【028】 決意
一月も終わりに近付き、僕の生活は慌ただしさを増していた。
週に三、四回は野球部の練習に顔を出して『筋トレ室』で汗を流し、教習所にもほぼ毎日通っている。バイトにも行っている。貯金も……僅かばかりだが始めている。
京葉工科大の斎藤さんからは「コッチに来て練習に参加しろ」と何度も催促の電話をもらってるし、麻衣子は毎日のように僕のスケジュールに予定を組み込む……マジで忙しすぎる。
ただ、この忙しさも今週いっぱいがピークのはず。
二月になれば自由登校。忙しすぎる僕は学校にはたぶんほとんど行かない。つまり、自分の自由になる時間が増えるってワケだ。
そしてメキシコに行った亮から手紙が届いていた。
メキシコからといえば、いままでにも藤堂さんから何度か手紙をもらっていたが、亮からの手紙はいままでもらったどの手紙よりも具体的にメキシコの様子が書かれていた。
僕はといえばずっと迷っていた。僕自身は本当はどうしたいのか……その答えを出すことに躊躇いを感じていた。
***
「先輩、二月からはどうされるんですか?」
練習後の部室で、佐々木が僕に尋ねてきた。
「多分ほとんど来れねえと思うよ。おれ、忙しい人間だからよ」
実質、今日が最後だべな――。
僕は笑った。
「まあ、取りあえずありがとな。引退した後も来やがってとか思ってた奴もいたんだと思うが……な、吉田?」
僕が名前を呼ぶと、吉田は跳ね上がるように顔を上げた。いちいち大袈裟な反応をする男だ。
「先輩――。いままでありがとうございました」
柴田が頭を下げた。釣られるように他の奴らも頭を下げた。
僕は微妙な居心地の悪さを感じて頭を掻いた。
「今年の夏は楽しみにしていてください」
柴田はニヤリと笑った。現実主義者の柴田にしては珍しく自信に満ちた表情だった。
「おう。おまえらには地力がある。私学とだってきっと渡り合えるだろ。ま、最後に言わしてもらうとだな――、」
僕は頬を弛め、一冬を超えて逞しくなった後輩たちを見渡した。
「柴田。おまえは言わなくたってわかる奴だから敢えて何も言わない。ただ――」
「抽選では絶対ヘンなトコ引くなよな。坂杉のバカみたいに」
チームの士気にモロに影響すっからよ――。
僕の言葉に、柴田は困ったような笑みを浮かべた。
「それから吉田――」
ナニ、オドオドしてんだよ、てめえは――。
怯えたような目をした吉田に笑いかけた。
「ま、おまえはこのチームの主軸で、ムードメーカーでもあるんだからよ。常に後輩からも見られてるって自覚を持てよな」
吉田は消え入りそうな声で「はい」と応えた。
「それから渡辺はもっと自分に自信をもて、チカラは間違いなくあるんだからよ。で、武。おまえは打席に入ったらイライラしても顔に出すな。無表情なくらいの方がピッチャーから見たらイヤなんだからよ。それから――」
僕は後輩たち一人一人に、僕が見てて気付いたことを伝えた。
彼らは僕の言葉に耳を傾けてくれた。意味を理解してくれてるかどうかはどうでもよかった。ただ、ココに何かを遺していかなきゃいけないという使命感のようなモノが、僕に何かを喋らせようとしているみたいだった。
「で、最後に佐々木――。」
佐々木は背筋を伸ばした。
「大したアドバイスもしてやれなくて悪かったな」
「いえ、そんなことないです」
佐々木は恐縮したように首を竦めた。
「チェンジアップ、夏までに絶対モノにしろよな。おれもカーブを使えるようにするからさ」
僕は佐々木にチェンジアップを教えた。代わりに佐々木からはカーブの投げ方を教わった。
「ま、とにかくおれらの代は初戦敗退なんつう不様をキメちまったからよ……今年の夏は盛り上げてくれよな。OBが楽しめるくらいによ」
そして、彼ら全員が悔いなく夏を終えられますように……僕は本気でそれを願っていた。
後輩たちを先に帰らせ、一人残った狭い部室――。
誰もいなくなった部室は、黴臭さが五割増しくらいになっていた。
僕はパイプイスを壁に沿ってきれいに並べ直し、乱雑に積み上がっていた後輩たちの荷物を「見られる程度」に整理した。
