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【006】 多摩の老将

 東名・横浜インターチェンジを降りて料金所を抜けると、そこは既に渋滞がはじまっていた。

 車内の時計は三時半を回ったあたりを指している。

 渋滞の最後尾にクルマを付けた近藤は、ダッシュボードから煙草を取りだし火をつけた。


「まいったな……」

 近藤はウインドウを下ろすと、外に向かって大きく煙を吐きだした。

 約束の時間と目的地までの距離を考えるとこの「先の見えない渋滞」は大きな誤算だった。

 そして時間にうるさい恩師、明桜学園野球部監督の冴島の顔を思い浮かべて頭を掻いた。

 彼とはしばらく顔を合わせていない。まともに会うのはおそらく卒業して以来。

 よりによってこんな日に遅刻してしまうなんて……ついてない。


「……ま、多少の小言はしゃーないわな」

 近藤は自分にいいきかせるように呟いたが、それが却って気分を重くしていくような気がした。




***


 近藤の母校「明桜学園」は町田市の外れの丘陵地帯にあった。

 桜並木に囲まれた広大な敷地の中に、中等部・高等部そして大学が併設されている。

 駐車場に車を停めた近藤は、そびえ立つ校舎を見上げた。

「懐かしいな……」

「――その校舎はおまえが卒業した後に建てられたはずだがな」

 近藤は声に反応して背筋を伸ばした。

 振り返ると冴島が立っていた。

「ご無沙汰いたしております」

 近藤は畏まった態度で頭を下げた。

「まったく、調子のいい男になりさがったものだな」

 冴島は吐き捨てるようにいった。そして卒業以来の「音信不通」の状態をねちねちと非難した。

 確かに連絡が途絶えていたのは近藤の一方的な理由だった。それについては冴島の方に理があると近藤も受け止めていた。しかし頭では理解していてもどうすることもできない理由が近藤にもあった。


