第15章
ヴィンゲン寺院からギルデンスターン領に入るまで、ルパルカにて約二週間ほどの時を要した。この間、旅の一行であるハムレット王子、タイス、ディオルグ、ホレイショ、キャシアス、ギベルネスの六名の中で、この旅の行程が一番堪えたのはギベルネスである。
(やはり、彼らは小さな頃から砂漠というこの厳しい環境に馴れているんだ。その点私は、宇宙船という最も近代的な乗り物の中にずっと閉じ籠もっていたも同然だものな。それだけじゃなく、彼らに比べたら私なぞは、惑星ロッシーニでも指折りの都会で育ったか弱いヒヨっ子ちゃんといったところでもある……)
実際、ギベルネスの育ったセヴィリア国セミラーミデ市というところは、気候的に夏は温暖であり、かつ冬にも雪など数えるほどしか降ったことはないという、実に過ごしやすい快適な環境下にあった。その後、本星エフェメラへ移ってきてからは、<季節感>といったものは人工的に調節されていたのである。エフェメラ最大の都市、エフェメイルでは<四季>なるものがあったが、温度や湿度といったものは人体にあまり負担がかからぬよう、不快指数を感じる一歩手前くらいのところでうまくコントロールされていたものである。
(まあ、人間の体といったものは、暑過ぎても寒すぎても、かかる負担が大きいからな。体を一定の状態へ戻すために、それだけ無駄にエネルギーを消費するわけだ。その点、ここ惑星シェイクスピアでは、昼間は極度に暑くなり、そして夜には寒くなるということの繰り返しなわけだ……そして、彼らは小さな頃からそれが当たり前と思い、体のほうもそれに慣れている。ところがひ弱な環境下でずっとぬくぬく過ごしてきた私と来た日には……)
旅をはじめて三日後には、ギベルネスはすでにフラフラだった。だが、彼のつらいところは何より、<神の人>として期待の眼差しで見られているだけに、下手に弱味を見せられないことだったに違いない。そこで彼は、三日目には<カエサル>から持ってきた薬剤の中に含まれていた精力剤に手を出していた。精力剤、などと言っても、体の弱っている病人が体力を回復するための強力栄養剤といった程度のものではある。しかも、全部で24錠しかないことから――ギベルネスにしても最初は「気休め」程度の気持ちで飲みはじめたものの、驚いたことにそれは、彼が思った以上に高い効果を発揮してくれたのである。
とはいえ、<神の人>がやもすればみなのルパルカから遅れがちとなり、しかも疲労と憔悴がひどいらしいということは、旅の一日目から誰の目にも明らかではあった。不思議なことには、ここでハムレットやタイス、ディオルグらは『三女神の予言した神の人であるはずなのにおかしいな』とか、『こんな体力のない弱っちい奴が本当に神の人なのか』とか、『先頭に立って力強く我々を導いてくれるものとばかり思っていたのになんてことだ』といった失望の色を一切見せることなく、ただ彼の身を案じてくれたということだったろうか。
四日目、当初予定していたとおり、井戸のある場所へ到着した。ディオルグが昼間は太陽の傾きから、夜は星座の位置から、大体のところ方向については見当をつけていたらしいが、ギベルネスはそのことにも驚くのと同時に当惑した。というのも、その井戸は比較的大きなものではあったが、宇宙船<カエサル>から衛星で見ていてさえよく注意してないと見逃してしまうものであり(というより、AIクレオパトラの補助がなければ、広大な砂漠から小さな穴を見つけようとするに等しい)、今後彼ら旅の一行が『道に迷った~』、『水がない~』、『おお、神よ~』……などといった事態に陥った場合、自分はその神から遣わされた者として、一体何をどうすれば良いというのだろうか。
