第16章
キルデス・ギルデンスターン侯爵は、ギベルネスがレンスブルックから聞いていたとおり――徳高き人望厚い人物であるというのが、よく頷ける人柄をしていたと言える。ギベルネスがひとり遅れてきたからといって礼を失しているなどとは考えず、それどころか「馬丁のレンスブルックは面白い男ですね」と言うと、実に愉快そうに笑っていたものだった。
「わたしはここの小さな宮廷で、道化を何人か囲っているのですよ。何故なのでしょうな。彼らにはわたしの目を惹く面白いところがある……おそらくはわたし自身、男児としては平均より少し低い身長だったから、それで尚のこと共感の気持ちを覚えるのかもしれませんな」
侯爵本人がそう言ったとおり、キルデス・ギルデンスターンは間違いなくブロンドの美男子であったが、確かに一見して身長のほうが唯一残念に感じられるような男ではあった。けれど、キルデスの優れた人間性に接した人々は、誰もがすぐ彼の虜になってしまい、実際のところ背の低いことを気にしているのは本人くらいなものだったに違いない。
ギベルネスが衛兵らに案内されたのは、城にいくつかある内でも一番大きな宴の間で、そこにはこの日のために特別に高価な大理石の円卓に、孔雀料理や雉料理、詰物をした七面鳥など、新年の祝い、あるいは特別な神の祭日というわけでもないのに、この領地内において考えられる限りのご馳走が、次から次へと並べられることになっていた。おそらく、ヴィンゲン寺院より急使が走り、<ハムレット王子が王となるべく出立された>との報を受け、ギルデンスターン侯爵のほうではこうしたもてなしの準備にすぐ取り掛かったものと思われる。
パンや果物などもたっぷり籠や盛皿に盛られており、本来であればキルデスが座るはずの上座を勧められたハムレットは、恐縮しきりだった。そんなことを何故ユリウスが教えようとしたのか疑問に感じるでもなく、ハムレットもタイスも宮廷におけるマナーを教え込まれたのだったが、薄汚れた旅の衣装から立派な貴族の服へ着替えたとはいえ、その絹蜘蛛の紡いだチュニックですらが、侯爵が好意によって用意してくれたものだったのだ。
旅の一行はまず、空腹のあまり暫く飲食に夢中になるということになったが、ハムレットは気後れするあまり、食事のほうがあまり進まなかった。それでもキルデスが「王子さま、しもべのものはすでにすべてあなたさまのもの。ささ、どうぞ遠慮なくなんでもお手に取り召し上がってくださいませ」と、しきりに勧めるもので、それで鳥の胸肉の最上の部位など、給仕頭が切り分け皿に載せたものを順に食べていったりしたのだった。
そのようにして、侯爵自らが給仕人たちに命じ、他の客人のことも至極具合よく丁寧にもてなしたため――出されたものがどれもこの上なく美味しかったせいもあったが、一同は暫く食事をしつつ、「こんなに瑞々しくて美味しい桃は食べたことがありませんなあ」、「この肉の焼き加減がまた絶妙」、「添えられたソースがこれまた堪りません」……などと、ギルデンスターン侯爵のもてなしを褒めそやしたり感謝したりと、そんなふうにして過ごしていた頃、ようやくのことで神の人ギベルネが広間に姿を見せたわけだった。
「私ひとりだけ遅くなってしまい、大変申し訳ありません」
ギベルネスは侯爵に非礼を詫びつつ、空席になっていた、王子から見て右隣の席へ座った。ギベルネスのキルデスに対する第一印象は良かったし、それはキルデスにしてもまったく同じだった。その上、ひとりだけ遅れた理由というのも気が利いている。醜い小男である馬丁のレンスブルックの右眼の具合が気になったなどとは!
