【026】 約束
三学期が始まってから、僕は連日担任の原に呼び出され、進路相談を行っている。
しかしいくら面談をしたところで何かが進展するハズなどあるわけもなく、進路相談は完全にセレモニー化していた。つまり、これ以上は意味がないということ――。
「先生、もういいよ。おれ、自分で何とかするからさ」
僕は言った。
これ以上、原の手を煩わせるのは、正直気が引ける。
しかし、原は僕が投げやりになっていると解釈したようで「まだ諦めるな。絶対おれがいいところを見つけてやるから」とアツく語った。
興奮気味の原がなんだか滑稽な奴に見えたが、僕はそれを顔に出すことなく「じゃ、頼りにしてます」という心にもない台詞を彼に送った。
もっとも、なんとかするとは言ったものの自分に何ができるわけでもなく、頼みの綱である峰岸さんの方でもとくに進展はないみたいだった。
ただ、その峰岸さんからは何度か電話をもらっていた。
そのたびに彼は「僕の覚悟」を確認してきた。あんまりしつこく問い質されると、そんなに見通しが暗いのかと悲しくなってくるが、それでもいまの僕は本気だった。上を目指したいと真剣に考えている。それは少々の困難で折れてしまうような中途半端な覚悟ではないつもりだった。
そして亮は既にメキシコに旅立っていた。
向こうで藤堂さんの自主トレに合流し、チームのキャンプに参加するらしい。
で、そこでテストを受けさせてもらうんだと思っていたが、どうもそういうモンではないらしい。
いわゆるテストを受けさせてもらえるのは恵まれた人たちだけで、亮を含むテスト生たちはキャンプに参加させてもらうだけ。
で、そこで目立てば次の段階に進むし、アピールすることができなければ、キャンプの終了とともにチームを離れるんだそうだ。
さすがプロ。ケッコウ厳しいもんなんだな。
「お、世捨て人の杉浦じゃ~ん」
渡り廊下の途中でそんな声が聞こえた。
振り返ると、にやついた顔の俊夫が立っていた。
「誰が世捨て――」
「吉田にヤキ入れたんだって?」
俊夫は僕の言葉を最後まで聞かずにそう言った。
相変わらず笑みがこびりついたような顔……なんか怒る気が失せた。
「ヤキって、おまえ……軽く蹴りを入れただけだぞ」
僕は軽くを強調した。しかし俊夫はそれを無視して言葉を続けた。
「吉田、怯えてたぞ。『顔を合わせたとたん、挨拶する間もなく蹴飛ばされた』って、『ボク、何もしてないのに』って」
俊夫は笑いを堪えたような顔で言った。
しかしその情報は正確なようでいて実は正確ではない。だからといって細かい状況について話すつもりはまったくないが。
「それよか、なんか決まったのかよ」
俊夫はにやついたまま言った。
「べつに。なんも変わりなし」
僕は軽く両手を掲げた。お手上げって意味で。
「ふ~ん。そのワリにはなんか余裕がありそうに見えるけどな」
僕の言葉に俊夫は意外そうな顔をした。
「余裕なんかあるわけねえだろ。でも、まあ取りあえずやりたいことは見つかったけどな」
開き直ったともいうが――。
僕は自嘲気味に笑った。
「なんだ。なら、よかったじゃん」
俊夫はそれ以上はナニも尋ねてこなかった。ちょっと拍子抜けするくらいに。
でも、コイツってそういう奴だ。必要以上に干渉してこないっていうか……一時期の僕は俊夫のそう言うところに随分救われたような気がする。
「そんなことより――」
俊夫が急に声を潜めた。
「おまえ冬休み中に、湘北のあの娘、学校に連れ込んでたらしいじゃん」
「……!」
「なあ、なにやってたの? あ……まさか、おれに言えないようなコトじゃねえべな、おい」
俊夫はいつになく食い下がってきたが、僕は笑ってそれをいなし、背を向けて手を振った。
昇降口を出て、部室に向かった。
一応、吉田には詫びを入れておこうと思った。たぶんアイツにしてみればワケがわからなかったんだろうし、そもそも罪の意識はないはずだし……あったとしたらマジで殺してるけど。
「杉浦くん!」
突然、背後からかけられた聞き覚えのある声。僕はゆっくり振り返った。
