【020】 相対的幸福論
無視すんべ――。
幸子の視線が朝食を摂る僕の顔に注がれているのは気付いていた。
しかし僕は気付かないふりをしていた。彼女に「僕に話かける口実」を与えるようなことはしたくない。いまはとにかくとっとと食事をすませて一刻も早くこの場を立ち去る……その一点に集中すべきだというのはわかっているのだが――。
「ねえ、あんたさあ」
ほら来た。「毎朝ドコに行ってんの?」
僕は頭のなかでいまの状況を整理した。
幸子って奴は動いてるモノに反応する猫みたいなタイプだから、ココでの返答が非常に大事。刺激するようなことを言わなければ切り抜けることは案外可能だ。
「ランニング、だょ」 囁くように言った。
「へえ。あんたのいうランニングってバイクに乗って行くものなのね」
幸子はそう言って目を細めた……どうやらロックオンされてしまったらしい。
「ホントはドコに行ってるのよ」
最近、僕は早朝の海岸線を走り回っていた。晴れた日限定で。
「べつに……ドコだっていいべよ」
「いいってことないでしょ」
幸子はそう言ったが、べつに誰かに迷惑をかけてるわけではないし、それにドコにってわけでもない。
なおも食い下がってくる彼女の視線から逃れるように、僕は味噌汁の椀に口を付けた。
僕はこの岩海苔の味噌汁が好きだった。今日みたいに寒い朝には欠かせないメニューだ。
それにしてもここのところの冷え込みは一段と厳しい。防寒対策だけはちゃんとしとかないと死ぬかもな、マジで。
「それよりあんたは卒業したらどうするの? 何か決まったの?」
「だいたいは……ね」
最近の幸子はナニカと口うるさい。
まあ僕の進路のことで心配してくれているのはわかるんだけど少し放っておいて欲しかった。僕のことを一番心配しているのは、紛れもなく僕自身なのだから。誰よりも僕自身が今後の自分てものに不安を感じていた。
「ま、やりたいことがないワケじゃないし。ご心配なく」
そうはいったものの具体的なモノは何もなかった。
……大陸から張り出した高気圧が……上空には……
テレビから天気予報が聞こえてきた。
年末年始の関東地方は晴天に恵まれるところが多いでしょう……というようなコトを言っている。
思えばもうすぐ今年も終わり。
そしてコッチに来て三回目の正月を迎える。ということは高校生活もあと数ヶ月……一年延長するという禁じ手もまだ残されてはいるけど、佐々木と同じクラスになったりしたらちょっとキツいから、できれば選択肢から外しておきたい。
それにしても、来年のいまごろはなにをしてるんだろ?
実家に帰ってるんだろうか? それともまだここでお世話になってるんだろうか?
今回がココでの最後の年越しになるかもしれないんだよな……まだ実感は湧かないけど。
***
通い慣れた学校までの道。
でも時々いつもと違う道を通りたくなることがある。今日がまさにそれだった。
トンネルを抜けて、国道1号線を渡り、東海道線の線路をくぐって国道134号線方面へ。浜見山を右折して浜須賀に向かい『SHADE'S』の前を右に入る。
やがて現れた制服の列。辻堂駅のほうから断続的に並んでいるのは、茅ヶ崎湘洋高の生徒たちだった。
最近になって知ったのだが、ウチの学校は辻堂駅からも歩ける距離にあったらしい。いまさら知ってもあまり意味のない話なんだが。
制服の集団を追い越し、コンビニの角を曲がり、いつものように神社にバイクを乗り入れる。
多いときには六台のバイクが停まっていたこの場所だが、いまでは僕のRZしかない。冬が近づくにつれてだんだんバイクで来る奴は少なくなり、十二月も半ばになったいまでは誰もいなくなった。ホントに根性無しばかりだ。
コンビニの脇から通りに出ると、何気ない素振りで制服の列に紛れ込む。
コッチに来てから二年とちょっと経つが、この道をゆっくり歩いた記憶はあまりなかった。いつもギリギリ……もしくは完全遅刻で教室に飛び込んでいたから。
だけどこのところ早起きをしてるせいか、なんとなく余裕を持って学校に来ている。
通学途中に遅刻の心配をしないでいいっていうのはこんなに安心感のあるものなんだと、小心者の僕はいまさら気付いた。
「お~い。スギウラぁ!」
声に振り返ると、コンビニの袋をぶら下げた酒井が歩いていた。
「なんだよ、最近早えーじゃん」
酒井は珍しげに言った。「朝からこんなトコで会うことなんかなかったもんな」
彼は袋から取りだした肉まんにかじりつきながら、片手で缶コーヒーのプルタブを起こした。
「そんなことねえべよ」
僕は言ったが、酒井はその異論を認めるつもりはないようだった。
「……なんか決まったのかよ」
酒井は言った。
「……なにが?」
「卒業したら、に決まってんべよ」 酒井は醒めた目で僕を見た。
「ああ……」
僕は苦笑いを浮かべた。「まったく決まってない」
「やっぱりな」
相変わらず余裕だよな――。
酒井は笑いながらそう言った。
それは褒めてくれてるのか貶してるのかわからないような口調だった。
