【031】 Copacabana
「京都なんて中学のとき以来かな?」
麻衣子ははち切れんばかりの笑顔だった。
「ふ~ん。おれは初めて。修学旅行は休んだし」
僕のいた中学も確か、京都・奈良を回るコースだったはずだ。
「フツウ修学旅行って休まないでしょ? 杉浦ってどういう中学生だったの?」
麻衣子は笑顔のまま僕の鼻先に指を突きつけてきた。
僕は笑って首を傾げた。いまになって思えば、偏屈なところがあったのは間違いないが。
僕らは京都に来ていた。
免許を取ったらドライブに連れて行くという僕の約束を麻衣子が憶えていて、「どこかに連れて行け」と迫るもんだから、僕が勝手に計画を立て、こんな遠くまで彼女を連れだした。
はじめはレンタカーでも借りようかと思っていたが、僕の計画を嗅ぎつけた幸子がトレノを貸してくれた。
但し「あそこは遠い」だとか「あそこは山道が続くから酔う」とか、僕の立てた計画にいちいちいちゃもんをつけ、最終的には「京都」という目的地以外のほとんどは幸子が決めたようなものになってしまっていた。
麻衣子に行き先を告げたのは東名に入ってからだった。
朝五時に迎えに行って、まだ暗い国道を走って、厚木インターチェンジから東名高速道路に乗ったところで、僕はようやく行き先を彼女に告げた。
さすがに京都はムリなんじゃない――。彼女は言った。
だけど先々月、僕はバイクで甲子園まで行っている。そのときに京都は通過してるから、十分いけるという感覚はあった。
で……途中のパーキングに立ち寄りながらも、二条城の駐車場にトレノを乗り入れたのは午前十時を少しまわったころだった。
「ねえ。あれ」
麻衣子の視線の先にいたのは写真屋らしき爺さんだった。
爺さんは退屈そうに観光客の列を眺めていた。
「撮ってもらおうよ」
彼女はそう言って僕の腕を引っ張った。僕は麻衣子に促されるまま、写真屋の爺さんに声を掛けた。しかし――
「え。二週間もかかるんスか?」
写真屋の爺さんは平然と頷いた。
なんでもココで撮った写真を現像してから郵便で送ってくれるらしいのだが、手元に届くまで概ね二週間程度かかるんだとか……ムリだな。全然ムリ。
「じゃ、いいス――」
「え? いいじゃん、二週間くらい」
彼女は不満そうな視線を僕に向けてきた。
だけど二週間は長い。いまの僕にはそこまでの時間的な猶予はなかった。
「だって……二週間あったら三回くらい死ねるべよ?」
「何いってんの。バカじゃないの」
麻衣子は僕の軽い冗談を冷たい声で一蹴した。
結局、写真を撮ってもらった。
お金は僕が払い、写真は麻衣子の家に送ってもらうことにした。
「じゃ、次は……南禅寺で豆腐でも食うべか……ん?」
助手席の麻衣子は無反応だった。
膝の上に乗せた手帳の上に小さな紙を広げ、一心不乱に何かを書き込んでいる……僕の声が聞こえていないみたいだった。
「なにやってんの?」
僕の声に弾かれたように、彼女は手元を隠し、僕を振り返り睨んだ。
「見ないでよっ」
彼女は少し赤らめた顔を顰めて舌を出したが、決して覗き見ていたわけではない。
その後も彼女は、僕の話を聞いてるんだか聞いてないんだかよくわからない曖昧な返事しかしなかった。
そうこうするうち、目的地に到着した。
駐車場にクルマを停めると、助手席から降りた麻衣子が怪しげな笑みを浮かべて僕の背後に回ってきた。
なんだか知らんがさっきから挙動不審なんだけど、そんな彼女もそれはそれで可愛いらしくもあって――
「――!!」
突然麻衣子が背後から僕に抱きついてきた。そして――
「え? ちょっ、なに?! え、ちょっと待って――」
うひひぃっ――。
〈いったいなんのマネだ……?〉
僕は地面に両手をべったり着けたまま、恨めしげに麻衣子を見上げた。
彼女は僕のジーンズの左右の前ポケットに手を突っ込んできた。極端に感度のいい僕にとって、それは危険すぎる行為でもあった。
