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【032】 旅立ちの日

 京成の高砂駅をおりたとき、南の空は薄い雲で覆われていた。

 朝の九時を回った時間だったが、土曜日ということもあり乗客の姿はさほど多くない。

 僕は手にしていたボストンバッグを肩に掛け直すと、早足で改札口を目指した。


 南側の出口をでて、最初に目に入った自動販売機で缶コーヒーを買った。

 四月だというのに、時折強く吹く風はまだ頬に冷たい。

 思わず羽織ったジャケットの襟をたて、背中を丸め、そして缶コーヒーは開けずに懐にしまい込んだ。


 途中、花屋に立ち寄り花束を買った。

 僕がイメージしてたモノと比べるとずいぶん質素な花束だったが、こんな時間に空いてる花屋は他にないので贅沢はいってられない。

 僕は財布から千円札を二枚取りだして店員に渡し、受け取った釣り銭をジーンズのポケットに無造作におし込んだ。


 しばらく歩くと都営団地が見えてきた。そろそろ目的地に辿り着く。

 団地と小学校の間を抜け、あの角を曲がれば門が見えてくるはずだった。

 僕は右手にぶら下げた花束を両手で抱えるように持ち直し、心持ち背筋を伸ばした。


「おはようございます」

 門をくぐった僕は、庭を掃き均す初老の男性に声をかけた。

「そろそろだと思ってましたよ。どうぞ」

 彼は竹箒を持つ手を休め、僕を促すように右手を広げた。

 僕は彼の目の前を軽く頭を下げてすり抜け、奥へと足を進めた。

 やがて小さな墓石の前で立ち止まった僕は、花束を手向け、静かに目を閉じた。



 竹箒が砂利を掻く音が響いている。

 そのリズムに聞き覚えがあるような気がしたが、それがなんの曲に似てるのかは思い出せなかった。


「もうお帰りですか?」

 戻ってきた僕の姿をみとめた男性は演奏・・をやめ、僕を呼び止めた。

 彼は最近になってようやく僕のことを思い出してくれていた。

「お茶でも飲んでいかれたらどうです?」彼は言った。

 僕は左手の時計に目をやってから「ありがとうございます。でも、迎えが来てると思いますので」と丁重に断りの言葉を口にした。

 彼の方も、とくに僕を引き留める様子もなく、柔らかい笑みを浮かべたまま静かに頷いた。

 僕はもう一度深く頭を下げてから彼に背を向け、歩き出した。

 背後からはまた砂利を掻くリズミカルな音が聞こえていた。



 門を出ると、駐車場には黒いGPZが停まっていた。

 僕が近づくとバイクの傍らに座っていた男が、ジーンズの尻を払いながら立ち上がった。


「悪いな、呼び出しちまって」

 僕は明後日の方向を向いて呟いた。

「ったく。俺をアシに使うなんて杉浦おまえと麻柚くらいなもんだ」

 亮は呆れたようにため息を吐いた。僕はそれに気付かぬふりで彼から受け取ったフルフェイスを被り、薄いスモークがかかったシールドを下ろした。


 GPZは小岩駅方面に抜け、駅の手前を曲がって蔵前橋通りに入った。そのまま進めば、間もなく千葉街道だ。

 相変わらず上空は薄い雲で覆われていた。

 旅立ちの朝だから清々しい天気であってほしかったんだが、中途半端な感じがいまの僕には相応しいのかもしれない。

 しかし雨が降りそうな気配はない。寧ろ眩しいくらいだった。シールド越しにも東の空が明るいことがわかる。


 京成船橋駅についたのは予定より少し早い時間だった。

 亮はGPZを銀行の前の道路脇に寄せ、エンジンを切った。


「サンキュ。助かったわ」

 僕はバイクを降り、ヘルメットを脱いだ。