(やれやれ。これはまったく、『あんな奴、本当に神の人なのだろうか』と彼らが疑いはじめるのも時間の問題ということになるな……)
そして、ギベルネスにしても砂漠の旅のつらさから、今ではこう思っていたのだった。夜、天幕を立てたその中で眠っていると、ぷ~んと蚊が飛んできて――『おい、ギベルネス。一体そんなところで何をしているんだ!』と、ノーマンかアルダンあたりが囁いてくれ、実はかくかくしかじかと説明し、『よし、待ってろよ。オレたちのほうでなんとかしてやる』と言ってくれはすまいかと。実際、ギベルネスはそんな夢を一度ならず見たような気さえしている。
ヴィンゲン寺院を出立してから九日目、小さなオアシスを発見し、一行は狂喜した。とはいえ、彼らが何気なく話している会話によると、井戸やオアシスを発見しても、そこが誰かの所有地となっていた場合、勝手に水を汲んだり休んだり、あるいはそこに生えている何がしかの植物を採ったりする権利はないということであった。
「ですが、こんな砂漠の、人里から遠く離れた場所であれば……神の恵みの場所として、みんなで共有するというわけにはいかないのですか」
思わずそう言ってしまってから、ギベルネスはハッとした。だが、ハムレットやタイス、ディオルグらは『神の人であるはずなのに、そんなことも知らないのですか』といった眼差しを向けることは決してなかったのである。
「この広い砂漠の中で、緑や水のある場所は限られていますからね。ようするに、このオアシスみたいに飛び地として散在している場合が多いわけですが……その場合、その井戸やオアシスが『特に誰のものでもない』場合もありますが、大抵は誰それの所有ということになっているものなのですよ。それで、そうした場所を所有者が定期的に偵察隊を出して見回っている場合もあれば、見回っていない場合もある。また、そのように運悪く偶然鉢合わせしたということでもない限り、井戸から勝手に水を飲もうがオアシスに生えるナツメヤシの実を採って食おうが、特に問題はない。だが、そのオアシスの所有者が極めて狭量な人間であった場合、問答無用として殺されても文句は言えないのですよ」
(なるほど、そういうことか)
この時、ギベルネスは昔見た地球が舞台になっている映画のワンシーンを思いだしていた。その砂漠の土地では、石油よりも水のほうがよほど貴重ということで、井戸から勝手に水を飲んでいたところ、偶然土地の所有者に見つかり、発砲され殺されてしまうのである。そしてこの場合、どちらが正しいかといえば「喉が渇いて死にそうになっていた男が、井戸の水を勝手に飲んだのが悪い」という、そうした論理であった。
「ではハムレット王子、こうしてはいかがでしょう」
ギベルネスはにっこり笑って言った。
「王子がこれから王位に就いた暁には、井戸やオアシスの所有者がその場所をどうするのかは自由にしても……今の我々のように旅をする者には無料で供し、危害を加えた場合にはむしろ罰則を適用するということを、法律によって定めるというのは?」
「そうだな。ギベルネ先生の言うとおりだ。もしオレがいつか王になれたとしたら、そのような法律を定めることを、この美しいオアシスに約束するとしよう」
それは、空には星が輝きはじめ、昼間の暑さが嘘のように、だんだんに寒くなって来る頃合のことであった。ハムレットもタイスも、ホレイショもキャシアスも、この中で一番体力のあるディオルグですらも、旅の疲労が蓄積し、最早口を聞くのも億劫になっていたほどである。
そんな時、ギベルネスが自分ではそうと意識せず、「ハムレットさま、あなたさまはこれから王となる方であられます」とばかり、この厳しい旅を続ける理由について、あらためて示唆したというわけであった。
