【エピローグ】 勝負師のDNA
僕の突然の引退は大きなニュースになった。
実働八年での引退表明は、様々な憶測を呼んでスポーツ紙上を賑わせている。
一昨日から家の電話も携帯も鳴りっぱなしだった。そして麻衣子の携帯も。
だからつい数時間前、僕は麻衣子と一緒に新しい携帯を購入してきた。ま、連絡手段がなくなると何かと不便なので。
僕の引退については球団側も寝耳に水だったらしく、年俸を含めた好条件を提示してくれて翻意を求めてきたが、僕はそれを丁重に辞退した。
結局、僕は任意引退扱いになった。当然、他球団に行くつもりもなかったから全く問題なく、僕はそれを受け入れた。
僕の周りの人たちは口々に言った。「なぜ?」と。
しかし僕としては当然の幕引きだと思っていた。
僕が引退を表明した前日、荒井英至がユニフォームを脱いでいた。もっとも既に現役を退き、監督としてチームを率いていたのだが。
三連覇を目指していたものの序盤から躓き、最終的には十年ぶりのBクラスに転落したことでの引責辞任……つまり解任だ。
荒井英至のいないこのチームに、僕はそれほど魅力を感じなかった。
そして海の向こうでは、僕にとって唯一ライバルと呼べる存在が現役生活に別れを告げた。
幼い頃から追いかけてきた背中は、もう僕の手の届かないところに行ってしまった。
やっぱり……僕の引退は必然だった、いまさらながらにそう思う。
***
「本当に未練はなかったのか? まだまだやれるだろ」
近藤はさっきから納得がいかない表情で僕を窺っている。
この人は昔からお節介な人だった。初めてあったときにも説教じみた話を延々と聞かされた記憶がある。
「未練はないですよ、まったくと言っていいほど。何時辞めても良かったんです」
「やっぱり藤堂か?」
近藤は僕とは目を合わせずに言った。
「そうですね。きっと縁がなかったんでしょう」
僕はふっと微笑むと、それを隠すようにグラスを口元に運んだ。
僕らは渋谷にいた。
某電鉄会社系列のホテルにある和懐石の店……ここは僕の行きつけの一つであり、荒井英至によく連れてきてもらった場所でもあった。
プロとはどうあるべきか――。
荒井英至は、よくこの場所で僕を相手に語っていた。
彼が、酒が入ると結構「諄い人」になると言うことは、入団して程なく思い知らされた。
それでも僕が彼の酒席に必ず付き合ったのは、彼の持つ野球哲学と僕の持つそれとが妙に符合していたし、なにより僕は『荒井英至』という生き様に憧れていた。
僕のなかで荒井英至は憧れであり、夢を具現化した或る意味アンタッチャブルな存在でもあった。
そんな彼と野球について語り合うとき、僕は何とも言えない昂揚感を覚えてた。
「おれは未だに納得できん。なぜ辞める必要があるのかどうしてもわからない」
近藤はそう言って何度も首を振った。
僕は彼の顔を窺った。
近藤もまた、かつてプロを目指していた男だった。その話は以前、僕が野球への情熱を失いかけていたいた頃に聞かされた記憶がある。
「小さい頃、僕はプロ野球選手になりたかった」
近藤さんと同じですね――。
「夢は叶ったじゃないか。おれと違って」
近藤はふて腐れたように呟いた。
「まあそれはそうなんですが……僕は荒井英至と勝負がしたかったんですよ。一応、それがプロを目指した理由です」
小学生の頃の話ですけどね――。
「すりゃあよかったじゃないか。他の球団に行ってりゃ対戦することもあったのだろ」
「ええ。ですが……荒井英至は歳を取りすぎていました。生意気に思われるかもしれないですけど、あの頃の荒井英至は僕の知る彼ではなかった」
「そりゃそうだろう。だいたい杉浦とじゃ歳が違いすぎる」
「ま、年齢についてはわかってたコトではあるんですけど」
僕は苦笑いした。
「僕はあのとき"人は与えられた季節の中でしか生きられない"ってことを知りました。いくら望んでも絶対に叶わないものもあるんですよ」
「だが、同時期に全盛を迎えていたとしても対戦が叶わないこともある……そういうことでもあるんだろ?」
近藤は言ったが、僕は何も答えなかった。
テーブルに酒が運ばれてきた。〆張鶴だった。
それは荒井英至が好きな酒で、以前はこの酒を買いに行くためだけに、新潟まで車を走らされたことがあった。