「堀田は自衛隊に入るんだとよ」
「マジで?」
体力自慢の堀田にはピッタリな職場かもしれない。
酒井の話では野球部の連中で卒業後も地元に残るのは半分くらいらしい。ちなみに僕はそのどちらにも属していないらしいが。
「ま、とにかくおまえはもう少し続けろよな」
野球――。
酒井は僕の目を見ることなく言った。
「そんなことより、正月はコッチにいんのかよ?」
缶コーヒーを持った手を僕に向けた。
「ああ。帰る予定はないけど……なんで?」
「ほら、俺らももうすぐ卒業じゃん。そうすっとみんなバラバラになっちまうってことじゃん。で、だったら最後くらいみんなで初詣にでも行こうぜって話になってよ――」
みんなって誰だよ。
「もちろん、おまえも行くだろ?」
男だけでバカ騒ぎしようぜ――。
酒井はそう言って笑った……不自然なくらいにご機嫌だ。
「つうか……おまえ、クミちゃんはよ? 一緒じゃねえの?」
僕は言った瞬間に後悔した。
酒井の目にさびしい色が浮かんだのを見逃さなかった。
「今回は野球部の奴らを優先することにしたよ」
酒井はそう言って、哀愁を漂わせながら視線を遠くに伸ばした。
つまり……クミちゃんとはお別れしちゃったってことだな。これ以上は追求しないけど。
「ま、オレのことはどうでもいいんだよ、おまえも当然行くよな? 男だらけのハツモウ――」
「いや。遠慮しとくよ」
僕は酒井の言葉を遮った。
「悪いけど先約があるんだわ」
その言葉に酒井のコメカミがぴくりと動いた。
「いや、本当に悪いね。おればっか幸せで――」
そう言いながら酒井の肩を叩くと、なぜか腹の底から笑いがこみ上げてきた。
僕が幸せかどうかはわからない。しかし正月から野郎だけで集まるよりはるかにマシだということは、凍てつくような酒井の視線が証明してくれていた。
***
「ねえ。あたしが怒るようなこと、ワザとしてない?」
麻衣子はため息混じりに呟いた。
「……ナニがよ、突然」
「このあいだはナニを聞いても無視するし――」
無視はしてない。聞こえなかっただけ。
「それに今日はさっきからアクビばっかりしてさ。ほら、言ったそばから」
僕は開きかけた口を慌てて手で押さえた。
彼女はそんな僕を一瞥すると、呆れたように首を傾げながら僕からゆっくり目を逸らした。
僕らは南藤沢にあるファミレスに来ていた。
ココに来るのは今月に入ってからは初めて。彼女と会うのもあの誕生日以来。相変わらず電話では毎日話してるけど、会うのは久しぶり……とは言っても一週間とちょっとしか経っていないけど。
僕らの仲は相変わらず何も進展していない。だけど彼女は少しだけ変わった。一時期のトゲトゲしい感じはなくなった。ま、たまに突如として不機嫌になることはあったが、それはそれで僕としてはもう慣れた。寧ろ機嫌がよすぎるときの方がヘンに勘ぐってしまうくらいだ。
「クリスマス……か」
僕は意味もなく呟いた。
「え?」
「あ……いや。ココに」
僕はメニューを指さした。
そこにはクリスマス限定のセットメニューの写真があった。ソレを見てたら無意識に呟いてしまった。
「そういえば去年は表参道にいったよね」
彼女は言ったが、僕にしてみれば「連れて行かれた」って感じ。少なくとも自分から望んでいったわけではない。
「今年は?」
「表参道には行かないよ。このあいだ行ったばっかだしな」
あんな人込みの中を歩くのはもう勘弁して欲しい。
「べつにどこでもいいから。でもちゃんと考えておいてね」
麻衣子は微笑んだ。
「まあな。でも、どこでもいいってのが一番難しいんだぞ」
僕は言ったが、彼女は目を逸らしあからさまに聞こえないふりをした。
僕としても「二十四日は空けておいて」と二ヶ月もまえに言ってしまった手前、なにも考えてないってわけではなかった。取りあえず「彼女のお気に入り」でもある表参道に行こうと漠然と考えていた。
しかしその二ヶ月のあいだに麻衣子の誕生日が突如として出現して僕の予定を狂わせた。表参道という切り札は既に使い切ってしまっていた。
「で……やっぱり、お正月は実家なの?」
彼女は言った。さっきは酒井にも聞かれた。
「いや。実家になんか行かねえよ」
行っても居場所がねえしな――。
もっとも居場所だけじゃなく話もないが。
「ふ~ん。そうなんだ」
麻衣子は感情の窺えない表情で呟いた。
「おまえは? どっか行くの?」
僕の問いに彼女は首を横に振った。
「じゃ、初詣行くべよ。日付が変わるころに」
どうせヒマだべ――。
僕は頬を弛めて言った。
しかし彼女は無言だった。ナニも口にせず、ただジッと僕を見ている――。
「なによ。なんか用でもあんの?」
だとしたら僕の予定はずいぶんと狂ってしまう。既に酒井たちの誘いは断ってしまったし。
「べつにないけど……もうちょっと女の子に対する口の利き方ってものを考えた方がいいと思うわ」
彼女はそう言って、渋々といった感じで僕の誘いを受け入れてくれた。