【最終章】 Liga Mexicana de Béisbol
「……。」
僕と男の睨み合いは、かれこれ十分くらい続いている。
いい加減にしろよと言いたくなるが、いまの状況はやや僕が圧されている感じだ。
確かにスペイン語が喋れない僕が悪いということは理解している。
だけど手紙を持って窓口まで来てるんだから用件なんて他には考えられないはずだ。
だって……ココは郵便局なんだから。
「おい、いい加減にしろよ!」
後ろから聞こえてきたのは、クルマで待ってたハズの救世主の声……。
「ったく。いつまで待たせんだよ、おまえは」
貸せ――。
待ちきれずにやってきた藤堂さんは、僕の手から手紙を奪い取ると、僕と男のあいだに割って入りなにやら話し出した。
そして……二人は笑顔で親指を立てた。
助かった。けどなんかちょっとだけムカつく。
郵便局を出ると、路上には藤堂さんの白いシボレーカマロしか停まってなかった。
運転席に回り込んだ藤堂さんは「早く乗れ」と僕を急かした。
「ホントに助かりました……」
僕は頭を下げた。
藤堂さんはステアリングを握ったまま僕を一瞥すると、
「あんなのはな、窓口の奴に渡して、あとはシーシー言って適当に頷いてればいいんだよ」
と言って笑った。
なるほど……藤堂さんからの手紙が日本にいる僕に届かなかった理由が、いまになってわかるような気がする。
僕がメキシコに来て一週間が経っていた。
ダラスで合流した野村さんに連れられて藤堂さんに会うまで、僕はあっちこっちに連れて行かれた。
色んな人に会って、練習場に連れて行かれていきなり投げさせられ、病院みたいなところに連れて行かれ、なんか紙に名前を書かされ、握手を求められ……で「64」の背番号が付いたユニフォームを渡された。
しかし……どう見ても「JUAREZ」って名前が入ってるんですけど……誰なんだ? いったい。
まあそんなこともあって、この街に着いたのも、藤堂さんと再会したのも一昨日の晩。
だからまだ話らしい話もしていなかった。
「やべっ。こんな時間じゃねえかよ!!」
突然、藤堂さんが声を上げた。
時計の針は九時半を少し過ぎたところを差していた。
「リカルドに怒られちまう」
マジでやべえぞ――。
藤堂さんはそう言ってアクセルを強く踏み込んだ。
僕らは球場に向かっていた。
集合時間は十時だと聞いているが……ココからどのくらいかかるのか僕には見当がつかない。だけど「リカルドが怒る」っていうのは容易に想像できた。
リカルドは僕らの所属するチームの監督だった。
浅黒くて彫りの深いおじさんで、眉間には深い皺が刻まれている。一見するとマフィアみたいな感じの人だった。
初対面のとき、僕は早口で捲し立てる彼にちょっと面食らった。
一緒についてきてくれた野村さんが通訳してくれたからまだよかったが、まるでけんか腰のようなその口調に「彼と上手くやっていけるのだろうか?」と正直不安になった。
とは言っても、僕は明日から下部リーグのチームに加わることになっている。ま、言ってみれば二軍みたいなもの。
だから昇格するまでリカルドと顔を合わせる機会はないはずだ。
そしてそれは藤堂さんと離れることを意味していた。言葉の通じない僕としては、かなり不安ではあったが……まあなんとかなるだろ。
「それにしても……亮にも言ったんだが、しょうがねえ奴らだな」
まったく、おまえらは――。
藤堂さんはため息を吐いた。
「せっかく入った高校を辞めちまうなんて……だからコッチにこいって言っただろ」
「いえ……いろいろと予定外のコトがありましてですね……」
言い訳のように僕は言ったが、藤堂さんは首を振りながら呆れたような笑みを浮かべた。
確かに中学三年の夏の終わり頃、「中学を卒業したらメキシコに来い」という手紙を藤堂さんからもらっていた。
しかし「甲子園」という目標があった当時の僕は、その誘いを断り明桜学園に進む道を選んだ。
あのときはベストの選択をしたと信じていたが、それが正しかったのかどうかはいまの僕にはわからない。