現にいまも理性が吹き飛ぶギリギリのところだった。僕が機転を利かせて倒れ込んでいなければ、いまごろ麻衣子は僕の裏拳をくらって鼻血を流していたかもしれない。
「杉浦って擽りに弱いのね」
麻衣子は嬉しそうに言った。
僕の膀胱が満タンの状態だったら笑えないことになってたはずだってのに……のんきなこと言いやがって。
僕は彼女の不意を突き、仕返しとばかりに彼女の膝裏を掬うようにして両手で抱え上げた。
「――?!」
彼女は一瞬、悲鳴に似た声を上げたが、僕は容赦せずに狂ったような雄叫びを上げ、三門までの道を一気に走り抜けた。
途中、観光客らしき外人たちがモノ珍しそうに僕らにカメラを向けてきたが、そんなことはいっさい気にならなかった。
僕ははしゃいでいた。明らかにいつもと違う自分だった。
麻衣子もいつもよりはしゃいでいる感じだった。旅先の独特の雰囲気がそうさせるのだとしたら、もっとたくさん時間があったときに、もっとたくさん色んなトコロに行っておけばよかった。ほんの少しだけ僕は後悔していた。
その後も僕らは幸子が作った「旅のしおり」の行程通りに行動した。自分が意外とアドリブが利かない人間なんだとあらためて思った。
しかし、麻衣子はすべて僕が調べて行程を組んだと思ってるみたいで、ずいぶん感心している様子だった。
夕方になって新京極と祇園で麻衣子の買い物に付き合い、そこで彼女が買うかどうかで迷っていた布製の袋に入った手鏡を「プレゼントしてやる」と言って取り上げ、その後、木屋町通りの洋食屋で晩飯を食ったのも、すべては幸子の指示通りだった
そして……麻衣子は上機嫌だった。
かつてないほどの彼女の喜びように驚きながら、僕は幸子に感謝をしていた。
晩飯を食べた僕らは、鴨川沿いをのんびりと歩いた。
恥ずかしながら、これも幸子の指示通りで……。
「なんかすごいね、ココ」
麻衣子は声を潜めた。
河原はカップルだらけだった。
測ったような間隔で座る彼らの隙間に僕らも並んで腰を下ろした。
彼らと同じように川面を眺めてみたが、とくに景色がスバラシイわけではなかった。
「どうして京都に来ようと?」麻衣子が呟いた。
「どうしてって……。べつに理由ってほどのものはないけど……やっぱ遠かったよな?」
僕は笑ったが、彼女は首を振った。
京都を選んだ理由……それは僕がイメージする日本らしいところ、だと思ったから。
メキシコに行く前に、どうしても麻衣子と二人でココに来てみたかった。
はじめは鎌倉でもいいかなと思ったが、それじゃあまりに近すぎてクルマで行くまでもないような気がして……で、最終的に京都を選んだ。
そういえば藤堂さんがメキシコに行く前には、僕と亮と三人でチャリに乗って浅草寺までいったっけ。雷門で三人並んで撮った写真は、いまでも実家に大事に保管されているハズだ。
「次はあたしが考えておくね」
「え。」
「連れて行ってほしいところ……次はちゃんとリクエストするから」
彼女は首を竦めて微笑んだ。
僕も笑顔を作ったが、曖昧に頷くことしか出来なかった。
「じゃ、そろそろ帰ろっか。」
麻衣子は笑顔で僕の耳を引っ張った。なんでそんなことをするのか意味がわからんけど。
***
東名の厚木インターを下り、国道129号線を南に向かい、海沿いの134号線を左に曲がる。
見慣れた景色が目の前に出てきたとき、ほっとするような気持ちとなんともいえない寂しい気持ちが僕の胸に下りてきた。
僕のメキシコ行きは、僕の予定を無視して早まっていた。
今日のドライブは麻衣子にそれを伝えるためのものでもあった。さすがに京都までの距離を往復をするあいだには話を切り出すタイミングが訪れるだろう……そんなことを考えていたのだが、もう残された時間はほとんどなくなってしまっていた。
