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銀輪ダヌキ

作者: 兆 晶

 熊本市内の夏の暑さは相当なものだ。

 市域の西側にそびえる金峰山(きんぽうざん)が、(あり)明海(あけかい)からの涼やかな海風を遮る。そのため大気が(こも)ってしまうのだ。

 年若い男が、熊本城の石垣の傍にある木陰のベンチに腰掛けていた。しきりに額の汗をハンカチで拭いている。(かまびす)しい蝉の鳴き声が周囲の木々から響き渡っていた。

「もうダメだあ……暑すぎる……」

 そんな独り言を漏らしながら、男はぐっしょりと濡れたハンカチを両手で絞った。ポタポタと汗の(しずく)(したた)り落ちる。

 彼の背丈は百七十センチほどで、体つきは中肉中背といった感じだ。半袖の白いワイシャツから伸びている腕が浅黒く日焼けしていた。短く刈り込んだ頭髪は、ちょっと茶色がかっている。

 歳は二十代半ばといったところか。その外見からすれば、こんな殺人的な酷暑にもかかわらず、営業の外回りをやらされている新人サラリーマンといったところだろう。

 周囲には人影もなく、素肌にまとわりつくような湿度の高い熱気が立ち込めていた。じっとしていても全身から汗が噴き出すのを止められない。

「もう限界だ。せめて風を吹かそう」

 ベンチに座ったまま、年若い男はズボンのポケットに手を突っ込んだ。そして、おもむろに手を抜き出すと、その指先には一枚の葉っぱが握られていた。

 その葉っぱは鮮やかな緑色で、表面がテカテカと艶めいていた。

 それからキョロキョロと周りに目をやって人影がないことを確認すると、その男は葉っぱを頭の上に載せた。

 そして背筋を伸ばしながら(まぶた)を閉じると、フーッと大きく息を吐いた。そのまま何度か深呼吸を繰り返すと、まるで(いん)を結ぶように、胸の前で両手の指を組みながら左右の人差し指を立てた。

 すると、頭の天辺に載っていた葉っぱがフワリと浮かび、クルクルと回転し始めた。

 途端に周囲の木々の(こずえ)がザワッと鳴り、爽やかな風が吹き込んできた。

 しばらくの間、年若い男は印を結んだまま、瞼を閉じていた。

 心地よい風が頬を撫でていく。年若い男の全身から汗が引いていった。その頭上では濃緑の葉っぱがクルクルと回り続けていた。

 すると、男の目の前に、どこからともなく一羽のカラスが大きな羽を広げながら、スーッと滑るように舞い降りた。左右の羽を畳むと、瞼を閉じている男の方に鋭い(くちばし)を向けた。

「これっ、清四郎(せいしろう)!」

 野太い声の一喝が辺りに響いた。どうやらカラスが発したものらしい。

 木陰のベンチに座っていた年若い男は、ビクッと仰け反りながら(まなこ)を見開いた。清四郎というのは、この男の名前らしい。

九市郎(くいちろう)(じい)さん!なんでここに!」

 目の前の草地の上で泰然と羽を休めているカラスに、清四郎は狼狽していた。このカラスは九市郎という名前で、爺さんと呼ばれるからにはかなり歳をくっているに違いない。

「ちょうど熊本城の上を飛んでおった。(じゅつ)の気配を感じて降りてみると、またお前じゃ」

「すっ、すいません……」

 しょげかえった様子で、清四郎は両肩を落としていた。

「なぜわしが不用意に術を使うな、と言う訳が分かっておらんな。その葉っぱは霊力が込められた特別なものじゃ。人間に変化(へんげ)しておる際、不時の災厄に備えて一枚だけ持つことが許されておるのだ。それを(すず)みに使うとは何事じゃ!」

「はあ……」

 清四郎は視線を泳がせていた。

「わしらの祖先は熊本城下の船場山(せんばやま)根城(ねじろ)としていた。そこはお城の堀の傍にある小高い丘だった。周囲が城下町であったため、祖先は常日頃から人間に捕まっていた」

「はっ、はい……」

 また始まった、とでも言いたげに、清四郎は小さくため息をついた。

「手まり唄の〈あんたがたどこさ〉は耳にしたことがあるだろう。

  あんたがたどこさ

  肥後さ

  肥後どこさ

  熊本さ

  熊本どこさ

  船場さ

  船場山にはタヌキがおってさ

  それを猟師が鉄砲で撃ってさ

  煮てさ

  焼いてさ

  食ってさ

  それを木の葉でちょいとかぶせ

 一見、無邪気な手まり唄だが、我らタヌキからすれば実に禍々しい呪詛(じゅそ)のような唄である。このような災難を避けるため、人に化けて決して正体を現さないことが一族の掟とされているんじゃ」

「はい……」

 清四郎は大きく頷き返したが、瞳は虚ろだった。

 どうやら二人の会話を聞く限り、清四郎と呼ばれる年若い男と、九市郎というカラスの正体はタヌキということになる。

「まったくお前という奴は、いったい何度言えば分かるんじゃ。そんなことで船場家の跡取りがつとまるか!ゴホッゴホッ」

 怒鳴り続けたせいか、カラスは咳き込んだ。

「すいません……九市郎爺さん」

 清四郎はしょんぼりと肩を落としていた。

 ゴッホンと、とりわけ大きな咳をしたところで、やっと九市郎の咳きが治った。

「お主たちの世代で跡取りの(しるし)があるのはお前だけなんじゃぞ。頭の上に輪っかを載せたように生えている銀色の毛がそうじゃ。いい加減、その自覚を持ったらどうじゃ」

