in the name of love
本当にいいのかよ? 滅多にないチャンスなんだぞ――。
藤堂さんは僕の帰国をとても残念がっていた。
僕はアメリカ行きの誘いを断り、日本に戻ることを決めた。
結局、僕らが約束していた対戦が実現することはなかった。
僕の選んだ道が正しいのかと問われれば「わからない」としか答えようがない。他の選択をしてこなかったのだから。
ただ、行き当たりばったりだったように思えるのは、たぶん気のせいじゃない。
高校野球の強豪私学へ進んで野球をする道を選び、僅か数ヶ月で挫折を味わったかと思えば、野球と決別するつもりで選んだ弱小公立高校では逆に野球を再開した。
高校卒業とともにメキシコに渡った。中学生のころの朧気な夢を追っかけて。
そして三年目のシーズンにメキシカンリーグ優勝と最多勝、ウインターリーグでもチームの優勝に貢献し、カリビアンシリーズ出場を果たした。
エージェントを名乗る人たちが僕の元へやってくるようになった。
閉ざされていたはずの僕の野球人生に光明が差してきた。
そして、いま―――
「あんた、麻柚ちゃんには電話したの?」
母は僕の方を見ようともせずにそう言った。
「……しました。」
僕はため息混じりに言った。
母は相変わらずだった。
久々に帰ってきた息子に対してどうしてそんなに冷たくできるのか……まあ、僕が伸ばした無精髭が気に入らないのは間違いなさそうだ。自分では悪くないと思っているんだけどな。
僕は窓の外へ目をやった。
そこにはRZが置きっぱなしになったままだった。
『餞別にあげるわ。向こうには持って行けないでしょうけど』
僕が実家に戻る日、幸子はそう言ってRZをくれた。
ボロバイクだったが、僕の高校生活のほとんどが詰まっている。いわば宝物みたいなもんなんだが――――
あれ……?
三年間も置きっぱなしだったワリに、それほど埃をかぶっていない。
「ああ、オートバイ?」
母が言った。
僕の視線の先にあるRZに気付いたようだ。
「お父さんがたまに乗ってたのよ」
「ふ~ん。バイクなんか乗るんだ」
知らなかった。少し意外な感じがするけど。
ふと時計を見るとまだ十一時十分を回ったところだった。
時差のせいか時間の感覚に若干のギャップがある。だがそれとは関係なく、間違いなく腹は減っている……。
僕は立ち上がると、階段を駆け上った。
ブルゾンを羽織って再び居間に戻ると「ちょっと出掛けてくる」と言い残し、玄関にあったフルフェイスとキーと掴み上げた。
「麻柚ちゃんのところ?」
そんなわけねえだろ、僕は思ったが口にはせず「今日中には帰ってくるから」とだけ告げ、ドアを飛び出した。
RZに跨り、キーを挿す。
久しぶりに被るフルフェイスはきつかった。決して太ったワケではないのになぜかキツク感じる。
キックでエンジンを掛ける――。
相変わらず安定しないアイドリングもなんだか懐かしい。
僕は久しぶりの感覚を楽しみながらアクセルを軽く吹かすと、明治通り方面に向かって走り出した。
向かった先は築地だった。
うどん屋の前の路上にバイクを停めた僕は、人ごみを掻き分け市場の奥へと進んだ。
〈おお。まだあるじゃんよ――。〉
そこには、以前と変わらない鄙びたカウンターがあった。
手書きのメニューも昔のまんまだ。
僕は見覚えのある親父の前に座り、ネギトロ丼を注文した。
程なく目の前に出てきた懐かしい味……僕は涙が出そうな感覚に戸惑いながらネギトロ丼を頬張った。
築地を出て、万年橋のそばの公衆電話に立ち寄った。
記憶の中にある番号をプッシュし、短い用件を伝えると受話器を置いた。
そしてフルフェイスを被ると再び走り出した。
僕の選択してきた道が正しかったのかというと、やっぱりよくわからない。