このあと旅の六名は、すっかり心持ちも晴れやかになり、デーツやザクロといった干し果物の残り、ホーロー鳥の干し肉など、貴重な食糧の残りを食したあとは、天幕を張っていつものように雑魚寝した。見張りのほうは交替ですることになっていたが、ここにハムレットとギベルネスは加えられないことになっている。
ところで、今のところあまりしゃべるところを記録されないホレイショとキャシアスであるが、彼らは今後とも出番のほうは少ないということを先に書き記しておかねばなるまい。何故ならば、実は彼らは今後、ハムレットと彼に纏わる冒険譚の目撃者として、それらを書物にまとめる役割を持つ登場人物だからである。
ちなみに、ふたりが過去に起きたことを回想しつつ書き記した旅の行程のはじめの方の文章は、次のようなものとなる。
>>その時、神の人ギベルネは疲れきっているハムレット一行を励ましこう言った。
「元気をお出しなさい、王子さま。この広い砂漠もそこに存在する井戸もオアシスも、いずれすべてはあなたさまのもの。その暁には、正しく法律を制定し、今の我々のような旅人はそこでただで疲れを癒し、水を飲み、安全に休むことが出来るようにしてはいかがかと」
「まったくそのとおりだ」ハムレット王子は神の人の言葉に感嘆して言った。「正義の神の使い、ギベルネよ。わたしが王位に就いたその暁には、そのように正しく法律を制定することをここに約束しよう」
ハムレット一行は神の人ギベルネの言葉に力づけられ、その後も彼に見守られつつ安全に旅を続けた。彼は終始穏やかに優しく微笑み、まるで天使のように空腹を覚えることもなければ、喉が渇くこともないかのようであった。ここに至るまで、ハムレット王子の従者であるひとりが(※これはこの部分を書いたホレイショ自身のことであったが、彼はあえて自分の名を書き記していない)、突然の腹痛に見舞われた時にも、美しい緑色の不思議な薬をこの者に飲ませて癒した。その従者はすっかり腹のほうを下していたのであったが、神の人ギベルネがくださった緑の薬を飲むや、たちまち下痢が止まり、すっかり元気になったのである。
このようなことはその後の旅の間も一、二度ならずあったが、神の人ギベルネは、まこと、このようにして不思議なお方であった。
――大体のところ、ホレイショとキャシアスが書き記し、さらにはこののち千年後までも残ることになる旅の記録書は、すべてにおいてこのような調子で続いていくということになる。
また、ギベルネスが下痢でつらそうにしているホレイショのことを気遣い、グリーンの下痢止め錠剤を彼に一粒与えたのは事実である。その時に感じた不思議な感覚のことを、おそらくホレイショとしては書き記さずにいられなかったのだろうが、無論彼は知る由もない。今後、誰かしらの具合が悪くなった時、確かに<カエサル>から持ってきた薬のほうはある程度有用ではあるだろう。だが、数が残り少ないだけに……ギベルネスが近いうち、こちらの現地で取れる植物の根茎などを採取し、頭痛を止める薬や腹痛のための薬、あるいは湿布に代わるものなどをなるべく早く調合する必要があると、内心で焦っていたことなどは。
それに、ギベルネスにしてみれば、共に暑さに汗を流し、寒さに震え、飲み食いもすれば排泄もする、特にどうというところもない人間の自分のことを――彼らが一体いつまで<神の人>などとして崇めるものだろうとしか思っていなかったということがある。だが、彼らはホレイショがそう書き記したとおり……ギベルネスがそうと自覚していなかったというだけで、終始一貫して『不思議な人』として映っていた。それはもしかしたら、他星の文明人であることに由来することであったかもしれないが、やはりギベルネス自身の温厚で柔和な性格によるところが大きかったに違いない。また、彼らは<神の人>である彼が、誰に対してもえこひいきすることなく、平等に接するところを見た。こうしたギベルネスの医師として、あるいはひとりの人としての人間性が、何かしらの強い感銘を彼と出会ったすべての人に与えたというのは――<神の人ギベルネ>に纏わる伝説という尾ひれをすべて取り除いたとしても、事実、本当のことだったようである。