「はあ……」

 恐縮した様子で、清四郎は茶色がかった髪を掻いていた。

「まったく、お前は幼い頃から無鉄砲だった。人間が仕掛けたイタチの罠にかかったこともあったじゃろう。まだ変化(へんげ)もできず、まともに術も使えない頃じゃ。あの時は一歩間違えば死んでいたんじゃぞ」

「……」

「万に一つの僥倖(ぎょうこう)があったから良かったようなものの、あんな酷い目に遭っても、まだ懲りんのか」

 自分の幼い頃の話をされて、清四郎は、ちょっと涙目になって俯いた。

「はあ、気をつけます」

「お前の特技といったら、自転車を乗り回すことぐらいじゃ。自転車は銀輪とも呼ぶが、跡取りの印である銀毛の輪はダジャレのためにあるのではない。ちっとは成長せい!」

「すいません……」

 清四郎は消え入りそうな声で返事をした。

「では、わしは見廻りを続ける。いいな、清四郎。決して不用意に術を使うな」

 そう言い放つと、カラスは左右に羽を広げ、ブンと鋭い音を立てながら羽ばたいた。フワリと草地から飛び立つと、あっと言う間に空高く舞い上がり、そのまま東の方角へ飛び去っていった。

 その姿が見えなくなったところで、清四郎は、フーッと大きなため息をついた。

「やれやれ、また小言をくらったよ。どうもあの爺さんとは相性が悪い。まさかこんなところで出くわすなんて」

 ちょっと肩を(すく)めながら、清四郎は独り言を漏らした。

「仕方ない。仕事に戻るか」

 諦めたようにベンチから立ち上がると、大きく足を踏み出した。靴底が地面に触れた瞬間、芝生がザクッと乾いた音を立てた。

 道路の端に()めていた自転車のところまでやってくると、清四郎はポンと軽く掌でサドルを叩いた。

 清四郎が使っているのは、クロスバイクと呼ばれるタイプの自転車だ。レース仕様のロードバイクと、オフロード仕様のマウンテンバイクの特性を併せ持っていて、通勤やサイクリングにも使える。清四郎はこの自転車を気に入っていて、仕事中の移動に使っていた。熊本の街中(まちなか)は交通渋滞が激しいので、自転車の方が車より早いこともしばしばだった。

 先ほど九一郎爺さんから言われた通り、清四郎は自転車に乗るのが得意だし、大好きだった。

 サイクル用のヘルメットを頭に被ると、清四郎はキュッと顎紐を締めた。栗色のスポーティなヘルメットで、茶色の頭髪によく似合っている。

 清四郎がペダルを力強く踏み込むと、クロスバイクは勢いよく走り出し、そのまま風を切るように疾走した。照りつける太陽の光を反射して、車輪の銀色のスポークがキラキラと輝いていた。


 一時間ほどで外回りを済ませると、清四郎は会社に戻った。

 清四郎が勤める会社は街中のオフィスビルの一角にあった。地元では中堅どころの不動産会社である。

 ビルのエントランスを抜けると、清四郎は階段を駆け上がった。

 ビルの一階は営業部で、二階の不動産開発部が清四郎の部署だった。

 清四郎はオフィスの入口の扉を開けながら、「ただ今、帰りました」と声を張り上げた。

「おう、チャーリー部長、お帰り!」

 出入口の横に置いてあるコーヒーサーバーの前に、二年先輩の高瀬(たかせ)がいた。背丈は百八十センチを超えていて、清四郎を見下ろしている。片手に持ったマグカップには、なみなみとコーヒーが注がれていた。

「高瀬さん、お疲れ様です」

「さっき須佐(すさ)()が探してたぞ」

「えっ、桃子(ももこ)ちゃんが、ですか?」

「お前ら、同期で仲良くて羨ましいよ」

 高瀬は立ったまま、マグカップを口に運ぶと、コーヒーを(すす)るように口に含んだ。

「同期がなんだって!」

 唐突に背中へ浴びせられた声に、高瀬はむせ返った。そしてマグカップからコーヒーがこぼれないように、ゆっくりと振り向いた。

「ゴホッ、ゴホッ。秋山、いたのかよ」

 そこには秋山(あきやま)玲子(れいこ)がいた。高瀬と同期入社で、同じく不動産開発部だ。百七十センチを超える背丈で手足も長く、まるでモデルのような体型をしている。

「何か羨ましいことでもあるわけ!」

 玲子は鋭い視線を高瀬に浴びせていた。

「いっ、いや、別に……」

 高瀬は言い淀んでいた。男勝りの玲子にタジタジといった様子だ。

 玲子は、どんな難しい案件であっても、相手を()()せるように交渉して必ず契約にこぎつける。仕事の成績は一度もトップを譲ったことがなかった。

 この二人の関係は傍目(はため)から見ていると、面白くて仕方がない。清四郎に至っては、二人が付き合ったら、むしろうまくいくんじゃないか、とまで思っていた。むろんカカア天下の関係にはなるだろうが。