「やっぱりな……」
思った通り、ソコにいたのは高橋先輩だった。
「なにしてるんスか。こんなトコで」
「ちょっと用事があってね。ついでだからキミの顔でも見ていこうかなと思って」
ついでって言うのは余計だけど、そう言われて嬉しくなくはない。
ジーンズ姿の彼女は腕を組んだまま、優しい眼差しを僕に向けていて……でも相変わらず偉そうな感じだった。
「そういえば、卒業後も続けるそうじゃない、野球」
麻衣から聞いたわよ――。
「もう知ってるんスか?」
僕は苦笑いした。相変わらず筒抜けってことか。
「そのやる気をもう少し早く見たかったわ。でも……なにがキミをその気にさせたのかしら?」
彼女はそう言って意味ありげな視線を送ってきた。
しかし僕はそれに笑って首を振ると、再開するに至った経緯を掻い摘んで話した。
不完全燃焼だった夏が終わったあたりの話から、あとは思いついた順番で……岡崎に真剣勝負を挑んだことに触れたときには「どうして誘ってくれなかったのか」と真顔で問いつめてきて……見せ物かなんかと勘違いしてるよな、絶対。
「――ま、そんなカンジです。取りあえずもう一回やってみようかな、と」
今度は本気で上を目指すつもりですけど――。
僕は言った。一応、決意表明のつもりで。
「いいんじゃない」
彼女は微笑んだ。
「キミならきっとやれると思うし……それに野球から離れて欲しくないし」
彼女の言葉に僕は首を傾げた。
すると彼女は「高校の先生になろうと思ってる」と言った。誰が訊いたわけでもないのに。
「いいんじゃないスか。合ってると思いますよ」
「でしょ? それでいつか野球部の監督になって甲子園に行くの。監督としてチームを率いて」
「はあ……?」
監督って……この人の発想はよくわからんな。
「だって男は口ばっかりであてにならないじゃない? だったら自分で――」
彼女はそういって目を細めた。
確かにそれを言われると僕としても言葉がないが――。
「だけどそのときにはキミも一緒よ」
彼女は笑った。
「あたしの助手として雇ってあげるから」
キミも一緒に甲子園に行くのよ――。
「なんなんスか、助手って……」
僕は思わず吹き出した。「普通にコーチとかでいいじゃないスか」
しかし彼女はアゴに指を当てて考え込むと「少し違うみたいね」と他人事のように言った。
僕はまた笑った。そして小さく息を吐いた。
何というか、意味はわからないけど彼女らしいと言えば彼女らしいっていうか……いつまで経っても僕は助手ってことか。
「でも……いいんじゃないスか。いつか行けますよ、絶対」
「行けます、じゃなくて、行くのよ」
似てるようで全然違うわ――。
高橋先輩は言葉にチカラを込めた。
僕はもう一度息を吐いた。
でも彼女を見てると、なんだか本当に行けそうな気がしてくる。気がしただけで実際にはなんの根拠もなかったんだけど……彼女の言葉には不思議なチカラがあるのは確かなようだ。
「ところで麻衣とは上手くいってるの?」
高橋先輩は急に話題を変えた。
そういった彼女の表情は、すべてを見透かしているかのようだった。
「なんスか……尋問スか?」
僕は惚けてそう言ったが、僕の表情から肯定と受け取ったみたいだった。
「言っとくけど、あの娘からは何も聞いてないわよ」
なかなか口を割らないのよね――。
高橋先輩は鼻唄を歌うように軽くいったが、彼女の追求をかわした麻衣子に敬意を表したいと思った。
「それにしてもホントに明るくなったから」
彼女はしみじみと言った。
「……そんなに暗かったスかね?」
僕は自分を指さした。そんな自覚はないのだが……。
「キミじゃないわよ」
彼女は頬を弛めて「麻衣よ」と言った。
「ちょっと引っ込み思案なコだったから……でも最近は変わったわ」
「そうスかね?」
僕にはそれほど変わったようには見えなかった。
だいたい、本当に引っ込み思案のやつがファミレスでバイトをするなんて思えないし。
「泣かしたら絶対に赦さないからね。あたしの妹みたいなものなんだから」