ただ振り返ってみると、いつも僕の思惑とは違う方違う方へと物事が進んできたような気がして……いつかじっくり検証してみたいと思う。
いつのころからか僕が感じていた漠然とした不安。そして渇きに似た感情――。
メキシコに行けば『それが何なのか』がわかるような気がしていた。
自分がなんの為にココにいるのか……環境が変わればその答えも出るような気がしていた。
でも、答えなんかとっくに出ていた。僕の欲求は至ってシンプルなものだったんだ。
僕はバイクを走らせた。
さっきから心臓が早鐘を打つように暴れている。
自分でもその理由は分かっている。
汗をかいた背中を風が撫で、僕のカラダから熱を奪っていく。反対に頭と心は火照りっ放しだった。
国道一号線から離れ、遊行寺の坂を下り切り、藤沢駅のガード下をくぐって海を目指す。
見慣れた景色が通り過ぎていく。
セピア色の記憶が次第に色付いていく。
路面を走る江ノ電を軽快に追い越したとき、目の前にキラキラと輝く湘南の海が出てきた。
気の早いサーファーたちが屯する国道の喧騒に紛れ、僕は路肩にRZを停めた。
僕は稲村ガ崎にやってきた。
国道から砂浜へと続く階段を降り、いつかそうしたように堤防に腰を下ろして海を眺めた。
海は穏やかだった。
季節はずれの海岸は人の姿も疎らで……季節は違うが、あのときを少しだけ思い出させてくれる。
僕はずっと考えていた。
いったい彼女はいつから気付いていたんだろう……つうか何で僕は気付かなかったんだろうと。
僕は頬を弛めた。
たぶん初めて……いや、二度目に会ったあのファミレス。
あのときから彼女は気付いていたのだろう。
まったく麻衣子も人が悪い。
気付いてたんなら教えてくれたっていいのに――。
僕は懐から帽子を取りだし、型を整えてからそれを目深に被った。
そして頭の後ろで手を組むと、目を閉じてそのまま後ろに倒れた。
波の音が耳にやさしかった。潮風が頬を撫でていく感触が妙に懐かしい。
ふと耳元で砂の擦れる音がした。
僕は帽子のつばをあげた。
眩しさに細めた僕の目に映ったのは、懐かしい彼女の顔だった。
「……ごぶさた。」
僕は寝ころんだまま頬を弛めた。
「あれ……髪、切ったか?」
僕のイメージではもっと長かったような――
「まったく……」
彼女はあからさまな態度でため息を吐いた。
「もっとさきに言うことあるでしょ?」
そう言って隣に腰を下ろすと、僕の顎に手を伸ばし「似合わない」と眉を顰めた。
僕はほっとしていた。
久しぶりにあった麻衣子は変わってなかった。
彼女は僕の知ってるとおりの麻衣子のままだった。
それにしても……
彼女と会ったら話したいことがたくさんあったはずなんだけどなんも出てこない。まったく困ったもんだ。
僕は体を起こすと砂浜に降りた。
そして彼女を正面から見据えた。
僕を見返してくる黒目がちな瞳……面影があるといえばそれくらいか。
「ちょっとぉ。失礼じゃない? 人の顔見て笑うなんて」
口を尖らせた彼女から目を逸らし、僕はまた口元を弛めた。
そして海に視線を伸ばした。
「おれ、野球やっててさ――」
僕は独り言のように呟いた。
「知ってる。その話」
彼女は僕の言葉を遮った。
「だって、二回も聞かされたから」
その顔には勝ち誇ったような微笑が浮かんでいる。
「まあ……そう言うなよ」
僕は苦笑いした。
まったく……女は変わりやがるからな。
僕は帽子を取った。
「これ、やるよ」
被ってた帽子を彼女の頭に乗せた。
メキシコで優勝の瞬間に被ってた帽子……正真正銘、プレミア付の帽子だ。
「お~やっぱ似合ってんわ」
僕は笑った。
彼女ははにかんだような微妙な笑顔を浮かべた。
まるで初めて僕らが出会ったあのときのようだった。
「でも……、あの話には続きがあってさ――」
僕は笑った。
そして話した。
まだ誰にも話したことのない夢……僕の心に留まっていた彼女への想いを。