* * * * * * *
ヴィンゲン寺院を出立してから十日目以降は、旅のほうも随分楽になって来た。というのも、ギルデンスターン領に近くなり、井戸の数や点在するオアシスの場所がその頃には徐々に増えてきたからであった。
そして、この段に至ってから、ディオルグが言わんとしていたところをギベルネスは理解していたかもしれない。おとつい、彼らが野営したオアシスよりも規模も大きいだけでなく――ギルデンスターン領より巡回に来ていた警邏隊の姿を見かけることもあれば、近郊の村より井戸に水を汲みに来ている者がいることも珍しくなかったからである。また、こうした水を汲んでルパルカの背に大きな水瓶を括りつける姿が頻繁に見られるのは、太陽が完全に昇りきる前の夜明けか、涼しくなってくる陽暮れ時が多いらしいと、ギベルネスはのちに知ることとなる。ここ惑星シェイクスピアの人々にとって水汲みというのは重要であるだけでなく重労働でもあるため、気温が上がってくる前、あるいは夕方になって気温が低くなってから、井戸までやって来ることが多いということであった。
「おい、おまえら!見かけない顔だな。ここで一体何をしている」
ルパルカではなく、砂馬、と呼ばれる騾馬に似た丈夫で暑さに強い馬に乗った五名ほどの一団が、オアシスとも呼べないような緑の葉陰で休んでいたハムレットやギベルネスらを見咎め、そう声をかけてきた。
彼らはギルデンスターン領の外縁警備隊であることがわかる旗を掲げていたし、他に警邏隊に特有のまったく同じカーキ色の制服を身に着けてもいたため、その姿を遠くから見ただけで、何者であるかは大体のところ誰でも察しがついたに違いない。
「どこの者が言え。一体何者なのだっ!?」
隊長の言葉に答えがなかったため、彼の脇に控えていた副隊長がそう声を荒げた。隊長のほうが年上らしく見えたが、ふたりともよく陽焼けした、色の抜け切ったような砂色の髪、それに隊長が色の薄い青い瞳、そして副隊長が色の薄い緑の瞳をしており――五名全員が砂漠のような厳しい環境でも長時間戦えるよう鍛え上げられた、実に精悍な体つきをしていたと言える。
「我々はこれから、ギルデンスターン城砦の主、キルデス・ギルデンスターン様を訪ねるところでございます」
ハムレットが何か言葉を口にする前に、タイスが恭しく頭を下げてそう答えた。これから王となる者が、この程度の目下の者に頭を下げる必要はないと考えてのことだった。
「左様、左様」と、ルパルカの手綱を操りつつ、ディオルグもまた一歩前へ出る。「我々はヴィンゲン寺院からやって来た僧侶なのだ。先日、寺院のほうに星母神から託宣がありましてな、そのことは急使によってギルデンスターン侯爵さまもすでにご存知のはず。これだけ聞いただけでもいかに重要な用件かは、そなたらにも窺い知れようというもの」
ディオルグの言葉をここまで聞くと、外縁警邏隊の一隊である彼らは、すぐに馬から降り、五名全員が砂に膝をついてお辞儀した。
「そうと知らなかったとはいえ、大変失礼いたしました。もしよろしければ、我々にギルデンスターン城砦まで案内させていただきたく……」
「そうしてもらえると助かる」と、ディオルグは自分と大体同じ年代であろう隊長に頼んだ。「また、その前に水を汲む許可をいただきたい。何分、ヴィンゲン寺院を出てから今日で十四日にもなりますものでな」
「ええ、どの井戸からでも好きなだけ、なんなりと」
