【018】 色褪せたロードマップ
秋山はグラウンドで打撃練習をする一人の選手に目を奪われていた。
左打席から快音を響かせ続けるその選手は、やや広めにスタンスを取り、右膝で細かくリズムを刻んでいる。秋山にはそれが荒井英至のフォームを真似ているのだろうとすぐにわかった。
プロのフォームを真似ること自体は悪いことではない。だが荒井のフォームは独特だった。そのカタチを真似ることができても、そのフォームで打つのは非常に困難だということを経験者である秋山はよく知っていた。
しかし目の前の選手はそのフォームを完全に自分のものにしていた。鋭いスイングから快音を響かせ続けていた。
しかもいまマウンドに立っているのは京葉工科大のエースの水尾。
秋のリーグ戦で三勝を挙げた左腕の快速球に詰まることもなく広角に打ち分けている。
誰なんだ、あれは――。
打席を見つめる秋山は背筋が粟立つのを感じていた。
「驚いたかね」
背後に立っていた恰幅のよい男が呟いた。京葉工科大学野球部総監督の斎藤だった。
「バッティングに関しては天性のモノを持っている。若干の粗さはあるが、芯で捉える技術は非常に高い」
斎藤の言葉に秋山は頷いた。彼も同じことを考えていた。
「誰なんですか、あの選手は?」
秋山は興奮を抑えて尋ねた。
「あれはウチの学生ではない。練習場所を提供しているだけでな」
斎藤はグラウンドを眺めながら満足そうな笑みを浮かべている。
「それは来年の入部予定者……そういう意味ですか?」
「いや。あいつはウチには来ない。それに高校生ってわけでもないんだが……」
白い顎髭を撫でながら斉藤は曖昧に首を傾げた。
「君は藤堂純一を知ってるか?」
「メキシコに行った藤堂ですか?」
「ああ。あれの弟だ」
斎藤は腕を組んだまま打席を顎で指した。
藤堂純一――。
秋山はその名前をよく知っていた。
中学卒業後、並み居る高校の誘いを蹴って海を渡った男。メキシカンリーグ五年目の今季は所属チームで三塁のポジションを獲得し、現在参加しているウィンターリーグでは中軸を担っている若手のホープ……近々アメリカのマイナーリーグに移籍するのではないかという情報が秋山の元にも入ってきていた。
「でも――。確か弟というと杉浦と一緒に明桜を辞めたという……」
「ああ。暴力事件でな」
まったく馬鹿な話だ――。
斎藤は微かに顔を顰めた。
「さっきも言ったが、あいつは天性の打撃センスを持っている。だが日本にはあいつの持っている資質を見抜ける奴はいないらしい」
斎藤は秋山を横目に口元を弛めた。
「だからあいつはメキシコに行く。兄貴のいるメキシコで第二の野球人生をスタートさせる……まあ、そのためにココで調整をさせているんだが……」
斎藤は急に歯切れが悪くなった。
「だが……なんなんです?」
「いや。アイツにはちょっと問題があってな……」
そう言ったきり、斎藤は口を噤んだ。
藤堂のちょっとした問題……秋山はその言葉に引っ掛かるモノを感じていたが、それがココで明らかになることはなさそうだった。
秋山は手帳をそっと広げると、藤堂の名前を小さく書き記した。
「そういえば、杉浦はどうしていますか?」
秋山は手帳をポケットに収めながら言った。
「ああ。あいつなら――」
斎藤は時折笑みを浮かべながら、先日の潮見での出来事を秋山に話して聞かせた。岡崎とあわや乱闘に至る細部まで、嬉しそうに語り続けた。
「へえ。それは是非見てみたかったですね」
秋山は言ったが、斎藤は笑いながら「あんないいもの、君らスカウトには見せられんよ」と首を横に振った。
それについては秋山としても愛想笑いを浮かべるしかなかった。
今年のドラフト会議では、秋山の所属する球団は大卒の野手を一位で指名していた。
昨年に続く野手の一位指名は球団上層部の強い要望……つまり学閥を優先したモノに他ならなかった。
秋山が強く推していた杉浦については、一部のスカウトの後押しもあり、35人の最終候補にまで名前は残していた。
しかし期待されていた夏の大会にその勇姿をみせることなく敗退、しかも学校側に依頼していた調査書が届かないという不手際もあった。
結局、八月のスカウト会議にはほぼ白紙状態の最終評価書で臨むことになり、それまで杉浦獲得に向けて吹いていた風は完全に凪いでしまった。最終的には下位での指名も見送りとなってしまった。
「感じるものがあったんですけどね……」
末恐ろしいくらいに――。
秋山は残念そうに呟くと、小さく首を傾げた。
「そういえば同じようなことを言ってた奴がいたな」
斎藤は笑った。
「……ウチの大スターですね」
斎藤は何も答えなかったが、その笑顔が秋山の言葉を肯定していた。
「荒井から言われました。『おまえってホントにチカラがねえのな』って。確かに力不足は痛感しましたが」
秋山は笑みを浮かべながら項垂れて見せた。
荒井同様、杉浦の素質について早くから目を付けていた秋山だったが、茅ヶ崎湘洋高からの調査書の不着もあり、たったひとつだけ不安を抱えながら会議に臨んだ。それが最後の最後に押し切れなかった原因でもあった。
「それにしても、まさか本当に全球団が見送るとは思ってなかったがな」
斎藤は顎に手をやったまま苦笑いを浮かべた。
「まったくです」
他の球団が調査書を杉浦の学校に送ったとの情報もあったが、蓋を開けてみれば杉浦を指名した球団はなかった。
「何人かのスカウトがウチにも来てたから、てっきり指名があるものだと思ってたんだが……怖い世界だな」
斎藤が首を竦めると、秋山もそれに同調するように微かに口元を弛めた。