「――まあいい」

 ひとしきり小言をいい終えた冴島は、口許にうっすらと笑みを浮かべた。

「で、何のようだ。どうせロクな用件ではないんだろうが」 

 近藤は苦笑いした。

 しかし昔と何も変わらない冴島のぼやきが、会わなかった長い時間を一気に詰めてくれたような気がした。

「実は練習を拝見したくてココまで来ました」

 近藤は静かに呟いた。

「それから先生の話も少し。も始まったことですしね」

「それはOBとしてか? それとも仕事か?」

「両方、ですね」 

 近藤が即答すると、冴島は満足そうに頷いた。

 そして「ついてこい」と呟くと、笑みを絶やさぬままグラウンドに向かって歩き始めた。



 明桜学園野球部は、夏六回・春四回の甲子園出場を誇る西東京きっての強豪校だった。

 学校創立と共に創部された野球部は、歴史こそ古かったが強豪校としてその存在が認知されはじめたのは冴島が監督に就任してからだった。

 二年前の選手権大会で準優勝して「名将」としての地位を確立しつつある冴島にとって、明桜学園野球部の歴史はそのまま冴島の歴史だといえた。

 そして春の東京大会を制して「第一シード」として臨む西東京大会では「優勝候補の大本命」と注目されている。

 冴島が率いる明桜学園は、いままさに黄金期を迎えつつあった。




 校舎の脇を抜けると右側にテニスコートが見えてきた。

 テニスコートを過ぎた左側に野球部のメイン・サブグラウンドがあり、その奥にすすむとブルペンがある。


 グラウンドではシートノックがはじまっていた。

 スピード感のある内野陣の動きは、さすがに激戦区・東京を制しただけのモノにみえた。

 グラブ捌き、送球の正確さ、連携プレー、そのどれをとっても自分たちの頃より遙かに上手い。というよりもレベルが違いすぎた。

 しかし近藤はある種の違和感を覚えていた。

 レベルの高いプレーをミスもなく淡々とこなす彼らはどこか機械的だった。

 彼らに比べて自分たちの頃はミスも多かった。だけどグラウンドにはもっと活気があったような気がする。


 冴島の姿をみとめたノッカーがバットを下ろした。

 同時にグラウンドに散らばった選手たちが帽子を取り大きな声で挨拶をした。

 冴島は満足そうに頷くと、グラウンド横のベンチを素通りした。どうやらブルペンに向かっているようだった。


 グラウンドではシートノックが再開されていた。

 選手たちは相変わらず無駄のない動きを見せている。

 きびきびとした選手たちのプレーを見ながら、高校野球という競技の質が変わってきているような気がして……近藤は心の中で首を傾げていた。



 ブルペンに近づくとミットを叩く乾いた音が響いてきた。

 冴島の後に付いてネット裏に足を運ぶと、二人の投手が投球練習をしていた。


「真ん中で投げているのが、森本だ」 

 冴島は腕を組んだ姿勢で近藤に耳打ちした。


 五つ並んだブルペンのマウンド。

 その真ん中で投げているサイドスローの投手が今年のエース、春の東京大会を制した右腕・森本徹也だった。


「なかなかいい球を投げるだろ? アイツの制球は抜群だ。尋常じゃあない」

 冴島は目を細めた。

 近藤は黙ったまま頷いた。確かにさっきからキャッチャーのミットはほとんど動いていない。

 キレのいいボールがまるでミットに吸い込まれていくように小気味のいい音を立てている。


「どうだ。立ってみるか?」 

 冴島はヘルメットを差しだした。

「え、いいんですか?」

 近藤は声を上げた。

 春の東京大会を制した注目の技巧派右腕――。その投球を打席から見るチャンスなんて滅多にあるモノではない。

 近藤は「冴島の気が変わる前に」とばかりにヘルメットを掴み、打席へと急いだ。


 意味もなくバットを手にして打席に立つ。

 マウンド上の森本は、細身の端正な顔立ちをした「少年」だった。

 やや迫力に欠けるかな――。

 近藤はそんな印象を受けた。


「いいぞ。思い切っていけ」 

「はい!」

 冴島の言葉に応えた森本は、ノーワインドアップからゆっくりと投球モーションに入った。


 ――パーーン!!


 ミットを叩く音がブルペンに響く。

 微かな風切り音を奏でた速球がキャッチャーミットに収まった。


「ほお――」

 近藤は思わず目を細めた。

 打席で見た森本の投球は、先程までのイメージとは明らかに違うボールだった。

 ボールの出所が見えにくい投球フォームと、そこから繰り出される手元で微妙に動くボール。そしてなにより、躊躇なくインコースに投げ込む勇気――。

 コントロールに余程の自信を持っているか、ぶつけることに罪悪感を持たないタイプか……おそらく後者だろう、近藤はそう感じ取っていた。


「どうだ、ウチのエースは?」

 冴島は打席を外した近藤に歩み寄った。

 その視線は投球を続ける森本に向けられたままだった。

「いいピッチャーですね。確かにコントロールに相当の自信をもっているようですし、おそらくコッチの方も」

 近藤は心臓を指さした。

 冴島は相変わらず腕を組んだまま、満足そうに頷いた。

「手応えがありそうですね、三年連続の甲子園へ」

「ああ。だが連戦になるともう一枚、エース級がほしいな」

 贅沢だけどな――。

 冴島は人差し指を立てて笑った。


「……先生、そのもう一枚なんですが――」

 近藤は意を決して切り出した。「杉浦は何で辞めたんですか」





***


 冴島に連れてこられたのは新校舎内の応接室だった。

 近藤がいたころの旧校舎は既に取り壊され、プールと体育館になっていた。そして新校舎の建つこの場所は、彼の在校中にはウサギ小屋があった場所だった。


「立派な部屋ですねぇ。僕がいた頃とは雰囲気もだいぶ違いますね」 

 近藤は部屋を見渡すとため息を吐いた。

 壁に掛かっている絵もどこかの著名な方が描いたものだろう。革張りのソファーも居心地が悪いくらいに立派なモノだった。

「この校舎もあっちの校舎も、ウチが甲子園に初出場したあとに建てられたモノだ」

 冴島は抑揚のない声でそういうと、窓の外へ視線を伸ばした。

 夕暮れの赤い空に多摩丘陵の稜線がくっきりと浮かびあがってる。

「明桜学園の名前が全国区になったのは甲子園のお陰だ。事実志願者数は倍々で増え、偏差値も上がった。そして一雇われ監督に過ぎなかったおれも、いまではココの理事に名前を連ねるまでになった」

 冴島はいったが、言葉とは裏腹にその表情には微かに陰が射したように見えた。


「さて――」

 向かいのソファーに腰をおろした冴島が切り出した。

「先にひとつだけいっておくことがある。おれはおまえが明桜のOBとして話を聞きにきたと解釈している。もし仕事として話を聞きにきたのであれば、事務方を通してくれ。それから……学園の経営方針に関することには一切答えられない、以上だ」

 そういうと、テーブルの上の灰皿を近藤に押しやった。


 失礼します――。

 近藤はポケットから煙草を取り出し火をつけた。冴島にも勧めたが、やんわりと断られた。

「もちろん仕事ではありません。OBとして母校の活躍はいつも気になっているので。杉浦に関しては、彼が中学生のころに試合で投げてるのを見たことがあって、とても印象に残っていて……」

「彼が明桜に進むことになってOBとして本当に期待していました。ですから彼が何でたった半年ぐらいで辞めてしまったのか、どうしても納得ができなくて……それで先生に直接伺おうと考えました」