いかめしい顔つきをしていた隊長は、一転して破顔した。何故なら、このルータス隊長はその容貌からは想像つかぬほど、実は大地母神アズールや星母神ゴドゥノワ、それに惑星シェイクスピアにいくつもある神々のことを崇める、信仰厚き人物だったからなのである。
「かたじけない」
ディオルグはルパルカから降りると、鞍に括りつけてあった銀のカップをルータス隊長に向けて掲げ持った。<西王朝>や<東王朝>の砂漠の民の間では、相手の井戸から水を飲もうとする時、持っている水瓶、あるいは一番いいカップなどの器をそのようにするのが礼儀なのである。
ハムレットはルータス隊長に対して軽く会釈した程度ではあったが、一行の中で一番の年長者に見えるのがディオルグであるから、これは決して礼を失したということにはならない。
一同がそれぞれたっぷり水を飲み終え、一心地つくのをルータス隊長らはただ黙って待っていた。というのも、砂漠の長旅がいかにつらく厳しいものであるかを、誰しもよくわかっていたからである。
「それでは、そろそろよろしいですかな」
全員がすっかり喉を潤し、ルパルカに騎乗するのを見ると、ルータスは先頭に立って案内した。オアシスでは、井戸へ水を汲みにきた女性らが、比較的涼しい葉陰で噂話をしたりしていたが、それ以外では人気もなくひっそりしている。
この頃からすでに遠く、青地に白いジャッカルの描かれた旗が城の高きに上がる、幾重もの城壁に守られたギルデンスターンの砂色の城が見えてきていた。砂嵐吹きすさぶ日には、砂そのものと同化したように城砦全体が砂漠の一部と化したようになる地ではあったが、今は季節としては短い春であり、陽射しが暑さを増す一方だという以外では、今ハムレット一行を阻むものは何ひとつとしてない。
ルータスが門番に「ヴィンゲンからやって来られた僧侶たちだ。ギルデンスターン侯爵さまに御用があるということでな」と告げると、すぐに厚く重い門を上へ上げる作業がはじまった。綱を巻き上げる作業を行なう兵士の姿が、ハムレットたちにも門を通る時に見える。
城砦都市の内側に入りはしたが、そこからギルデンスターン侯爵の住む砂色の石の城まで辿り着くには、さらに時を要した。城門を通った暫くのちは、狭い通路を行くことになるが、これは城を攻められた場合、ここでなるべく一人でも多くの敵兵の戦力を削ぎ落とすため、上から矢を射掛けたり、投石したり、熱した油の爆弾を放り投げたりと、そのような計算が設計時からなされているためであった。
実際のところ、それが敵兵でなかったとしても、外部の者が入って来て良いのは基本的にはこの正門のみであったから、不審者の出入りといったものはここで食い止められることが多いようである。
やがて整った町並みと、通りを行く民たちの賑やかな声がしてきた。外壁約十キロメートルほどの中に、十万もの民が住みついていたが、人々はその中で畑を耕し、野菜や果物を育て、酒を造り、鍛冶を行い……と、ほぼ自給自足の生活を営んでいた。各区画ごとにある広場では、裁判や会議、あるいは祝祭日には歌や踊りといった催し物があったりと、人々は概ね平和に暮らしているようである。
ハムレットたちはルータス隊長及び、副隊長の案内で(他の警邏隊員たちは朝の巡回が終わったため、兵舎のほうへ戻っていった)、城砦内に十二ある区画のうち、四つほどを通り抜け、ようやくのことでギルデンスターン侯爵の住まうギルデンスターン城の前までやって来た。そして、ここで一行は一度、ルパルカから降りることになっていた。
「大切なお客人のルパルカは、馬丁のレンスブルックにお世話させましょう」
城門を守っていた守衛はそう請け合ったが、ルパルカたちはそれ以前に、城の周囲に生える緑の草に恋でもしたように夢中になっていたものである。