「だが、あいつは勝手には辞めさせん。いつか必ず表舞台に引っ張り上げてやる」
小さな声だったが、それは斎藤の決意表明のようにも聞こえて、秋山は思わず背筋を伸ばした。
この人も杉浦の素質に惚れこんでいたのだろう――。
斎藤の横顔を眺めながら、秋山はそう思った。
しかし惚れこんでいたという意味では秋山も負けていないつもりでいた。その高い資質を認めながらも、映像にない彼の凄さを球団に伝え、そして説得することができなかった。
スカウトとしての未熟さ……杉浦の獲得を断念した経緯については、誰よりも秋山自身が後悔していた。
「でも……実際のところどうだったんでしょう。杉浦の肩と肘は……」
秋山は呟いた。
いまさら言っても仕方のないコトだったが、そう思ったときには口に出してしまっていた。
斎藤は小さく息を吐いた。
そして視線を落とし「杉浦は肘など痛めていない」と呟いた。少し躊躇いをみせながらもハッキリと言い切った。
「へ。」
思わず呆けたような声を出した。「いや、しかし……杉浦の肘はネズミだと――」
秋山は言いかけて口を噤んだ。
笑顔の消えた斎藤の目に、いままでとは違うモノを感じて秋山は口を閉ざした。
秋山は二年前に見た杉浦の調査書を思い出していた。
そこには「右肩関節唇損傷」と「肘関節内遊離体」と確かに記載されていた。
現役時代にいわゆるネズミに悩まされていた秋山にとって唯一の気がかりな点がそこだった。最後に押し切れなかった理由もソコにあった。
「とにかく杉浦の肘はなにも問題ない。肩にしたって損傷があったのは間違いないが症状は至って軽いものだった。決して三年間を棒に振るような故障ではない」
斎藤は吐き捨てるように言った。
「しかし……高木先生は――」
「高木と山路は昵懇の仲だったからな……。秋山君は山路洋一を知っているか?」
「ええ。何度かお会いしたことはあります」
秋山は山路とは面識があった。
彼はアマチュア球界では名前を知らない者がいないほど有名な指導者だった。同時に多くの投手を潰してきた人物でもあり、一部の人間からは「壊し屋」というありがたくないレッテルを貼られていたのも事実だったが。
しかし山路という男の『才能を見抜く眼』は本物だった。彼の教え子で、その後プロで活躍する選手も何人かいる。
そして交友関係の広い男だった。五年前急逝した彼の葬儀には、プロ・アマを問わず多くの野球関係者が参列していて、その人脈の豊富さにあらためて驚いた記憶があった。
「杉浦は未完成だった。だが山路はその才能を高く買ってた。『あいつと一緒に甲子園に行きます』なんて息巻いてたくらいにな」
斎藤は何かを思い出したかのように小さく、そしてさびしそうに笑った。
「しかし私学の育成をあまり信用してなかった。おそらく潰されることを怖れていたんだろう。遺していく教え子が心配で仕方がなかったのだろうな」
そう言った斉藤の表情は険しかった。
「いずれにしても今回のことは、画を描いた山路でさえ予想がつかなかったのだろうが……」
「それはどういう意味で……」
秋山は尋ねた。
しかし斎藤は腕を組んだまま何も言葉を返してはくれなかった。ただ眉間に刻まれた深い皺が斎藤の苛立ちを如実に表していた。
***
「――わかった。じゃ、四時にいつものあたりで」
僕はそう言って受話器を置いた。
この時間の麻衣子からの電話はいつものことだったが、今日は少しだけ様子が違っていた。
彼女は「十日は誕生日だからドコかに連れて行け」というようなことを言った。十日……つまり明後日だ。
もう少し前もって言ってくれたらいいのに、と正直思う。そうすれば何か用意すべきモノもあったのだろうし……いずれにしても今からじゃ何も思いつかないよな。時間がなさすぎる。
しかし、今はそんなことより――。
部屋に戻った僕は、頭の後ろで手を組んだままベッドに倒れ込んだ。
このあいだ近藤から渡された封筒の中身。
ひとつは斉藤さんからの手紙。これには大したことが書いてあるわけではなかったが「京葉工科大に一度顔を出せ」というようなことがやんわりと、それでいて断りにくいフレーズで綴られていた。
〈めんどくせ……〉
僕はため息を吐いた。
千葉とは言っても実家の少し先みたいなもんだから、行くこと自体はそれほど面倒ってこともない。
だけどいまはちょっとバツが悪い。
このあいだの潮見での一件については僕も反省している。なぜあんなにムキになってしまったのか首を傾げたくなるくらいだ。
きっと斎藤さんも気分を害したハズだ。久しぶりに会ったのにロクな挨拶もせずに帰って来ちゃったし……。
しかしもっと問題なのは、封筒の中に入っていたもう一つの封筒の存在――。
僕は未だにその封を切ることができずにいた。机の上に置いたまま、もう三日が経っている。
差出人の名はなかったが、誰が書いたモノなのかは字を見て一目でわかった。角張った特徴のある文字は僕にとって馴染みの深いものだった。
宛名も微妙だった。
杉浦優宛てであることはほぼ間違いがない。しかしそれは僕宛てであって僕宛てではなかった。だいたい、いつ書かれたものなのかもよくわからないし。
僕はベッドから起きあがり、机の上の封筒を手に取った。
真っ白な無地の封筒。少し角がとれて丸くなってしまった古びた封筒。
照明に透かしてみたが、なにが書いてあるのかはまったく確認できない。僕は机の上にそれを戻すと、大きく息を吐いた。
甲子園で優勝した君へ――。
封筒にはそう書かれていた。
封を切れない理由……それはまさしくソコにあった。