もし中学卒業と同時にコッチにきていたら、僕の人生はどう変わっていたんだろう……ぜんぜん想像がつかない。
「でも、肩を痛めたって聞いたときは肝が冷えたぞ。辞めたって聞いたときもそうだったが――」
「スイマセン。いろいろと心配お掛けしました……」
藤堂さんの言葉に僕は首を竦めた。
「遠回りっつうか、回り道っつうか……三年間ムダにしちまったな」
藤堂さんは僕に同情するように言った。しかし――
「……ムダなんかじゃなかったスよ。」
僕は言った。
藤堂さんは一瞬驚いたような顔をしたが、頬を弛めると何事もなかったように前方に視線を戻した。
藤堂さんの言うとおり、高校球児として考えれば僕の三年間は充実していたとは言い難い。
でも、中学までがあまりに順調すぎた僕にとって、この挫折は寧ろ貴重な経験だったと思えるようになっていた。
高校時代の仲間は、僕の知らなかった世界を見せてくれた。野球だけが人生じゃないってことを教えてくれた。
でも……それでも僕は野球を選んだ。
いくつもの選択肢がある中から、僕は野球を続ける道を選んだ。そして――
「んで……誰よ、あの手紙」
藤堂さんはにんまりと笑みを浮かべた。
「コレか?」
小指を立てた。
僕は小さく笑った。笑っただけで何も答えなかった。
僕と彼女の関係――。
実際あれはどういう関係だったのかと考えることがあるが、ちょっとよくわからない。
神奈川に転校してからの二年半、しょっちゅう一緒にいたのは間違いないが……ただそれだけ。つかず離れずのまま……て感じだったが、結局は有耶無耶のうちに離れてしまったし。
「あれ? なんだよ――」
藤堂さんは拍子抜けしたような顔をした。
「昔みたいにぎゃーぎゃー騒がないんだな?」
そう言って僕の方を窺ってきたが、僕は何も言葉を発せずに曖昧に首を傾げた。
「なんだ……すっかり大人になっちまったんだな」
つまんねえ――。
藤堂さんは穏やかな笑みを浮かべたままアクセルを踏み込んだ。
僕が大人になったのかどうかはわからない。
ただ、思うようにならなかった高校の三年間で僕の考え方はずいぶん変わった。まあ、どうにもならないものはどうにもならないという「潔い考え方」ができるようになった……というか。よくも悪くも簡単に開き直れるようになったのは間違いない。
いまにして思えば高校の三年間、僕はいつも得体の知れない虚無感に包まれていた。
こんなハズじゃなかっただろ、といつも疑問を抱いて……考えてみれば、あのときの僕は僕であって僕ではなかったのかもしれない。
だから彼女との出会いも、それまで野球に明け暮れていた僕にしてみれば「長い中断」のなかに訪れた出来事のひとつ……夢の中の出来事みたいなものだったのかも知れない。
だけど僕のサスペンデッドゲームは既に再開していた。
長い長い中断が明けて、僕は本来の僕がいるべき場所に戻ってきた。まだ練習生みたいなものだが、プロとしての第一歩を踏み出していた。
いまの僕は、僕の夢に確実に近付いている。
でも、虚無感は相変わらず僕の心に居座っている。居心地がいいみたいで、なかなか出ていってはくれないみたいだ。
そして……彼女が隣にいない「いま」に慣れるにはもう少し時間が掛かりそうだった。
〈日本との時差ってどのくらいあったっけ?〉
僕は窓の外へ目を向け、彼女の横顔を思い浮かべた。
でも、頭に思い浮かぶのはあの笑顔ではなく、最後に見た泣き顔だった。
――――――
お元気ですか?
僕はなんとかやってます。
苦手だった豆料理にもだいぶ慣れてきました。
藤堂さんからも「メシが合わないようだとキツイ」と言われていたので、少しだけ安心しています。
ですが、言葉の壁は思ってた以上にブ厚いみたいです。
巻舌+早口で、僕にはほとんど聞き取れません。
僕らが住む「メリダ」という街はなかなかいいところです。
とくに何かがあるわけじゃないですけど。
まあ、思ってたほど治安は悪くないみたいでほっとしています。
野球のレベルは思ってたより高いです。
僕が試合に出れるようになるまでは、もうちょっと時間がかかりそうですね。
それではまた。
――――――