 痴話喧嘩のような会話を続ける二人をそのままにしてそっと離れると、清四郎は自席に戻った。

 それから三十分ほどで、清四郎は外回りの報告書を仕上げた。

 そこで一息入れようと、開発部のオフィスを出て一階に降り、エントランスホールに置いてある自動販売機の前で立ち止まった。

「部長、お疲れ様です!」

 声のした方に顔を向けると、須佐美桃子がいた。つぶらな瞳がクリクリと笑っている。天井の照明を反射して、ショートボブの黒髪が艶やかに輝いていた。

 桃子は清四郎と同期入社だったが、高卒なので清四郎より四つ年下だ。営業部に配属され、お客さん相手の窓口対応や物件案内が主な仕事だ。

「コーヒーブレイクですか、部長?」

「その呼び方、なんとかならない?」

 眉毛をハの字にしながら、清四郎は困惑した表情を見せた。

「部長は部長ですから。チャリ部の」

 桃子は弾けるような笑みをこぼしていた。頬には可愛らしいエクボが浮かんでいる。

 悪意のかけらも見えないその笑顔に、清四郎はフッと小さくため息をついた。

「部長に用事があったんですよ、私」

「高瀬さんから聞いた。俺を探してるって。いったい何?」

「今度の部活のことですよ。どうしますか?」

「今度の部活?」

「社長直々の通達で、社内で色んな部活動をすることになったじゃないですか」

「まったく変わった社長だよな」

「それでチャリ部を二人で作ったでしょう」

「まあ、そうだねぇ……」

 清四郎は、カリカリと人差し指の先で頬を掻いていた。

−−普段から自転車を乗り回している俺を、無理矢理誘ったんだよな、桃子ちゃんが。それで実際にチャリ部に入ってみたら二人だけ。部長まで押しつけられて。おかげでチャーリー部長って呼ばれるようになったし−−

 清四郎は眉間に皺を寄せていた。桃子のことを、ちょっと持て余しているようだった。どうやらチャーリー部長というアダ名の原因も桃子らしい。

「今度の日曜日に熊本城の周りをサイクリングっていうのはどうですか?」

「それぐらいなら、まあ、手頃でいいかもね」

 桃子は瞳を輝かせながら、「でしょう。ついでにフジ丸の散歩もできるし」と、パンと手を叩き合わせた。

「フッ、フジ丸を連れてくるのかい?」

 狼狽えたように清四郎は目を白黒させた。

 桃子は会社から程近いマンションで一人暮らしをしていた。そこで一緒に暮らしてるのが、ミニチュア・ダックスフンドのフジ丸だった。

「なにを慌ててるんですか、部長?」

 清四郎は頭を掻きながら、「いや、フジ丸はちょっと……」と言葉を濁した。

 急に何かを思い出したように、桃子はハッと目を見開いた。

「この前、フジ丸の散歩中に偶然、部長と会いましたよね」

 一週間ほど前、フジ丸を散歩させている桃子と出くわした。清四郎は残業を済ませて自転車で帰宅しているところだった。

「あの時、普段おとなしいフジ丸がめっちゃ吠えて、私もびっくりしました。もしかして、それがトラウマになってるんですか?」

 清四郎は激しく首を振った。

「そっ、そうじゃないけど、なんとなく相性が悪いみたいで、フジ丸とは……」

 桃子は、悲しそうに瞳を(うる)ませながら、「部長は動物が苦手なんですか?」と首を傾げた。

 清四郎は、「そんなことないよ、絶対に!」と、自分の顔の前で虫でも追い払うように掌を振った。そもそも己の正体がタヌキなので、動物嫌いのはずがない。

 桃子は嬉しそうにニッコリと微笑んだ。

「良かった……わたし、養護施設で育ったので、家族がいないんです。だから、動物が家族みたいに思えて大好きなんです」

 桃子は、はにかむように俯いた。

 桃子の生い立ちについて、清四郎は知っていた。桃子は幼い頃から肉親が一人もおらず、養護施設で育てられた。高校卒業後に就職して一人暮らしを始めるにあたって、ペットとの同居を絶対条件にして住むところを決めたらしい。

「俺も動物は大好きだよ。桃子ちゃんと同じでね」

 優しげな笑みを浮かべながら、清四郎は桃子の顔を覗き込んだ。

 桃子がパッと顔を上げた。

「良かった。でも、今回はフジ丸は連れていかないことにしますね。それでいいですか?」

「分かった。気を遣わせてゴメンね」

 清四郎は軽く頭を下げた。

「じゃあ日曜日に!」

 清四郎に向かって軽やかに手を振ると、桃子はエントランスホールを後にした。

 桃子の姿が見えなくなったところで、清四郎は天を仰ぐように天井のクロスを見上げた。

−−フジ丸には見破られている。自分の正体がタヌキだってことが−−

 清四郎は自動販売機で缶コーヒーを買うと、二階のオフィスに戻った。


 それから一週間ほど経ったある日、清四郎は営業部の応援に駆り出された。

 お客さんが集中して人手が足りなくなることが時々ある。そんな時は不動産開発部のスタッフがヘルプに入るのだ。

 さっそく桃子が近寄ってきた。

「部長、物件の事前確認についてきてもらっていいですか?クルマの運転は私がします」

 清四郎は、普段は仕事の外回りを自転車でこなしている。実はクルマの運転は苦手だった。桃子は、そのことを察しているようだ。

「いいよ」

 コックリと頷きながら、清四郎は快諾した。

 不動産物件の事前確認とは、お客さんに内覧させる前に、専門業者による清掃が終わった状態を確認するものだ。

 桃子の運転でミニバンを走らせながら、二人は五件の物件を廻った。どの物件も塵一つないほど綺麗にされていた。ただしまだ電気が通っていないので、部屋の中は蒸し暑さが半端なかった。

