Liga Mexicana de Béisbol Ⅴ
「まったく、アイツは何を考えとるんだ!」
斎藤は苦虫を噛みつぶしたような顔で吐き捨てた。
「まあ、たぶん彼に彼の考えがあるんだと思いますよ」
「だからといってわざわざここまで来たってのに――」
斎藤の怒りは収まりそうになかった。
秋山と野村は顔を見合わせ苦笑いを浮かべた。
彼らはメリダ市内のホテルのバーにいた。
メキシカンリーグの日程終了にあわせてメキシコにやってきた彼ら。
その狙いはひとつ、杉浦を日本に連れて帰ることだった。
杉浦を極秘裏に帰国させ、京葉工科大の施設内で調整をさせ、今秋のドラフトで電撃指名――。
それが斎藤の描いたシナリオだった。
杉浦を希望球団に入団させる最良で最短のシナリオだった。
だが杉浦はウインターリーグに参加するつもりだといった。
ウインターリーグは十月末に開幕する。ドラフトの時期にはシーズンの真っ最中だ。
だとしても形式的にはドラフトで指名することは不可能ではない。
しかし仮にプレーオフに進出すれば一月末まで、優勝してカリビアンシリーズに進出すれば二月の半ばまではチームに拘束されることになる。
そんな選手を指名するのはリスクがあるし、しかも「引き抜き」という負イメージがつきまとってしまう。
斎藤は翻意を促したが杉浦は聞き入れなかった。彼の意思は固かった。
「まったく……あの頑固モンはどうにかならんのか」
斎藤は呆れたようにため息を吐き、そして肩を落とした。
「あいつは一年を棒に振るつもりなのか? どっちが得なのかは考えなくてもわかりそうなもんだが――」
「損得で動ける奴なら、もっと上手いことやってるでしょう」
はじめからこんなところには来ませんよ――。
野村は笑った。
「でも――、惜しいですね」
野村が呟いた。
「何がだ」
「杉浦ですよ。カネになるんですけどね」
野村は秋山に目を向けた。
「ま、今回は君に譲ることにするけどね」
そう言って爽やかに微笑んだ。
***
僕らはメリダから離れ、西の端の港町にきていた。
アメリカをはじめとする色んな国から修行そして出稼ぎの場を求めて選手が集まってくるメキシコのウインターリーグ、リガ・メヒカナ・デル・パシフィコ――。
ココに参加するのは三度目だった。
僕は昨年、アメリカのマイナーの選手からシンカーを教えてもらった。
一昨年はMoving fastballという打者の手元で動く球を教えてもらった。
毎年ココでは新しい発見がある。
本気で上だけを見ている選手たちの、妥協のない一体感が僕は好きだった。
そして今シーズン、僕らのチームはココまで首位を走っていた。
ココを勝ち抜ければ、Serie del Caribe (カリビアン・シリーズ)に出場できる。
そこには当然、中南米の更に凄い奴らが集まってくるはずだった。
僕は便せんに走らせていたペンを止め、宿舎の窓から外を眺めた。
真っ直ぐに西に延びるこの通りの先には海がある。
そこにはフェリー乗り場があり、バハ・カリフォルニア半島の南端の街・ラパスまで運行しているはずだった。
僕はラパスまではいったことがない。
いつか行ってみたいとは思うが、いまの過密日程では時間が取れそうにない。
そういえば彼女は船が好きだったはずだから、いつか彼女を連れてきてもいいかもしれない。
まあ、いつになるのかはわからないけど。
僕が日本を離れてからもうすぐ三年が経つ。
コッチでの生活にも慣れたし、居心地は決して悪くない。
仲間にも恵まれたし、環境は申し分ない。
でも、何かが物足りなかった。
マウンドでの緊張感、強打者たちとの真剣勝負、そして僕を包み込む歓声――。
そして今季のL.M.BでMVPを獲得し、先発投手のタイトルを総なめにした今、僕の周囲は俄に、でも確実に慌ただしくなってきていた。
もう一度表舞台に立つという夢は既に叶いつつあった。
だけど、ココには麻衣子がいなかった。
僕のスバラシサをどう説明しても理解してくれなくて、毎回『今日の試合はどうだった?』と意味もなく微笑みかけてくれる彼女がいなかった。
めんどくせえな、と思いながら試合の報告をしてたあの頃が懐かしい。
聞いてるかどうかさえ怪しいもんだったが、僕にとってそれはあまり重要ではなかった。
そして僕には、彼女に会ってどうしても確かめたいことがひとつだけあった。
―――――――――
お元気ですか?