「本当にいいのか? 成田まで行かなくて」

 亮はバイクに跨ったまま言った。

「いいよ。泣いちまったらカッコ悪いじゃん」

 僕は舌をだした。でも泣くのは僕じゃなく亮の方なんだろうけど。

「じゃ、帰ってきたときには成田まで迎えに行くよ」

 リムジンでな――。

 亮は笑った。

「でも、誰も見送りにこないって淋しくねえか? 親はどうした?」

「さあ。知らね」

 僕は今朝の出来事を亮に話した。



 朝、目が醒めたときから妙な違和感があった。

 しかしあまり気に留めず、机の上に置いておいたパスポートをジーンズの尻ポケットに差し込み、既に荷造りしてあったボストンバッグを担ぎ上げて一階におりた。

 そこで気が付いた。家には誰もいないってことを。

 僕はため息を吐き、サイドボードの上にあったメモ帳に走り書きの言葉を残し、リビングのテーブルの上に放りなげてきた。



「ったく信じらんねえだろ?」

 これから一人息子が旅に出るというのに、いったいウチの親はどこに行っちまったんだ。

 しかも一週間とかそんな期間じゃない。呆れを通り越して悲しい気分だった。

「でもよ……なんか、お前んちの親らしいじゃん」

 亮の言葉に僕は反論できなかった。


「そんなことより俺は嬉しいよ。今日という日を無事迎えられて……」

 亮は卒業式の挨拶みたいな台詞をクチにした。

「感謝しなくちゃな。ホントに麻衣――」

「関係ない」

 僕は亮の顔の前で手のひらを広げて言葉を遮った。

 亮がナニを言いたいのかはだいたいわかるが、僕の決断は僕自身が下したこと。誰かに導かれて出したモノではない。


「あ。」

 亮は僕を正面から見据えた。

「おまえ、ちゃんと言ってきたんだろうな」

 僕は何も応えず視線を逸らした。同時に亮のため息が聞こえた。


「えぇぇぇ。さすがにそれはマズイだろ? やっぱそう言うのは人としてだな――」

 亮が僕を非難する言葉を並べはじめた。


〈そろそろ行った方がよさそうだな……〉

 ちょっと名残惜しいが、出発前にあんまり悪口は聞きたくはない。

 僕は懐から『人肌ていど』に温くなった缶コーヒーを取りだし、バイクのシートの上に立てた。


「これ。送ってもらったお礼。それから……手、あんまり冷やすなよ」

 亮の右手を指さした。

 グローブの下は包帯でぐるぐる巻きのはずだった。

「じゃな――。」

 僕は右手を挙げ、まだ何か言い足りなそうな亮に背を向けた。





***


 成田空港は思ったより混んでいた。

 ここからアメリカのダラスを経由してメキシコのカンクンというところに向かう。

 ダラスには、今回色々な手配をしてくれた野村さんという人が迎えに来てくれるとのことだった。だが僕は野村さんの顔を知らない。

 一抹の不安を抱えながらも搭乗時間は近づいてきていた。



 僕は三日ほど前に森谷家に別れを告げ、実家に帰っていた。

 なにかと準備もあったし、メキシコに行く前に少しくらい親孝行のまねごとでもしてみようと思ったというのもあった。

 幸子には少し前に僕の意志を伝えてあった。彼女は僕の決心を尊重し、笑顔で見送ってくれた。

 爺ちゃんと婆ちゃんは凄く驚いていたが、僕が森谷家を出る日にはお守りを持たせてくれ、やっぱり笑顔で見送ってくれた。

 岡崎にも伝えた。

 あの一件以来、連絡を取っていなかった僕としては非常にバツの悪い気持ちで電話を入れたが、向こうはそんなことなんにも考えていなかったようで、単純に僕のメキシコ行きを喜び、いつか再戦を果たすことを約束して受話器を置いた。