「さあ、次で最後ですよ、部長」

 ミニバンの運転席に座りながら、桃子が額に噴き出た汗をハンカチで押さえた。

 清四郎は、「なかなか大変だね、事前確認も」と、首筋に(つた)い落ちる汗をハンドタオルで拭った。

 クルマのエアコンを全開にして、二人ともやっと汗が引いてきた。

 桃子がアクセルを踏み込むと、ミニバンが軽やかに走り出した。

「実はちょっといわくつきなんですよ、最後の物件って」

 ハンドルをギュッと握り締めながら、桃子が呟いた。

「いわくつき?」

 思わず清四郎は桃子の横顔に目をやった。桃子は頬をこわばらせている。

「普通の賃貸マンションなんですけど、前に借りてた人が事件を起こしたみたいで」

「事件って?」

「三十代の男性らしいです。一人暮らしをしていて、訪ねてきた男友達を刃物で刺したんですって」

 清四郎は眉をひそめた。

「それで?」

「友達の方は重傷らしいですけど、なんとか命は取り留めたって」

「ふーん、男女関係とか金銭トラブルが原因なの?」

「それがまったく理由が分からないらしいんです。刺された男性も心当たりがないって」

「どういうこと?」

「刺した男性は、もちろん警察に捕まったんですけど、精神に異常をきたしてるみたいで取り調べもできないって聞きました」

 清四郎は、「なんか怖いね……そういうのって」と、肩を(すく)めた。

「そうですよねぇ……普通のサラリーマンだった人が、ある日突然そんなふうになるなんて……」

 ちょうど交差点の信号が赤に変わり、不安げな面持ちで桃子がブレーキを踏んだ。

 その物件は街中からちょっと離れた郊外にポツンと建つ賃貸マンションだった。交通の便は悪いが、とにかく家賃が安い。街中の物件の相場の半分ほどだった。

 駐車場にミニバンを止めると、二人でマンションのエントランスに入った。エレベーターで最上階に上がると、一番端の部屋が該当物件だった。

 扉の鍵を開けて中に入ると、ムッとする熱気が室内に立ち込めていた。まずは空気を入れ替えるために全ての窓を全開にした。途端に涼しげな風が吹きつけてきた。

「やっぱり最上階なんで風も気持ちいいですね。景色も最高だし」

 ベランダに顔を出しながら、桃子が外の景色を眺めていた。周囲には低層の戸建て住宅の屋根が連なり、さほど離れていないところに川の流れが見えた。

「そうだね。室内も綺麗だし。これなら特に問題も無さそうだね」

 おもむろに桃子が室内設備の点検を始めた。清四郎がバスルームを見廻っていると、「あれっ?」という桃子の声が聞こえた。

 慌ててリビングに戻ると、桃子がシステムキッチンの収納スペースを覗き込んでいた。

 清四郎がキッチンに近寄りながら、「どうしたの、桃子ちゃん?」と声をかけた。

 キッチンの戸棚の扉が開いている。桃子は、その中を指差していた。

「キッチンの戸棚に包丁が一本残ってるんです。おかしいなあ」

 清四郎が戸棚を覗き込むと、扉の内側にある包丁スタンドに一本の出刃包丁が残っていた。刃渡りの長さは二十センチほどだ。どうやら新品みたいで、寿司屋の職人が使うような高級包丁だった。

 外から差し込む陽光を反射して、包丁の尖った切っ先がキラリと輝いた。

 その瞬間、清四郎は異様な臭いを感じた。まるで卵が腐ったような異臭だった。

 思わず鼻を掌で覆いながら、「なんか変な臭いしない?硫黄みたいな……」と、桃子に問いかけた。

 桃子は首を傾げながら、クンクンと軽く鼻を鳴らした。

「うーん、何も臭いませんけど、私は」

 いたって平気そうな桃子とは正反対に、清四郎が感じる臭いは、どんどん強くなっていく。遂には鼻の奥まで入り込んで、清四郎は吐き気まで催してきた。

「桃子ちゃん、出よう。ゲホッ、ゲホッ」

 清四郎は咳き込みながら、ヨタヨタと玄関に向かった。桃子は不思議そうに首を傾げながら収納スペースの扉を閉めると、清四郎の後についていった。

 二人が室外に出て玄関のドアを閉めたところで、やっと清四郎の吐き気が治まった。

「大丈夫ですか、部長。顔が真っ青ですよ」

 心配そうに、桃子が清四郎の顔を見つめていた。

 清四郎は、「もう大丈夫だよ。ゴメンね」と頷き返した。でも、その顔にはまだ血の気が戻っていなかった。

「具合が悪いんですね。これで物件の事前確認は終わりましたから、早く帰りましょう」

 エレベーターで一階に降りると、二人はミニバンに乗り込んだ。

 桃子がエンジンをかけてアクセルを踏み込み、ミニバンが走り出した。助手席に座っている清四郎は、ようやく人心地がつき、顔にも赤みが差してきた。

「急いで会社に戻りますね。それとも直帰することにして自宅まで送りましょうか?」

 ハンドルを握りながら、桃子は眉根を寄せていた。

「もうホントに大丈夫だから。会社に戻ろう」

 清四郎が桃子の横顔に穏やかな口調で語りかけた。

「分かりました、部長。でも、無理はしないでくださいね」

「ありがとう、桃子ちゃん。でも、ちょっと気になることがあるから、あの物件には関わらないようにしておいて」

 うん、と返事をするように、正面を向いたまま桃子が軽く頷いた。


 その日の夜、会社から帰宅する途中で、清四郎は船場家の本家を訪ねた。

 船場家の本家は、街中に程近い閑静な住宅街の一角で高級料亭を営んでいた。木造の古風な建物は築百年を超えているらしい。敷地を囲む板塀の入り口には勇壮な造りの門が(そび)えていた。

 清四郎は、板塀の横にクロスバイクをとめると、門を(くぐ)って石畳みの通路を過ぎ、玄関の扉を開けた。 

 玄関口は大理石が敷き詰められ、横には大きな靴箱が並んでいる。天井を見上げると、黒光りした木材の太い梁が架かっていた。

 玄関口で清四郎が手持ち無沙汰に(たたず)んでいると、上がり(がまち)と繋がる板敷きの廊下の奥から着物姿の女性が現れた。髪を結い上げて綺麗に化粧をしているが、目元の小皺からすれば、歳は五十前後というところだろう。

