えようと、それはホリングウッドさんのものっていうか、メレアガンス州の領主のものってことだ。結局のところ、ここの村の人たちの好きには出来ないんだよ」
「…………………」
キリオンのこの言葉で、ギベルネスは初めてあることに気づいていた。今まで、滞在した場所が大きい城砦都市であったため、彼ははっきり気づかなかったわけだが、ギルデンスターン領地にあるという塩田や、ローゼンクランツ領地にあるという銀山や銅山など……支配の仕方の基本方式というのは、おそらく大体のところどこも似たようなものだったに違いない。ただ、民たちにオンボロ小屋に暮らさせ、ノミと同居していることがはっきりわかる襤褸を着る以外にないほど取り立ての方法が厳しいとまでは、ギベルネスにしても想像してなかったが。
だが、ここアヴァロンが農地として豊穣な土地柄らしいというのは、広い耕作地帯を一目眺めやるなりわかることではあった。ここアヴァロン州あたりの土地では、三圃式農業が行われており、秋蒔きのライ麦や小麦などを春先に収穫し、その後、大麦や燕麦、豆など、春蒔きしたものを秋頃収穫すると、家畜の放牧地(休耕地)としていた場所をそれぞれローテーションで順に入れ替えていくという農業方式らしい。他に、ここで栽培されているのは馬鈴薯、キャベツや玉ねぎやきゅうりといった野菜類、プラムやアプリコット、葡萄といった果物もあれば、味が薄くて水っぽいメロンやスイカなどもあるようだった。
こののち、ギベルネスが村の様子を見て回って気づいたことだが、確かに穀物類の収穫についてはそのほとんどがメレアガンス州の領主に納められるようではある。だが、やはり気候が温暖なためだろう。庭先からはラズベリーやカリンなど、季節に応じた果物が何かしら取れたり、その他味や形は悪いが、カブやキャベツといった野菜類がさして手入れなどせずとも適度に収穫できることによって――「食うに困る」というほどひどい生活状況でないらしいことがわかった。何より、一年中温暖なため、冬に備えて大量に食物を蓄えるという感覚が<西王朝>や<東王朝>の人々にはほとんどない。一応、比較的気温の下がる12~13月、1~2月というのはあるのだが、牛や馬に与える飼料がまったく野から消え去るということもないため、その間の干し草を納屋に大量に溜めておかなくてはならぬという事情もないわけである。
とはいえ、ギベルネスが隣の州であるメレアガンス州へ行ってみた時には、やはりまた別の意味で複雑な思いを味わうことにはなった。何故なら、メレアガンス州は織物が盛んな州であり、人々は農民でも家に代々伝わるタペストリーがあったり、女性ならばよそいき用のドレス、男性もまた一張羅の立派な衣装を最低一着くらいは持っているのが普通だったからである。つまり、小麦を輸出するかわり、そうした衣服を少しくらいは輸入できないものかと、またそう出来ないのは何故かについて、ギベルネスは思い悩むことになったわけである。
>>続く。




