終幕
つい何日か前、メキシコ時代の友人から電話があった。
かつて僕がお世話になったチームのGMをしている彼とは年に数回電話で話をする間柄だ。
ちょっとお調子者で涙もろいところもある奴だったが、いまではGMとして意外な才覚を発揮していた。
昔から語学が堪能(?)だった彼は、数多の優良外国人選手を発掘して、チームをリーグ屈指の強豪に仕上げつつある……人って変わるものだ。
そんな彼も、五歳年下の奥さんにだけはまったく頭が上がらないらしい。
僕との電話でも必ず日本語で泣き言をこぼして……だから「結婚する」とか言い出したあのとき、「悪いことは言わないからやめとけ」とアドバイスしたのに……。
まあ話が逸れたが、彼は電話で嬉しそうに言った。「藤堂が帰ってくるよ」と。
正直言って僕には意味がよく判らなかった。
現役メジャーリーガーである藤堂さん。その彼がいまになってメキシコに戻るという状況がよく理解できなかった……今朝の新聞を目にするまでは。
藤堂引退へ――。
見出しの太い文字を僕は不思議な気持ちで眺めていた。
記事の全文を、隅々まで縋るような気持ちで追ったが、内容はあまり頭に入ってこなかった。
ただ「藤堂」というのは紛れもなく僕のよく知る「藤堂純一」のことであり、いまの僕にとってただ一人のライバルと言える存在だった。
昨シーズン故障した右手首の具合が思わしくなく、回復が見込めないこともあり――。
と記事は綴られていた。
そういえば、彼の右手首の故障については僕も聞いたことがあった。
たしかメキシコに行って二年目のシーズンに痛めた古傷だ、と……。
まったく……あの家系は手首が弱いに違いないな。
***
「杉浦――。お呼びだ」
ブルペンコーチの倉科が親指を立てた。
僕は彼に向かって軽くOKのサインを送ると、ブルペンのマウンドから最後の一球を投げ込んだ。
そしてアンダーシャツを着替え、後輩から渡されたカップの水を一息に飲み干した。
「ランナーは二人出てる。岡崎に回るぞ」
倉科はモニターを一瞥して嬉しそうに呟いた。
「楽勝スね」
僕は帽子の型を整えて被り直すと、倉科を振り返り「サクっと片づけて来ますよ」と親指を立てた。
ブルペンから足を踏み出した瞬間に湧き上がる怒号と歓声。
カクテル光線の眩しさに目を細め、観客席を仰ぎ見た。
これから始まる奪三振ショーを期待する歓声と、チャンスの芽を摘みに来た僕に対するブーイング。
僕はスタンドからの視線を一身に集め、意識して悠然とマウンドに上った。
先発投手として、入団以来、昨シーズンまで続けてきた二桁勝利。
しかし、今シーズンはチーム事情によりクローザーを任されている。
元々は開幕早々に故障したクローザーが戻るまでの代役、暫定クローザーのハズだった。
だが今日は最終戦。
結局元メジャーリーガーだというクローザーは、このマウンドに戻ってくることはなかった。
ピリピリとした緊張感の中で投げるのは嫌いじゃない、寧ろ好きな方だ。
そう言う意味ではクローザーという仕事は性に合っているのかもしれない。
しかし、いつ出番があるのかわからない今の仕事は麻衣子には不評だった。
だから来年はこの役目を引き受けるつもりはまったくない。
「頼むぞ、杉浦――。」
投手コーチの広田がボールを僕に差しだしてきた。
「問題ないスよ。準備はできてましたから」
広田は満足そうに頷いた。
九回の表、一点ビハインド――。
本来なら僕が登場する場面ではない。
しかしシーズンの最終戦、既に優勝を逃して四位に甘んじている現在の状況からすれば、ベンチとしても意地をみせたい場面でもあるのかもしれない。そしてなにより勝ち越しの掛かった大事な試合だ。
いつものようにステップの位置を確認し、スパイクで掻き均し、ゆっくりとウォーミングアップを始めた。
相手のベンチ前には岡崎が立っていた。
奴は強い視線を僕に向けてきていたが、僕は敢えて気付かないふりで規定の投球数を投げ終えた。
キャッチャーの亮がマウンドに駆け寄ってきた。
それに釣られるように内野陣がマウンドに集まってくる。
しかし、いまさら確認することなんてナニもなかった。
この場面で僕がマウンドに上がったことの意味。つまりベンチは一点もやりたくないってこと……。
僕はベンチを窺った。
険しい表情で腕を組む監督と、その奥の方にはタオルをすっぽり被って俯く大沢の姿があった。
今日先発した大沢は、本調子にはほど遠かったもののココまでなんとか一失点に抑えてきた。
しかし最終回に連続ヒットで無死一、三塁となったところで降板していた。
大沢のことだから落ち込んでいるというより、交代を命じられたことに憤ってるのだろうが。
「じゃ、しまってこ――」
広田が手を叩き、内野手がポジションに散った。
「広田さん――」
ベンチに戻り掛けた広田を呼び止めた。
「あの根性なしに、よく見とけ! って言っておいてください」
監督にもね――。
僕がベンチをアゴでさすと、広田のぎらついた眼が一瞬だけ緩んだ。
球審のコールに合わせ、僕は亮を窺う。
亮の要求はアウトコースの速球。
内野ゴロもご勘弁願いたいこの場面、緩いボールは使いにくい。
僕は軽く頷くとセットに入り、三塁に擬投してから素早く一塁にボールを送った。
――セーフ!!