「あら、清四郎。珍しいわね」

凪子(なぎこ)おばさん、こんにちは」

 どうやらこの女性は清四郎の伯母らしい。つまりはこの女性の正体もタヌキということになるのだろう。

「忙しい時にすいません」

「いいのよ。今日はお客さんも少人数だし、手は足りてるわ。それにしても何の用事なの?あなたがここに来るなんて」

 清四郎は、「ちょっと九市郎爺さんに聞きたいことがあって」と、茶色がかった髪を掻いた。

 凪子は目を丸くしながら、「へぇー、九市郎爺さんに。こりゃ一大事みたいね。さあ、早く上がって」と、清四郎を促した。

 清四郎が靴を脱いで上がり框を踏むと、キュッと板が擦れる音がした。そのまま板敷きの廊下を案内され、一番奥の座敷に通された。

「ここで待ってて。九市郎爺さんを呼んでくるから」

 そう言い残して、凪子は座敷の(ふすま)を閉めた。

 清四郎は座布団の上に腰を下ろして、室内を眺めた。上座には床の間が設けられ、綺麗な生け花が飾られている。その壁には掛け軸がかかっているが、くねったような墨字はまったく読めなかった。

 サッと襖が開くと、「おう、清四郎。珍しいな」と白髪の老人が現れた。顎先から白髭が伸びて顔中(かおじゅう)が皺だらけだ。その見かけからは、いったい何歳なのか、容易には判別し難い。百歳を超えていると言われても、さもありなんという感じだ。

「すいません、急に」

 清四郎が軽く頭を下げると、その向かいに九市郎は腰を下ろした。

「はて、何事じゃ」

 清四郎は顔を上げて居住まいを正した。

「実は今日の昼間、あるマンションの一室に行きました。今後、お客さんに貸すための事前確認です」

「うむ」

 九市郎が野太い声で相槌を打った。

「そこのキッチンに包丁が残っていたんですが、それを目にした途端、腐ったような異臭を感じました。臭いはどんどん強くなり、慌てて外に出ました。同行した人間の女の子は何も感じていないようでした」

「ほう」

 九市郎は白い顎髭を指先で撫でた。

「いったいどういうことでしょうか、これは?」

「その建物の場所はどこじゃ?」

「街中からちょっと離れた郊外で、近くに川が流れています。えっと地図では……」

 清四郎はポケットから折り畳んだ地図を取り出すと、その一点を指差した。

 途端に九一郎が眉をひそめながら、額に皺を寄せた。鋭い眼光で地図の一点を見つめている。

 清四郎は不安げな面持ちで、九市郎に視線を注いでいた。

すると九市郎は天を仰ぐように顔を上に向け、ゆっくりと瞼を閉じた。しばらくの間、そのまま固まっていた。

 息を詰めるようにして、清四郎は待ち続けた。

 ふいに九市郎は瞼を開くと、ゆっくりとした動作で清四郎のほうに顔を向けた。そして、首を捻りながら、「そこは西南戦争の激戦地の一つで、たしか戦死者を鎮魂する(ほこら)があったはずじゃ。うーむ、一度調べてみるか」と呟いた。

 間髪を入れず、清四郎は、「お願いします」と、ペコリと頭を下げた。


 それから三日後のことだった。

 その日も清四郎は営業部のヘルプに駆り出された。物件の内覧にお客さんを案内して、オフィスに戻ってくると、既に太陽は西に傾いていた。

「ただいま帰りました」

「おう、お疲れ様」

 開発部の先輩の高瀬が清四郎に声をかけた。どうやら清四郎と同じく、営業部のヘルプをすることになったようだ。今日はよほど忙しいらしい。

「みんな外回りですか。今日はお客さんが多いですねえ」

 清四郎は人気(ひとけ)の少ないオフィスを見廻した。

「ああ、俺まで駆り出されて、留守番をさせられてるんだ」

 自嘲気味に言い放つ高瀬に軽く頷き返しながら、清四郎は、壁際に据えてある大きなホワイトボードに目をやった。営業部のスタッフの名前が貼り出されて、その下に各人の用務先が黒マーカーで書いてあった。

「みんな、たいへんですねぇ」

 何気なくホワイトボードを眺めていた清四郎は、〈須佐美桃子〉のところで視線を止めた。

 その名前の下には、あのいわくつきのマンションの一室が記されていた。

 その瞬間、清四郎の背筋に冷たいものが走り、全身が凍りついた。

−−桃子ちゃんに危険が迫っている−−

 化けダヌキの直感だった。

 清四郎は身を(ひるがえ)して、オフィスを飛び出すと、駐輪場にとめていたクロスバイクに跨った。いつもの習慣でカゴからヘルメットを取り出すと、頭に被ってキュッと顎紐を閉めた。

 その時、頭上から、「清四郎、早まるでない!」と野太い声がした。

 清四郎が空を見上げると、一羽のカラスがちょうど真上を旋回していた。

「九市郎爺さん!」

「あの部屋には魔物がおる。お前が見たという出刃包丁は其奴(そやつ)変化(へんげ)した姿じゃ」

「魔物?ホントですか!」

「西南戦争で命を落とした武者たちを(まつ)った(ほこら)を撤去して、あのマンションは建てられた。今、激しい怨念が障りを起こしておる。容易ならざる相手じゃ。不用意に近づいてはならん」