 そして麻衣子……。

 彼女には出発の日は伝えていなかった。

 というよりあの日以来連絡を取っていない。何となく言いそびれたという感じだ。


 僕はため息を吐いた。

 亮に言われるまでもなく、彼女のことは気になっていた。

 もっとちゃんと話をしたかったし、そうするべきだったと少し反省もしているし。


 卒業式の日、神社で願を掛けた二つのお願い――。

 ひとつは麻衣子とずっと一緒にいたいってこと。そしてもうひとつは野球でもう一度表舞台に立ちたいってこと。

 あの日少しだけフンパツしたお賽銭のお陰か、僕のチャンスは意外にも早く訪れた。

 両方の願い事に手が届く……でも選べるのは一つだけ。

 でも、あのとき僕はそれほど迷ってはいなかった。

 今日、僕はメキシコに旅立つ。

 僕の夢のひとつ、プロへ第一歩。そしてそれは僕がずっと待ち続けていた表舞台に戻るチャンスだった。


 僕はジーンズのポケットに手を突っ込み壁にもたれた。

 自分の決心はまったく揺らいでいない。だけど麻衣子にメキシコ行きを告げた日のことを思い出すと急に胸が苦しくなる。

 だからなるべく考えないようにしている。もうできるだけ彼女のことは考えないようにしようと……ん?


 ポケットの中になにかを見つけた。

 小銭のあいだにそれとは違うナニカが紛れ込んでいる……出てきたのは小さく折りたたまれた紙だった。

「……なんじゃこりゃ?」

 小さな紙をなんとなく広げたとき、僕の心臓は大きく跳ね上がった。

 そこにあったのは見慣れた麻衣子の文字だった。


 麻衣子からの短いメッセージ。

 普段ならお互いに決して口にしないような言葉――。

 たぶん、このときの麻衣子は僕らの関係がずっと続いていくことを信じていたんだろう。

 僕だって少し前までは同じだった。

 彼女と過ごす『いま』になんの疑いも抱いてなくて……そう思いかけて、僕は首を振った。


〈ありえないよな――〉

 僕は嗤った。そんなことあるわけがなかった。

 いずれ彼女と一緒にいられなくなることに、僕が気付いていないはずがなかった。

 少なくともメキシコ行きを決めた時点では時間の問題だったわけだし。


 僕はため息を吐いた。そして頬を弛めた。

 彼女は僕のことを恨んでいるかもしれない。

 いや、どちらかというと呆れてるか軽蔑しているか……どれにしても僕は彼女に酷いことをしてしまった。



 思えばこの三年間、僕は他人事のような時間を過ごしてきた。

 いつでも他人のせいにして、一歩引いた位置から周りを眺めてきた。醒めた気持ちで過ごしてきた。

 僕には当事者意識が欠落していた。

 麻衣子との別れ際に泣けなかったのも、僕自身が傍観者を気取っていたからなのかもしれない。

 自分の行動に責任を持たず、いつでも他人事のような態度で、彼女との別れでさえも彼女の意思に委ねてしまった。

 応えようのない答えを彼女に押しつけ、大事なひとを傷つけて――。


 急に鼻の奥の方が熱くなった。

 視界が歪んだ。なぜか涙がこぼれてきた。

 そして……可笑しかった。

 いまさら泣いている自分が滑稽だった。

 可笑しくて仕方がないのに、溢れてくる涙が止められなかった。

 気が利かない男……いつか彼女に言われたことがあった。

 確かにその通りだった。

 本当に気が利かない男だ。自分でも悲しくなるくらいに。

 こんなに泣けるなら彼女の前でも泣いてやればよかった。涙の一粒でも見せてやればよかった。それで何かが変わることはなかったとしても。





 まわりでは別れを惜しむ人たちが、それぞれ抱擁したり何某かの言葉を交わしたりしている。

 僕は壁に寄りかかったまま彼らを眺めていた。


「なんか……寂しいよな――」

 僕は呟いた。

 気付かないようにしていたが、ムリみたいだった。

 独りの寂しさ、麻衣子が隣にいない寂しさに僕は気付いてしまっていた。




 やがて搭乗を促すアナウンスが聞こえてきた。

 僕は握りしめていた手紙・・のシワを伸ばすと、そっと財布にしまった。 

 そしてバッグを左の肩に掛けると、掌で目元を拭った。


 止まったままだった僕の歯車は、軋みを上げながら再び動き出していた。

 そして、それは既に僕だけの意思では止めることができないところまで来ていた。


 もう後戻りはできなかった。

 僕は夢を叶えるため、もう一つの夢を犠牲にする道を選んだ。

 覚悟と後悔、そして大きな喪失感を胸に抱え込んで。




第四章(終)

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