東名の裾野インターを過ぎたあたりから、僕らの会話は止まってしまっている。
僕は彼女が眠ってしまったんじゃないかと思い、何度か横目で確認したが眠っているわけではなさそうだった。
彼女は勘のいい娘だった。だからおそらく車内の空気……というより僕の態度から何かを感じ取っているのだろう。
国道を左に折れ、七里ガ浜の住宅街に入ると、県立高校のまえでトレノを道路脇に止めた。
別れが惜しい……それもあった。しかしそれ以上に彼女に伝えなければいけないことがあった。たとえそれがどんな結果を招くとしても――。
「あのさ、麻衣子――」
僕は彼女に向き直った。
「あ――。」
彼女が突然声を上げた。「この曲、聞いたことある」
ラジオから流れてきたのは、いまの季節とは合わないような夏を思わせるラテンのリズム……一時期の僕がよく聞いていた曲だった。当然、彼女も耳にしたことがあった。
そして……陽気で躍動的なこの曲が、実は悲しい恋を歌った曲であることを僕は何となく知っていた。
「――なあに?」
「ん?」
「いま、なにか言いかけたでしょ?」
麻衣子は無邪気な笑みを浮かべた。その刹那、僕の胸に鈍い痛みが走った。
「ああ――。」
僕は真っ暗な窓の外に目を向けた。
「メキシコに行くことになった」
僕は言った。
独り言のように、そして他人事のように。
「……メキシコ?」
「ああ。向こうでプロのテストを受けることになってさ」
急に決まって参ったけどな――。
楽しくもないのに僕は笑った。
「そうなんだ……」
相変わらずラジオからは曲が流れ続けている。
麻衣子の視線はフロントガラスの向こうに伸びていたが、その目には何も映っていないように思えた。
「……いつ?」
彼女は呟いた。
「取りあえず、来週には」
「取りあえずって?」
「まずテストを受けてみて……その結果次第だから」
ダメかもしれないしさ――。
僕は小さく笑みを浮かべたが、彼女はなにも返してはくれなかった。
車内にはまた沈黙が降りてきた。
僕はその空気を嫌い、運転席のウインドウを薄く開けた。
同時に流れ込んできた湿気を含んだ空気は、車内の空気をさらに重いモノにしたような気がした。期待していた潮の香りも、いまの僕には感じることができなかった。
「……一緒に行こう。」
僕は言った。
麻衣子の目を見つめたまま、僕は意を決してそう告げた。
彼女は驚いたように目を見開いていた。
僕の言葉の意味を量るかのように、彼女はじっと僕の目を見つめていたが、やがてその目からチカラが抜けていくのがわかった。それと同時にうっすらとした笑みが彼女の顔に広がっていった。
「……ずるいよ。」
彼女は俯いた。
「行けるわけないじゃん。そんなのわかってるくせに――」
麻衣子は僕を非難する感じではなかった。
寧ろ微笑んでいた。だけどその愁いを帯びた薄い笑みが、却って僕の心を締め付けていた。
「やっぱりな……」
麻衣子は顔を上げた。
「なんとなくそんな気がしてたんだ」
彼女はにっこりと笑った。
「だって今日の杉浦、サービスいいんだもん。なんかいつもとちがうなーって。だから何かあるなって」
いいことかもしれないな、とも思ってたけど――。
消え入りそうなほど弱々しい声で呟くと、彼女の目からは涙が溢れだした。
僕は咄嗟に腕を伸ばした。しかし彼女はそれをやんわりと拒絶した。
僕はなにもできなかった。
彼女の目からこぼれる大粒の涙を、僕は現実感のない不思議な気持ちで眺めていた。
肩を震わす彼女を見つめながら、自分の考えの甘さを強く悔やんだ。
彼女はいつだって笑顔だった。
僕は彼女のはにかんだ笑顔に惹かれていた。
涙に暮れる彼女なんかみたくなかった。
だけど、彼女の涙を止める手段を、いまの僕は何も持ち合わせていなかった。
だから……僕はなにもしなかった。
彼女が泣きやむまで、悲しい気持ちで、ただ彼女のことを見守っていた。