【029】 卒業
三月一日、高校生活最後の日――。
卒業式を恙なく終え、教室ではクラスの奴らが記念撮影に興じていた。
進学する奴、就職する奴、そして何にも決まってない奴……それぞれが別れを惜しむかのようにはしゃいでいる。
僕は担任の原に声をかけ、この学校での行事がすべて終了した、ということを確認すると「いろいろありがとうございました」と頭を下げ、まだ賑やかな教室を後にした。
スリッパを靴に履き替え、昇降口をくぐり抜ける。
ドコかから呼び止められ、辺りを見回すと二階の窓から坂杉が顔を出していた。
「なんだよ。もう帰んのか?」
「おう。もうやることもねえしな」
僕は笑った。
「ま、六月くらいにOB会でも企画するからよ。絶対、参加しろよな、絶対だぞ?!」
そう言った坂杉に手を挙げて応えると、もう一度笑ってから彼に背を向けた。
正門まで辿り着いたところで、また誰かに呼び止められたような気がして、僕は静かに後ろを振り返った。
そこにいたのは納村だった。笑みを浮かべた彼は、僕に向かって手を挙げていた。
僕は複雑な思いで頭を下げた。
『二回戦の東峰学園戦の先発投手は杉浦の予定だったんだ――。』
ついこのあいだ、もう一人の顧問の武田にそんな話を聞かされた。
春の県大会に敗れた後、納村と武田で話し合って決めたんだと言うが……俄には信じがたい話でもあった。
しかし考えてみれば春の県大会以降、僕はフリーだけじゃなく、より実戦に近いシートバッティングでの登板もさせられるようになっていた……もしかしたら本当の話なのかもしれない。
でも……そういう大事な話なら、まずは当人に話すべきだったと思う。いまさらそんなことを聞かされても困る。
『納村に干されたあげく、出場機会がないまま最後の夏を終えた――。』
僕としてはそういうことにしておいてくれないと困る。いまさらいい人になられても僕はどう接したらいいのかわからない……さんざん憎んでいた時期があったという事実はもう覆らないんだから。
納村は頻りにネクタイを締めた首のあたりを気にしながら、にこやかな表情でコチラに向かって足を踏み出してきた。
だけど僕はもう一度深く頭を下げ、彼に背を向け正門をくぐった……感謝の言葉は心の中だけに留めて。
学校を出た僕は、見慣れた通学路をいつもよりゆっくりと歩いた。
コンビニの横を通り過ぎ、やがて現れた神社。
初めてここを訪れたときのことはいまでもよく憶えている。
畑の真ん中で堂々とその存在感を見せていたこの神社も、いまでは新しく建ち並んだ住宅に囲まれ、まるで隠れ家のようにひっそりと佇んでいた。
RZにキーを挿したとき、ふと賽銭箱が目に入った。
いままでさんざんバイク置き場として利用させてもらったが、賽銭を入れたコトって一度もなかった。
「やっぱ……最後くらいは、ねえ。」
僕は独り言を呟くと、ポケットを探り小銭を取り出した。
手のひらには三種類の硬貨があった。
僕は少し考えてから一番大きいコインを選び、それを賽銭箱に投げ入れ、手を合わせた。
贅沢にも相容れない二つのお願いをして――。
***
湘北女子に到着したのは、約束の時間を少し回った頃だった。
麻衣子は正門の前で待っていた。
彼女は学校までバイクで乗り付けられることをあまり好んではいなかったから、ここまで迎えに来たのは初めてだった。
僕は彼女の目の前にバイクを停め、エンジンを切った。
「お待たせ。」
僕はフルフェイスを脱いだ。
しかし彼女は無言のまま、僕の顔をまじまじと覗き込んできた。
「……なに?」
「無事に卒業できたんだねぇ」
麻衣子は感慨深そうに頷いた。
「……なんじゃそりゃ」
「亜希先輩が『杉浦くんは卒業できないかもネ』って言ってたから」
麻衣子は口元を押さえて笑った。
僕がいないときの麻衣子と高橋先輩の会話……あまり想像してはいけないのかもしれない。