「なぜ、そんなに杉浦にこだわっているんだ? 森本だっていいピッチャーだろう?」

「森本もいい投手だとは思いますが、杉浦とはインパクトが違いました。モノが違うというレベルだと思います」

「インパクト、か……」

 冴島は近藤の言葉を繰り返した。

「確かに初めて杉浦を見たとき、少なからずおれも衝撃を受けた。中学一年生でこんなボールが投げられる奴がいるのかと」

 冴島は大きく息を吸い込むと、ゆっくりと話をはじめた。



 ――おれが杉浦をはじめて見たのは、ヤツがまだ中学一年の五月ごろだった。

 もっとも杉浦を見に行ったわけではなく、目的は当時三年生の藤堂純一に会うためだった。ある筋の人間から「晴海で練習試合が組まれている」という話を聞いて直接見に行った。

 藤堂純一は噂に違わぬ選手だった。

 打撃、守備、走塁に加え、何よりも視野の広さが素晴らしかった。まさに即戦力といえる選手だった。

 ただその藤堂より或る意味・・・・目を引いたのは、当時一年生の杉浦だった。 

 その試合に先発した杉浦は、三回と1/3を投げて被安打2、四死球7、失点自責点が4、という散々な内容だった。安定していないフォームから、これまた安定しないボールをせっせと投げていた。

 しかし六十球ほど投げた中で、いくつか「次元が違う」と感じさせるボールがあった。指に掛かったときのスピードとキレは、もはや中学生とは思えないボールだった。


 冴島は一気に話すと、煙草を取り出して火をつけ、また話を続けた。


 試合後、おれはその紹介者とともにチームの監督に挨拶した。それが江東球友クラブの峰岸監督だ。

 峰岸さんは気さくな方だった。こちらの要望に応じて藤堂と杉浦を呼んで話をさせてくれた。もちろんそのときは「挨拶をした」という程度のものだったが。

 結局、夏の大会が終わるまでは試合に集中させたいという峰岸さんからの話もあって接触を断ったわけだが、その後、藤堂と直接会う機会は訪れなかった。


「じゃあ、先生は藤堂の獲得に行って失敗したってわけですか?」

 冴島はだまってうなずき、二本目の煙草に火をつけた。


 その夏、江東球友クラブは全国制覇した。

 藤堂の進路にも当然ながら注目が集まった。

 聞くところに寄れば、全国の私学から誘いがあったらしいが、藤堂は全ての誘いを断り、突然「アメリカへ行く」といい出した。結局、単身メキシコへ渡った、という話を聞いたのはずいぶん後になってからのことだったが。


「まったく馬鹿な奴だ、そう思うだろ?」

 冴島は灰皿に煙草を押しつけた。  


 その二年後だ。

 既に杉浦は全国に名を知られる存在になっていた。

 実質一年生で優勝投手となっていたし、課題だった制球力も、投球フォームが安定するのに併せて格段に向上していた。まあ、絶対的なエースに成長していたというわけだ。

 当然、全国の私学に注目されていたわけだから、獲得競争も過熱することを覚悟していた。

 しかし夏の大会がはじまる直前、杉浦はウチ以外の話を全て断った。

 峰岸さんから「杉浦はオタクにお世話になりたいといっている」という電話をもらったときにはガラにもなく舞い上がってしまったよ。

 そしてそのときになって藤堂に感謝した。杉浦に引き合わせてくれた藤堂に心の底から感謝したよ。


 その夏、江東球友クラブは圧倒的な強さで優勝を決めた。

 投打バランスから考えても、至極真っ当な結果だといえた。

 そして優勝チームを中心に結成される選抜チームの一員に三年連続で選ばれ、サンディエゴで行われた世界大会に出場し、そこでも見事に優勝した。

 ところが……杉浦はそこで肩を痛めてしまったらしい。

 医者によると、本格的な投球は当分控えなければならない、とのことだった――。


「――以上だ」 

 冴島はゆっくりとため息をついた。

「え」 

 近藤は慌てて身を乗り出した。

「いやいや、聞きたかったのは入った経緯じゃなくて辞めた経緯なんですが……」

「だからウチに入ったものの投げられないから居づらくなったんだろう」

 あいつはS特待だったからな――。

「では、藤堂亮はどうなんです? 弟の方です」 

 近藤の言葉に、冴島は意外そうな顔をした。

「あいつも同じ時期に辞めてるハズです。どうしてそんなことが――」

 いいかけたところで近藤は口を噤んだ。


 目の前にいる男は近藤の知る冴島ではないように思えた。

 選手と一緒に泥にまみれていた熱心な青年監督の面影……そこにはもう感じることができなかった。

 ただ眉間に刻まれた深い皺が、彼もまた苦悩を抱えていることを物語っているように思えた。


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