【017】 夢と傷痕
午前中の退屈な授業をやり過ごした僕は、誰もいない昼休みの屋上に来ていた。
ほとんど誰も来ることのないこの場所は、二年前から僕のプライベートスペースになっていた。
ココからの景色が僕は好きだった。
しかしこの学校の奴らのほとんどはこの景色を知らずに卒業していくハズ……なんとももったいない話だ。
貯水槽の下の一段高くなったコンクリートの上。
僕はいつもココに横たわる。目を閉じると程なくやってくる睡魔と握手を交わす間もなく僕は眠りに落ちる。そして昼休みの終了を告げるチャイムが鳴るまで、この場所で惰眠を貪る……。
いつか高校時代を振り返ることがあったら、ココで寝ていたことくらいしか僕の記憶には残ってないんだろうな、きっと。
僕はいつものようにコンクリートの上に仰向けに寝そべった。静かに睡魔を迎える準備に入った。
しかし睡魔が来るより早く、出入り口の重い扉が開く音が聞こえた。
「やっぱ、ここだったか」
俊夫の声だった。僕は声を無視してそのまま睡眠に入ろうと――
「おまえ学校辞めんの?」
頭を擡げると、俊夫が興味深そうな目で僕を見ていた。
何を言い出すのかと思えば……三年の二学期が終わろうかというこの時期に辞める奴なんかいるわけがない。そんなこと考えなくたってわかるはず――。
「辞めるわけねえべよ」
僕はカラダを起こした。
「なあんだ。やっぱガセか」
俊夫はつまらなそうに言った。失礼な男だ。
「なあんだじゃねえよ。誰がそんなこと言ってんだよ」
「笹尾」
「笹尾……?」
笹尾ってのはクラスの女を束ねる強者だったが……彼女がなんでそんなデマを?
「おまえが学校辞めてモンゴルに行くらしいって言ってたぞ」
「……」
モンゴルって……あの野郎しかいねえじゃん。
原の野郎は進路相談にも乗ってくれないのに妙な噂を流しやがって……まあいいや。怒る気にもなんねえや。
もう十二月に入っていたが、僕の進路は相変わらず白紙のままだった。本気でいまのバイト先の社長に相談する時期は迫ってるみたいだ。
高校に入ったばかりの頃、僕は自分の進むべき道は自分で選んでいきたいと思っていた。
与えられた選択肢から選ぶのではなく、自分の夢は自分で見つける……本気でそう考えていた。
いまの僕の置かれた状況は、そういう意味ではあのころ願ってたとおりの状況だとも言える。与えられた選択肢は何一つない。つまり、すべては自由……。
しかし……まったくの自由ってのも考えものだ。
ある程度は選択肢を与えてもらった方が助かるし、いっそのこと誰かが決めてくれた方が楽なことだってある……最近になってそんなことに気付いた。
放課後、部室に顔を出した。
野球部の練習は、十二月になって例年通り自主トレに切り替わっていた。
今朝、佐々木と柴田が僕の教室にやってきて「ベンチプレスを使いたい」と言った。だから僕が去年と同じように柔道部顧問の榊にお願いして使用の許可を取り付けた。
去年の筋トレ参加者は僕と俊夫、そして柴田と佐々木の四人だけだったが、今年はほとんどの奴が参加する予定らしい。柔道部の連中が嫌がるのは間違いないな。
「――つうわけだからケガのないようにな、とくにおまえは悪ふざけすんじゃねえぞ」
僕は部室にいた吉田を指さした。
「あと……佐々木にはコレな」
バッグからルーズリーフを一枚取りだした。
それは僕が組み立てた佐々木のための練習メニューだった。とは言っても山路さんにもらった練習メニューを抜粋したようなものだったが。
「ありがとうございます!」
佐々木はソレを受け取ると、目を輝かせながら練習内容を目で追った。そこまで喜ばれると作った甲斐がある。
「ま、夏に笑いたけりゃ、この数ヶ月をマジメにやれや」
んじゃな――。
僕はもっともらしくて、まったく中身のない言葉を後輩たちに贈り、部室を後にした。
誰もいないグラウンドを眺めながら正門に向かう通路を歩いてると、正面から二人組の女の子が歩いてくるのが目に入った。
右側の娘にはなんとなく見覚えがあった。