料理の席のほうはすでに終わりに近いくらいであったが、給仕人は侯爵の命により、ギベルネスのために取ってあった食事を順に出しはじめた。そこでギベルネスとしては心苦しくはあったが、その後も彼のみ食事をしつつ、会話のほうへ参加することになった。
「わたしと王子の父上であるエリオディアスは、王宮にて、同じ教師について勉学に励んでおったというような仲でしてな。というのも、今国王として立っているクローディアスとエリオディアスの祖母が、我が侯爵家の出身だったというわけで、わたしの父などは、わたしとエリオディアスの仲が非常に良いもので(まあ、時には喧嘩もしましたが、喧嘩も込みの仲の良さというやつで)、これでギルデンスターン家の将来もすっかり安泰と信じきっておったことでしょう。わたしもまた、大の親友が王位に就いたということで、誇らしい気持ちでいっぱいでした……ところが、そんな喜びの日々は長くは続きませんでな、ここからは王子さまにとっても悲しいお話となりますが、どうかじっと堪えつつ、しもべの話を聞いてくだされ」
「気にしないでくれ、ギルデンスターン侯。侯の気持ちは、今までのもてなしひとつ取ってみても、我々にはよく通じている。それにオレはまだこの<西王朝>が統べる領地のどこにおいても何者でもない者だ。そのような素性の知れぬ者を快く受け容れてくれたというだけでも……侯の有難い気持ちをこれより先、オレは生涯忘れるつもりはない」
この時不意に、ハムレットの純真で汚れのない面差しの中に、キルデスは若かりし頃のエリオディアスの姿を見る思いがした。彼は幼き頃より、「将来オレは善い王さまになるんだ!」と言うのが口癖だった。その後成長するにつれ、エリオディアスとキルデスの間では具体的な政策についてなど、時に熱く議論を戦わせることもあったほどであり――キルデスはこの時、今はもうすっかり忘れてしまった、若き頃のそんな情熱が再び甦ってくる気さえしたものだった。
「エリオディアスが王として<西王朝>を治めていたのは、たったの二年の間です。もちろん、王宮というところは言うまでもなく権謀術数渦巻くところ。歴代の王たちの間には、在位一年と満たずして暗殺され、歴史の影に姿を消した者もおります。その間にガートルード王妃はハムレット王子、あなたさまを身篭られ、無事出産されたのでございますが……」
キルデスはどこまでのことを話すべきか迷った。だがこの時彼は、若かりし頃の自分とエリオスのことを思い出し、瞳に少しばかり涙が滲んだため――彼がこの時少しばかり言い淀み、間を置いてから再び口を開いても、円卓に座っている者はそれを当然のことと思い、誰も気にすることはなかった。
(いや、わたしが今、重苦しい真実をお伝えしなくても、おそらく王子はローゼンクランツ公爵より、王子として……いや、王としての心構えその他、しっかりと教えを受けられることだろうからな。むしろわたしは王子の父と親友だった男として、何があってもわたしだけは味方だということを肝に命じていただき、父親に代わって甘えられる親族としての立場によって接したほうが良いのではないだろうか……何分まだ、ハムレット王子の旅ははじまったばかりなのだしな)
そう答えが出ると、キルデスは心持ちほっとした。そして、クローディアス王の兄嫁強奪という暗い話をしなくて済むとなった途端、彼の舌もまたくつこを外された牛のように、また話の調子が元に戻った。
「ハムレット王子の忠臣ユリウスはですな、元は城下町にて私塾を開いておった男なのです。彼は商家を営む祖父と役人だった父を持ち、幼い頃から賢いことで大変評判だったようで……が、彼は色々と事情があって家を出、自分がそれまで家庭教師らに授けられたことを若い人や子供たちに教えるため、また医術師として――いや、ユリウスは実に多彩な男でしてな。彫刻をやったり絵を描いたり、城下町の工房で働き小遣いを稼いでみたりと、とにかく色んなことをして金を稼ぎつつ、最終的に医術師として働く傍ら、私塾も開いておったのです。そのうち、ユリウスの名は王宮にまで届くようになり、王宮付きの医術師兼教師として雇われることになったというわけですよ」