この時、レンスブルックと呼ばれた小男がやって来たのだが――ギベルネスは一瞬彼の姿にギョッとした。顔のほうは明らかに中年であるように思われるのに、背のほうが一メートルほどしかなく、しかも髪の毛を片側だけ長く伸ばし隠そうとしているものの、彼の右の眼窩は抉られたように黒々としていたからである。
(下垂体性小人症(成長ホルモン分泌不全性低身長症)だろうか。しかも右眼までないと来ては……どれほど大変な思いをして今まで生きてきたことだろう)
ルータス隊長はハムレットたちを侯爵への取次役に任せると、引き返して来たわけだが、ギベルネスはレンスブルックのことが気になるあまり、「先に行ってください」と声をかけていた。
「えっ!?」
(そんなわけにいかない)と思ったのは、タイスもディオルグもホレイショもキャシアスも一緒である。だが、ギベルネスはルパルカと何やらヒソヒソ話しはじめたレンスブルックの後をそのまま追っていくことにしたのである。
「あの方のことは、のちほどまた侯爵さまの元か、あなた方の元までお連れしましょう」
立派なお仕着せ姿の侯爵の使いは、愛想良く笑ってそのように応じた。(大丈夫だろうか)とハムレットは隣のタイスを振り返り、タイスはディオルグのことをまったく同じ目線によって見上げている。
「まあ、ギベルネさまは神の人であられるからな。そうした意味では大丈夫なのだろうが……では、のちほどまたあの方のことは城内のほうへお通ししてもらうということで、よろしくお願いします」
こうしてギベルネスはレンスブルックについて歩き、彼がルパルカたちに思う存分草を食ませる姿をただ見守っていた。
「あんた、オラに何か用だぎゃ?」
レンスブルックがルパルカを厩舎へ連れていこうとすると、ギベルネスは少しばかり誘導するのを手伝った。彼が感じる限りにおいて、このルパルカという動物の性格は『頭の悪い気分屋』というものだったのだが、レンスブルックが一言二言何か囁いただけで、一頭残らずついて来たのには驚かされたものである。
「用、というほどのことはないのですが……失礼ですが、レンスブルックさんはおいくつなのですか?」
レンスブルックの訛りがあまりに強かったため、ギベルネスは脳内翻訳アプリの故障を一瞬疑った。だが、故障ではなく、思った以上に翻訳装置のほうが高性能だったということらしい。
「オラが一体いくつかだってえ!?」
レンスブルックは、耳の遠い老人のような、大きな声で言った。それから、さもおかしくて堪らないといったように笑いだす。
「人に年聞く時には、先に自分が名乗るべきだぎゃ。むしろあんたこそいくつさね?」
「私の名はギベルネと言って、年齢のほうは今年、三十九歳になろうかというところです」
「ほえ~。ほんだば、オラと大体同い年だぎゃ。そうはちっとも見えねえけどもな、ホッホッホッ!!」
このあと、ギベルネスは見よう見真似で、レンスブルックがルパルカの鬣を櫛で梳いたり、体を洗ったり、鞍を磨いたりするのを手伝った。ギベルネスが何か手順を間違えたりするたび、「そうじゃないぎゃ!!」、「やり方が違うぎゃ!!」などと、レンスブルックの厳しい指摘が飛んだが、ギベルネスはあまり気にしなかった。むしろその仕事が楽しかったくらいである。
「ほいで、おめえさん。オラに一体何を聞きたいんだぎゃ?」
「失礼ながら……その右眼のほうは生まれつきのものですか?」
全体的な雰囲気として、ギベルネスが(本当に自分に興味があるらしい)と感じるオーラを出しているため――レンスブルックはただ単に驚いていた。彼は『気味が悪い』と言いたげに目を背けられることはあっても、ギベルネスが今向けてきたような興味の眼差しを感じたことは、生まれてこの方一度もなかったからである。