確か一年生で入学早々マネージャーとして入部してきたが、一カ月ももたずに辞めてしまった娘。名前は……忘れた。つうか知っていたのかどうかさえ記憶にない。
「なんだろ、あの人」「ちょっと怖いよね」
そんなことを話している声がなんとなく耳に入ってきた。
僕はグラウンドの方に目を向けたまま、心もち端によって彼女たちをやり過ごそうとした。しかし――
「あ、杉浦先輩こんにちは」
すれ違いざまに見覚えがある方の娘が言った。
「……こんちは。」
僕はなるべく会話が成立することがないように無駄を省いた挨拶をした。しかし彼女はそんな気遣いを無視するように僕の前に立ちはだかった。
「……なに?」
僕は警戒心を込めて呟くと、彼女は正門の方を指さし「ヘンな人がいて怖い」と言った。
「ヘンな人?」
「はい。オジサンなんですけど――」
彼女は思いつく限りと言ったふうに「ヘンな人」の風貌を説明してくれた。でもわかりやすかった。僕の知ってる顔にピッタリ当てはまりそうなのが一人だけいる――。
〈やっぱりな……〉
門まで歩いていくと、ソコにいたのは近藤だった。
彼とは今年に入ってから二度ほど顔を合わせる機会があった。しかし話をしたことは一度もない。
近藤は門の横の植え込みに腰を掛けて煙草を吹かしていたが、僕の姿を認めるとゆっくりと近付いてきた。
僕の前に立ちはだかった近藤はまるで壁のような人だった。しかしこうして間近で見ると思ってたほど背は高くない。とは言っても一九〇は超えてるんだろうけど。
「ずいぶん待ったよ」
彼は笑った。
「……なんスか?」
僕としては彼を待たせたつもりはない。そもそも約束なんかしてないし。
「ちょっと時間あるか?」
「なんスか?」
僕はもう一度言った。
すると近藤は苦笑いを浮かべ「少しだけ話がしたい」と言った。
話がしたい――。
たぶん僕にとって耳寄りな情報を持ってきてくれたってワケではないだろう。
寧ろその逆で、僕が聞きたくないような話題を『あのNHKの集金バッグ』みたいなヤツ一杯に詰め込んで来てるのだろう……どう考えても時間の無駄だな。
「――おれ、忙しいんで」
ココまで来てくれたことに敬意を表すように僕は頭を下げた。そして足早にこの場を立ち去ろう――としたんだけど、近藤の太い腕が僕の左腕をガッチリと掴まえた。
「まあ、そう言わず……ちょっとだけ付き合ってくれよ」
目の前の大男は笑顔でそう言った。
実は亮から話を聞いていた。
このあいだの潮見で僕が帰ったあと、亮は近藤に捕まってイロイロと話をさせられたようだ。
そのときに僕についても根掘り葉掘り訊かれたみたいで「あれは絶対、近いうちにおまえのトコにも行くぞ」と聞かされていた。
つまりは予想通り。どうやら話を聞くまでは、僕を解放してくれそうにないようだ。
大声を出して助けを呼ぼうかと思ったが、さっきの名前も知らない後輩の娘がコッチを見てるからそんな格好悪いことはしたくない。だいたいコノ人はそれほど怖くはないし――。
「じゃ、手短にお願いします」
僕はこれ見よがしに、これ以上ないほどの大きなため息を吐いた。
連れられてきたのは、近くのファミレスだった。
ココには高橋先輩に連れてこられたコトがあったが、来たのはその一度だけ。学校からは近いのにほとんど来ることはない。
「コーヒーでいいか?」
近藤は言ったが「いらないです」と僕は突き放すように言った。ココに長居をするつもりはない。
しかし近藤は「パフェを食おうと思ってるんだが一人で食うのもナンだから一緒に食おうぜ」とメニューを開いて、僕の方に向けてきた。
「じゃ……チョコバナナサンデーを。」
僕は仕方なく、彼の目を見ずにそう答えた。
注文を取りに来た店員がメニューを下げて立ち去ると、近藤は「タバコ、いいか?」と聞いてきた。
僕は何も言わずに灰皿を彼の前に差しだした。
そしてタバコをくわえて火を付ける近藤の様子を横目で観察していた。
この人を初めて見たのは今年の初めごろだった。