僕の方は相変わらず何とか元気でやっています。
早いもので、こっちにきてからもう丸三年になります。
そして……突然ですが、キミへの近況報告もこの手紙が最後になりそうです。
いつかキミにも話したとおり、僕はプロ野球選手になることが夢でした。
プロとしてマウンドに上がり、そこで勝負したい人たちがいたからです。
だから僕は上を目指してきました。ただひたすら上だけを見て……そのために犠牲にしてきたものも少なくありません。
まあ、キミに言わせれば、キミこそがまさに犠牲者だったのかもしれませんが。
現在、僕らのチームは優勝を狙える位置にいます。そして僕らの現在の目標はカリビアンシリーズ出場です。
その目標が達成できたら、僕は日本に帰ろうと思っています。
先日、たまたまコッチに来ていた日本の大学の関係者と会いました。
その人から大学で臨時コーチの話をいただきました。
帰国して、ソコで練習させてもらいながら、さらに上を目指そうと思っています。
もちろん今度は日本の国内で……。
春になればキミも四年生でしょうから何かと忙しいのかも知れません。
でも、帰ったら真っ先に連絡します。
で、忙しくないようだったらメシでも食いにいきませんか? 七里ガ浜に美味しい店を知っているので……。
もちろん無理にとはいいません。
何れにしても春にはキミにいい報告ができたらな、と思っています。
では、会えることを楽しみにしています。
―――――――――
「……あとひとつ」
僕はマウンド上で呟いた。
二対〇――。
リードして迎えた最終回の守りも既にツーアウト。
ボールカウントはツーストライクワンボール。
打席に入っているのはロベルト・ゴンザレス。
今シーズンのL.M.Bで、ホームランと打率の二冠を獲得している好打者だったが……僕は彼に打たれた記憶がまったくない。
いわゆる「カモ」にしていた。
僕一度プレートをハズすと、帽子を取り、大きく息を吐いた。
そしてスコアボードに視線を這わせ、自チームの選手の名前を一人ずつ頭の中で呟く――。
緊張したときに自分を落ち着ける『おまじない』みたいなもの。
とは言っても、いまの僕はまったく緊張していない。
優勝を目の前にしても、自分でも驚くくらい平静だった。
打たれるわけがない――。
図々しいぐらいの自信に満ちている。
じりじりとした緊張感の中で投げられる喜びで背中がゾクゾクする。
以前のようなピッチングマシーンじゃない。
僕は生身の感覚を楽しんでいた。
スタジアムは不安定な静寂に包まれていた。
これから来る歓喜の瞬間に備えるように、満員の観衆が僕らを見守っていた。
狂喜の瞬間が訪れるのを待ちわびていた。
マウンドから見下ろした打席のゴンザレスはバットを小刻みに揺らしている。
心なしかいつものような威圧感がない。
僕は唇を舐めた。そしてゆっくりと投球モーションに入った。
//……Batea Roberto González en la cuenta de dos strikes y una bola, un paseíto fuera del box. El derecho Masaru Sugiura, se coloca de espalda al home. Ya va entrando de frente a la lomita buscando la seña Se lleva las manos sobre la cabeza, impulsa, viene el lanzamiento……González saca fly por tercera base, esto se va a acabar, se acaba―――//
乾いた打球音が響いた。
三塁手がファールグラウンドに動き、足を止め、グラブを頭上に掲げる。
そして…………打球は音もなく、三塁手のグラブに吸い込まれた。
//――――――!!! i se acabó el juego de pelota !, i una impresionante victoria del equipo―――//
その瞬間、スタジアムは歓喜と怒号に包まれた。
狂喜が爆発し、歓声がうねりとなって僕らを呑み込んだ。
ベンチを飛び出してきた仲間たちがマウンドに駆け寄ってくる。
何重にもなった選手の輪――。
僕はその中心で拳を強く握りしめた。
そして大観衆を鼓舞するように高く拳を突き上げた――。
***
L.M.Pを制してマイアミに乗り込んだ僕らだったが、Serie del Caribeではその栄冠を勝ち取ることはできなかった。
僕のメキシコでの三シーズン目はこうして幕を下ろした。
スプリングトレーニングが始まる前日、僕はメリダに戻り、オーナーとマリセラ、そして監督のリカルドと会食した。
球団には、去年のうちに代理人を通して退団の意志を伝えてあった。
彼らの話す言葉のほとんどを僕は聞き取ることができなかったが、最後にリカルドが「ありがとう」というようなコトを言ったのはわかった。
リカルドには怒鳴られてばかりいたので正直驚いた。
マリセラは泣きじゃくっていた。
オーナーは僕に目を向け、困ったように首を竦めていた。
優勝が嬉しかったからなのか、僕の退団が悲しいからなのか……彼女が泣く理由はよくわからない。