「ホッホッホッ!!変なお人だなえ、おめえさんも。オラのこの右眼は、十四の頃に砂蜘蛛の奴さやられたんだぎゃ。オラの生まれはここからもっと北のほうにある集落のひとつで、いつまでたってもおっきくならねえもんで、不具の奴いわれて、よういじめられたもんだったぎゃ。ほいで、そんだけでも不幸で惨めだっつうのによ、砂蜘蛛の奴が右眼さ取りついて、卵を産んでいったんだぎゃ。おふくろも親父もびっくりしてただ。最初はこう、こめかみのこのあたりがよ……」
そう言ってレンスブルックは右のこめかみのあたりを片手で押さえた。
「産みつけられた卵でだんだん大っきくなっていったんだぎゃ。まったくびっくりだぎゃ。ほいで、ある日痛うて痛うて堪らんくなって、「おっかあ、おっかあ。おっとう、おっとう」言うて熱に浮かされながら泣いておったら、餅みたいにぷうと膨らんだこめかみのとっから、次から次へと小蜘蛛が溢れてきたんだぎゃ。その頃にはもうオラ、すでに右眼のほうは見えなくなってただ。次の日にはオラん村の呪術師が、切開してくれることになってたんだぎゃ、なのに蜘蛛の奴ら、その前にオラの顔の皮膚を食い破って出てきたんだぎゃ。以来、オラのこの右眼は、ほんれ、このとーり……」
レンスブルックは、砂に汚れて色褪せたブロンドの髪を、右側へ持ち上げて言った。
「オラのくれえ心と同じく、ぽっかり暗闇の穴が空いてるんだぎゃ。ほいでオラ、家族の邪魔者さなって、この城の外壁近くに捨てられておったんだぎゃ。もしギルデンスターン侯爵さまが憐れみをかけてくださらんかったら、あのまま死んでおったに違いあんめえ」
「痛くはないんですか?」
(それでいくと、ギルデンスターン侯爵という方は、なかなか温情のある心優しい領主ということになるな)と、ギベルネスはそんなふうに思いつつ聞いた。
「そうさなあ……ま、蜘蛛どもに目玉食い破られた時は『ああ、オラはこんまま死ぬ』と思うほど痛かったぎゃ。が、その後年を経るうちになんともなくなっていったぎゃ。昔は時々あんまま死んでおけばよかったにと思わなくもなかったもんだったぎゃ、ま、しゃああんめえわな。生きてる以上は死ぬわけもいかず、死ぬまで生き続けるしかないという奴だぎゃ」
「なかなか哲学的ですね。ですが、気温が極端に下がった夜には目の奥が痛むであるとか……そうした症状が出たりすることはありませんか?」
「オラが哲学的ィ!?そんな言葉、生まれて初めて言われたぎゃ。そうさなあ……今のオラが痛い思うのは、目のことじゃないぎゃ。どっちかってえと、足の膝あたりが痛むだの、無理すっと次の日腰いてえだの、そっちのほうだぎゃ。どっちかっつうとな」
「そうですか。では、こちらの城砦都市へやって来たのは十四歳以降のことで、それ以来三十八歳に至る今まで二十四年ほどの間、こちらでお暮らしになっておられるんですね。ずっと、この領主さまのお城で働いてるんですか?」
レンスブルックはこの頃には、だんだんに何かを怪しみはじめていた。(もすかしてオラ、貴族さまのどなたかのご不興でも買って、これから首でも刎ねられるわけじゃあんめえな)という思いすら、脳裏をちらと掠めていく。
「そうさなあ……あんたが信じるか信じねっかはわからんけどもよ、オラ、動物と話ができるぎゃ。ほいでギルデンスターン侯爵さまはサーカスがお好きなんだぎゃ。オラ、馬やルパルカと話さして……あとは鳥とも話ができるぎゃ。だから動物と話さして芸をしこむことが出来るんだぎゃ。侯爵さまやご子息さまが猟へお出かけになる時にも、一番の気に入りの勢子はオラだぎゃ。侯爵さまがおられんかったらオラ、今ごろは社会のクズとして誰からも相手にもされず死んでおったかもしれないぎゃ」
「そうだったんですね。では、ギルデンスターン侯爵さまは、本当に慈悲深い、お優しいお方なのですね」