今日と同じように正門のトコロに突っ立って、ドロッとした眼で僕らを睨みつけていた。誰かが「プロレスのスカウトじゃないか」と言っていた。
次に会ったのは先々月の潮見のグラウンドだった。
どういうわけか吉村と用田を大阪から連れてきたが、吉村たちも誰なのかは知らないようだった。ただ羽曳野の監督の知り合いであるということは間違いないらしい。
亮の話では僕より十歳くらい上だということだったが……もっとおっさんに見える。
そして明桜学園野球部のOB。これも亮が言っていた。だとすれば僕の先輩に当たるというわけだな……一応。
「なかなか出てこないから、もう帰っちまったかと思ったよ」
近藤は笑った。
彼は学校の正門の前に立ち、僕が出てくるのをずっと待っていたらしいが……僕が裏門から帰ってたらどうするつもりだったんだろう。
「ところで……ホントに辞めるのか?」
彼は僕を正面から見据えてストレートな質問をしてきた。
「野球、ですか?」
僕が問い返すと「そうだ」と短い答えが返ってきた。
「辞めるというより辞めました。随分と考えて出した結論です」
僕は用意しておいた言葉を淡々と読み上げるように答えた。
「そうか。残念だな」
近藤はあまり残念じゃなさそうに呟き、テーブルに運ばれてきたコーヒーに手を伸ばした。
「大学……行くのか?」
近藤は僕の顔を窺った。
彼の表情から察すると、すべてを知っててイヤミで言ってる……なんてコトはなさそうだった。
「いえ。行きません」
受け容れてくれるところがない……ともいうが。
「じゃ、就職か?」
「いえ……それもまだです」
働く気はあるが……やっぱり受け容れてくれるところがない。今のところは、だが。
「じゃ、これからなんだな……」
近藤は合点したように呟きながら、少し背筋を反らし首を回した。
テーブルには、僕が注文した『チョコバナナサンデー』と近藤が注文した『なんとかプリンパフェ』が運ばれてきた。
近藤は「さあ、食おうぜ」と嬉しそうに笑った。
僕は「いただきます」と言ってから長いスプーンを手に取った。
それにしても……近藤はそのでかい図体のイメージ通り、豪快な食いっぷりだった。決して上品とは言えないが、見ていて気持ちがいいくらいのスピード感があった。
「……ん? どうかしたか?」
僕の視線に気付いた近藤が口の端についたクリームを拭いながら言った。
「いえ……なんでもないス」
僕は彼から目を逸らした。
たぶん、この近藤という人は悪い人間ではないんだろうと思う。僕はこの人のコトをほとんど知らないが、それだけは間違いないような気がする。
そんなことを考えてるあいだに彼はパフェを完食していた。僕はまだ半分も食っていないというのに――。
「あ、気にしないでゆっくり食ってくれ」
近藤は笑顔でそう言った。
僕としてはそんなことまったく気にしてなかったが、そういわれると早く食わないといけないような気になってくる。
しかも近藤が僕を観察するように眺めている気配があってなかなか食が進まない。
亮の話ではこの人は記者だという。僕がもっとも苦手とする……というより嫌いな人種だ。しかも明桜学園のOB……どうあっても仲良くなれるハズがない。会話が弾むわけがない。
しかし……ひとつだけ気になることがあった。聞いてみたいことがあった。
「あの……」
スプーンを持ったまま近藤を窺った。
「なんだ?」
「いや、大した話じゃないんスけど……プロ目指してたって、ホントなんスか?」
僕は少しだけ興味を持っていたことを口にした。
「ああ。むかーしの話だけどな」
近藤は頬を弛めると、まだ長いタバコを灰皿に押しつけた。
「テストを受けたんだがダメだったんだ」
彼は笑った。大男に似合わない子供のような笑顔だった。
「プロ、興味があるのか?」
「いえ、マッタク」
僕は口先だけで言った。
「そうか」
近藤はまた笑った。さっきとは違いなにか含みを持たせた笑みに見えた。
「俺は明桜を出て、大学に行ったんだ。でも肘を痛めて二年の時に辞めた」