ただ、彼女の言葉を理解してあげられない自分がもどかしいと、このときはじめて思った。
そしてメキシコを発つ朝、宿舎にはタイラが迎えに来てくれいた。
「おはよう。杉浦」
彼はいつもと同じようにそう言い、僕もいつものように右手を掲げた。
ただいつもと違っていたのは、少し朝が早いと言うことだった。
本当はココの仲間たちに挨拶をしてから行くべきなんだが……ちょっと照れくさいし、最近は涙腺が弛みがちだからやめておいた。
代わりに宿舎の食堂のテーブルにメモを残した……当然、日本語だったが。
タイラの運転するクルマは、Colonias-Calleを南に向かっていた。
スタジアムに立ち寄りたい――。
僕は言った。
駐車場に着くとタイラをクルマに残し、顔なじみの職員と言葉を交わし、ダッグアウトに足を踏み入れた。
スタジアムは静まりかえっていた。
シーズン中の熱狂ぶりが嘘だったかのようだ。
ダッグアウトもきれいだった。
ヒマワリの種も噛み煙草も落ちていない。
僕はダッグアウトを出て、天然芝の感触を確かめながらマウンドに向かった。
きれいに整備されたマウンドには僕の足痕が付いてしまった。
僕は指先でプレートを撫でると、センター方向を振り返り、バックスクリーンを仰ぎ見た。
このバックスクリーンを背にして、僕は何人もの強打者と対峙してきた。
スタンドからの声援に後押しされる感覚を何度も体験してきた。
〈このマウンドに立つことはもう二度とないんだろうな――〉
そう考えると少し感慨深いモノもある。
ココの地が僕を成長させてくれたと本当に感謝しているし。
「……三年間、本当にお世話になりました」
僕はマウンドに一礼し、グラウンドを後にした。
ダッグアウトから通路に抜け、ロッカールームの前を通ってしばらく行くと球場の正面出入り口が出てくる。
なぜかそこにはタイラが立っていた。
「なんだよ。待っててくれっていったのに」
僕は不満を顔に出したが、タイラの後ろから覗いた顔は僕以上に不満そうだった。
マリセラが無言のまま僕をじっと睨んでいた。
「駐車場にいたら、来たよ」
タイラはバツが悪そうに頭を掻いた。
「なんでココにいるの?」
僕は言った。
タイラがすぐにマリセラに語りかける。
彼女は僕とタイラを交互に睨みながら、ぼそぼそと何かを言った。
「マリセラさんは怒ってるよ」
タイラは諦めたような口調で話した。
彼女は僕が今日、挨拶もなしにメリダを離れようとしたことに憤っているらしい。
しかし僕としては、オーナーにもリカルドにも、当然マリセラにも挨拶はしたし、今日の便でメリダを離れることは伝えていた。決して黙って出ていこうとしたわけではない。
彼女はまた何かを言った。
「いつ戻ってくる?」タイラが呟いた。
二人は僕を見つめていた。
僕は口元が強ばるのを感じて、思わず手のひらでさすった。
「おれは……戻ってこないよ」
難しいことを聞かないでほしい。できればそんなこと言いたくないし。
タイラは訳さなかった。
その代わり「藤堂はいつかココに戻ってくると言ったよ」と言った。
それはタイラ自身の言葉だった。
いつか戻ってくる――。
藤堂さんがどういう意味で言ったのかわからない。
だけど、それは僕の意志とは違うモノだった。
「おれの戻るべき場所はここじゃないからさ……」
だから戻ってくるってことはないよ――。
僕は笑ったが、タイラは微かに首を傾げた。ちょっとわかりにくい言い方だったのかもしれない。
「―――!!!」
僕とタイラのやり取りを見ていたマリセラが、不満そうに何かを言った。
会話に参加できないもどかしさがその表情から窺える。
僕は彼女に微笑みかけると右手を差しだした。
「ありがとう。さよなら――」
今度もタイラは黙ったままだった。
黙ったまま微笑を浮かべて頷いた。
マリセラは目を潤ませながら僕に抱きついてきた。
そして泣きながら何かを叫んだが、何を言ってるのか僕にはわからない。
タイラも微笑んだままで何も教えてくれなかった。
(困ったもんだ……)
彼女の激しい感情の起伏に戸惑いながら、僕は曖昧に笑った。
そして彼女を宥めるようにそっと頭を撫でた。
そんな僕らを、タイラは優しい目でずっと見守っていた。
やがて僕は日本語で別れの挨拶をして、タイラのクルマに乗り込んだ。
マリセラは空港まで行くと言ってきかなかったが、僕は首を振った。
彼女は相変わらず目を潤ませていたが、それは泣いてるのか怒っているのか微妙な表情だった。
しかし、空港で同じ事を繰り返すのもイヤだし、これ以上後ろ髪を引かれる思いはしたくない。
少し可哀想な気もしたが、僕とタイラは彼女を残してスタジアムを後にした。
「Ademas, venga――」
走り出してすぐに、タイラが呟いた。
ステアリングを握ったまま、真っ直ぐに前を見て……ただ口元を僅かに歪めている。
「だからさあ、おれはスペイン語はわかんねえん……」
不意に言葉に詰まった。
意味はわからないのに、なぜだか涙が溢れだしてきた。
タイラは助手席を振り向き、僕の涙を見つけて笑った。
そして彼も泣き出した。
まったく付き合いがいいっていうか、バカって言うか……。
僕らは空港に向かうクルマの中で、号泣するお互いを指さしながら大笑いした。
ただ意味もなく、声が嗄れるほどに笑い続けた。