そんなことよりさっきから正門を通る人たちの視線が痛い。
この女子高に僕のような人間は場違いだってことはわかるが……遠慮のない視線に僕は苦笑いするしかなかった。
「そろそろ行くべよ」
僕は居心地の悪さを感じ、急かすように彼女にフルフェイスを押しつけた。
「うん。行こっか」
まだ冷め切っていないRZのエンジンを再度点火し軽くアクセルを吹かす。
その爆音に卒業式帰りの列が振り返る。
僕はそんな視線を蹴散らすようにアクセルを煽ると、派手なスキール音を残して優等生たちの列を置き去りにした。
湘北女子を出た僕らは、稲村ガ崎へと向かった。
七里ガ浜にバイクを停め、ファーストキッチンでハンバーガーのセットを買い、このあいだと同じように国道を歩いた。
稲村ヶ崎駅入口の信号から見下ろした浜には誰の姿もなかった。浜に下りた僕らは堤防の縁に腰を下ろすと、買ってきたハンバーガーのセットを広げた。
稲村ガ崎の海岸――。
ココには何度も来ているが、たぶん今日は今までで一番寒い。前回来たのは一月だったが、今日はそのときよりも間違いなく寒い。
僕は隣に座る麻衣子に目をやった。
彼女はコートを羽織った背中を丸めている――。
「寒いだろ?」
僕は彼女を覗き込んだ。しかし彼女は「平気だよ」と言った……絶対に平気なわけはないのに。
「ちょっと待ってろよ」
僕は堤防から飛び降り、国道の擁壁沿いに捨ててある角材の切れ端を拾い上げた。
「すぐにあったかくしてやるからさ!」
僕はポケットからライターを取りだし角材を炙った。しかし――。
「杉浦ってさ……やっぱりバカなんだね」
僕の様子を見守っていた麻衣子が突然呟いた。
「そんなので火がつくわけないじゃん」
彼女は深いため息をつくと、僕からライターを取り上げた。
「何かいらない紙とかない? その辺に」
僕は彼女に言われるままに国道の下の瓦礫を漁った。探しはじめてすぐに雑誌のようなモノを見つけた。しかし……ちょっとイヤラシ系の本だった。
表紙は破れて既になかったが、剥き出しになったカラーの写真は水着のグラビアだ……ん?
写真は僕のよく知ってる人にそっくりだった。
髪型はちょっと違っていたが、顔立ちとスラリと伸びた長い手足はどう見ても澤井杏子にしか見えないのだが……でも名前が違った。それに年齢も違う。彼女が一六歳のわけないし。
「ちょっと……なに見てるの?」
背中越しに麻衣子の尖った声がした。
僕に近付いてきた彼女は、僕が手にした雑誌を一瞥すると、いままでに見たこともないくらいに醒めた目を僕に向けてきた。
「いや、べつにコレが見たくて見てたワケじゃなくてさ――」
僕は言いかけて口を噤んだ。
杏子に似てたので……なんつう余計なことを言って彼女の逆鱗に触れるのは避けたい。
この場は怒られることより軽蔑される方を選ぶことにした……まさに究極の選択、苦渋の決断だ。
「それを破って、火をつけて」
彼女はそう言ってライターを投げ返してきた。
僕は言われるままに雑誌を破ってその端に火をつけ、麻衣子が並べた木片の間に放り込んだ。
そして……雑誌がすべて灰に変わる頃、ようやく木片がパチパチと音を立て始めた。
「おお~!!」
僕は思わず声をあげた。
「あったかいね。」
そう言って微笑む彼女は、いつの間にか僕の隣に身を寄せていた。
僕は若干の息苦しさを感じながら、燃えさかる火を眺めていた。
ぱちぱちと音を立て、時折火の粉を上げるたき火を見てると、なんだか吸い込まれそうな気分になる。
「ねえ――。」
ん……?
「なんでライターなんか持ってるの?」
「え? いや、べつに意味はないよ?! 同じクラスの奴にもらっただけで――」
彼女が向けてきた怪訝そうな目に、僕は慌てて言い訳を探した。本当にクラスの奴にもらって、ただ持ってただけなんだが……ん?