そしてかつての自分の指定席に腰を下ろし、狭い室内を見渡した。
コの字型に並んだパイプイス。その中央には坂杉がいて、いつもギリギリにやってくる僕らに向かって「おめ~ら遅せえよ」とふて腐れた声を出して……僕は思い出して一人笑みを浮かべた。
その坂杉の指定席の後ろの壁。そこには坂杉が書いた「打倒! 東峰!!」の文字が躍っている。まったく知性のかけらも感じられない汚い文字だ。
そして僕の後ろの壁には、たっつん先輩が書いた「甲子園に行こうぜぃ!」の文字――。
初めて見たときには許せなかったそのフレーズが、いつの頃からか自然に受け入れられるようになり、そして今では親しみを感じるまでになった。
それは書いた先輩が顔見知りだと気付いたせいか、僕がそれなりに成長したからなのか、いまはよくわからない。ただ、何れにしてもこの何気ないひと言が一時期の僕の心を鷲掴みにし、強く揺さぶっていたということは間違いなかった。
僕は立ち上がり、ポケットから油性の極太黒マジックを取りだした。
そして「たっつん先輩」の落書きの前に立ち、その斜め下にメッセージを書き残した。
佐々木たち、そしてまだ顔も知らない後輩たちの活躍を祈って。
そして僕らOBの悔しさを、果たせなかった夢を、彼らが引き継いでいってくれることを強く願って――。
そして二月に入ってすぐに甲子園まで行ってきた。
自由登校の時期になったら一度見に行こうと、随分前から決めていたことだった。
シーズンオフで入れないことはわかっていた。それでも行ってみたかった。僕が目指していた場所がどんなところだったのか、この目で直接見ておきたかった……で、壁に絡まったツタを触って帰ってきた。
大きな決断を前にした今の僕にとって、甲子園に行くと言うことは通過儀礼の一つのように思っていた。
***
「なんだよ、電話ぐらいくれりゃあいいのに」
玄関に出てきた峰岸さんは、僕を見てため息を吐いた。
「そう思いながら来たんですけど……着いちゃったんで」
僕がそう言って頭を掻くと、峰岸さんは笑いながら「おまえらしい」と言って僕を居間に通してくれた。
今日、僕がココに来ることは峰岸さんには連絡していた。
しかし、時間についての約束をしてなかったことは、ついさっきまで忘れていた。
「麻柚はいないんスか?」
「ああ、朝から出掛けてるな……起きたらいなかったよ」
峰岸さんは煙草をくわえたまま寂しそうな顔を見せた。
だけど僕としては、麻柚がいない方がちょうどいいような気もしていた。
「すいませんでした、突然」
これ、お土産です――。
僕は大阪で買ってきた饅頭を袋ごと峰岸さんに差しだした。
「なんだ、気持ち悪いな」
峰岸さんは煙草に火をつけると「どうした。なにかあったか?」と煙を吐きだしながら微笑みかけてきた。
「いえ……なんか進展あったかな、と?」
僕の問いに、峰岸さんは曖昧な笑みを浮かべて首を捻った。
「やっぱ……難しいんスかね」
「そりゃ簡単なワケはない。続けるというだけなら練習場所くらいは確保できるが、上を目指すとなれば話は別だ」
「そうスよね、やっぱ」
僕は小さく息を吐いた。
「それとは関係ないですけど、亮から手紙が来ました」僕はいきなり切り出した。
「そうか。」
峰岸さんの表情からは何も窺えなかった。
「で……伝言を頼まれてるんですけど……」
二つあるんスけど――。
僕は指を二本立てた。
「なに……?」
峰岸さんは惚けた声を出した。
「一つ目は、帰ったら麻柚のことを迎えにいきます、と……」
「アホかっ! くれてやるわけねえだろ!」
峰岸さんは間髪入れずにそう言った。
そして自分の娘が如何に可愛いかをコンコンと説明してくれた。目尻を上げたり下げたりしながら。そんなこと僕に言われても本当に困るのだが。
「で……? あと一つはよ?」
峰岸さんは急に真顔になって僕の顔を窺った。
勘のいい親父だから、たぶん気付いてるんだろうな……僕は一度小さく笑った。
「預かったモノは野村さんにちゃんと渡しました、だそうです」