当然、学校もクビだ――。
近藤は笑いながら、右手で喉を切る仕草をした。
「でも諦めきれなくてな。二年後にプロの入団テストを受けた」
「へえ。」
「でも落ちた」
近藤は大袈裟に肩を落としてみせた。
そして新しいタバコを取り出してくわえると、ピンク色の百円ライターで火をつけ、煙を細く吐きだした。
「なあ――。プロ、目指せよ」
近藤は言った。
真顔ではあったが、本気なのか冗談なのかいまひとつ判別しにくい口調だった。
「なに言ってんスか?」
「君なら可能性は十分にある」
彼は自信満々に言った。
「君には才能がある。俺が保証する」
畳みかけるように言葉を続けた。しかしそんな保証はいらないし、アテにもならない。
僕は目を伏せたまま、水の入ったグラスに手を伸ばした。
近藤は僕の言葉を待っているみたいだった。しかしココで何を言うべきなのか迷っていた。たぶん何を言っても彼が求めているような台詞にはならないような気がする。
「野球が好きじゃないのか?」
焦れたように近藤が言った。その表情からは若干の苛立ちが感じ取れた。
「好きですよ――」
僕はグラスを離し、小さく息を吐いた。
「だからといってソレがやりたいものとは限らないですけど」
「そうか。じゃ、他にやりたいものってなんなんだ?」
「言わなきゃいけないんスか? ココで」
僕は近藤に強い視線を向けた。しかし彼はソレを逸らすことなく、僕を見返してきた。
「そんなに意地を張ることないじゃないか」
「は? 意地なんか張ってないスよ。ただやれることはやったってコトです」
「そうか? 俺にはそう見えないけどな」
近藤は鼻で笑った。
そして徐に右の袖を捲り上げた。
露わになった肘……そこには十センチほどのミミズ腫れのような傷痕があった。
「手術したんだ。コッチからコッチに腱を移植して――」
近藤の口ぶりはどこか他人事みたいだった。なんでもないことのように言った。
左腕から右腕に腱を移植……それがどれくらい大変なコトなのかわからないが、なんでもない方の腕にもメスを入れるって考えただけでもちょっと怖い。
「俺の夢は叶わなかった。だがやれることはすべてやった。だから少なくとも後悔はしていない」
君はどうなんだ――。
近藤は口の端に笑みを浮かべ、挑むような視線を僕に向けてきた。
僕は目を逸らした。言い負かされた感があって少しだけ悔しかったが。
「このあいだ森本と会った」
「へえ。」
最近よく耳にする懐かしい名前に、思わず声が漏れた。
「森本も……彼も君のことを気にかけてた」
近藤は僕と目を合わせずに呟いた。それは独り言のようにも聞こえた。
「おれも森本の活躍を楽しみにしてます。また会うことがあったらそう伝えてください」
僕の言葉に近藤は「わかった」と短く答えた。
「それから……斎藤監督にも会った。」
「斉藤さん?」
「ああ。君のコーチだった山路さんの話を伺ってきたんだ」
近藤は僕の表情を探るような眼を向けてきたが、僕は何も答えなかった。
僕には彼の意図が読めなかった。彼が僕の前に現れた目的がわからなかった。なぜ斉藤さんに会いに行ったのか、なぜ森本の名前……そして山路さんの名前を出したのか――。
「あの……もういいスか?」
僕はそう言うと、答えを待たずに立ち上がった。妙な胸騒ぎがあった。
「あ、ああ……悪かったな」
「いえ。こちらこそご馳走様でした」
深くアタマを下げた。
彼には申し訳ないと思ったが、これ以上は話を聞くべきではないような気がしていた。知りたくない話は知らないままでいい。
「あ、そうだ!」
近藤は思い出したようにかばんから真っ白な封筒を取り出した。
そして何も言わずにそれを僕に差し出してきた。
僕はそれを受け取ると表と裏を確認した。宛名も差出人も、ドコにも何も書かれていない――。
「なんスか……これ?」
僕は近藤を窺った。
「さあね――。」
彼は表情なく僕を一瞥した。
「――斉藤さんからの預かりものだ」
近藤はそう言うと顔を背け、大きく煙を吐きだした。