「今、そこに桃子ちゃんが!」

 清四郎は、思いっきりペダルを踏み込んだ。その瞬間、弾丸のようにクロスバイクが走り出した。

「まて、清四郎!お前一人ではどうにもならん。あれは悪鬼(あっき)羅刹(らせつ)の類いじゃ。万に一つの僥倖など、二回は起こらんのだぞ!」

 背中に浴びせられた九市郎の声に構わず、清四郎はクロスバイクのペダルを全力でこぎ続けた。

 まるで一陣の風のように、渋滞しているクルマの脇を猛スピードで走り抜けた。銀色の車輪のスポークが夕陽を反射して、赤く瞬いていた。

 十分も経たないうちに、郊外のマンションに辿り着いた。

 マンションの入口の前でクロスバイクから飛び降りると、ヘルメットをカゴに投げ入れて、そのままエントランスを抜けて階段を駆け上がった。最上階に着いた時には、ゼェゼェと激しく息が切れていた。

「キャー」

 甲高い悲鳴が聞こえた。桃子の声に間違いない。

 清四郎は、廊下を走って一番端の部屋の前までくると、ドアノブを握って扉を開け放った。

 玄関から奥のリビングに続くフローリングに桃子が仰向けに倒れている。その上に、長い髪を振り乱した女性が馬乗りになっていた。出刃包丁を握った右手を振り上げている。

 咄嗟に清四郎は飛びかかり、その女性に体当たりした。

 ドンという大きな音とともに、女性はリビングまで吹っ飛ばされた。そのまま大の字になってのびている。どうやら後頭部を打ちつけて脳震盪(のうしんとう)を起こしたらしい。

 出刃包丁がフローリングに転がっていた。

「大丈夫、桃子ちゃん?」

 清四郎が、怯えた瞳で横たわっている桃子に向かって手を伸ばした。頬をこわばらせながら、桃子が清四郎の手を掴んだ。清四郎は引っ張り上げるようにして、桃子を立ち上がらせた。

「もう大丈夫だからね」

 優しく宥めるように、清四郎が声をかけた。

 桃子は唇を震わせながら、「キッチンを見てたお客さんが……突然、出刃包丁を振り回してきたんです……」と、息も絶え絶えに囁き声を漏らした。

 その時、フローリングに転がっていた出刃包丁の刃先が、窓から差し込む夕陽を反射してギラリと輝いた。同時に、硫黄のような腐臭が漂ってきた。

 口元を掌で押さえながら、清四郎は桃子を(かば)うように一歩前へ踏み出した。

 すると出刃包丁から赤黒い煙がユラユラと立ち昇り始めた。

 その異様な光景に、清四郎は全身をこわばらせた。その後ろにいる桃子も目を見開きながら、その赤みを帯びた黒い煙をじっと凝視していた。

 見る見るうちに煙が手足の形を取り、遂には人の姿に変わった。

 その格好は筒袖(つつそで)の黒い(かすり)の着物を着て、()(ばかま)をはいていた。長い頭髪を後ろで束ね、額には金属の付いたハチマキを巻いている。(すね)から下を黒い(きゃ)(はん)で包み、足には黒色の足袋(たび)をはいていた。腰に差した太刀の鞘が黒光りしている。きっと西南戦争で戦った武者の姿なのだろう。