一塁ランナーは頭から塁に戻った。
僕は軽く首を傾げた。タイミング的に刺せたかと思ったんだが。
もう一度サインを窺う――変更はなし、と。
僕はゆっくりとセットに入り、肩越しに一塁ランナーを見ながら一球目を投じた。
ストライク。
アウトコースのボールを打者はあっさりと見送った。
僕は亮からの返球を受け取ると、打者、走者、そして相手のベンチを順に窺った。
九回の表、無死一、三塁。
一点はリードされてるとは言え、もうこれ以上点はやれないという、どこからどう見ても危機的な状況――。
だけど、今日の僕はいまひとつ乗り切れていない。
いつもならジリジリとした緊張感が背中を駆けめぐるのに、今日に限ってはそれがない。
二球目のサインに頷きセットに入る。
正面の三塁ランナーと暫し目が合う……そのままクイック気味に投球に入った。
二球目もストライク。
ここで亮がタイムを取り、マウンドに駆け寄ってきた。
僕はグラブを嵌めた左手を腰に当て、マウンドから亮を見下ろした。
「なによ?」
「それはコッチの台詞だろ。どっか悪いのか?」
亮は口元をミットで隠していたが、その目は笑っちゃうくらいに険しかった。
「……べつに。いたって普通だよ」
「じゃあどうしたんだよ。ゼンゼン来てねえぞ」
亮は不満そうだった。
「なるほど。ボールが来てない、か――。」
亮の言葉を確認するように反芻し、小さく頷いた。
「弱ったな、それは」
僕は深刻そうなフリをして、顔を顰めた。
「おまえさ……本当にふざけてる場合じゃねえからよ。頼むぜ、マジで」
亮はそう言うと、ミットで僕の尻を叩いて戻っていった。
僕は天を仰ぎ、息を吐いた。
〈さてと……ホントにどうすんべえか――。〉
ブルペンからこんな感じだった。
どうも気合いが入っていない。
冷静でいられている証拠なのかと思ったが、どうやらそれとも違うらしい。
マウンドに上がってさえしまえば、いつもの自分に戻るはずだと思っていた。
しかしスイッチが切り替わる様子はない。
こんな感覚はいままでなかった。
気持ちが湧き上がらない。
寧ろどこか冷めてしまっているようで……。
視線を巡らすと、ネクストバッターの岡崎が僕の方を見ているのに気付いた。
目が合うと、奴は不敵に微笑んだ。まるでこれから始まるショータイムを楽しみにしているかのように……。
「……なんだ。そういうことか――。」
僕は目を逸らし、そのまま視線を落とした。
そしてマウンド上で、小さく笑った。
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その年のオフ、海の向こうで一人の日本人メジャーリーガーが静かにバットを置いた。
中学卒業後、単身海を渡った彼の引退報道は、アメリカのみならず日本球界をも駆けめぐった。
そしてその二日後、日本球界にさらなる激震が走った。
かつて逆輸入右腕としてプロ入りし、球界を牽引してきた剛腕投手が突然の引退を表明した。
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