往復の車中でも彼の話は野球ばかりだった。僕はこの頃から「荒井監督」のもとでプレーする自分の姿が想像できるようになっていた。
「贅沢なもんだな――」
近藤がグラスを二つ並べて酒を注いだ。
「順調過ぎるとそんな感じになるのか? おれには理解できんな」
酒の満たされたグラスを僕の前に置くと、近藤は吐き捨てるように言った。
「順調だったかどうかはわからないですけど……なんのために野球をやってるんだろうと思うことはありましたよ」
僕は息を大きく一つ吐くと、口元を弛めた。
「もちろん好きだからということに間違いはないんですが、それだけならもっとラクに野球ができる環境だってあります。カネのためかと言われればそれもあるんだとは思いますけど、それだけじゃ中学や高校時代にやってたことの理由にはならない。で、気付いたんです。結局は僕はいつも誰かと勝負してたんです。常に誰かと比べていなけりゃ自分の立ち位置すら見つけることができなかったんですよ」
「それが荒井であり、藤堂の兄貴だった……てことか?」
ええ――。
僕は小さく頷いた。
「荒井英至がケガで戦力外になったとき、僕は子供ながらに絶望してまして……そんなときに目の前に現れたのが藤堂さんでした」
僕はあの頃を思い出し、小さく笑った。
「あの人は凄かったです。技術的なことも当然ですが、打席での佇まいっていうかオーラというか……とにかく他人とは違う何かを感じさせてくれました。そしていつの頃からか思うようになったんです。この人をどうやったら抑えることができるんだろうと。僕はいつでも打席に立つ藤堂さんをイメージして――」
マウンドの僕はいつでも彼の存在を意識していた。
彼が僕の後ろで守っているときでも、僕は打席に入った"仮想・藤堂純一"と戦っていた。
彼ならこのボールをどう打つのだろう、このボールは彼を相手に使えるのだろうか……そんなことばかり考えていた。
「そのライバルもユニフォームを脱ぎました。そして荒井英至も――。もう僕がユニフォームを着続ける理由はなにもないです。ココには僕の居場所がもうないんですよ」
それが偽りのない、いまの僕の気持ちだった。
「よくわからんな」
近藤は投げやりに言った。
「岡崎じゃだめなのか? 安藤だって吉村だって用田だって……それに藤堂の弟だって。あいつらも紛れもなく実力者じゃないか」
「いや、だめなワケじゃないんですよ」
近藤の強い口調に僕は苦笑いした。
「ただ……あいつらは努力を見せ過ぎなんですよ。そういうの、少し苦手なんですよね……根が優しいもんですから」
僕は少し戯けて首を竦めた。
「それに比べて藤堂さんは僕の前ではいつでも飄々としていました。もちろん見えない努力はあったはずなんですけど、少なくとも僕にそれは見せなかった。決して弱みを見せるようなことはなかった。追いついたと思っても、また先に行ってしまう。常に僕は彼の背中を追っていたんです」
僕の言葉に近藤は渋々といった感じで頷いた。
「その藤堂さんが引退を決めたと聞いたとき、僕の中でなにかが切れてしまったみたいです。もう僕は以前と同じ気持ちでマウンドに立てそうにないです」
僕には迷いはなかった。
選手生活との別れは、僕にある種の爽快感を与えてくれていた。
「そんなことより、これからどうするんだ?」
近藤は僕を窺ったが、僕は何も答えなかった。
僕はあるところから誘われていた。
ある高校からコーチ就任の要請を受けていた。
当然プロアマ規定があるから「即」ってわけにはいかないが、待たされるのは慣れてるし、遠回りも悪くない。
僕はいま、甲子園に行きたかった。
そしてそれは、中学そして高校時代に交わした約束でもあった。
藤堂さんはメキシコで指導者の道を歩き始めた。
だったら僕は日本で、やはり指導者を目指してみようと思う。
そして、まだ見ぬ教え子たちに僕の夢は委ねたいと思う。
幼い頃、僕らがサンディエゴで交わした約束――。
僕らが選手として対戦する機会はとうとう訪れなかった。
だけど、いつか僕と藤堂さんの意思を受け継いだ誰かが「陽の当たる場所」で真剣勝負を繰り広げてくれたら――。
「杉浦――。」
近藤に呼びかけられ、僕は顔を上げた。
驚いたような近藤の表情は、やがて優しい笑顔に変わり、僕から目を背けた。
同時に頬を伝う感触……気付かぬうちに、僕は泣いていた。