「なっ、なんなの……あれ……」

 桃子が声を震わせた。その声を背中で聞きながら、清四郎は身構えるように拳を握った。

 武者が腰に差した日本刀を抜いた。刃渡りが一メートルを超える大きな刀で、その刀身は赤黒い光を放っていた。

「タヌキ風情(ふぜい)が邪魔をしおって!」

 しゃがれ声で武者が叫んだ。その瞳は燃えたぎる焔のように真っ赤だ。目尻を吊り上げた形相は、まさに悪鬼そのものだった。

 武者が刀を上段に振り上げた。

 清四郎は素早くポケットから葉っぱを取り出して頭の上に載せると、両手の指先を組み合わせて印を結んだ。

 鮮やかな緑色の葉っぱが、清四郎の頭上でクルクルと回転した。

 ブンと空気を切り裂く音とともに、武者が刀を振り下ろした。その太刀筋が、鋭い(やいば)のような漆黒の烈風となって清四郎に向かってきた。

 咄嗟に印を解くと、清四郎は両手を前に掲げながら掌を開いた。すると半透明の幕が現れ、漆黒の列風がその幕に当たった。

 キンと金属が擦れるような音を立てながら烈風が弾き返された。

「ほう。妖術を使う化けダヌキか。いつまで防げるかな」

 武者は不気味な笑みを浮かべると、立て続けに刀を振り下ろした。

 その度に清四郎に向かって漆黒の烈風が襲いかかった。

 清四郎は掌を前に掲げたまま、両足を踏ん張っていた。キンキンという甲高い音とともに、半透明の幕が烈風をことごとく弾いていった。

 清四郎の額に大粒の汗が滲んで、眉間には深い皺が寄っていた。呼吸も止めているようで顔が真っ赤だった。

 桃子は何が起こっているのか理解できず、清四郎の後ろで身を縮めていた。

 ふいに武者が太刀を横殴りに払った。

 水平になった漆黒の烈風が半透明の幕にぶつかった。ギンという鈍い金属音がすると、半透明の幕が上下にちぎれ、そのまま消え失せた。

 清四郎は、ハァハァと荒い息遣いで両膝に手を突いた。頭上の葉っぱが消えている。どうやら妖力の限界を超えたようだ。

「これまでのようだな、化けダヌキ!」

 武者がアゴ先を上げながら、清四郎に向かって怒声を浴びせた。

 清四郎は、フーッと大きく深呼吸をすると、再び両手の掌を前に掲げた。

「桃子ちゃんには手出しをさせない!」

 刺し貫くような眼差しで、清四郎が武者を見据えた。

「愚か者が!」

 武者が太刀を振り下ろし、流れるような動作で横に払った。

 漆黒の烈風が十字の形で清四郎に迫っていく。

 清四郎の掌に漆黒の十字がぶつかった。

 その瞬間、ギンと鈍い金属音がして、十字の烈風が散り散りに消えた。その衝撃で清四郎の掌が左右に弾かれた。

 そして両手を大の字に広げた姿勢になったところに、斜めになった漆黒の烈風が清四郎に襲いかかった。

 十文字に刀を振るった直後に、武者は袈裟がけに太刀を振り下ろしていたのだ。

 清四郎の左肩から右脇にかけて、漆黒の烈風が貫いた。

 ドスンと鈍い音を立てて、清四郎は背中からフローリングに倒れた。仰向けになった体には、肩から脇にかけて斜めに真っ黒な傷跡が刻まれていた。

「部長!せっ、清四郎さん!」

 桃子が膝を突きながら、清四郎の顔を覗き込んだ。清四郎は瞼を固く閉じたまま、ううっと苦しげな呻き声を漏らしていた。

 見る見るうちに清四郎の体が縮んでいき、遂にはタヌキの姿に変わった。全身が茶色の毛皮に覆われているが、頭の上にだけ丸く銀色の毛が生えている。まるで天使の輪のようだった。

「なっ……なんで……」

 目の前で起こったことに、桃子は言葉を失った。四つ足をヒクヒクと痙攣させながら倒れているタヌキの腹には斜めに黒い傷跡があった。

「これで(しま)いじゃ!」

 武者が太刀を高く振り上げた。

 その瞬間、玄関から一羽のカラスが飛び込んできた。

「無茶をしおって!」

 桃子の耳に野太い声が聞こえた。あたかもカラスが発した声のように思えた。

 カラスは武者の周りをクルクルと旋回し始めた。

 突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に面食らったように、武者は、刀を振り上げたまま固まっていた。

 すると、玄関から何十匹ものカラスが次々と飛び込んできた。桃子の頭上を黒い絨毯(じゅうたん)のようになって越えてゆく。

 カラスたちは一斉に武者の周りをグルグルと旋回し始めた。まるで真っ黒い繭玉(まゆだま)を作るように武者を包み込んでいく。

「ぐっ、ぐえっ……」

 苦しそうなしゃがれ声が黒い繭玉の中から漏れた。

 しばらくすると、「そのあたりで良いじゃろう」と野太い声が響いた。

 すると、カラスたちが黒い繭玉を解いて、一斉に玄関口へ向かった。バタバタという羽音が桃子の頭上を通り過ぎ、そして静寂が訪れた。

 武者の姿は消え、フローリングの上にあった出刃包丁も無くなっていた。

 桃子はフローリングに膝を突いたまま、呆気にとられていた。ふと目の前に横たわっているタヌキに目をやった。


 その瞬間、桃子はハッと思い出した。

 まだ幼い頃の記憶だ。

 桃子が暮らしていた養護施設は、街中の小高い丘の上にあり、周囲と隔絶するように鬱蒼(うっそう)とした森林に囲まれていた。

 寂しさを紛らわすように、桃子は、しばしば施設を抜け出して森の中を散歩した。

 ある夏の日、桃子は木々の高い(こずえ)を見上げながら、いつものように散歩をしていた。森の中は蝉しぐれに包まれていた。

 すると蝉の鳴き声に混じって、ガサガサという音が耳に聞こえた。恐るおそる音がする方に近づいていくと、鉄格子の罠に子ダヌキがかかっていた。その鉄格子は三十センチぐらいの正方形で、農作物を荒らすイタチを捕まえるためのものだった。

 鉄格子の中の子ダヌキは、なんとか抜け出そうと鉄線を引っ掻いていた。

 子ダヌキは桃子に気づくと、怯えたように全身の毛を逆立てながら身構えた。

 桃子は鉄格子の真横まで近寄ると、しゃがんで子ダヌキを見下ろした。

 子ダヌキの頭の天辺には銀色の輪っかのような毛が生えていた。まるで天使の輪のようで、とても可愛らしかった。

 鉄格子の扉を開けようと、桃子が鉄線に触れた。すると、子ダヌキは、フーッと威嚇するような鳴き声を上げた。

「大丈夫よ。出してあげるからね」

 桃子が優しげに囁くと、子ダヌキは頭を伏せながら後退りした。

 しばらくの間、桃子が鉄格子の扉と格闘していると、鉄線の一つに触れた途端、パンとと音を立てて扉が開いた。

 その大きな音に驚いて、桃子は地面に尻餅をついた。同時に、子ダヌキが鉄格子の罠から飛び出した。そのまま一目散に駆け出し、あっという間に草木の間に姿を消した。

 桃子はズボンの裾をはたきながら立ち上がった。そして、子ダヌキが逃げ去った方を見つめながら、「良かった……」と小さく呟いた。

 次の日、桃子が森の中を散歩していると、突然、草地がガサゴソと鳴った。音がした方に目をやると、草の間から子ダヌキが顔を出していた。頭の天辺には輪っかのような銀色の毛が生えている。