ここで、ギベルネスと話者であるキルデス以外の円卓に着いている者全員が、ディオルグのほうを一度見た。親友であった彼がユリウスのそうした過去を知らないはずがなかったからである。
だが、ディオルグはただ肩を竦めて首を振っただけだった。そして、キルデスのほうに『どうか気にせずお話を続けてください』というように、ただ軽く会釈して寄こす。
「ユリウスはエリオディアス王の一番の顧問官といった地位を築きつつあっただけでなく、ガートルード王妃の覚えも実にめでたかった。わたしもまた、王宮のほうでは十年ほど過ごし、さらにはその後も出入りがありましたからな。ユリウスは王宮においても実に賢明に振るまっていました。事実、彼は権力といったものにはまったく興味のない男でしたから。ですが、王と王妃のお気に入りの彼の口添えがあれば、色々と金が入ってくるというので、ユリウスに袖の下を渡し、ねんごろな関係を築きたい人間など、当時は星の数ほどもいたのではないでしょうか。ユリウスは身の潔白を保っていましたが、彼がそんな人間であればこそ気に入らないという人物もまた、王宮には数多くいたのです。そして、そんな人間のひとりに――現国王のクローディアスもいました。我々にとっては僭王であり、当時の彼は王都のあるテセリオン州の軍指揮官を務めていた。エリオディアスとクローディアスは兄弟仲が悪いということもなかったのですよ、一応表面上は……ですが、結果として自分の兄を暗殺したということは、クローディアス自身は相当鬱屈した暗い思いを抱えていたという、そうしたことだったのかもしれません」
キルデスは再び口が重くなった。エリオディアスとクローディアスの父は、ふたりにはっきり差をつけて育てたのは確かである。だが王家では、代々そのような養育法が当たり前だった。いずれ、兄が王位を継ぎ、弟のほうは王族とはいえ諸侯の筆頭といった立場に成り下がらざるをえない。その差を幼い頃よりわきまえさせるのは、王家において普通のことであったとはいえ――エリオディアスとクローディアスの父王が、そのあたりのえこひいきが極端だったのは事実だった。ゆえに、幼い頃よりふたりを見てきたキルデスには彼にだけわかっていることがある。つまり、クローディアスが今の狂王に等しい立場を築くに至ったのは、元をただせば父にも母にも常に二番手として扱われ続けたことに端を発するものだったに違いないということが。
「では、我が師ユリウスは、クローディアス王が王権を取ったあとでは、どのみち王宮には居場所がなかったということですか……?」
ユリウスが、このような辺鄙な僧院で埋もれていいはずがない人物であることは、ハムレットにしてもタイスにしても、成長するにつれ感じていたことではあった。だが、彼の過去について詳しく聞いたことはふたりともなかっただけに――キルデスが今話してくれたことは、ホレイショにしてもキャシアスにしても実に興味深いことだったのである。
「まあ、みなも知ってのとおり、ユリウスは他に並ぶ者のないほど賢い男だったからな」と、ディオルグが過去の郷愁に沈むキルデスに助け舟を出すように言った。「王都から出たとしても、どこの州のどんな場所であれ、ユリウスならば賢人として称えられ、うまくやっていったことだろう。だが、あいつはハムレット王子、あなたに自分の教えられることのすべてを託し、いずれあなたが<西王朝>の王となり、賢く国を治めてくれることのほうを望んだのだ。また、これは私が伝え聞いた話なので、実際のところ本当はどうだったのかはわからぬが、ガートルード王妃が未亡人となる前から、クローディアス王が懸想していたということもユリウスは知っていたのだろう。簡単にいえば、兄王の暗殺に成功したその瞬間から、本来であれば、ハムレット王子……恐れながらあなたさまは流産した子のように扱われるという運命にあるはずだった。ユリウス、あいつがまだ赤子であるあなたを半死半生の状態で抱え、ヴィンゲン寺院を訪ねた夜のことを――わしは今もきのうのことのようにまざまざと思いだせます。そのユリウスは昨年、あなたさまが王になるという夢を見続けたまま亡くなりました。そのことについてもどうか、お忘れなきよう心の隅に留め置いていただきたく」