高橋先輩は僕を脅すように言ったが、最近では僕の方が常に半ベソ状態だというのを知らないようだ。そんなことより、妹といえば――。
「そういえば、お兄さんがいるらしいじゃないスか」
麻衣子から聞いて驚きましたよ――。
「え? 言ってなかったっけ?」
「聞いてないスよ。ま、べつにどっちでもいいスけどね」
僕に報告する義務はべつにないし。
「え~、言ってなかったかなあ……。」
彼女は頻りに首を傾げた。
「ま、馬鹿な兄貴なんだけどね。ココのOBでもあるんだけど……あ、やっぱり話してるわよ。憶えがあるもの」
ほら、落書きを見ながら――。
彼女はそう言って部室を指さした。
部室の壁に書かれた落書き――。
え。いや、でも、あれを書いたのって確か……。
「え。でも、いや、あれって元エースだっていう人が――」
「ほら。やっぱり話してるじゃない」
彼女は勝ち誇ったように言った。
「え。いや、エースだった人って……えぇえぇぇ?」
「そ。ウチの兄」
彼女は笑った。
えぇえぇぇぇ……マジで聞いてないス。
それが先輩のお兄さんだとは絶対に聞いてないスよ……。
それにしても……先輩のお兄さんを勝手に先輩の恋人だと思いこみ、勝手にヤキモチを焼いていた僕って……自分勝手にもホドがあるべ……。
「そういえば、キミのことはウチのバカ兄貴から聞いてたの」
「はあ。そうスか……」
僕はちからなく応えた。
そんなことはどうでもよかった。マジで消してしまいたい。当時の記憶をばっさりと……。
「なんか、キミと一緒に練習したこともあるんだって。大学のときに。でも知らないでしょ。中退した根性なしのことなんか――」
「はあ。そうスね……」
そんなもの憶えてるわけがない。一応、全国区の選手だったあの頃はしょっちゅう色んな人と会っていた。その数はいまとは比べものにならないくらいの人数で、それをいちいち全部なんて憶えていられない――。
……ん? でも待てよ。
大学って言ったら京葉工科大学しかない。それに一緒に練習した人って結構限られてるはず。しかも途中で辞めた人なんて――
「あ……」
僕の中で、朧気だった幾つかの事象が一つに重なった。
黄色いローリングスのグラブを受け取ったとき、それに見覚えがあるような気がしていた。絶対にどこかで見たような気がするのに、それがドコでだったのか全然思い出せなかった。
でもいまは完全に思い出した。バラバラになっていた僕の記憶がだんだんカタチになって――。
「――ねえ。ちょっと、聞いてる?」
声に我に返ると、高橋先輩が怪訝そうな眼で僕を見ていた。
「麻衣が言ってたわよ。いっつもぼーっとして話を聞いてくれないって」
彼女ため息まじりに言った。
「……すいません、考えごとしちゃってました」
僕は笑みを浮かべて言ったが、笑顔が引きつっているのが自分でもよくわかった。
「あの……お兄さんっていまナニやってるんスか?」
「普通に働いてるわよ。野球は週末に草野球をやる程度かな……いまは遊撃手だっていってたわ」
僕はショートを守る彼の顔を思い浮かべようとしてあきらめた。
さすがに顔までは思い出せそうになかった。でも細くていつもニコニコしてる人だったような気がする。
山路さんのかつての教え子の一人。つまり僕の先輩。
いつだったかポカリを奢ってもらったことがあって……ある日突然いなくなってしまった人。
もう顔も憶えていなかったが、彼と交わした約束を僕はひとつだけ憶えていた。
「先輩。伝言お願いしたいんスけど、いいスか?」
お兄さんになんスけど――。
彼女は僕の真意を量るようにじっと見つめてきたが、やがて「いいわよ。」と言って口元に笑みを浮かべた。
「グローブ、ありがとうございます。大事に使わせてもらいます。それから――」
彼女に向き直り、心もち背筋を伸ばした。
「今度、キャッチボールすんべって」
「キャッチボール……?」
彼女は首を傾げた。
「はい――。それでわかると思います」
僕は笑顔で頷いた。
それできっと伝わるはずだった。彼が僕の知る彼であるのなら――。
僕は疑いなくそう思った。