ギベルネスがレンスブルックに声をかけたのは、あくまで右眼の眼窩の病状が気になったからだが、彼から話を聞くことが出来て良かったと、ギベルネスは別の意味でも思っていた。
「あんさん、ギルデンスターン侯爵さまに、なんか用でもあるだぎゃ?」
「ええ、まあ。私自身がというよりも、私のお仕えする方が、ということなんですがね。ギルデンスターン侯爵さまがどのようなお方か、私自身よく知らなかったものですから……あなたから本当のお人柄を聞くことが出来て良かったと思います」
「ふ、ふーん。こんなオラでもお役に立てたんなら良かったぎゃ。それにしてもすまんかったな。ルパルカの世話やら鞍磨きやらなんやら……本当はオラがすべき仕事だったぎゃ、ついあんさんがどんな程度のお人か、試してしもうたぎゃ。許してくんろ」
「いえいえ、むしろ楽しかったですよ。ルパルカたちのほうも、私などよりよほどあなたのほうに懐いている。それはあなたが動物たちに本当の意味で優しいからだと思います。他の人には真似できないことです」
「え、えへ。えへへ……あんさん、ギベルネさんって言ったぎゃ?あんましそう褒められっと、オラ、なんかケツの穴さ、ムズムズしてきたぎゃ」
首斬り人の斧の幻影が、レンスブルックの脳裏から急速に遠のいていった。何か小さなことに言いがかりをつけられて、後日そんなことになるという心配はどうやらなさそうである。
このあと、ギベルネスはレンスブルックの案内で、城の内部を軽く案内してもらった。無論、馬丁の彼はそんなに奥のほうまでは入れなかったが、途中、見回りの衛兵ふたりに話しかけられ、ギベルネスは彼らに案内を引き継がれると、城主の元まで行くことになった。
「ほいだばギベルネさん、もし機会でもあったら、町のバーででもそのうち一杯やりましょうや。へへ、へへへへ」
「いいですね。もし時間があったら、いいお店に連れていってください」
社交辞令ではなく、ギベルネスとしてはまったくそのつもりであった。だが、彼のことを左右から守るようにして歩く衛兵ふたりは、ともに怪訝そうな顔をしていたものである。
「お気をつけたほうがいいですよ、ヴィンゲン寺院から来られた方」
胸にジャッカルの紋章の入った制服を着た衛兵Aが言った。ふたりとも若かったが、衛兵BよりもこちらのAのほうが年嵩のようである。
「あいつはとんだギャンブル好きの食わせ者ですからね。しかも頭にドが十個つくほどのドケチで、自分が小男の障碍者だってことを盾に周囲の同情を引き、すぐ酒代まで出させようとするんですよ。高貴な僧侶さまにおかれましては評判に傷がつかぬよう、重々お気をつけになることです」
「そうですよ」と、今度は衛兵Bが言った。「あいつ、娼館通いが過ぎて、時々股間をかいてることまでありますからね。『性病を移されたぎゃ』?まったく困ったもんですよ」
流石のギベルネスも、もう笑いを堪えきれなかった。けれど、その彼の様子を見て、衛兵Aと衛兵Bは、何かを反省したようである。互いに「し、失礼いたしました。僧侶さまの前で、このような……」と、白々しく咳払いまではじめている。
(そうだった。私は今この世界では医者ではなく僧侶なんだったな。確かにそれは、立ち居振るまいや言動によく気をつけておかないと……ハムレット王子の評判にも関わることだものな)
ギベルネスは衛兵たちの忠告を聞き入れはしたが、一方、酒好きでケチの、性病持ちの小男……などと聞いても、特にレンスブルックに対するギベルネスの評価は変わらなかった。むしろ、彼がギルデンスターン侯爵の覚えもめでたく、町の人々とも交流があり――何やら社会から疎外されて孤独を感じているわけでもないらしいと知り、ほっとしていたほどであった。
>>続く。