こののち、円卓に着く人々の間では、どことなく重い沈黙が流れた。この場にいる人間の中で、真実を知る者はキルデスとディオルグのふたりのみ。彼らは口に出さないながらも、互いに共犯者でもあるかのような、罪の意識に近いものをこの時胸の奥で感じていたに違いない。
「ユリウスは、オレにとって父のようでもあり兄のようでもあり、他に並ぶ者なき師でもあった男だ。忘れようとしたところで、忘れられるはずがない。ただ、こんな比較的近い場所に自分の血縁者である方が生きて存在していようとは……覚えておいでですか、叔父上。オレは昔、ここの城の中へまでは入れなかったが、ユリウスとともに町のほうへ野菜の種を買いにきたことがあったのですよ。その時、広場で叔父上は裁判をされているところだった。オレはただ、あなたのことをこの城砦都市で一番偉い領主であるとも知らず、ユリウスがあなたと何かを話すのを黙って聞いていました。現金な子だと笑ってください。オレはあの時、あなたが気前よく粉つきキャンディをくれたので、『なんていい人なんだろう』と思い、それでよく覚えていたんです」
「我が城砦とヴィンゲン寺院は、昔からよく行き来があったのですよ。ああ、そうだ。我が愚息キリオンのことを覚えておいでで?七歳から十二歳になるまで五年の間、ヴィンゲン寺院のほうへ預けたのですが。ユリウスや、他の英邁なる寺院の長老たちに教育を授けていただきたいと思いましてな」
この瞬間、ハムレットとタイスとホレイショとキャシアスはほぼ同時に弾かれたように顔を見合わせた。みな、キリオンのことをよく覚えていた。初めてヴィンゲン寺院へやって来た時、今にして思えば突然親許から遠く引き離されたせいだろう、彼は子供たち数人で使っている岩室にて、夜通し泣いていたものだった。その後も、特に才に秀でたところは何もなく、地味で影の薄い存在であり続けたキリオンだったが、何も彼が偉い領主の息子と知っていたからではなく――みな、何においても落ちこぼれ気味の彼を助けてあげたものだった。
「キリオンは元気なのですか?」
ハムレットは驚きとともにそう聞いた。まさか彼が自分と親戚同士だったとは、思いもしなかったからだ。
「元気ですよ。跡取りとしてはまだ頼りないですがね……幸い、弟のエリオンとは仲がいいから、わたしが突然病いに倒れて死んだとしても、兄弟で助けあってうまくこの領地を治めていってくれることでしょう」
キルデスは自分の従者を呼び寄せると、自分のふたりの息子を呼びにいかせた。彼に娘はなかったが、他にもうひとり、妾に生ませたウルフィンという名の息子がいる。
キリオンとエリオンはふたつ違いの兄弟だということだったが、一見して、容貌的にも正反対なら性格的にも似ていないと、大抵の人がすぐ気づいたことだろう。キリオンは今年十五、エリオンは十三ということだったが――おそらく、長じて弟のエリオンのほうが領主として相応しく成長するのではないかと思われた。長兄のキリオンのほうはのんびりした性格で、どこかお坊ちゃま然としているのみならず、それでいて時折ズバリ核心を突く物言いをする、いい意味で空気の読めぬ少年であるようだった。
ゆえに、才気煥発といったオーラを周囲に撒き散らしているエリオンではなく、キリオンを旅の友として連れていって欲しいとキルデスに言われた時……一行は戸惑うことになるのだったが、侯爵とキリオンたっての希望により、キリオン・ギルデンスターンはハムレット王子の仲間の一員となり――最終的に彼は、忠臣の鑑としてのちには伝説化して語られる人物のひとりとして歴史に名を残すことになるのであった。
>>続く。