僕の様子を見ていた麻衣子がくすくすと笑い出した。
「よし――。」
麻衣子は一人で納得したように頷いた。
「今日は元気そうね」
「はあ……だからおれはずっと元気だって――」
「全然。一緒にいて寂しいくらいだったし」
麻衣子はそう言って笑みを浮かべた。
「これからどうするの?」
彼女は海へ視線を向けたまま呟いた。
「取りあえず、バイトはぼちぼち続けるよ」
「そうじゃなくて……もうちょっと先のことよ」
彼女は少し上目遣いに僕を睨んだ。
僕はその視線を避け、小さく笑った。
「先ねえ……まあ、決まったら話すよ」
「そっか……決まってからなんだね」
彼女はため息を吐いた。そして僕の言葉を反芻しながら小さく二回頷いた。
もちろん彼女が僕のバイトに興味があるわけではないというのはわかっている。ただ将来のことについて、核心に触れる部分についての話題はいまは避けたかった。
「実家に帰るの?」
「いや。その予定はないけど……」
彼女は探るような目で僕の目を覗き込んでいた。
「まあ、練習場所が千葉だから、実家に泊まるコトはあるかもな」
僕が話すあいだ、彼女は視線を逸らすことをしなかった。
彼女は頭のいい娘だった。そして勘のいい娘だった。
だから僕の考えてることなんて、とっくに見透かされてるのかもしれない。だとしても僕の口から言う必要はない。少なくともまだその時期ではなかった。
それから僕は話題をかえ、色々な話をした。
いま通っている教習所、バイト先……とにかく野球以外の話題を。
麻衣子はといえば、ときどき僕の話の邪魔をしながら、笑ったり驚いたり……表情をころころと変えた。
そして……やがて僕らはどちらからともなく黙り込んでしまった。お互いに話題が尽きてしまったみたいだ。
僕は間を嫌い、海に視線を送った。ソコには輪郭のぼやけた江ノ島があった。
江ノ島といえば、僕にとっては苦い思い出しかない。眺めてるだけで走らされてヘトヘトになった記憶が甦ってくる。でも……
今度、麻衣子と行ってみてもいいかもしれない。
彼女と二人なら、また違った景色が見られるだろうし、きっと楽しいはず。少なくとも僕の中の悪いイメージは払拭されると思うし。
そんなことを思いながら彼女の横顔を盗み見たとき、また妙な息苦しさを覚えた。
ワケのわからない圧迫感……僕は戸惑い、そして立ち上がった。
「なあ、このまま七里ガ浜まで歩いて行かねえ?」
僕は七里ガ浜の方を指さした。じっと座ってることができなかった。
波は穏やかだった。空は相変わらずの薄曇りだったが、雨が降りそうな感じもなく、寧ろ眩しく感じる。
僕らは波打ち際を歩いていた。
彼女とここに来たことは何度もある。だけど、こうして波打ち際をゆっくりと歩いたことは一度もなかった。
僕の少し前を歩く麻衣子は、足元に打ち寄せる波を避けながら黒く湿った砂浜に足痕を残していった。そして白い波は彼女を追いかけるように足痕を消していく。
僕はそんな彼女の後ろ姿を見守っていた。
打ち寄せる波と同じように、さっきから僕の胸に訪れる息苦しさ。
微妙な強弱をつけながら断続的にやってくる圧迫感の正体に、僕はなんとなく気付いていた。
「ねえ――。」
麻衣子が僕を振り返った。
「なにか変わるのかな? 卒業したら」
彼女は薄い笑みを浮かべていた。その笑顔の意味は僕にはわからなかった。
「べつに……変わらないだろ」
僕は小さく笑った。
「いままでも学校は違ったんだし……なんにも変わんないよ、きっと」
たぶん、僕らの距離に変化は訪れない。それがいいのか悪いのか……いまはよくわからないけど。
「……そうだよね」
麻衣子は海に視線を伸ばした。「いままでと同じなんだよね、たぶん」
彼女がそう言ったとき、僕はなにかに弾かれるように彼女に歩み寄った。そして彼女の細い肩をそっと抱き寄せた――。
僕は相変わらず息苦しさは感じていた。
だけど……僕は願っていた。
この心地のいい息苦しさ、それがいつまでも続いてくれることを。