 桃子は、その場でゆっくりと膝を折って草地の上にしゃがみ込むと、「こんにちは」と、子ダヌキに向かって微笑んだ。

「キュー」

 子ダヌキが甲高い鳴き声を上げた。まるで桃子に返事をしているみたいだった。

「あっ、そうだ!」

 桃子は、オヤツで配られたクッキーをポケットに入れていたことを思い出した。ズボンのポケットに手を突っ込むと、一切れのクッキーを取り出した。

「クッキー食べる、子ダヌキさん?」

 桃子は掌の上にクッキーを載せて、右手を差し伸ばした。

 子ダヌキは、「キュー」と鳴き声を上げると、恐るおそるといった様子で近づいてきた。

 しゃがみこんで右手を伸ばしたまま、桃子は優しげな眼差しで子ダヌキを見つめていた。

 子ダヌキは桃子の傍までやってくると、掌の上のクッキーに鼻先を近づけて、クンクンと匂いを嗅いでいた。

 意を決したように、子ダヌキはクッキーをパクリと咥えると、サッと身を翻して駆け出し、そのまま草陰の中へ姿を隠した。

「またね、子ダヌキさん!」

 桃子は草陰に向かって手を振った。  

 その日から、桃子が森の中を散歩する度に、子ダヌキが現れるようになった。その度に桃子は、こっそりとポケットに忍ばせたオヤツのクッキーや菓子パンをあげた。

 いつしか子ダヌキは、「キュー」という可愛らしい鳴き声を上げながら、直接、桃子の掌の上で食べるようになった。そして、散歩の間は桃子の傍から離れず、ずっと一緒に歩き回った。

 両親がおらず、養護施設で暮らしていた桃子にとって、子ダヌキと過ごす時間はどんなに心安らぐものだったろう。

 しかし、ある日、森の散歩に出かけようとした桃子は、施設の先生に見つかり、こっぴどく叱られた。それ以来、桃子は森の中に入ることを固く禁じられた。

 今から思えば、年端もいかない女の子が一人で、鬱蒼(うっそう)とした森林に入るのはやはり危険だったろう。しかし、その当時の桃子にとって、森の中で子ダヌキと一緒に散歩できなくなったことは、とても悲しく寂しいことだった。

 幼い日の桃子は、ときおり部屋の窓から森林のほうを見つめながら、−−子ダヌキさんはどうしてるんだろう−−と、つぶらな瞳を涙で滲ませていた。

 それから一年が過ぎたある夏の日、嵐がやってきた。

 吹きすさぶ風と叩きつけるような雨に、施設の子供たちは部屋で大人しくしているようにと、施設の先生から命じられた。

 先生たちは、施設の体育館や教室の窓ガラスに内側からガムテープを張ったり、屋外の設備を紐で縛り付けたりと、予想を超える台風の勢いに、てんてこ舞いで対応していた。

 桃子は自分の部屋の窓から外をじっと眺めていた。森の木々の梢が激しく左右に揺れている。

−−子ダヌキさんは大丈夫だろうか−−

 ふと、そんな思いが過ぎった。

 その時、突風に煽られた小石が窓ガラスに当たった。ガシャンと音がして、ガラスにヒビが入った。

 桃子は慌てて窓から離れると、ベッドの上で頭から布団をかぶった。

 ビュービューと吹きすさぶ風はどんどん勢いを増していく。ガラス戸が悲鳴を上げるように、ギシギシと甲高い音を立てていた。

−−こわいよう……−−

 桃子は布団の中で震えていた。

 すると、『桃子ちゃん、大丈夫だよ』という声が胸のうちに響いてきた。

 ハッとして布団から顔を出して窓に目をやった。

 窓ガラスの向こうに子ダヌキが顔を覗かせていた。その頭の上には輪っかのように銀色の毛が生えている。

 子ダヌキは後ろ足で立ち上がると、緑色の葉っぱを頭の上に載せて、両手の掌を組み合わせた。

 すると、フッとロウソクの火を吹き消すように、窓ガラスのヒビが瞬時に消え失せた。

「あっ!」

 思わず桃子が声を上げると、子ダヌキは窓ガラス越しに桃子の方へ顔を向けた。

『桃子ちゃん、危ない時には必ず助けてあげる。約束するよ』

 涼やかな声が桃子の胸のうちに響いた。小学生ぐらいの男の子の声のように思えた。

 桃子はコックリと頷きながら、「うん。ありがとう、タヌキさん」と呟いた。

 次の瞬間には、子ダヌキの姿は消えていた。


 清四郎が幼い頃、万に一つの僥倖で命が助かった、と九一郎爺さんが言っていた。

 それは桃子との出会いだったのだ。


 フローリングの上に横たわっているタヌキを、桃子が抱き上げた。桃子の胸元で、タヌキは苦しげに鼻を鳴らしていた。

「しっかりして、タヌキさん」

 桃子は、タヌキの頭に生えている銀色の毛をそっと指先で撫でた。

「そのタヌキ、私が預かりますわ」

 ふいに背中越しに声が聞こえた。

 桃子が振り返ると、真後ろに和服姿の女性が立っていた。

 それは凪子だった。

「あの、あなたは……」

 首を傾げながら、桃子は眉根を寄せていた。

「心配ないですわ。きっと助かります、清四郎は」

 凪子が手を伸ばして、桃子の胸元からタヌキを抱き取った。

 タヌキを胸に抱いた凪子は桃子に背を向けると、無言のまま玄関から外に出た。

「待って!」

 凪子の背中に向かって桃子が叫んだ瞬間、

『桃子ちゃん、ありがとう。あの時、助けてくれて』

 と、桃子の胸のうちに清四郎の声が響いた。

 いつの間にか凪子の姿は消えており、玄関口には赤い夕陽が射し込んでいた。

「タヌキさん、約束を守ってくれたんだね……ほんとにありがとう、清四郎さん」

 桃子の瞳から大粒の涙が(こぼ)れ落ちた。頬を(つた)う涙の筋が夕陽を反射してキラキラと輝いていた。

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