僕は峰岸さんの目を見たまま、ゆっくりと言った。
「……そうか。」
峰岸さんは僕から目を逸らすと、灰皿に煙草を押しつけ「メシでも食ってけよ」と言って立ち上がった。
野村さんの名前は亮から聞いたことがあった。
藤堂さんや亮が向こうに行く際にイロイロと手配をしてくれた人だと聞いている。だから亮が僕宛の手紙にそう綴ってきたことの意味もなんとなく感じ取っていた。
「ソバでいいだろ?」
峰岸さんは蕎麦屋の出前のメニューを手に戻ってきた。
その蕎麦屋の名前に見覚えがあった。実家にいたときに何度か行ったことのある店だった。
僕はメニューを見るまでもなく「天ざる」を選んだ。それは峰岸さんも同じだった。
「あの……ヘンなこと訊いてもいいスか?」
僕は話を切り出した。
「なんだ」
「亮が野村さんに渡したモノって……おれとなんか関係ありますか?」
僕が向けた視線に峰岸さんは窮屈そうな表情だった。
「野村ってのは俺の大学の同期だ。純一のときも今回の亮の件もほとんどあいつが動いてくれた」
渡航とか、諸々の手配をな――。
峰岸さんは落ち着かない仕草で煙草に火をつけた。
「おまえ、行く気はあるか?」
峰岸さんはいつになく険しい視線を僕に向けてきたが、僕はソレを受け止め、小さく、でもはっきりと頷いた。
僕の迷いはなくなっていた。
さんざん迷い抜いた末、僕は一つの結論を導き出していた。僕の決断を後押ししてくれたのは山路さんからの手紙にあった一文だった。
投手にとって最良のコーチは自分自身であるべきだ――。
山路さんが最後に遺してくれた一文は、山路さんから僕への最後のアドバイスだったのかもしれない。
僕は僕自身のためにどうするべきなのか……そしてそれを決めるのは紛れもなく自分しかいないんだと気付かされたとき、僕はもう判断に迷う必要はなかった。
「もし、チャンスがあるなら行きたいです」
五年前、サンディエゴで交わした約束。
本気で勝負したい相手がいる場所、メキシコへ。
「そうか――」
「だが、いまからじゃ今オフには間に合わないな。最短でも九月の終わりだろう……待てるか、それまで」
「はい。おれもその方が都合がいいです。それに……待つのは慣れてるつもりですから」
メキシコのオフは短い。
四~九月のメキシカンリーグが終了すると、十一月にはウインターリーグが開幕して二月頃まで続く。
ウインターリーグに参加できれば、それが格好のアピールの場となるらしいが、それももうすぐ終わりだった。
「待ったところで受け入れてくれるかどうか……コレばっかりはわからん。それでも待てるのか?」
僕は頷いた。他の選択肢を僕は既に放棄していた。
「メキシコで自分の限界を見極めてきたいです」
玉砕覚悟って感じスね――。
僕は笑った。
***
「――なにこれ?」
麻衣子はそう呟くと、僕が渡した小さな紙袋を一瞥した。
彼女は明らかに不満そうな顔をしている。
「なにこれって……お土産に決まって――」
「いや、そうじゃなくて――」
彼女は視線を落とし、ため息を吐いた。
「絶対、ひと言ぐらいあってもいいよね?」
麻衣子はそう言ったが、彼女が甲子園に興味があるハズなんか絶対にないのに……。
「ねえ。そう思わない? ねえ?」
「いや、でも、バイクで行ったからさ……ほら、高速二ケツできないし」
「だからって……」
「あ、そうだ! 今度クルマで行くべよ?」
もうすぐ、免許も取れるしよ――。
僕はとびきりのスマイル(自己評価だが)で宥めるように言った。
彼女は納得のいかない表情で僕を睨んでいたが、これ以上言っても仕方がないと判断したのか、やがて拗ねたような目に代わり、最後には無言になった。まったく……やれやれだ。
でも甲子園に行ったくらいでこんなにギャーギャー言われるってことは、「メキシコに行く」なんて口走ったらぶん殴られる可能性は大だな。前歯を二本くらい逝かれるかもしれん、マジで。
とはいっても時間もあることだし、麻衣子の機嫌のいいときを見計らってサラッと伝えれば問題ないだろ……あくまでサラッとね。
そして三月一日、僕らは卒業の日を迎えた。